日本
「お兄ちゃん!」
巨大な光渦に巻き込まれ、身体が光粒に分解されていく兄の姿を見て、春は叫びを上げた。
その声は確かに届いているようで、秋は口許を緩める。
「大丈夫だ。俺は必ず━━」
その言葉は最後まで紡がれることはなく、
秋の姿は消失した。
「お兄ちゃ……」
春の言葉も届くことはなく、宙に掻き消えた。
兄がいなくなった。
何度も何度も名前を呼ぶが、その声が返ってくることはなかった。
冷たい静寂が耳の奥を刺激する。
昨日まであんなに騒がしかった渋谷は今はもう見る影もない。
存在するのは、巨大な遺跡のような何か。
例えるならエジプトのピラミッドが一番近いだろうか。
目の前の現実が春は理解できなかった。
15年もの間、慣れ親しんだ故郷渋谷。
そこはたった数分の時間で消失し、代わりに出来上がったのはダンジョンという名の、灰色の巨大建造物。
春には意味が分からなかった。
アスファルトで整備された道路は、今やもう荒野のような有り様で、剥き出しの大地があるだけだった。
地中に埋まっていたはずの水道管も、綺麗さっぱり消失している様子だ。
いや、今はどうでもいい。
それより。
「━━皆は?」
その疑問ばかりが頭の中で渦巻いていた。
皆とは━━学校の友達や近所のおばちゃん。
見知った誰かのことだ。
この町に住んでいた、皆はどこに消えたの?
そんな問いを繰り返すが、答えは出てくるはずもなく。
春はただただその場で立ち尽くした。
どれだけの間そうしていたかわからない。
春の意識を現実に戻したのは、再度脳裏に響く『声』だった。
『【渋谷ダンジョン】が無事地上で発現したことをいまさっき確認した』
飄々と、何でもないような様子でデリウリはそうのたまった。
春は強く拳を握る。
(お兄ちゃんを、町の皆を、私の大事な人を奪っておいて……何でそんな……!)
胸の奥から、黒い感情が溢れてくるのを春は感じた。
堪えようのない怒りは春の身体を満たしていく。
強く握り込んだ掌からポツリと赤い血が垂れる。
『てなわけで、試運転は成功だ。どんどん出していこう。とりあえず、日本にはあと五つの試練を与えよう。北海道札幌、愛知県名古屋、熊本県天草市、新潟県妙高山━━。近畿地方は、君たちの安全地帯にしよう。そこにダンジョンは出さない。けれど、それも束の間の平穏だ。偽りの平和だ。直ぐに日本各地から、ダンジョンよりあふれでた魔物がやってくるだろう。おおよそ魔物襲来までの期間は1ヶ月。その間に、出来る限りの最善を尽くせ』
春は、あまりの衝撃にこの先デリウリが話した内容をあまり聞いていなかった。
春が考えていたのは、遠く離れた国の危機よりも、身近な存在の安否だった。
焦燥に背中を押され、春はポケットからスマホを取り出す。
「あれ!?なんで!?なんで電源がつかないの!」
壊れたのか、そんな最悪の想像が脳裏を過る。
電源ボタンを何度も何度も押すが、一向に電源は入らない。
無機質な黒い画面に、自分の泣きそうな表情が映っていて。
「なんでっ!?」
叫び、髪の毛を掻き乱す。
胸の奥が張り裂けそうだ。
この状況で携帯が使えないことの意味が、春にはわかっていたからだ。
と、説明を終えたデリウリが、ふぅとため息をつく。
そして、『最後に━━』
と前置きし、
『気づいてる人もいるかもしれないけど、もうこの魔物溢れる世界では、電子機器は使えないよ。スマートフォンに、エアコン、車だって使わせない。僕は言ったよ。文明は一度崩壊すると。
つまり、今まで君達が当たり前のように使っていたその【チート】は、もう使えない。己自身の力で、生き残るしかないんだ』
電子機器が使えない━━。
その事は、春に重い衝撃を与えた。
いや、きっと春だけではない。
それこそ各国の主相、あるいは防衛大臣などは顔を真っ青にした筈だ。
つまり、諸外国に応援を呼ぶことも、互いに現状を確認することも、情報の共有化も何もかも出来なくなったと言うことだ。
『魔物が出現し、スキルがある世界で、現代科学は使えない。
そう、いわばこれは【あったかもしれない世界】の話だ。
君達はあらゆる分岐点で、確定された道を選び、科学の力を研いだ。
だが、その逆の道も確かに存在していたんだ。それは魔物が居て、スキルが在る【暴力が全てを支配する闘争の世界】。それがこれだ。ここだ。今だ。僕がしたのは、【科学がなく暴力が全てを支配する世界】と今現在の【ぬるま湯のような世界】の融合だ。だから、科学が関連したものは使えない。君達は原始的な力だけで、この世界を生き抜くんだ』
