オカルト研究同好会!学校の七不思議編
一緒に死んでくれるのではなかったのか。
生きていることが無意味だと、この人生に意味などないのだと、教えてくれたのは貴方だったのだ。
貴方が見つけて、私に教えてくれた。
お互いの気持ちがぴったり一緒だと思ったから、一緒にーーこの気持ちごと一緒に死んでくれるのだと、私は信じていた。
何故生き延びた果てに、未だに死ぬことも考えてくれないのか。
幸せそうに川岸で家族と過ごす彼を見つめて、ただ、溺れ続ける心を抱く。
こんな人生に意味なんかない。
あなたが見つけてくれた私を一人にさせるなんて絶対にさせない。
今度こそ、私と一緒に死んでほしい。
追いやられるようにして、校舎の片隅の教室で活動をするのはオカルト研究同好会。
一ヶ月前に参加することとなったこの同好会の参加者は、俺を含めて二名。三年生の先輩である四谷かすみ先輩と、俺、山村宗馬だ。
かすみ先輩は図書室から借りたオカルト関連の本を読みながら、メモを取りながら熱心に活動を進めている。
優しくも仄暗い印象を受ける双眸は俺に向けられることはなく、俺からしたら胡散臭いとしか言いようのない文面や写真に釘付けだ。
「そんなに見つめて、一体なんのご用かしら」
悪戯っぽく笑うその表情に、一瞬どきりとする。初夏を感じさせる日差しの中、彼女の微笑みに、寒気を感じた。彼女はオカルト好きであるから幽霊などの類の話は好きらしいが、しかし彼女もまた、幽霊的な雰囲気を持った人だ。あくまで俺の主観的な感想にはなるが、黒髪を二つに分け三つ編みに結った姿や、清楚にセーラー服を着こなす姿などは、暗がりの教室で見たら一瞬幽霊かと思うほどの、浮き世離れしたような容貌だ。そして何より、彼女は気配が薄い。
存在感がない、とでも言うのだろうか。クラスの中に必ず五人くらいはいるだろう。理由は分からないが、なんか印象に残らない人。クラスの中でもおとなしい部類には入るのだろうが、この人喋るのかな、って感じの人。
四谷かすみはそんな女生徒のような気がする。
いや、二年生である俺はかすみ先輩がクラスでどういう扱いを受けているかは想像しかできないが。
「わたしは宗馬くんに女子高生をただひたすら眺めるだけの権利を与えるために、この同好会に入って貰ったわけではないのよ」
ずい、と脇に積み重ねてあった本の一番上をとり、机に寄りかかりながら俺に無理矢理寄越す。
学校の怪談とは、と書かれ、おどろおどろしい絵が描かれた本が俺の目の前にやってきた。
「言ったでしょう。わたしの目的は二つ。このオカルト研究同好会を部活へと昇格させること、そして」
「学校の七不思議を体験し、解明すること」
「そう」
かすみ先輩は満足げに頷いた。表情が変化するところを見ると、人間味が感じられるからだろうか、ちょっと安心する。
かすみ先輩は椅子に座り直す。机の上に乗っかったセーラー服のネクタイ部分を手で静かになおした。
「……」
俺はそのネクタイに注目する。
またもや変な視線を感じたかすみ先輩は胸の前でぎゅっと腕を組んだ。
「だから、女の子と二人きりだからとそういう露骨な視線はだめだと思うわ」
「いや、それ以上に突っ込みたいところあるでしょうが」
変な勘違いをしているようだが、それについては言及しない。深追いするとセクハラになるからだ。それよりも気になるのは彼女のネクタイである。
この高校、代鉄高校の制服は男子はブレザー、女子はセーラー服で指定されている。
三階にあるこの活動部屋の窓から見下ろせば、下校中の生徒の様子をみることができる。女子生徒の服装はセーラー服で、胸元では赤いリボンが揺れている。
改めてかすみ先輩を見ると、彼女の胸元につけられているのは紺色のネクタイ。
不良でもギャルなわけでもないのに、何故ここで反抗的な態度をとるのか分からない。
「やっぱりそのネクタイ、戻した方がいいですよ。というか、先生に注意されないんですか?」
「リボンも可愛いと思うけど、ネクタイの方がわたしに似合うと思うのよね」
スカートを短くする、という発想はまあ許容するが、改造する発想はそもそも俺にはないから、彼女の自信のあるその態度になんと反論すべきか言葉に詰まった。
先輩は大まじめに応えているものだから、重傷である。
「このスカートだって、古風なわたしに似合っていると思うの」
がたん、と音を立てて立ち上がる。
スカートの裾を掴んでくるりと回る先輩。長い三つ編みが遅れて踊る。
「……ね?」
小首を傾げて主張する。
どうやらスカートも他の一般生徒とはデザインが違うらしい。
が。
「スカートの違いはわかんないです」
「えーっ」
何かが違うらしいが、俺には女子の言うファッションの違いは分からない。スカートはスカートじゃないか?
