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清野失踪

作者: 西荻麦

 空っぽな葬儀だった。

 参列者は両手で数えるほどしかおらず、その表情も険しくはあるが涙はない。

 町内会で顔を合わせる程度の関係だった八部(やべ)も、着慣れない喪服や焼香のマナーが気になるばかりで悲しいという感情は芽生えなかった。八部の後ろに控える与田(よだ)も同じだ。与田にいたっては喪服を持ちあわせておらず、高校時代の学生服を引っぱりだす始末だ。童顔ではあるものの、三十路手前の男にはさすがに無理がある。よくよく目を凝らせばコスプレにしか見えない。目を凝らすほど、参列者がいなかったのが彼にとって幸いであった。

 八部は神妙にうつむいて、焼香を済ませる。だが、文字どおり空っぽの棺に向かって合掌するのは、なんとも不思議な心持ちだった。微妙な笑顔で写る遺影に、八部は心中語りかける。

 ――清野(せいの)さん、あんた本当に死んじまったのか?

 写真の彼は、なにも答えてはくれない。



「このたびは……」

 八部はそこで言葉を切って頭を下げた。続く文句がご愁傷さまでよかったかどうか迷ったからだ。清野氏の妻は気にせずに深々とお辞儀をした。青ざめてはいるが、彼女は取りみだすこともなく淡々と葬儀を取り仕切った。

「八部さんも与田さんも、わざわざありがとうございます。主人とはさほど交流もなかったでしょうに……」

「いえ、そんな」

「あんまりしゃべったこともなかったですねえ」

 バカ正直に応じる与田の脇を八部は肘でつついた。清野氏の妻は気にせず「人付き合いが苦手な人でしたから」とこぼす。突然のこととはいえ、葬儀の様子を見るかぎりそう評されるのも無理はないだろう。

「信じられないです。まさか蕎麦の食べすぎだなんて……」

 もちろん知らされてはいたが、実際に死因を言葉にされるとパンチが強い。八部は思わず噴きだしそうになるのをこらえた。与田は「本当ですよねえ」と同調している。己の無礼をまるで認識していない。

 清野氏は無類の蕎麦好きだった。人との交流はないが「蕎麦屋に清野あり」とは周知の事実だった。清野氏は毎日蕎麦屋に出没し、異常な量を食べつくす。というのも、盛り蕎麦を制限時間内に二十枚食べれば無料になる、という無謀な店の催しに必ず参戦していたのだ。周りの客も目を見張るペースで、清野氏は黙々とたいらげる。八部と与田も何度かその場面に立ちあっていたが、ただただ圧倒された。彼の存在は町内の蕎麦屋にとって脅威だった。

 だが、ある蕎麦屋の大将がこう挑発した。

 ――盛り蕎麦、さん……よん……いや、五十枚はさすがのあんたでも無理だよな。

 数を言いなおすところがなんとも小心者だが、ひたすら食いあらされるばかりの大将も反撃したい気持ちがあったのだろう。その言葉に清野氏は一瞬目を丸くしたが、すぐに涼しい顔で「では、次回は五十枚で」と返したという。

 その宣言どおり、清野氏は翌日五十枚に立ちむかった。高々と積まれていく蕎麦の塔に、店内の誰もが注目した。ぐらぐらと傾ぐ塔を見て、誰かが言った。ピサの斜塔ならぬ蕎麦の斜塔だ、と。上手くもなんともないが、シュールな光景ではあった。

 清野氏はいつもどおりマラソンランナーのように淡々と食べすすめていったが、三十枚を超えたところで箸の進みが遅くなった。表情は変わらずとも、額に脂汗がにじむ。大将は頬がゆるむのを抑えられない。客たちは固唾を呑んで見守った。

 そこで清野氏は一旦席を外し、表に出た。大将が制止するのを「すぐ戻ります」とかわした。

 しかし、待てども待てども清野氏は戻らない。逃げたんじゃないか、そこら中走りまわって胃の中を消化しようとしてるんじゃないか、とさまざまな意見が飛びかっていたが、とうとう大将がしびれを切らして戸を開けた。

