にゃんと鳴く虎 23
レヴィアサンがすっかり消えたのを見届けてから、気を失ったアリアを背負い、同じく気を失ったキセノを両手に抱いて、『獅子と風見鶏亭』へ戻る。
私は中にいたラッドにキセノを預け、アリアを連れて自室に戻ると彼女をベッドに寝かせた。
静かに眠る彼女を見つめる。
こうやってゆっくり彼女の寝顔を見るのも久しぶりな気がする。
本当にお姫様の様な寝顔だな……。
――眠れるお姫様は王子様の口づけで目覚めました。めでたしめでたし。
昔。随分と昔にアリアが話してくれた物語の一節がふと、脳裏を過ぎる。
……何を考えているんだ、私は。
静かに寝息を立てるアリア。
日差しは暖かみを帯びて窓から降り注ぐ。街がにわかに活気づきだした。
今朝の出来事がまるで嘘の様に、何気ない日常が始まろうとしている。
そんな中に於いて。私とアリアだけがまるで時間が止まったかのような、静寂の中に取り残されていた。
……たまには其れも悪くは無いか。
私は静かに目を閉じると――恐らくアリアが見ていたならば『猫みたい』と言ったであろう顔をして――静かに彼女の唇に自分のソレを重ねた。
「ん……ガル……私――?」
ベッドに寝かされたアリアが目覚めるのと部屋の扉が控えめにノックされるのは同時だった。
「全て終わった。ゆっくり休んでいろ」
私はぶっきらぼうに告げると、扉を開く。そこにはラッドが立っていた。
「あの……本当に、何から何までありがとうございました」
ラッドが私とアリアに深々と頭を下げる。
「気にしないでください。私たちは私たちに出来る事をしたまでですから」
アリアは顔を真っ赤にしてベッドの上であたふたとしている。
彼女の人生に於いて、始めて人から感謝された為、どう対応していいか解らず困っている……と言った風だ。
「ですが、何かお礼を……」
食い下がるラッド。
「そんな、お礼だなんて……」
戸惑った風に私を見つめるアリア。
……助け船を出してやるか。
「……ゆっくりと温泉に浸かりたいな……ここの湯は疲れた体に良く効く」
そう言いながらベッド上のアリアの肩に優しく手を回す。
「それに、昨日も湯冷めが酷かったからな……」
よくよく考えてみれば昨日は、風呂から出てすぐにサラマンドラピークへ登頂し、今朝帰ってきたのだ。
「解りました。すぐに用意します」
ラッドは一礼すると足早に部屋を出て行った。
「本当に入りたかったんだ?……水、嫌いなのにね?」
……。
「――でも疲れた体には確かに良さそう……一緒に入ってくれる?」
「……」
私は昨日と同じように“無表情のまま”クローゼットに掛けてあったバスタオルを二枚を掴むと、アリアの手を取りゆっくりとベッドから立たせた。
「歩けるか?」
「大丈夫」
立ち上がる際に多少よろめいたものの、後ろから腰に手を回し支えてやれば大丈夫そうだ。
ゆっくりとした足取りで階段を降りる。
風呂場へ行く為には厨房横の扉をくぐる必要があるが、どうやらアリアは厨房とは逆手の扉――キセノの部屋が気になるようだ。
しきりに視線をそちらへ向けている。
「キセノ君……大丈夫かな?」
「疲れて眠っているだけだろう……」
私は腕の中で静かに寝息をたてていたキセノを思い出す。
「今はそっとしておいてやろう」
「そうね……」
アリアは後ろ髪を引かれる様だが、キセノに今一番必要なのは恐らく休息だろう。
我々が扉に背を向けようとしたその時、不意に部屋の扉が開き――中からラッドが出てきた。
「あ。ラッドさん……キセノ君は?」
堪りかねた様子で、すかさずアリアが問う。
「疲れているのでしょう……今は静かに眠っています」
ラッドの静かな口調に不安の色は見えない。
「きっと直ぐに良くなって、元気に走り回ると思います……あの子はあの人の血を引く強い――“竜”の末裔ですから」
誇らしげにそう言った彼女は――笑っていた。
「さぁ、アリアさん、ガルディオンさん、お風呂の用意が出来ています。ゆっくり温まってきてください」
ラッドに促されてアリアと共に風呂場に足を向ける。
「いい香り……」
柑橘系の爽やかな香りが風呂場の暖簾越しに漂ってくる。
どうやらラッドが気を利かせて湯に蜜柑を浮かべてくれた様だ。
「匂いだけで温まりそうだな……その……一人で大丈夫か?」
私の視線の先には「女」と書いた暖簾がかかっている。
まさか私が「女」の暖簾をアリアと一緒にくぐるわけにはいくまい。
「一人じゃ無理……って言ったら付いて入ってきてくれるの?」
昔はもっと素直だと思っていたのだがいつの間にそんな捻くれた娘に育ったのか……。
「そんな顔して……冗談よ。それじゃぁ、中でね」
そう言い残し、アリアは笑顔と共に暖簾の向こうへ消えた。