「そんな適当な人にネクタイのこと注意されたくありませんっ」
どすん、と椅子に座り直す先輩。
スカートのことはよくわからないが、一つ、この人のこのファッションを見て分かることがある。
この人、絶対クラスで浮いている。
「そんなことより、早く学校の怪談の事例についてある程度情報を集めなきゃ」
先輩はせっぱ詰まったように調べ物を再開する。
「何をそんなに急いでるんですか? 潰れる話があるんですか、オカ研」
「縁起でもないこと言わないで。違うわ、完全下校時刻が最長になる季節がやってくるのよ」
「あぁ……」
現在は六月下旬。完全下校時刻が最長になるのは七月からだ。七月になると、野球部や吹奏楽部は夜九時まで部活をしていたりもする。
「つまりは夜遅くまで学校にいても咎められない。わたしたちの目的のひとつである学校の七不思議は、そのほとんどが夜間に発生すものなの」
「え、そんな遅くに肝試しするんですか、危なくないですか」
幽霊の類を信じているわけではないが、肝試しだとかは墓荒らしのような無礼さを感じられて、あまり気が進まない。
「オカルト研究同好会に入ったからにはそういう活動だってする、って視野に入っていたでしょう」
「ガチなやつじゃないですか……」
「がち……? ごめんなさい、若者言葉はよく分からないわ」
「本気な、という意味です。というか先輩、ちょくちょく若者言葉っていって首を傾げますけど、友達います?」
「わたしの交友関係に何か問題でもあるの?」
「話が通じない瞬間が多々あって問題が発生しているんですよ」
「わたしにはさして問題でもないわ」
「はあ……」
クールに一蹴されたために、これ以上は何も言うまい。俺が問題と思っているだけで、先輩は問題と思っていないのだ。彼女にとっては俺が単に口うるさい後輩としか映らないのだろう。
「それで、その、ガチ、なやつをやるの。条件を限りなく類似させなきゃ、何も起こらない可能性があるのよ。時間、場所、行動……過去の先輩たちの文献も参考にしつつ、この七不思議を解き明かしていくのよ」
「そういえば、この高校にそんなに怪談話があるんですか? 定番なやつだと、理科室の人体模型的なやつとか、ですか? まあ、それって小学校ぐらいなイメージですけど」
「この高校にもあるわよ。七不思議がなんなのか知らないまま、この一ヶ月活動していたと思うとあなたのそのマイペースさが恐ろしいわ……」
「先輩が一人で突っ走りすぎなんですよ」
「わたしが親切でなかった、と言いたいのね」
「いや、そう責めてるわけでは」
「事実として言ってるのでしょう。責められているとは思っていないわ」
かすみ先輩は理屈っぽいのか、よく感情を切り捨てたような解釈をする。
「この同好会に参加当初に説明したはずなのだけど、頭に入っていないならもう一度教えるわ。この一ヶ月分の成果も含めてね」
かすみ先輩は本を閉じ、広げられたノートを机の中央においた。
「学校の七不思議、その一、トイレの花子さん」
「ど定番ですね」
「東棟の二階、男子トイレで遭遇するらしいわ」
「花子さんにも問題がありますね」
この学校は西棟と東棟に分かれている。西棟は主に普通教室、東棟は理科室や音楽室などの特別教室が集められている。オカルト研究部同好会があるのは西棟。ここからなら噂の男子トイレの窓は見える。
「花子さんという名前の男の子かもしれないでしょう」
「まあ、そうですか。それは実害はあるんですか?」
「歴代の先輩たちの証言によると、その花子さんに出会った男子生徒は数学の成績が著しく悪くなるそうよ」
「大きな実害ですね。一体なんの恨みが……」
本人の努力を無視する効果を発動させるとは、厄介すぎる。
「二つ目は音楽室の絵が変わる、というものね」
「人物像の目が動く系ですか」
これもまた定番である。
「東棟三階の音楽室にある絵がすべて錯視効果のある絵に変わるそうよ」
「突然美術室になるわけですか」
錯視効果のある絵、とは、あの有名な階段の絵とかだろう。現実ではあり得ないが、階段が永遠と登り下りでつながっているあの絵だ。
それ、別に気にしなければ違和感なくない?
「三つ目は理科室の人体模型ね。これは中の内蔵が本物で、人体模型自体も動き出す、という噂があるの」
「うわ、突然それらしい話になりましたね」
想像しただけでも嫌だ。
「四つ目は西棟と東棟をつなぐ廊下にある鏡ね。合わせ鏡にすると兎が現れるそうよ」
「兎? 今度はメルヘンですね」
不思議な現象と兎と思うと、不思議の国のアリスを連想させる。
「これには実害はなさそうですね。学校内で飼育委員を作らなければならなくなるぐらいで」
「人を食べる兎かもしれないわよ」
「先輩の発想が怖いですよ」
「五つめは……宗馬くんも実際に被害にあった、この学校で一番有名な七不思議よ」
「……」
先輩は中庭を振り返る。
俺は先輩の指が辿っていたノートの先を見つめた。そこには、中庭の池の幽霊、と書かれている。
俺と先輩が出会うきっかけとなった、あの池での事件。オカルト研究同好会でなくとも、多くの生徒が知っている、有名な怪談話。
この学校の中庭にある池には、女の幽霊が現れる、というものだった。
自分が実際被害に遭っているのだから、これは否定的にはなれない。
あの池に落ちたとき、あの浅いはずの池で、俺は溺れかけて意識を失ったのだ。何故そうなったのか、説明がつかない。そのときの記憶がひどく曖昧なことも、不可思議だ。
「中庭の幽霊の話。毎年、あの池では物を落としたきり見つからなかったり、実際に宗馬くんみたいに、池で溺れかける生徒も過去にいたみたい」
「他の七不思議は真実味がないですけど、これについては情報が多いにも関わらず真相が分からないところが怖いですね」
かすみ先輩は振り返り、神妙に頷く。
「実際に女の幽霊が池の上に立っていた、という証言もあるわ。何年か前の情報だけど……」
夕暮れの日が差し込みはじめる。薄暗くなる教室にはっとして、俺は思わず立ち上がり電気をつけた。
「宗馬くんって怖い話はそもそも苦手そうね」
俺の行動を見て、ちょっと哀れっぽい目で見つめてきた。
「いや、ふつうに暗いところで本なんか読んだら目が悪くなるから」
「……おばあちゃんみたいなことを言うのね」
「……」
かすみ先輩のその、「おばあちゃん」の話は、からかった様子は一切なく、どこか寂しげな雰囲気があった。