 すると軒先に、大量の蕎麦と清野氏の衣類が散らかっていた。だが、当の本人の姿はどこにもない。家に帰った形跡もない。大将をはじめ、その場に立ちあった面々は拍子抜けしながら散会した。

 その日から、清野氏は行方知れずとなった。誰も心当たりがない。目撃情報も出てこない。忽然と姿を消した彼は、もうこの世にいないのではないか、と清野氏の妻が漏らしたのは、それから二週間後のことだった。



「こんなに早く葬儀を挙げてって言われますけど、私も早く気持ちを切りかえたいですし……」

 清野氏の妻――菊子(きくこ)はどこか言い訳がましく目を伏せた。気丈に振るまってはいるが、痩せこけた頬は疲労の色を隠せない。蕎麦の食べすぎ、というどこか滑稽な死因は彼女による後づけだ。八部はそれでいいのか、と懐疑的だったが、蕎麦好きにとっては本望なのかもしれない、なにか理由がなければやりきれないのかもしれない、と無理やり解釈するようにした。

「でも肝心の遺体がないと、困るというか……やりきれないですね。遺体さえあれば……」

 葬儀場をあとにしても、八部の胸中は複雑だった。菊子の言うとおり、遺体があればまだ悲しみも湧いてこようが、空っぽの棺では実感がない。与田も「奥さん、かわいそうだよねえ」とぼやいている。無邪気に心配する横顔は、あどけない高校生と言っても通ってしまいそうだった。

「よし。いっちょやるか」

 八部の唐突な宣言に「なにを?」と与田は首をかしげる。

「俺たちで清野さんの無念を晴らそうじゃねえか。どうも腑に落ちねえ。こりゃあ事件だよ。きっとなにか裏があるっ!」

「どうするの?」

「清野さん失踪の謎を解く! 俺たちは探偵だ! ……そう、探偵! 探偵っ!」

 八部は自らの意気込みに酔いしれ、鼻息荒く突きすすむ。与田はいまいち理解していなかったが、探偵という語感の響きだけで八部についていくことに決めた。



「え! マジで? 清野死んだのぉ?」

 八部と与田はまず清野氏の周辺を洗おうと、彼の勤務先を訪ねた。清野氏の上司である田中は訃報を知らず、知ってもなお軽薄な態度は変わらなかった。そもそも上司というわりに、間違いなく清野氏よりうんと若い。八部がそこをつつくと「だって、俺仕事できるから」と事もなげに答えた。

「つーか、清野が仕事できなさすぎなんだよね。なんつーんだっけ……そうそう窓際族ってやつ。実際は壁際の隅っこにいたけど」

「清野さんが誰かに恨まれるような心当たりとかありませんか?」

「なんでそんなこと聞くわけ? つーか、おたくら誰?」

 八部と与田はアイコンタクトを交わし、襟元を正してから『探偵です!』とハモった。田中は「喪服と制服の探偵なんて聞いたことないんだけど」とうさんくさそうに二人を見た。なんだかんだで参列したときの服装を、探偵のモードとしてしまっている二人である。

「恨まれるほど目立ってなかったっしょ。清野、すっげー地味だもん。存在感ゼロ」

「でも仕事ができないっておっしゃってましたよね。あんた、それで清野さんを悪く思ったりしてたんじゃないですか?」

「はあ? それとこれとは別っしょ。公私混同しない人だから、俺」

「じゃあ、あんた以外にはいないんですか? 清野さんを恨んでそうな人」

「うちの職場にはいないと思うけど。恨まれるって相当目立たないと無理っしょ。あのおっさんはそこまでの能力ないって。出る杭は打たれるってやつ。むしろ俺のほうが妬まれてると思うなー」

