36.ため息
こちらも、可能なら是非リストのため息を聴きながら読んでみてください!
舞台裏の暗闇から、スポットライトに燦々と照らされている舞台へと翔太に抱きかかえられ、多くの刺さるような視線を感じながら、私は恐ろしくて目を開けることが出来ないでいた。
「実花……目を開けて……俺を信じて」
翔太は実花に穏やかに語りかける。
翔太の柔らかな声に安心しながら、恐る恐る目を開けた視線の先には、しっかりと前を向き、観客達と向き合う翔太がいた。
翔太の体温を感じ、吐息が頰にかかる度、自分はもう一人ではないんだという安心感が身体中に浸透していく。
舞台中央まで辿り着いたとき、翔太は優しく私を下ろして強く肩を抱く。
会場はその姿を見て、ついさっき大騒ぎになったばかりの静内実花だと気がつくまでに、時間はかからなかった。
『なんで? 嘘でしょ??』
『どうしてまたあの子がいるの?!』
『森下先輩が言ってた彼女の想っている人って……』
『もう、どういう事!?』
会場のざわめきはピークになり、納得行かずに席を立とうとする人も出始めた。
そんな人たちを、制止するかのように突然大声で翔太が叫んだ。
「俺のずっと思っていた人は、静内実花さんです!!」
ざわめいていた会場は一瞬で静まり返った。
「実花。譜めくり、昔みたいにお願いできる?」
そう翔太は私を覗き込み、素直に従ってコクリと頷く。
ピアノ演奏をソロで発表するときは、暗譜である事が多い。
翔太は、当然楽譜を見なくても演奏出来るはずなのに……と、疑問に思った。
ピアノの椅子の横に置かれたパイプ椅子に姿勢正しく座る実花に、会場の空気が少し変化する。
ただ、翔太を好きな女の子が隣に座って聴くのではなく、翔太の演奏をサポートする姿勢の方が強く見えたからだ。
翔太は実花をふっと見遣り、今から始める合図を目で送る。
実花はそれをキャッチし、またふっと笑顔で送り返す。
さりげない二人のやりとりが、上辺だけのものではない、誰も知ることのない深い絆で繋がっているかのように、観客の目に映った。
息をのむ沈黙から、別れたあの日、美しい五月の空を思い起こさせるようなアルペジオから始まり、一気に観客の心を掴んでいく。
翔太の演奏はいつも強さの中に優しさがある。
柔らかな暖かい音の粒が、次々に転がり作り出す美しい風景の中には、翔太と実花の切ない記憶がメロディーとなって表れていた。
実花は翔太の頻繁に交差する手元を見ながら、別れたあの日のことを思い出していた。
まだ小さかった翔太の手はこんなにも大きくなり、届きづらそうだった音も今ではゆとりすら感じる程の大人の男性の手に変わっていた。
当時子供の目線で翔太の演奏を聴いていた実花は、今改めてこの曲を聴き、様々な色に輝きを放っている音色を感じとると、まるで翔太の成長が手に取るように分かり、離れていた空白だった時間が徐々に埋まって行くような気持ちになった。
肌で感じられるこの演奏は今だけだ。
あの時と同じように刹那的に消えゆく一音一音を、取り零すことなく一生大切に、心にしまっておこうと思った。
翔太とともに目で追って行く譜面のページをめくった瞬間、一瞬実花を見た翔太は、にっこりと笑う。
翔太はいつも実花が、譜面をめくってあげると、
『ありがとう』
と言わんばかりに実花の表情を覗き込んだ。
『もう、よそ見して、ふざけないでよ』
と実花も微笑み返すやりとりがよくあったのである。
私は舞台の上にいる事を、いつの間にか忘れていた。
同じフレーズを何度も繰り返すこの曲は、その度に翔太の心の表情も変わるようで、すかっり一観客として翔太の演奏に心奪われていたんだ。
たくさんのため息を、今までついてきたけれど……
これからはため息の向こう側を、 二人一緒に築いて行こう……
そう、固く心に誓い、演奏は終わりを迎える。
私の方を向いて立ち上がる翔太に、
「……翔太!!」
足を怪我していることも忘れ衝動的に抱きついた。
「危ない!!」
俺は崩れそうになる実花を、とっさに支える。
実花の気持ちに応えるように、ギュッと力一杯抱きしめた。
『……キャー!!』
遠くから聴こえてくる観客の声に、ふたりはハッと我に帰り、真っ赤になる。
観客達はピアノの演奏と共に、二人の心通いあう姿が、何か舞台劇でも見ているかの様な感覚に襲われていた。
僻みや妬み、冷やかしを超えて、いつの間にか二人の紡ぎ出す世界に釘付けになっていたのである。
会場いっぱいの拍手と歓声に、二人はこれ以上ないくらいに、頭を深々と下げた……