確か、かすみ先輩は両親がいなくて、祖母と二人暮らしだったか。以前、ぽつりと漏らしたその情報を俺は思い返す。
しかし、今どうしてそんな表情をするのか。
俺は胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「かすみ先輩はホラー耐性はありそうですよね。そもそも、幽霊自体見えそう」
「今のところ、幽霊は見たことはないけど」
言い得ぬ違和感を拭うために話を逸らすと、はっきりと否定された。儚げな印象を与えるかすみ先輩は、どこか浮き世離れしているせいか、霊感がありそうな感じだ。しかし、本人がはっきり言うところを見ると、本当に霊感はないのだろう。そもそも、幽霊が見える、と言われても俺自身がそれを本気で受け取らないが。
池で溺れかけたことだってそうだ。あんたってぼうっとしてるところあるから、と母親に言われた。足でも滑らせて落ちたのだろう。そしてパニックになって池から出られなかったんだろう。いくら曰く付きの場所であろうが、そんな解釈をしている人が一定はいる。俺も、半分くらいその解釈で頷ける。自分のぼんやりした性格は自分でもよく分かっているからだ。
怪談話やら怪異現象は、現代では科学が解決してくれる時代になったのだ。不用意に怯える必要もない。
しかし、自分の母親は随分のんびりと捉えていたが、担任の先生は違った。
あのとき。保健室で休んでいるところにどたどたと現れ、血相を変えて俺に怪我がないか差し迫っていた。
怪我は一つもしていない、と伝えたが、先生はひどく怖がったような顔をしていた。50歳手前の、常に物腰が柔らかい印象の人だったので、俺は非常に面食らった。
「最近、友人が水難事故で亡くなっていてね」
と、疲れた様子で言っていた。そのあと、ハッと気がついた顔をして、デリカシーがなかったね、と苦笑した。
心の底から心配してくれている先生に申し訳なさが先に立ち、俺は困った顔をしながらも首を振った。
「小学校からの友人で……変わった人だったけど、いい人でね。高校の時にちょっと色々あったから、ずっと気がかりでね。それが、まあ、水の事故で亡くなるなんて……」
先生はひどくショックを受けていたようで、思わず口から零れているような様子だった。
「学校は移設されたから、そんなことはないはずなのにねえ」
先生は最後にそう自分に言い聞かせるように呟いた。
何かしらの曰くがあるとは知っていた。自分が実際に被害に遭うと、なんだかあの池に近づくのも少し怖いものだ。
俺はそんな、些細な心情の変化で、この事件を自分の中で収束させた。
「で、六つ目の話はなんですか?」
「六つ目?」
俺は、先の話を促す。すると、かすみ先輩は優しげな双眸を丸く見開いてきょとんとした。
「六つ目なんてないわ。五つで終わり」
「え、七不思議って言ってませんでしたっけ」
「宗馬くん、日本における七つの意味って知ってる?」
「いいえ」
「七とつくものは大体、「いっぱい、たくさん」という意味で使われるのよ」
「へえ……」
日本というのはなんとも適当な国である。
「って、別に五つなら五不思議でいいじゃないですか」
「七不思議の方が語感が良いんだもの、先代の意思も汲んで、わたしたちも七不思議と呼称するのっ」
これが、謎に誇り高いオカルト研究同好会の様子である。
日も沈み、そろそろ完全下校間近である。
オカルト研究同好会の使用する教室の戸締まりをする。そのまま持っていた鍵は幽霊顧問である寺島先生へと渡しに行く。幽霊顧問といっても故人ではない。ほぼ顔を出さない、という意の幽霊だ。鍵の返却の役目は俺が担っている。かすみ先輩は女の子であるから、少しでも早く帰宅すべきだろうという配慮と、それから、俺は何故かこのオカ研の責任者らしいからだ。かすみ先輩が部長で、俺が責任者。かすみ先輩が勝手に決めた。
「それじゃあ、鍵をよろしくね。来週は学校での実地調査の手順を決めましょう」
いよいよ、といった風にかすみ先輩は意気込んでいる。
要は肝試しと同じ感覚なのだから、俺は当然気乗りはしない。
「わたし、宗馬くんがこの同好会に入ってくれて本当に嬉しいのよ」
不意に、先輩はそんなことを口走った。
はっと顔をあげると、優しげに微笑む彼女の姿があった。その眼差しは、あの事件直後、保健室ではじめて出会ったときと同じものだった。
「ずっとわたし一人きりだったから……あのとき、わたしが宗馬くんを見つけたけれど、ほんとうは、宗馬くんがわたしを見つけてくれたのかもしれないわね」
「……」
「わたし、宗馬くんがいるおかげで、寂しくないの」
最後はちょっと誤魔化すようにおどけて肩を竦め、その細い手を振って背中を向けた。
「……」
俺は遅れて手をあげるが、その動作は彼女の視界には入らなかった。
寂しげな言葉を残されてしまうと、来週もまた、いつもの時間にこの場所に立ってしまうのだ。
彼女は、圧倒的に一人だ。
「宗馬、俺のスマホ知らね?」
のし、と肩に腕を起きふてぶてしく尋ねてくるのは同じクラスメイトの米田だ。こいつは中学の頃から同じ学校の友人であるが、タイプが根本的に違うので一緒につるんでいる訳ではない。彼は所謂陽キャで、きゃぴきゃぴした女子とウェイウェイしている男子と一緒にいるやつだ。
のんびり学校生活を過ごしたい俺とは馬が合わなすぎる。しかし、こういう何気ない会話はふつうにできる、ふつうの友人枠だ。
「スマホって、おまえ前もなくしてなかったか?」
怪訝そうな顔で応えると、にへへ、と照れくさそうに笑う米田。こういう何やっても許されそうなところ、世渡り上手なんだろうなあ、とちょっと僻んでしまう。
「中庭でキャッチボールしてたらなくなってたんだよね」
「中庭でボールは使用禁止だろ。罰当たりが早いな」
「海外まで行ってたらどうしよ……それか、あの池の幽霊にとられちまったのかな」
中庭には噂の池がある。
「お前が溺れかけた伝説の池な」
米田は幽霊の存在を全く信じていないらしく、あの浅い池で溺れかけた俺を茶化すようにそう付け足した。
「見つけても教えてやらんぞ」
むっとした俺はつい口を尖らせた。
「いや、ごめんって。ほんと、見つけたら拾っといてや」
お願い、とまた肩をがしりと捕まれ、揺すられる。心底情けないような顔をして謝る姿に、やっぱり俺も許してしまうのだ。
「わかったよ。見つけたら確保しとくわ」
「さんくー」
ころころ表情を変え、今度は明るい調子で去っていく米田。