 幸せなやつだ、と八部は内心舌打ちしたが、与田は「そうなんですかあ」と間の抜けた相づちを打っている。田中はいけ好かないやつではあるが、嘘をつくタイプではなさそうだ。気づけば田中の華麗なる武勇伝が始まり、いちいち感嘆する与田を抑え、八部は話をぶった切った。

「ほかに心当たりないですか? 清野さんを恨むとこまでいかなくても、よく思ってない人とか」

 自慢話の腰を折られた田中は一瞬ムッと顔をしかめたが「大家じゃないの」とぶっきらぼうに言った。

「大家?」

「そう。いい年して奥さんとアパート暮らしっしょ。安くてぼっろい部屋だって聞いたけど、家賃滞納してるってうわさ。大家も腹に据えかねてると思うよ」

 次の目的地が決まった。八部は短く礼を告げ去ろうとするが、田中は「清野のことなんか調べても時間の無駄じゃない?」と言いはなった。

「調べる価値のある人間じゃないっしょ。おたくら相当暇人?」

「……探偵にとっては最高の暇つぶしだ」

 八部は決まった、とほくそ笑んだが、田中にはいまいち伝わらず、与田は堂々と「どういう意味?」と尋ねてきた。身内に敵ありか、と八部は肩を落としながら清野氏のアパートへ向かった。



 田中の表現は誇張ではなく真実だった。かなり年季の入ったアパートは二階建てでわずか四部屋しかない。うち一部屋は大家が住んでおり、残り二部屋は入居者がいるか怪しい。決して金回りがいいとは言えないだろう。アパートというよりお化け屋敷に近いおんぼろさだ。与田は「なんか出そうだねえ」とすでに怯えている。

 そんな二人の態度が気に障ったのか、大家は部屋に上げてくれたものの、ほぼ無色透明のお茶を出してきた。いったい何番煎じなら、ここまで湯に近づけるのか。「美味しい白湯ですねえ」と与田がまた火に油を注いだために、大家は眉間にしわを寄せて「なんのご用ですか」ととげとげしい口調で言った。

「二階の清野さんのことですが」

「今、留守だと思いますよ。私もさっき訪ねたら応答がありませんでした。奥さん、いろいろ後始末に追われてるから。まあ居留守使われてるのかもしれませんけど」

 早口でまくしたて、大家は限りなく白湯に近いお茶を派手にすすった。とっつきにくいじいさんだ、と八部も湯呑みを傾けた。

 清野氏健在のときから、家賃取りたてに訪問しても居留守を決めこまれていたらしい。清野氏への不信不満を大家は隠そうともしない。

「家賃を払わないことも罪悪ですけど、こそこそ逃げまわるのはもっと罪悪ですよ。せこいし臆病だし、大家にとっては最悪の住人です。さっさと保険金なりなんなりで滞納分払ってほしいもんです」

「そんなに溜まってるんですか?」

「ざっと半年はね」

「大物ですねえ。僕らでもせいぜい三カ月……」

 八部はあわてて与田の口をふさいだ。大家は汚いものを見るかのように、二人を軽蔑した。

「なるほど。あなたたちも同じ穴の狢ですか」

「まあまあ……それはそれとて、大家さん。あんた、なかなか家賃を払ってくれない清野さんを恨んでいたんじゃありませんか?」

「恨んでますし呆れてますよ。まあ、大の大人が、それも妻帯者がこんなに情けないまねをするのかって……しかも蕎麦を食べてる最中に消えたんでしょ。情けない末路ですね。あの男にはぴったりですが」

「そんな言い方はないんじゃないですか」

「あなたもろくな人間じゃないから同情するんですよ」

 大家は薄ら笑いを浮かべた。八部は湯呑みを乱暴に置き、条件反射で青筋を立てた。そもそも気が長いほうではない。売られた喧嘩は基本的に買うのが八部の流儀だ。しかし、そんな八部を差しおいて先に反論したのは与田だった。

