10.エピローグA
「あっ、先生、こんにちは」
美術室の扉を開けると、すでに井上と山崎は、それぞれキャンバスに向かっていた。
私は、井上蒼……の書いている絵を後ろから眺める。自分で言うのもなんだが、あまり上手ではない。山崎には絵の才能がある。残念ながら井上には絵の才能がない。自分でもうすうす気がついている頃だろう。美大に行くのを諦め、先生になる道を選び、大学に進学するのだろう。
大学一年で、親が離婚し、井上は母の旧姓となり、小林になる。ごたごたはありつつも、ちゃんと教師になれる。がんばれ。
きっと、高校の間に、山崎に自分の思いを打ち明けることはないのかもしれない。いや、だろう。これからは僕の知らない未来になる。
「がんばれよ」と井上の肩を後ろから軽く叩く。頑張れよ、高校時代の僕。
次に山崎の絵を見る。
ホーエンツォレルン城がよくかけるようになっている。それに、ホーエンツォレルン城を囲む森は、明るい緑で、温かい。
「上手になったな、三点透視」
「はい。井上部長と練習をしました」
「へぇ、井上と」
僕は少し驚く。僕は高校時代に山崎さんとそんなことをできなかった。意外とここにいる僕は頑張っているのかもしれない。
「そうだ。山崎は、ヒマワリの絵を描いてないか?」
「え? どうして知っているんですか?」
「美術準備室で見かけたんだ。タッチからして、井上のではなく山崎の絵だと思ったんだ」
「まだ……完成していませんが……」
「描きかけでもいいから」
「分かりました」
しぶしぶなのか、山崎は美術準備室へと入っていった。君の描くヒマワリを僕はもう一回、みたい。
『私の物語は此所で終る。だが私の不思議な疑問は、此所から新しく始まって来る。支那の哲人荘子は、かつて夢に胡蝶となり、醒めて自ら怪しみ言った。夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるかと。この一つの古い謎は、千古にわたってだれも解けない。錯覚された宇宙は、狐に化かされた人が見るのか。理智の常識する目が見るのか。』
一通り美術の指導を終えた。職員室へと戻りながら、萩原朔太郎の『猫町』の一節を諳んじる。
おそらく、校長や副校長なども職員室に集まっているだろう。
一悶着あるだろう。だけど、僕は頑張らなければならない。山崎さんの笑顔と……そして僕自身の片思いのために。
職員室の廊下に相田が立っていた。ずっとそこに立っていたのだろう。自分が出場できない。チームに迷惑がかかる話だ。気が気ではないのだろう。
「相田、仲間を信じろ。信じて待つことも必要だ」
職員室に入る前に、俯く相田の両肩を叩いた。
相田がいない準決勝。その結果をしらない相田にこんなことを言うのは酷だ。だが、実際に私は、相田が準決勝に出場しなくても勝つという未来を最悪の形で知っている。
「だけど……」
「大丈夫だ。仲間を信じろ」
職員室に入る。案の定、校長、副校長、野球部の顧問などが集まっていた。相田の赤点と補習をどうするかこれから話し合うのだろう。
だが、僕は譲る気はない。
『人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想の幻影だと言う。だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理窟や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。あらゆる多くの人々の、あらゆる嘲笑の前に立って、私は今もなお固く心に信じている。あの裏日本の伝説が口碑している特殊な部落。猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙の或る何所かに、必らず実在しているにちがいないということを。』
たとえそれが、片思いであったとしても。僕はそのために、この時点にまで戻ってきた。山崎さん、お幸せに。