やれやれ、といった風にひとつため息をつく。
しかし、池に落としたかも、か。
今日は奇しくもかすみ先輩と計画をした学校の七不思議解明しようの会決行日である。
夕暮れ時から夜九時まで。噂のある教室から順にまわり、最後に池にたどり着くというコースの予定だ。
まあ、そのときは真っ暗なのだからスマホなど探そうにも見つからないだろうけれども。
頭の片隅には置いておこう、と暢気な俺なのであった。
授業が終わり放課後になると、外から学校内から生徒たちの声でにぎやかさが増す。
こんな状況で怪異現象など起きるのだろうか、と甚だ疑問であるが、俺はとにかく約束通り、集合場所であるオカルト研究同好会の教室へ向かう。
鍵は俺が担当であるので、かすみ先輩はいつも通り教室の前で待っているのだろう。
職員室に行き幽霊顧問の寺島先生の机の上から鍵を拝借する。そういえば、寺島先生っていつも職員室にいないよな。美術部と兼任だから、そっちに行っているんだろうか。
などと考えながら教室へと向かう。
しかし、そこにはいつもの先輩の姿はなかった。
あれ、と思い、教室の扉に歩み寄り、鍵を指し捻る。がちゃん、と音がして扉に手をかけた。
ガタッ、
と、音がして、扉は開かない。
「あれ……」
つい声が漏れた。
今、鍵を閉めたってことか?
俺はもう一度鍵をまわす。すると、先ほどと同じようにがちゃん、と音が鳴る。
再度開こうとすると、
「何を遊んでいるの」
と、教室の中から大人しくも呆れたような声が飛んできた。
俺は扉を今度こそ開ける。教室内には定位置の窓際に座るかすみ先輩がいた。日が暮れかけている。三階の、しかも校舎の隅であるためか、さきほどの喧噪がかききえて、ここだけ妙に静かだ。
「遊んでいるわけではなく……あれ、先輩、なんで入れたんですか?」
「宗馬くん、昨日鍵をかけ忘れたんじゃない? わたしが来たときには開いていたの」
「え、そうですか……まあ、盗まれるものもないし、いっか」
「よくないわ。大事な先輩たちの資料がなくなったら一大事よ」
暢気に反省もしない俺に、ぴしゃりと言葉を投げつけてきた。
彼女にとって大事な空間であるのだ。これは俺に配慮がなかったか。
以後気をつけます、と言いながら鞄をおろして席につく。
「早速怪奇現象かと思ったでしょう」
かすみ先輩はちょっと嬉しそうだ。
今から念願の現場調査なのだから、うれしさが隠し切れていない。
「あんまり冷やかすようなら帰りますよ」
「友達と一緒という条件で遅くまで学校にいていい、っておばあちゃんから許可をとったのよ。一人じゃ叱られちゃう」
「危険なことはしないでくださいね」
幽霊相手に敬意を払っていない、というタイプではないだろうけど、かすみ先輩は制服改造の前科があるところを考慮すると侮れない相手である。何かしでかして、ここにいるかもしれない幽霊的な存在の逆鱗に触れてしまうのは嫌だ。
今度こそ溺死で俺の人生が終わってしまうかもしれない。
いや、幽霊は、信じていないけれど。
「もちろん、変に逆なですることはしないわ。それに、わたしは先輩として宗馬くんを守らなくてはならない立場なのだから。それぐらいは弁えているわ」
頼もしい言葉を発する先輩に、驚いた表情で返す。
半ば無理矢理この同好会に引きずりこんできたのだから、捨て駒として扱われるかと思っていたが。
彼女の根のまじめさを改めて実感する。いざというときは頼りにしてよさそうだ。
「では、早速行きましょう。目的の箇所をまわって最後に池、それが終わったらまたこの教室に戻るのよ」
「はいはい」
むん、と立ち上がる先輩に続き、俺はよっこいしょと腰をあげる。
胸元のネクタイが彼女の気持ちを代弁するように軽く揺れる。
「まあ、とっとと終わらせましょう」
「だめよ、夜の九時までは粘るんだからっ」
つきあわされている感を出しつつ、俺は先導し教室を出る。
教室の扉を開き、夕日に照らされた廊下に出た。
そこで、すでに、違和感を感じる。
「……」
すぐに立ち止まると、かすみ先輩は後ろで首を傾げた。
「? なあに、もう怖くなってしまったの?」
「いや……違う……」
違和感は確かにある。しかし、どこからくる違和感なのかが分からない。
廊下はさきほどの通り同じだ。夕日が照らしてオレンジ色の廊下が続いている。
「さっきより、静かなような気がしませんか?」
そう、ここは主な部活動の場所から離れているから、もちろん静かな場所ではあるのだが。静かすぎるのだ。
まるで、誰もいないかのような。
不安になって振り返ると、そこにはかすみ先輩がいる。
「確かに静かだと思う。それに」
かすみ先輩は俺と頭ひとつ分は身長に差があるので、見上げる形で俺と目を合わせた。
「夕日の射し込み方がおかしいわね。この校舎は教室の窓側からしか夕日は入らないわ」
「そう……違和感はそれですね」
教室の窓と反対にある廊下の窓から夕日が射すのはおかしいのだ。今までに一度も見たことない光景だったから、違和感があったのだ。普段ならこの廊下は蛍光灯の光でやっと明るいはず。
「早速、といったところね」
かすみ先輩は冷静だった。
「俺たち、もう、所謂そういうところに入り込んでるって感じですか」
そういうところ、が具体的に何をさすのかは俺は分からない。俺はそういうことに詳しくはないからだ。
「神隠しのような現象に遭遇した、感じかしら」
「……教室に戻ったら戻れますかね」
と、俺が傍らのオカルト研究同好会の扉を開けようとすると。
ガタッ、
と、音を立てて、先ほど入室拒否された俺のような現象が起きた。
「今度は鍵を閉めてしまった、わけではないものね」
かすみ先輩は冷静だ。
「あの、俺、ふつうに怖いんですけど」
「わたしも多少恐怖心は抱いているけれど、ここで立ち止まっていても仕方がない、ということも分かるわ」
心底冷静で頼もしい先輩である。
どうやら俺たちは進むしかないようだ。
「まず最初は東棟の三階にある音楽室へ行きましょう」
同好会の教室から一番近い音楽室へ向かうこととなった。棟違いなだけで渡り廊下をわたれば、すぐにたどり着く場所にある。
夕日の明かりが廊下を照らしている。日は沈んでいないから暗いわけではないが、夕暮れの光というのも恐ろしさをかき立てる。
「……図書室があるわ」
「え?」
廊下の突き当たりの部屋に、「図書室」と書かれたプレートが貼られている。
図書室は東棟の二階の隅にあったはずだ。なぜ、西棟の、三階に?