「死んだ人に対してひどいですよう」

 ただし、与田は己の保身のためではなく、清野氏の名誉のために刃向かった。

「さっき清野さんの上司にも会ってきたんですけど、皆ひどいですよう。どうしてもうなにも言えない人をそうやって悪く言うんですかあ」

 眉を八の字にして今にも泣きだしそうな与田だが、実は怒っている。与田の怒りは伝わりにくいのだ。八部にはそれがわかったが、大家は取るに足らないと考えたらしい。「自業自得でしょう」と吐きすてると、それきり与田がわめいてもどこ吹く風だった。これ以上、相手にする必要はないというポーズだ。

 八部は怒りのやり場を失い、最後には与田をなだめてアパートを後にした。子どものようにだだをこねる与田を、少しだけうらやましいと思った。



「よし。現場に――蕎麦屋に行くぞ」

 八部が歩きだしても与田はついてこない。ふてくされたように道端の石ころをカツカツと転がしている。制服であることが、彼に残る幼さを一層際立たせた。

「おい、与田」

「皆、あんまりだよなあ」

「肩入れするな」

「いない人に鞭打つようなまねしてさあ」

「そういうやつは多い」

「良心が痛まないのかなあ」

「相手の見えないところで文句言うのは、生きてようと死んでようとお決まりだ」

「いないからいけないんだっ」

 突然、与田は弾かれたように叫び、駆けだした。「おい! どこ行く与田!」と八部が制止するのも聞かず、背中で「なんとかしてみせるよう!」と応答し、あっという間に見えなくなってしまった。与田の足の速さを八部はよく知っている。ため息を吐いて、仕方なく一人で蕎麦屋を目指すことにした。



「正直な話、うちとしては複雑だよ。無料で大量に蕎麦食う客がいなくなって助かったけど、見世物的な役割も果たしてたからね、あのお客さんは。今じゃすっかり閑古鳥だし、うちでいなくなっちまったから変な評判まで立てられるし」

「変な評判って?」

「うちが散々食いあらされた腹いせに奴さんをどうにかしたんじゃないかとか。うちに来ると神隠しにあうなんていう突拍子もねえうわさまであるよ。でも、面白がって写真撮りにくるやつらは増えたなあ。ほら、つぶやいたり映えたりするんだろ?」

「ここに映えはないと思うけどな」

「こうなったらいっそ映え商品でも作ろうかと思っててよ。蕎麦くるくるってきれいに巻いて盛ったらモンブランとかに見えねえかな」

「せっかくの蕎麦、ほかのもんに似せていいのかよ。それより清野さんの衣類はどこら辺に落ちてたんだ?」

 蕎麦屋の大将は入口を示し「表出てすぐだよ」と大あくびをした。店内に客の姿はなく閑散としている。映えで一発逆転を狙おうとする大将の気持ちもわからなくもない。

 八部は暖簾をくぐり、表に立ってみた。当然のことながら、現場はとっくに片づけられていてなにも見当たらない。アスファルトを突きやぶって、そこかしこに雑草がちょろちょろと生えているだけだ。

「衣類と蕎麦以外にはなにもなかったのか?」

 大将はスポーツ新聞を広げていた。がさがさと紙のこすれる音の隙間に「んー」とうなる声が混じる。この蕎麦屋つぶれるな、と八部が答えを見限ったところで、大将はようやく思い出したように返事をした。

「そういや見慣れない草が散らばってたな。なんか黄色い、気持ち悪い草でよ。山のほうに生えてるやつかもしれねえけど……なんでうちの前に落ちてたんだろうな」

 「すぐ捨てたけどよ」と大将はとうとうタバコをふかしはじめた。もう客が来ないと見越しているようだ。

 八部はつぶれる前に一度くらいは食べてやるか、と盛り蕎麦を注文した。大将は特に喜ぶでもなく奥に引っこんで、すぐに戻ってきた。運ばれてきた蕎麦は、決して映えない凡庸な味だった。不味くもないが美味くもない。

