一年生(22)——夏期休暇
十一年前の事件の話は今話で一旦終わります。
フィル兄様は一息ついた。
マリアが素早くお茶を入れ替えてくれる。
マリアも部屋の隅でフィル兄様の話を熱心に聞いていた。私はマリアに部屋を出ていくように言わなかったし、フィル兄様も言わなかった。
「前置きが長くなってしまったけど……十一年前のあの日、母上は叔母上のところに行っていた。第二王子を出産したばかりの妹をねぎらうために。母上はジークが叔母上のお見舞いに来たのと入れ違いで部屋を出たんだ。でもうちには帰ってこなかった。その日夜遅くに父上が帰ってきて母上の不在を確かめるとまた王宮に戻っていった。僕は物凄く不安でエルヴィンを抱いて一晩過ごした。何もわからなくて僕と一緒に過ごせると無邪気にはしゃぐエルヴィンが救いだったんだ」
一口お茶を飲みフィル兄様は続ける。
「母上は次の日も帰ってこなかった。後で知ったんだけど最初は母上が犯人だと疑われていたらしい。爆発の直前に部屋を出て行ったから。でもやっと正気を取り戻したジークの証言でブリギッテが犯人だとわかった。急ぎ騎士団がプライセル侯爵家に向かったときはプライセル侯爵家はもぬけの殻だった。いや、使用人たちはいたが侯爵家の人間は一人もいなく、使用人も何も知らされてはいなかった。そして次の日母上の遺体が発見された。粗末な衣服を着て路地裏に倒れていた」
ひゅっと私は息を呑んだ。フィル兄様に飛びついて背を撫でた。
「大丈夫だよ」と兄様は微笑んで話を続けた。
「幸運だったのは母上の遺体が浮浪者として処分されなかったことだ。慈善事業で生活の貧しい人々をよく見舞っていた母上の顔を知っている者がいたんだ。それですぐ侯爵邸に連絡が入った。父上が飛び出して行ってそのまま何日も帰らなかった。後で知ったことだけど、母上は手に何かを握りしめていたらしい。魔力でこじ開けられないようにして。そんなことができるのかどうかはわからないけれど多分死を覚悟した母上だからできたのだと思う。その手は父上が触れると簡単に開いたらしい。母上は一つの鍵を握りしめていた」
「父上は何日も帰らずほとんど眠らずその鍵のことを探った。そしてついに突き止めた。ある闇の組織が内緒で隠しておきたい品物や財産を預かってくれる鍵でその鍵を持って行ったら封書を手渡してくれたそうだ。その封書にはトシュタイン王国の第二王子ヴァスコとプライセル侯爵の密約の手紙と母上の走り書きの手紙が入っていた」
フィル兄様は静かに涙を流していた。私はフィル兄様の背を撫で続けることしかできない。
「母上が叔母上の部屋を退出した後、すぐに出てきたブリギッテに疑問を抱いたそうだ。その直後、爆発が起こり周辺が揺れた。ブリギッテは外に向かって足早に去っていく。不審に思った母上は咄嗟に後をつけたらしい。そしてトシュタイン王国とプライセル侯爵の密約の手紙を手に入れた。どんな手段を使ったのかはわからない。書かれていなかったから。でもその手紙はトシュタイン王国を犯人とするには弱かった。プライセル侯爵の独断だと言い逃れられてしまうかもしれない。だからもう少し強い証拠が欲しい。早くしないとプライセル侯爵が逃げてしまう。だからこの手紙を知人に託すと書いてあった」
フィル兄様は涙を拭うと私の手を押さえもう大丈夫と微笑んだ。
「闇の組織のボスはプライセル侯爵に恨みがあり母上が探っていた時に知り合ったらしい。手紙を頼まれたので交換に鍵を渡したと言っていた」
「プライセル侯爵や……ブリギッテはどうしたのですか?トシュタイン王国でのうのうと暮らしているの?」
