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1.二年生四月AB

 四月に新しい先生が二年B組のクラスにやって来た。期間限定の先生。


 担任だった先生が、産休を取ることになり、夏休みが明けるまで休むらしい。


 国語の先生。


 大学を卒業したばかりらしい。身長は高いけれど、少し体の線は細い。前髪が長くて、少しいつも両目に髪がかかっている。隠しているみたい。


 そして、どこかで会ったことがあるような気がする先生。小林蒼(こばやしあお)先生。でも名前は聞いたことがない。


 国語の時間。先生の最初の授業だった。


 先生が教科書の朗読をする。今日から新しい小説を授業で取り扱う。


 先生の朗読は、静かで、透き通る、優しい声。


 そして、やっぱり、どこかで聞いたことがあるような声。



『私の物語は此所で終る。だが私の不思議な疑問は、此所から新しく始まって来る。支那の哲人荘子は、かつて夢に胡蝶となり、醒めて自ら怪しみ言った。夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるかと。この一つの古い謎は、千古にわたってだれも解けない。錯覚された宇宙は、狐に化かされた人が見るのか。理智の常識する目が見るのかそもそも形而上の実在世界は、景色の裏側にあるのか表にあるのか。だれもまた、おそらくこの謎を解答できない。だがしかし、今もなお私の記憶に残っているものは、あの不可思議な人外の町。窓にも、軒にも、往来にも、猫の姿がありありと映像していた、あの奇怪な猫町の光景である。私の生きた知覚は、既に十数年を経た今日でさえも、なおその恐ろしい印象を再現して、まざまざとすぐ眼の前に、はっきり見ることができるのである……』


 先生の朗読が止まった。私は教科書から顔を上げて、講壇の上の先生を見た。他のクラスメートも突然朗読が止まったことに戸惑っているようだ。


 窓際の席で、寝ていた健太も起きたようだ。


 健太は私の彼氏だ。わたし達が二年生のクリスマスから付き合い始めている。もう付き合って4ヶ月。キスはしたけれど、まだその先までは進んでいない。


 先生の朗読が止まった動揺は、クラスの中へ波紋のように広がっていく。


 寝ていた健太も起きた。午前中は野球部の朝練が早いせいで、授業中もときどき寝ている。


 机の下にスマホを隠してチャットをしていた生徒も、教室で起こっている異変に気がついたみたいだ。


 突然の沈黙というのには不思議な力があるのかもしれない。


 「みーこ、先生どうしちゃったの?」


 隣の席の清水莉子が私に小声で話しかけてきた。私は小さく首を振って、私も分からない、という意思表示をした。


 机の下で隠れてスマホを使っていた生徒はそれをポケットにしまう。授業中に使用しているところが見つかったら没収となる。先生がスマホを使っているのに気づいたと思ったのだろう。


 先生が朗読していたのは、萩原朔太郎の『猫町』だった。


 小林先生は泣いているようだった。


 クラスメートのみんなもどうしたらいいのか、わからないようだ。小声でなにか話し合っている。


「あ〜すまない。最初の授業で緊張しすぎたようだ」


 先生は笑いながら言った。やはり、どこかで見たことがあるような気がする。そんな少し、寂しそうな笑顔だった。


「先生、しっかりしてくださいよ」


 クラスのムードメーカーである伊藤君が冗談を言うかのような口調で言った。


「すまない、すまない。人間、失敗をして成長するものだ。先生もまだ若い。どんどん失敗しないといけないな。必要なのは挑戦だ」


 自分の朗読の失敗を棚に上げて、戯けて言った。クラス中がまたドッと笑った。


「それじゃあ、続きを……山崎、読んでくれ」


 先生と目があった気がする。


「はい」


 私の名前が呼ばれた。突然の先生からの指名だった。私は慌てて椅子から立ち上がり、国語の教科書を両手で持ち、先ほどの続きから読み始める。


「人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想の幻影だと言う。だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理窟や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。あらゆる多くの人々の、あらゆる嘲笑の前に立って、私は今もなお固く心に信じている。あの裏日本の伝説が口碑している特殊な部落。猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙の或る何所かに、必らず実在しているにちがいないということを。」


 私が朗読を終えてすぐに学校のチャイムがなった。今日の授業はここまでだった。クラス委員長が規律を促し、クラスメート全員で一礼をした。

 

 放課後。


「美津子、今日、どうする?」


 教科書を鞄の中にしまっていると、健太が話しかけて来た。健太は野球部の練習に行くのだろう。県大会の優勝、そして甲子園出場を目指して毎日、練習をしている。


「私も部活している。練習、終わるの、待ってるね」


 美術室は校舎の西側二階にある。校舎からはグラウンドがよく見える。練習している野球部の部員たち。


 もちろん、健太の姿も見える。放課後になると、美術室には西日が刺す。その目を細めたくなるような夕陽の中に、マウンドに立ってキャッチャーへとボールを投げる健太の姿。


 放課後、美術室で油絵を描きながら、時々、筆休めに野球部の練習を眺めるのが私は好きだ。


「じゃあ、一緒に帰ろう」


「うん」 


 健太はそれだけ言うと教室から出て行った。

*作中に引用されて文章は、萩原朔太郎『猫町 散文詩風な小説』の一部。著作権消滅済みの小説の引用です。

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