 これを清野氏は毎日大量に腹へおさめていたのだ。八部は無言で蕎麦をすすった。



 菊子は疲弊していた。保険会社と相談しても、遺体がなければただの失踪で、その場合一年間は保険金が下りないという。旦那の保険金を当てにしていた彼女にしてみれば、なぜはっきりと死んでくれないのか、と歯噛みする思いだった。月末が近づけば、また家賃滞納が重なり、あの意地の悪い大家が取りたてにやってくる。菊子は預金通帳とにらめっこしながら「遺体さえあれば……!」と悲痛な叫びを上げた。

 そこにドアをノックされ、彼女は一瞬慄いたが「八部です」という声におそるおそる応じた。八部はドアを半開きにしたまま、玄関に立った。狭い間口で窮屈そうにしていたが、未亡人への配慮もあるのだろう、意外と律儀な男らしい。菊子が「どうされたんですか」と訝しむと「遺体があったほうがいいんですか」と逆に質問された。

「どうしてそれを……!」

「今、奥さん叫んでましたよね。壁が薄いから外まで聞こえます」

 ボロアパートの造りが憎い。プライベートもだだ漏れになるような部屋の金さえ払えない現状が、彼女をさらに落胆させた。

「遺体は見つかりませんよ。これからもずっと」

 八部は追い打ちをかけるように、とんでもないことを宣言した。菊子はどや顔の男が憎らしくなって「どうしてわかるんですか」と噛みついた。

「清野さんはあの日、この草をなめたんです」

 八部はポリ袋を掲げた。中には毒々しい色味の草があった。見たこともない草だ。彼女の頭に浮かんだクエスチョンマークに答えるように、八部は「裏山で採れたものです」と種を明かす。

「清野さんはこれを胃の消化に役立つ草だと勘違いしていたんです。これを食べれば、蕎麦五十枚もたいらげることができる。そんなふうに考えて用意していた。しかし、実はこれは人間を溶かす草だったのです!」

 菊子は目を見開いた。八部の自信満々な笑みが鼻につくが、かまっている場合ではない。菊子は続きをうながす。

「俺も山に入ったとき目撃したんですが……ウワバミが猟師を丸のみしたんです。腹がふくれたウワバミはおもむろにこの草をなめた。すると、たちまち腹は元通りになった。清野さんはこの光景を見て、消化を助ける薬草だと早計したんでしょう。結果、なめて自分自身が溶けてなくなってしまった」

 菊子は究極に混乱した。八部の推理が常軌を逸していて、どこからツッコんでいいのかもわからない。そのくせ八部自身は己の推理を一ミリも疑っていないらしく、鼻の穴が大きくふくらんでいる。

 だが、もし本当だとしたら遺体はこの世のどこにもない。すると、この場合はどうなるのか。やはり失踪ということで、死亡が認められるまで保険金は下りてこないのか――。

 彼女はめまいを覚えた。八部はその意味を履きちがえたようで「清野さんともう対面できないのは、おつらいと思います」と悼んでみせた。どこか半笑いなのだが。

「奥さんっ!」

 そこに与田の陽気な声が飛びこんできた。ああ、またややこしい人が増えた、と菊子は両手で顔を覆う。八部はますます勘違いに拍車をかけ「元気を出して」と竹内まりやみたいなことを耳元でささやく。

「奥さんっ奥さんっ! あ、八部もいるっ」

「うるせえな、おまえは。今、俺の華麗な推理で事件を解決したところでだな」

「奥さん、清野さんの遺体がないからやりきれないって言ってましたよねえ。皆も遺体がないから、清野さんが死んじゃったことに実感が湧かなくて好き勝手言っちゃうと思うんですよう」