━━暴力を駆使し生き抜け。
そうデリウリは人類を鼓舞する。
だが、それに諸手を上げて賛成できる人間は一体どれだけいるだろう。
きっと、ほとんどいない筈だ。
当たり前だ。
人間は理性があり、倫理を知っているからこそ人間なのだ。
『かといっても、君達は弱い。この地球上で最も弱く、愚かな生き物だ。君達から科学の力を奪えば、あまりに非力、脆弱。故に、まずはこの世界の言語を統一する。これでお互いに弱者同士手を取り合う事は、可能な筈だ。まさかこの状況になってもまだ同族潰しをすることはないよね? そこは頑張って信じてみるよ。てなわけで、生き残るためのヒントを与える。いや、この場合は神からのお告げの方が君達は嬉しいかな?』
こんな状況に陥れてなお、おどけるデリウリ。
楽しそうに声音を弾ませるデリウリを見て春は悟った。
こいつは━━神なんて崇高なものじゃない、もっと無邪気で残酷なただの怪物だ、と。
春には理解不能だった。
何がそんなに楽しいのかも、何を思ってこんなことをしたのかも、思考回路がまるで読めない狂人を相手にしているようだった。
しかし、その考えもあながち間違っていないのかもしれない。
なにせ、相手は神なのだ。
文字通り、人間を、世界を作った神なのだ。
人間の常識など通用せず、そしてごみのように扱ってもなんとも思わない化物。
圧倒的な力を持つ上位存在は、人類からしたらもうただの化物に他ならなかった。
ぞくり、と春は背筋を震わせる。
あまりに恐ろしいと思ったのだ。
その気になれば、こんなまどろっこしい事をせずに、それこそ指先一つで全人類を絶滅させることだって、可能だとそう確信したからだ。
にも関わらず、こんな回りくどいやり方をするのはこの状況を楽しんでいるからだろうか。
だとしたら、やはり狂っている。
神なんてものは、人間の作り出した幻想に過ぎなかったのだ。
『さぁ、お告げだ』
「━━━」
『まずは、【自らの力を把握しろ】。世界は変わった。君達のその愚かな掌には、ステータスが握られている。試しに呟いてみるといい。ステータスが、現れるはずだ。そして、スキル。まずはスキル。その力を把握して、襲い来る魔物を倒して魔力値を上げろ。それが、この世界を生き残る唯一の手段だ』
自らの力を把握……?
ステータス?
春は苛立った。
今春が知りたいのはこの世界を生き残る方法ではなく、兄や友人、唯一の親戚の叔父夫婦の安否だ。
それ以外は、今の春にはどうでもよかった。
しかし、どうしようもなかった。
頼みの綱であった携帯は使えず、きっと【今の世界】では電車などの交通機関も使えない。
福島県に住む叔父夫婦の所に行くのは、到底不可能だし、友人も兄も消えてしまった春には、頼れる人は誰もいなくなってしまったのだ。
『ごちゃごちゃと分かりづらく説明してしまった。すまないね。最後の最後に纏めよう。ルールの最終確認だ。
1:世界中にダンジョンが作られる。
2:ダンジョンから魔物が溢れ、君達は襲われる。
3:科学の力は使えない。使えるのは己の力のみ
4:ダンジョン攻略者には、報酬が与えられる。
5:元の世界に戻るためには、全てのダンジョンを攻略し、最後の試練を越えなければならない。
6:最後の試練を越えたものには、僕から【なんでも一つ願いをかなえれる】権利を与えられる。
7:記念すべき第一迷宮が発現した日本へのタイムリミットは二年、それより一年毎はランダムで動き出す。
以上だ。
あれ?そういえば5,6,7のルールは説明していなかったかも……。
まぁいいよね。
この世界でのルールはこの7つだ。これさえ守っていれば、何をしてもいい━━それでは健闘を祈る。』
ブツリ、と一方的に回線は切れる。
※※※※
こうして、世界は狂乱に踊る。
人を人足らしめる倫理と理性は成りを潜め、剥き出しの野生が牙を向く時代が幕を開けた。
その時代は、端的に言うのなら地獄。
愛した誰かは次の日には肉塊に代わり、裏切り盗みは日常茶飯事。
殺しだって、当たり前に起こる。
法は意味を成さず、暴力が全てを解決する。
そんな、時代。
そしてこれは、
ダンジョンが出現して世界が終わっても全力で生き抜く━━そんな、彼ら彼女らの物語である。