「……」
かすみ先輩は図書室をのプレートをまじまじと見つめたまま思案している。
「何か心あたりがあるんですか?」
「いいえ」
かすみ先輩はきっぱりと言い放ち、東棟へ続く渡り廊下へと向かった。
「教室がぐちゃぐちゃに配置されてる、とかですか? 渡り廊下も、この先にないんじゃーー」
「渡り廊下はあるようね」
進んだ先でかすみ先輩の声が聞こえてきた。
俺も追いかけると、彼女の視線の先には簡潔に続く廊下がある。サイドに窓が設けられていて、左側にも道が分かれていた。
「いつもは一本道ですよね」
「そうね」
かすみ先輩はずんずんと渡り廊下を進んでいく。そして、分岐点に立ち止まり左手を見た。
「工作室、と書かれているわ」
「工作室?」
そんな教室、この高校にあっただろうか。考えを巡らせながらかすみ先輩の隣に立つ。分岐された通路の左手の先のプレートには、先輩の言ったとおり、「工作室」の文字。
そこで、かすみ先輩はふむ、とひとつ頷いた。
「工作室がここにあって、図書室があの場所にあるとなると、ここはどうやら三十年以上前の校舎のようね」
と、かすみ先輩はぽつりと言った。
「三十年?」
「えぇ」
当たり前のように言うものだから、俺は顔をしかめたまま固まった。
「この新校舎は三十年前に移設も兼ねて新しく建てられた校舎なの。以前は山の上に建てられていて、建て替えを機にこの土地に移った……のだけど、神隠しの先は旧校舎、ね……」
「かすみ先輩?」
視界の端で先輩がうつむいたように見えたので、思わず振り返る。隣に立つ少女は、口元を手で抑えて沈黙していた。
「大丈夫ですか?」
いくらオカルト好きといえども、こうも実体験として迫られると恐怖感があるものだろう。実際俺も、尋常ではないほど心臓がうるさい。
普段から落ち着いている彼女ではあるが、さすがにこんな非現実的な現象にみまわれたら、混乱するに違いない。
「歴代の活動の中では見られない体験に、わたしは今、とてもどきどきしているわ」
だいぶ頭がおかしいオカルト好きだった。
これこそ、ガチな、というやつなんだろう。
「先輩……元の世界に戻れるかも分からないのに、なんでそんな呑気なこと言えるんですか」
いつもの調子の彼女につられて思わずツッコミを入れてしまう。が、先ほどまでの薄ら寒さが少しは緩和したので、ちょっと救われるマイペースさだ。
「だってだって、これこそわたしたちオカルト研究同好会が求めていた物なのよ。先輩たちが聞いたらさぞ羨ましがると思うのだけど」
「明日の朝、死体で発見されなければ、の話でしょう」
もしくは行方不明の扱いとなるか。ホラー映画や怪談話でよくある顛末である。
「それについては大丈夫よ。わたしが宗馬くんを守るんだから」
「頼もしいお言葉をありがとうございます……」
守る、といっても、何から、どうやって、実績は? などなど甚だ疑問ではあるが、当初の宣言通り変わらずのご様子で、俺は呆れながら感謝の言葉を返す。
「伊達にオカルト雑誌を読みあさってはいないわ。こういうとき、やってはいけないことは大抵決まっているのよ」
「たとえば?」
得意げにはなしながら歩を進めるかすみ先輩。彼女はどうやら旧校舎の構造を記憶しているらしい。
そこは頼りになるな、と思いながら素直についていく。
「まず一つ目は、団体行動をしている場合ははぐれないこと、ね」
「はい、フラグですね」
即座に答える。
「フラグ? ごめんなさい、若者言葉は分からないの」
「最近の言葉って感じもしないですけど……伏線、的な意味です。そう念を押すと必ずはぐれるぞ、って感じで」
「なるほど。では、手を繋いだらどうかしら」
「ふつうに言いますね……」
「あ、でも手を繋いで気がついたら手だけ残って体本体がなくなっている、というシーンに繋がるかもしれないわね……」
「発想が恐ろしいですし、ありそうなのでやめてください」
かすみ先輩は結構ホラージャンルを熟知しているらしい。
「……」
そこで一旦会話が終了する。双方黙ると、この校舎の静寂さが目立つ。当然、今のところ他の生徒や先生には遭遇していない。本当に、誰もいないようだった。しかし、これは自分の恐怖心からか、何か、別の何かがいるような予感がしてきてしまう。
ホラー映画を見ていてもそうだが、これが「ホラー映画だ」という前提で見てしまうと、あの画面の端に誰かが立っているのではないか、今一瞬何かが映ったのではないか、と疑心暗鬼になってしまうものだ。恐怖心は主に先入観からくるものだろう。自分で自分を恐怖の淵に立たせてしまう。それを理解していても、この疑う心は止まらない。
「さて、ここが音楽室ね」
己の懐疑心と戦いながら歩いていると、ホラー耐性カンストのかすみ先輩が立ち止まった。
「旧校舎も新校舎と同じく、普通教室を集めた北棟と、特別教室を集めた南棟で構成されているの。こっちは南棟。私たちがさっきいたのは北棟」
「なるほど」
階段をのぼったおりたの記憶はないので、三階、廊下のつきあたりに音楽室はあるようだ。そこは、新校舎と変わりがない。日は沈み、校舎は古ぼけた蛍光灯に照らされて薄暗い。
「では、いざ、まずは音楽室の絵に注目」
と、検証動画のようなタイトルを言いつつ音楽室へ足を踏み入れる。
中はもちろんしん、と静まりかえり、人はいない。