「おい、与田。発言に気をつけろ。別に誰も変なことは言ってな」

「遺体があれば万事解決ですよねえ」

「おまえ、頭でも打ったのか。なにをバカな」

「そうです!」

 与田の核心を突いた一言に、菊子は顔をぱっと上げて食いついた。八部が「ええっ……」と漏らしたが気にしない。

「僕、遺体をこしらえてきました。下に置いてあるのでどうぞ」

「どうぞっておまえ……」

 菊子は乱暴に八部を押しのけ、光の速さで階段を駆けおりた。そこには棺らしきものが置いてある。

 与田が「よいしょっ」と蓋を外すと、中には白い顔をした清野氏が横たわっていた。両手を腹のあたりで組んで、静かに眠っているようにも見える。

「あなた……!」

「うええっ! マジで? おまえ、どこで見つけたんだ?」

「だからあ、見つけたんじゃなくてこしらえたんだよう。近所に有名な人形師さんがいたから弟子入りしたんだあ。厳しくて怖い人だったけど、腕は確かだから。筋がいいって褒められちゃったよう」

 そんな偶然あるのか、一朝一夕でこの完成度はなんだ。いろいろと思うところはあったが、菊子にとってそれらはたいした問題ではなかった。目の前の人形は間違いなく、生を失くした清野氏に見える。これならすぐに保険金が下りる。彼女はこらえきれず涙をにじませ号泣し――やがて高笑いした。

「よかったあ。奥さん、喜んでくれてるよう」

「いや、そういうレベルじゃないぞ、これは」

 笑う女、喜々とする男に恐々とする男。異様なテンションの現場にのそのそと猫背の男が現れ、棺を囲む三人の背後から人形を覗きこんできた。すると彼は度肝を抜かれ、

「ひゃああああ! 私っ! 私がいるっ!」

 その場で腰を砕いて座りこんだ。振りかえった三人も負けじと絶叫した。

「うわああああ! マジで! なんでっ!」

「ひいいいいい! 人形っ? いや本物?」

「きゃああああ! 南無阿弥陀仏南無……」

 そこにはくたびれた様子の清野氏がへたりこんでいた。生気のない顔つきだが、足はちゃんとあるので幽霊ではなさそうだった。「せ、清野さん? 今までどこに……」という八部の問いかけに、清野氏もしどろもどろになりながら、ぽつりぽつりと事の次第を語りだす。

「蕎麦をどうにか食べきらないと、勘定がとんでもない額になります。ですが、蕎麦狂いの異名を取った私でも、さすがに五十枚は……なもんで、消化を助けてくれる草をなめようとしたんですが、気味の悪い色でしたんで勇気が出ず……手持ちの金もなかったんで、サラ金に行こうと思いました。だけども、なにか担保として残しておかねば店の大将にも悪いんで……衣服しか残すものがなかったんで置いていきました」

「あの大量の蕎麦は?」

「蕎麦の皿を持って外に出てしまったもんで……申し訳ないと思いましたが、蕎麦もそこに置いていきました」

 蕎麦代だけではなく家賃滞納や借金返済も切迫した状態だったので、町金融を転々としながら死に物狂いで金をこさえてきたという。しかし、いざ戻ってみると町内の人々が自分を見る目がおかしい。「このまえ、葬儀に出ていらっしゃいましたよね?」と尋ねられ「誰のです?」と聞けば「あなたのです」と返される。清野氏は自分が幽霊になったようで、地に足がつかない不安を覚えた。

 とにもかくにもまずは妻のもとへ帰ろうとしたら、棺の中に自分がいるという衝撃的な現実が待ちかまえていたというわけだ。

「……まあ、でも、これでよかったんですよね? 奥さん」

「ええ……いえ、でも……はい」

 八部の問いかけに、菊子の歯切れは悪かった。与田は首をひねって「よくわからないなあ。せっかく遺体があるのに」とぼやいた。

 三者三様の微妙な対応に清野氏はひどく狼狽して、

「ここに私の遺体があるのなら、今ここにいる私はいったい誰なんでしょう?」

 と天を仰いだ。

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