お茶を飲んだはずなのに私の喉はカラカラで声がかすれた。
「事件の三か月後、国王陛下は数名の文官と竜騎士団一個師団を率いてトシュタイン王国に乗り込んだ。武力の差を見せつけるようにトシュタイン王国の王城の前庭で竜から降り立ったそうだ。そして王妃と第二王子の殺害にトシュタイン王国の第二王子ヴァスコが関与していると糾弾した」
「相手は素直に認めたのですか?」
そんな訳ないと思いながらも私は聞いた。
「まさか!応対したヴァスコは知らないと突っぱねた。そして何を勘違いしたのかそちらの貴族が私を頼ってきたがそちらの国の爆破事件の犯人だとわかったので処断しておいたと言ったらしい。プライセル侯爵一家はブリギッテ含めて全員殺されていたよ」
「何てこと!!」
非道すぎる!私は茫然とした。トシュタイン王国の王族のありように。
「国王陛下がトシュタイン王国に乗り込んだ時父上は一文官のふりをしていたらしい。国王陛下が糾弾しているときにも隅の方で目立たないふりをしていたそうだ。プライセル侯爵家の人達を全員殺されてトシュタイン王国の関与を立証することが難しくなった。国王陛下は犯人を引き渡さず殺してしまったことを抗議したが不法入国者を罰するのは当然だと開き直られた。母上の入手した手紙にも明確に指示する言葉は書かれていなかった」
「それでは……そのまま泣き寝入りだったのですか?」
私の質問にフィル兄様は遠い目をした。遠い目をしながらわずかに微笑んだように見えた。
「国王陛下は尚も食い下がったよ。この証拠は王宮の女官が必死で入手したものだ。彼女の死を無駄にするわけにはいかないと言ってね」
「女官……?」
「ヴァスコ第二王子は嗤った。そんな下賤の女の言うことを真に受けるのかと。その時父上が抗議の声を上げたんだ。震える声で『私の妻を侮辱するな』と」
「震える声で?」
それはお父様のイメージとはひどくかけ離れたものだった。
「ああ、震える声で。弱々しく震えながらヴァスコ第二王子の前に進み出て『愛する妻を侮辱する者は許しておけない』と言ったそうだ。そう言いながら震えている父上をヴァスコ第二王子は嘲笑ってみていたが、『では決闘で決着をつけよう』と言ったそうだ」
フィル兄様はもう一度入れなおしてもらったお茶を一口含みわずかに笑みを浮かべて言った。
「瞬殺だったそうだよ」
「瞬殺……」
「ごめん、ヴィヴィには刺激が強すぎるかな。父上の剣は一瞬でヴァスコ第二王子の胸を突き刺したそうだ。ヴァスコ第二王子は決闘前には『これは双方納得の上での決闘だから私がこの男を殺しても抗議は受け付けない』とか『魔術は使わないようにウォンドは取り上げる』とか言っていたそうだ。国王陛下と父上はその条件をすべて飲んだ。ヴァスコ第二王子は震える父上を見て『愛しい妻のところに送ってやろう』と嗤ったそうだ」
「そうして父上は一矢報いた訳だけど、一応責任を取って宰相の座を退いたんだ。表向きはね」
長いフィル兄様の話は終わった。とても重い事件だった。
私は長い溜息をついた。
「ヴィヴィに教えるのはまだ早かったのかもしれない。もう少しオブラートに包んだ言い方が出来ればよかったんだけど……」
フィル兄様の言葉に私はかぶりを振った。私は教えてもらって良かった。フィル兄様にとっては辛い思い出だけど。
それと同時に一つの疑問が浮かんでくるのを私は抑えられなかった。
それを聞くことは私にはできない。フィル兄様も知らないかもしれない。聞くとしたらお父様だ。
でも私はそれを聞くことができない。私という存在が崩れ去ってしまうかもしれないから。