同じ場所に位置する、といっても、やはりここはかすみ先輩の言う旧校舎らしい。内装は、馴染みのあるいつもの音楽室の風景ではない。
防音環境やピアノや、机などはもちろんあるのだが、どれも古写真で見るような、現代にはみない昭和感がある。
「絵が飾られているわね」
かすみ先輩は教室後方の壁を見つめた。
「ふつうに人物画ね」
「はあ……」
と、俺が振り返るが、首を傾げた。
かすみ先輩が見ているその絵は、俺には建築物を描写したもののように見える。
そう、永遠に続く階段。噂の絵に、すり替わっている。
「いや、あの……」
これはかすみ先輩がおかしいのか、いや、自分がおかしいのか、判断に迷った。
とにかく声が震える。忘れかけていた心臓の早鐘が、再び、自分の元へ帰ってくる。
背後から、
カタッ、
と、音がした。
「かすみ、先輩……」
震える手を彼女へとのばす。嫌な予感がした。
何かを踏んだ。水音が耳に届いた。
水? なんだ?
俺は懐疑心と事実とが合致する足音を感じながら、ゆっくりと足下を見た。
赤い、黒い、水? ちがう、血だ。
それから、血と一緒に何かが落ちている。やけにてらてらと光を反射する、筒状の。
そこで思いついたのは、魚を拓いたときの光景だ。
これは、内臓。
「っ」
尋常ではない嫌悪感が許容量を越え、吐き気が伴う。叫ぶことも震えにより叶わず一歩下がる。
「かすみせんぱ」
顔をあげると、そこに彼女の姿はなかった。
視界に入ってきたのは少女の姿ではなく、人体模型の顔。
「ッッ」
俺は手で口を押さえた。腹の奥底からせり上がる気持ち悪さを必死に堪えた。
人体模型の目玉はなく、そこにはただ虚空だけが漂っている。笑ったような歯列が不気味さを増していた。
「もう、いいかあい」
ごぼごぼとくぐもった声だった。
「……」
俺がその場に動けずにいると、人体模型は興味をなくしたかのようにふいと体を反転させ、音楽室を出ていった。
人体模型の背後には誰もいない。
かすみ先輩の姿がないのだ。
どうやら先輩とは、完全に分断されたようだ。
(だから言ったんだ……)
まだ収まらない心臓の音を落ち着かせるために、怒りの矛先をかすみ先輩へと向けた。
フラグ回収、といったところだ。彼女があんなことを言わなければ、たぶんはぐれずに済んだに違いない。いや、これはただの当てつけかもしれないけど。
俺はもう一度絵を見る。
それは確かに、やはりあの騙し絵である。
一つ目の七不思議は完了した。かすみ先輩は認識できなかったようだが……
音楽室を見回しても、人の気配はない。床には人体模型のものであろう血の轍が残っている。
「……」
においまでしてきそうで、俺は音楽室を出ようとする。
(におい?)
そこで、俺はふと疑問に思う。
匂い。そうだ、この部屋にはある匂いが充満している。血などではない。よく、彼女からもする、匂いだ。
以前に先輩にその匂いについて尋ねたら、
「デリカシーがないのね」
と呆れられた。
それは線香の匂い。線香の匂いしますよね、と言うとさすがにまずいだろうか、と思い、俺はかすみ先輩に、「おばあちゃん家の匂いがしますよね」と言った。
まあ、結果、怒られたのだけど。
それと今の音楽室の匂いが一緒だから、なんだというわけではない。けれども。
「情報がなさすぎる」
元々知識がないのだ。知識担当のかすみ先輩は今こうしてはぐれてしまっているわけで。
とにかく、今の目的は合流だ。
おそらく、かすみ先輩の次の目的地は男子トイレだ。
生徒がいないといえども、先輩は真面目で律儀な人だから、男子トイレの前で俺が来るのを待っているに違いない。
と、思って音楽室を出る。さきほどの人体模型がいないことを確認し、一歩踏み出したが立ち止まる。
「そうか」
つぶやき、一人落胆する。
俺はこの旧校舎の構造を知らない。知識担当で任せきりだったかすみ先輩の頭の中にしか情報はないのだ。
「……音楽室は、同じ、ってことだったし……」
無駄に動けば人体模型に遭遇するリスクも高まる。実害はないにせよ、もう二度とお会いしたくない敵だ。最短ルートをとりたいものの、ここは運に任せるより他にはないらしい。
新校舎と同じ位置に噂の男子トイレがあるだろうと願い、俺は二階へおりるために階段へと向かった。階段は渡り廊下と繋がっている。来た道を戻り、渡り廊下への入り口を左に曲がるとそこには階段があった。
「……」
階段の段差に、血がついているのをはっきりと見てしまう。
どうやら人体模型は階段で下におりたらしい。
先ほどの光景を思い出しそうになるのを防ぐために、とにかく俺は階段を下った。旧校舎も一度突き当たりを設け、折れる形にしてさらに下へ続く階段の構造だ。折れた先の階段を下り、また突き当たり。少し背中が怖いので、振り返ると、当然の如く上り階段がある。律儀に、床には血の跡が続いている。
自分で恐怖を煽ってどうする、と体を反転させると、はっと息をのんだ。
階段が、上り階段となっている。
「いや、間違いか? でも……」
自分の方向感覚が弱いのだろうか。いや、今振り返ったときは上りだったから……
「……」
来た道は下り階段。行こうとする道は上り階段となっている。
自分は今、三階から二階に行こうとしている。ならば下り階段を利用するべきだ。
「……」
俺は立ち止まり、思案する。かすみ先輩はどちらを選ぶのだろう。彼女の定番ホラー知識の中では、何が正解なのだ?