一人残された私は何か釈然としない物を感じつつ、暖簾をくぐる。
脱衣所は昨日と何一つ変わらぬ様子を呈している。まるで本当に何事も無かったかのように――。
「最初の旅がこれほど大変な物になるとは……予想外だったな……」
上衣を脱ぎ、手近なカゴに放り込みつつ一人呟く。
グレン、キセノ、レヴィアサン……。強くて当然だ。彼らは神の眷属と称される竜族なのだから――。
「勝てなくても仕方がない……か」
つまるところ、キセノを押さえ込んだのはガルやアリアの力ではなく、レヴィアサンなのだ。
彼がいなければ恐らくキセノを押さえつける事は出来なかっただろう……。
もちろん、レヴィアサンを呼び出せるだけの“力”を持っていると言う事がそれだけで十分な力を有していることになる。
だが、直接の殴り合いではキセノに完敗した訳だ。
直接的に力の差を見せつけられ、私のプライドは非道く傷ついていた。
……グレンとは手を合わせていない。しかし手を合わせなくても桁違いの力量を感じた。
恐らくはレヴィアサンと同等か……あるいはそれ以上の力を持っているだろう。
「強くならなければ……」
アリアを守る為には強く無ければならない。
これから先、彼女が忌避する核心へ近づけば近づく程、一層旅路は険しくなるのだから――。
「ガル――まだ?」
風呂場へと続く扉の向こうからアリアの声が聞こえた。
私は急いで下衣を脱ぎ、腰に小さな手ぬぐいを巻き付けると浴場へと続く扉を押した。
「遅かったのね?」
アリアは既に桶に張った湯で体を流している。
「まあな……」
隠したところで長いつきあいだ。きっとアリアは私が自分の無力さを痛感し決意を新たにした事位は気づいているだろう……。
「そんな所に立ってないで、こっちに来たら?背中、流してあげるから」
風呂場ではすっかり彼女のペースだ。
気にせず、出来る限り平静を装いつつ、堂々と歩みを進める。
……アリアはこみ上げてくる笑いを堪えている様だ。
「お風呂の時はいつも緊張してるのね……キセノ君に立ち向かって行ってた時は緊張なんてしてなかったのにね?」
争いを好む種族である虎獣人は強敵を前にしても気分が高揚するだけで、緊張や恐れは感じた事は無い。
そのことを不思議に思ったことは無かったが、人間であるアリアには解らない感覚かも知れないな。
しっとりと濡れた床をゆっくり歩き、アリアの隣に置いてあった檜の腰掛けに腰を下ろす。
「アリアは……怖いのか?」
巨大な竜となり我が物顔で暴れ回っていたキセノを思い出しながら問う。
「……そうね。本当の事を言うと、とても怖かったわ」
体に湯をかける手を休め静かに答える。
「竜になったキセノ君を前にしたときに感じた威圧感や怒りも怖かった……だけど、本当に怖いと感じたのは『もしこのままキセノ君を止めることが出来なかったら――?』と、想像した時」
アリアは私に向き合い、さらに言葉を続ける。
「もし私たちがキセノ君を押さえきれずに、彼にこの町を破壊させてしまったら……我を取り戻した時、キセノ君はきっと傷つく――そんな姿を想像するととても怖いと思った」
幼いキセノに自分の犯した過ちと向き合わせるのが怖い……と言う事か。
「それと……もし、ガルがキセノ君に負けて死んじゃったら……と考えると……」
守りたい物が守れない時に感じるのは無力感であって恐怖ではないはずだ。
やはり人間の心は複雑で私にはよく解らない。
「私はお前を残しては死なん」
アリアが感じる恐怖を少しでも和らげることが出来れば――。
「そうね。ガルは私のナイトだもんね」
笑いながらそう言うと桶に張った湯を勢いよく私の頭にかけた。
「――ッ!!」
咄嗟に目を瞑り口を閉ざす。漏れそうになる声を必死で呑み込み、ゆっくりと目を開ける。
そんな私を見て彼女は「猫」と言いながら再び笑う。
……本当に強くなったな。
私が言い返そうと口を開きかけたその刹那、脱衣所へ通じる扉が音高く開かれた。
勢いよく開いた扉の前に立っていたのは――
「キセノ君!?」
この前と違い、如雨露やアヒルの人形は持っていなかったが、そこには腰にタオルを一枚巻いただけのキセノが立っていた。
「虎さん!約束忘れちゃダメだからね!」
わずかに上気した顔で開口一番、キセノはそう言った。
「約束……?」
「やっぱり忘れてる!!虎さん『連れて行ってやる。お前の力が必要だ』って言ってたもん!!」
もちろん忘れた訳ではない。しっかりと覚えている。
キセノが熱にうなされているときに彼を励ます為に言った言葉だ。
しかし、冷静になって考えれば考えるほど、やはりキセノを連れて行くのは彼にとって酷な運命を歩ませる事になるのだ。
「だが……母上は……」
「母さんも行っていいって言ったもん!」