どちらにも行けず踏みとどまっていると、視界の端で何か動く物を見た。
下り階段の先に、赤い血が光に反射する中、真っ白なふわふわが現れる。
「兎?」
二本の長い耳をぴんと立てた、愛らしい姿の動物である。
そこで思いつくのは、東階段の合わせ鏡。兎が現れる、というやつだ。
「かすみ先輩?」
もしかしたら、かすみ先輩がすでに試したのかもしれない。
俺がつぶやくと、兎は声に驚いて逃げてしまう。
「あっ、」
この先にかすみ先輩がいるのか? でも、このまま下ってもいいのか? 下った段数的に、この先は一階になるのでは……
など、不可解なことが起こっているにも関わらず、相変わらず現実的な理論しか立てられず考えあぐねていると。
頭上から、何かの足音がする。
人ではない。何か固いものだ。けれど、二足歩行で歩いているのは分かる。音は階段を下って、こちらに向かってきている。
音楽室で遭遇した恐怖を思い出し、俺の選択は一択となった。
あのグロテスク人体模型より、兎の方が数倍信用できる。
随分動かなかった自分の足は、選択肢がなくなったとたんに軽々しく動き出した。階段を迷いなく下ると、白いふわふわが階段を下り続けているのが見えた。
しかし、恐怖はいつでも背後に立つ。頭上の足音が、俺が動き出したのと同じように間隔が早くなる。
気付かれた。
「もういいかあい」
頭上から、あの声が降ってきた。
俺は走り出し、兎を追いかける。
兎は逃げる、というよりは、どこか目的地があり、そこに向かって走っているように思えた。
階段が終わり、廊下に出た。兎は方向転換し、廊下を進み、開け放たれた扉の先へと向かう。
窓からの景色が随分低い。ここはどうやら一階らしい。
兎が飛び込んだ先は、芝生が生い茂る庭のようだ。そこはやはり、自分の過ごす校舎とは全く別物で、少しの落胆を覚える。
兎が出て行った先をのぞくと、暗がりの中にぼんやりと、月の光を照らす水面を見つけた。
その光景に、どきりとする。
あれは、中庭の池だ。
中庭の様子は馴染みのないものだが、あの池だけは、新校舎にあるものと全く一緒。兎はその池の前で毛繕いをしていた。
俺が中庭に一歩踏み出すと。
「もう、いいかあい」
ごぼごぼと、声が背後から聞こえてきた。
すかさず壁に隠れ、しゃがみこんだ。
人体模型の足音が近づいてくる。
かつかつとした足音は、中庭に踏みいることはなく、校舎の中へと消えていく。
俺は人体模型の姿がないことを確認し、池の前へとやってきた。
そして。
「うわっ」
スマホの着信音が中庭に響いた。
俺は心臓が飛び上がるような思いをしながら、あわててスマホをポケットから取り出す。
電話のようだ。相手は、米田だった。
スマホをなくした、と言っていた、米田の文字がディスプレイに映っている。
「……」
俺は電話を受け、おそるおそるスマホを耳にあてた。
「もしもし」
声が震えていた。情けないとも思えない。ただ、相手が米田であってほしいと思った。
「宗馬くん?」
それは女性の声だった。やわらかく、ほんのり暗闇を含んだような、落ち着いた声。
「かすみ先輩?」
「良かった。もう、どこに行ってるの。部室で待っていたのに」
「? かすみ先輩こそ、どこに行っちゃったんですか。音楽室で急にはぐれてーー」
「音楽室? 宗馬くん、もしかして抜け駆けなんてことしているの?」
かすみ先輩が機嫌を損ねたような声色を返してきた。
「まずは部室に集合、って約束したじゃない。もう、ぜんぜん来ないから」
「ま、待ってください。かすみ先輩とは部室で集合したじゃないですか。それから、音楽室に行って……」
「なにを言っているの? まったく、嘘をつくのは結構だけれど、わたしだけで見て回ってしまったわ。あとはこの中庭だけ」
「中庭?」
話の食い違いも正せぬまま、話がどんどん進んでいく。俺は中庭を見回した。が、誰もいない。
「かすみ先輩、中庭にいるんですか?」
「そう。池のところにスマホ……? 携帯電話……が、あって、ほら、クラスメイトがなくした、って言っていたじゃない。その子のものなら、あなたの連絡先があるかしらと思って」
「かすみ先輩、テレビ通話にできますか?」
「テレビ、通話……?」
周囲の景色を映してもらおう、という作戦だ。
「画面に映ってるボタンをですね……」
「ボタン? この画面にボタンなんてついてないじゃない」
「ボタンみたいに表示されてるのを触っていただければいいんですっ」
あまりの文明のついていけなさに、つい声を荒げてしまう。
と、自分のスマホを見ると、画面が切り替わった。とりあえず、真っ暗だ。
「あの、ライトつけれます?」
「……」
案の定フリーズしてしまったので、丁寧に教えてあげる。
「あ、光ったわ」
向こうのライトがつくと、池の付近にいるらしく、一瞬水面が映り、がたがたと映像が揺れる。
「まぶしい! すごくまぶしい!」
「自分に向けないでください。周りを映るようにスマホを持ってくださいよ」
アドバイスをすると、先輩は持ち替えたのか、画面が安定して周囲の様子を映し始める。
暗がりの中に、ライトに照らされた芝生が見えた。露を含んで揺れて光りながら、目線があがり、水面が映し出される。明らかに、自分と同じ中庭にいるようだ。
俺は、かすみ先輩が映している画面と一致させるように、池の前に立った。
すると、背後に、気配。
「見ーつけた」
低く、うなるような声。男性とも、女性ともつかない、人間が発しているのかも判別つかないような、声色。そして、何度も聞いている、何かに覆われているようにくぐもった声。
まるで、水の中で、喋っているような。
俺は時がとまったかのように硬直した。
そして、ゆっくりと、振り返ってしまった。
「もう、一人にしないでよね」
そう、言ったのは、かすみ先輩だった。
それはスマホから聞こえたのかもしれない。いや、でも、今、一瞬、後ろにいたのはーー
そこで、俺の視界がぐるりと回転する。
何者かに腕を引っ張られた。それは池から伸ばされた手だ。
「っ!?」
俺は抵抗する間もなく、池の中に引きずり込まれる。
この池は深いものではない。そう、だけれど。
俺は一度、ここで溺れかけている。
突然迫った危機に、俺はじたばたと暴れた。足下が底につく気配がない。
とにかく這い上がろうと、光がさす方向を見上げた。
水面に、誰かの黒い影が見える。
俺はその人に必死に手を伸ばした。
その影はどこかで見覚えがある。
そういえば、以前溺れかけたときも、こんな光景を見たような気がする。
手をのばす。すると、向こうの誰かも手をのばす。
何かを叫んでいるようだった。
必死に、俺を助けようとしてくれているような。
懸命に手をのばし、ついに、その手が触れ合った。
「一緒に死んでくれるって言ったじゃない!」
「宗馬くん!」
かすみ先輩が俺を必死に引き上げる。
俺は池の淵をつかみ、ずるずると這い上がった。
水を含んだ制服が重く、そのまま芝生へと突っ伏した。
「かすみ、先輩……」
途切れ途切れに、ありがとうございます、とお礼を言う。
かすみ先輩は、俺の前に座り、悲しそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「……」
悲しそうな顔の理由を、俺はなんとなく分かっていた。
先ほどの声。
俺を引きずり込もうとした、水底から放たれた、仄暗い声。
そして、俺を助けようとして呼んでくれた、柔らかな声。
その二つは、同じ人の声だ。
だから、
「いいですよ」
と、短く答える。
「え……宗馬くん……」
「なんとなく気付きますよ。こんな、いろいろ用意してもらえば」
「……」
ぜえぜえと肩で息をしながら体を起こし、かすみ先輩の前に座り直す。
かすみ先輩はしょんぼりとした顔をしながら、泣きそうな瞳で見つめている。
「そうなんだ、って確信したわけじゃないですけど。だって、まだ、幽霊なんて信じてませんから」
それでも俺は知っている。オカルト研究同好会に所属している生徒は一人だけということ。
四谷かすみという生徒はこの学校にはいなくて、三十年前に死んでいるということ。
「……じゃあ、どうして」
自分に付き合ってくれていたのか。
「寂しいって、自分で言ってたじゃないですか」
当たり前のように返す。
最初から、理由はこれだった。
俺は真っ直ぐに、かすみ先輩を見つめ返す。絶対にとらえてはなさない眼差しで、彼女に告げる。
「たった一人の女の子を笑顔にできるなら、いくらだって付き合ってあげられますよ」
少し照れくさそうに笑うと、かすみ先輩は呆気にとられたような顔をして、やがてくすりと笑った。
「まるで、ヒーローみたいだわ」
肩を揺らして笑っていた。
その後、俺は無事に家に帰ることができた。
彼女からの呪縛は解け、中庭からでる頃にはいつもの新校舎の姿に戻り、遅くまで部活をしていた野球部員たちとすれ違った。
かすみ先輩は校門の前で立ち止まり、柔らかい笑顔で俺に手を振っていた。
翌日の放課後。
俺は夕日の気配を感じながら、いつも通りあの教室へと向かう。
扉を開くと、以前と変わらず、かすみ先輩が定位置に座っている。
室内に充満する、線香の香りを感じながら、教室へと入った。
「いつまでいるつもりなんですか?」
そう尋ねると、かすみ先輩はじっと窓の外を見つめた。
夕日の光はかすみ先輩を通して、教室を赤色に染めている。
「人生には意味がない、と、言ってくれた人がいたの」
かすみ先輩の視線の先は遠く、俺の見えない何かを見ているようだった。彼女の瞳には、今もなお、旧校舎が見えているのかもしれない。
「人生に意味はないって、そう肯定されたのがとても嬉しかった。わたしの人生に意味などないと、知ってくれている人がいる、って……」
「……」
「でも、どうしてかしら。どうして……まだ立ち止まることが出来ないのかしら……」
自ら選んだ命を絶つという選択。その選択をしても、今、こうしてまだ彼女は生きている。
生の世界で彷徨っているのだ。
「ほんとうに、寂しかったのだと思うわ」
彼女はいって、俺の方を振り返った。
その瞳は優しく穏やかで、俺を捉えてはなさなかった。
「宗馬くん、わたし、あなたに見つけてもらえて本当によかったと思うの」
「そう、ですか」
俺は肩を竦めて微笑んだ。
「あのね」
柔らかく、口ずさむ。
「わたし、何度だってあなたをヒーローにしてあげる。だから、また、何度でもわたしを孤独から見つけだしてね」
熱のこもった瞳で、彼女は笑う。
俺は、あの日、はじめて会った日と同じように、素直に頷くのだ。
「えぇ。かすみ先輩を、一人になんてしませんよ」