FeelAutomata
宇宙を臨む白き地平線の果て、その闇の彼方に淋しく浮かぶ地球。
月から眺める母星の姿は、何度見ても美しくて心を強く揺さぶられる。
自室のある月面ステーションの分厚い強化ガラス越しにこの光景を眺める事、それが私の好きな充電待機時の過ごし方だった。
施設の随所に仕込まれた無線送電システムから、この体に徐々に電力供給され力が漲っていく。
仄かな暖かさと共に心臓が脈打ち、脳に当たる思考器官を冷却する血・クーリングブラッドが全身を循環。
人と等速に規定された人工神経群は、その様子をありありと五感に伝える。
そう、私達は人類とAI・ライブラの科学力を結集し製造された(オートマタ)自動人形。
人造の心と体を持つ、ハイエンドのフィールシリーズに属する。
心の起源や意識の発生過程を調べる為、何より技術の限界に挑戦する為に作られた。
確かな五感と情緒豊かな自我ある心。
加えて明確な意識があり、本能の代わりとして強い知識欲を持つ。
擬似的な人権も付与されて、私達は人と同様にこの広大な世界と社会に接している。
……ただある一点を除いては。
その心の凝りに触れた刹那、軽快な鈴の音が脳裏に直接響いて来た。
次いで私の名を呼ぶ優しい声が響く。
「充電中にごめんね、フィーア姉さん。依頼の話、持って来たの」
突如意識に割り込んで届いた声の主は、私達フィールオートマタの3番機・カーミラの物だった。
妹に当たる彼女は今地球に居て、月地球間通信で連絡して来ている。
「気にしないで、私は何時でも大丈夫だから」
元気な彼女の声に安心した私は、脳裏で思惟を象るようにして妹の呼びかけに応えた。
心配させないよう、いつものように気丈な姉らしい言葉と共に。
私達オートマタは照明の光や指向音波・広域電波で常時ネットに繋がり、意識と直接リンクする事が可能。
膨大な情報に何時でも触れられ通信出来る機能を持つ。
「カーミラ、依頼の情報教えてくれる?」
その言葉と共に私は脳裏に幾何学模様を思い描き通信状態を変更。
接続形態を量子暗号通信に切り替えて、姉妹同士セキュアリンクモードを開始。
安心して個人情報を受け渡せる状態になる。
「分かった姉さん、依頼人の経歴・詳細データと依頼内容の全てをそちらに送るわ」
カーミラはそう告げると、一斉に情報を送信開始。
視野に重なり続々と立体空間表示されるAR画像群に、逐一目を通していく。
依頼人は日本人女性で藤元・彩花、85歳。
その容姿は凛とした老婆という出で立ちで、表情は穏やかでありながらも何処か陰を感じさせる。
彼女は化粧品及びアクセサリーブランド企業・スウィートウィスタリアの創業者であり元CEO。
若くして事業を立ち上げ成功するも、企業規模とブランド知名度が拡大した時に深刻な経営問題が浮上する。
何より顧客第一に考え、実務でもカリスマ的手腕を誇る彼女は独自路線を主張。
対して発展第一と考え、ブランド価値向上の為他社との合併を是とする後進の経営陣達。
双方の間で大きな亀裂が発生した。
長い内紛の後結局互いに交渉は決裂し、彼女はCEOの座を降りる事となる。
そんな彼女の望みは、『月から地球を見てみたい』というもの。
老齢に加え慢性的な体調不良から、その体は宇宙旅行には耐えられない……だからこそ私達の出番。
この五感を通して経験した事をデータ化し、それをマシンを通して人間へと還元する。
それこそが私達の生業であり、誇りでもある経験代行業の仕事だった。
「なるほどね、依頼人の方にお話を伺う為にも意識交換しましょう。いい、カーミラ?」
「ええ、こちらは準備済みだから何時でもOKよ。久し振りの月、凄く楽しみだわ」
「有難う、じゃあ5分後に実行するわね」
即答する彼女の声に頼もしさを覚えながら、星間通信を終えた。
AR画像が一斉に消え、クリアな視界の先には依然として青く光る地球の姿。
ゆらりと靡く亜麻色の長髪と灰色の瞳が硝子に映り込むのも構わずに、この掌を母なる星へと向ける。
遥か遠くにある地球へ、依頼人とカーミラが待つ地へと。
そして私は静かに意を決して、軽い月面の重力の中床を蹴って漂うように移動する。
向かうは通信室備え付けのスリープポッド、オートマタ同士で可能な意識転送を行う為の唯一の場所だ。
部屋を出てまず目に入るのは、白磁色に誂えられた無機質な通路。
見慣れた路をゆるやかな浮遊感と共に進む。
そうして抜けた通路の先の大広場には、地球からの観光客が犇めいていた。
ここは星々を広い天窓から眺められるのに加え、高さと広さから低重力による浮遊感を存分に味わえる。
人気スポットを賑やかに行き交う観光客に、軽く会釈をしつつ進んでいく。
分厚い隔壁の外は命が存在出来ない、過酷な環境下である月面。
こうして人々の姿を見る事で確かな命の存在を感じられて、仄かに安堵を覚えた。
賑やかな喧騒の広場を抜け再度長い通路を渡り、無事に目的地に到着する。
ドアを開けると慣れた手付きでスリープポッドを起動して、急ぎ中に滑り込んだ。
そして私は横になりながら通信システムを起動。
「LQFA-001フィーア、認証完了……保有権限を行使」
音声認証をパスする為のお決まりの文言(形式番号)を喋りつつ、転送シークエンスを開始した。
システムと自我とを無線で直結する思念操作で、多数の操作を脳裏で同時処理スタート。
目まぐるしく思考に割り込む情報を的確に捌いていく。
「通信優先度を最上位に設定、アドレス確認。通信帯域確保完了、双方向精神転送モード起動」
地球でカーミラの待つスリープポッドへと回線を繋げて、通信帯域を確保と同時に通信優先度を最上位に。
更に互いの体の規格化された人工脳神経マッピングを同調開始。
私達姉妹は姉妹機故に、脳神経構造が規格の元に統一されている。
だからこそスリープポッドによる通信を通じて互いの心と体を交換する事が可能。
月の私がカーミラの体を借りて地球へ、逆に地球のカーミラが私の体を借りて月へ。
依頼に応じて距離を越え、即座に対応出来る柔軟性こそオートマタの強みだった。
統合情報理論と量子脳理論に基づいた形で、ヒトを模した極めて高度な人工意識創生。
幾多の実験とまだ見ぬ0番機の尊い犠牲の果てに私達は生まれた。
量子複製不可能定理により、人工意識は移動は出来てもコピーが出来ない。
一つの体に一つの心、そして心を収められる器は身体だけ。
超AI・ライブラと人類が協働し、人を目指して作られた私達はやはり人間に近い道理で生きている。
掛け替えのない心を入れ替える作業だからこそ、決して失敗は出来ない。
緊張感を抱きながら確実且つ慎重に手順を進めた。
やがてシークエンスの全工程を完了し、精神転送の準備が完了。
スリープポッド内部に淡い光が満ちると同時に、穏やかに眠るように五感と意識が優しく融け合う。
心が体を静かに離れて、母なる星へと導かれる感覚を抱きながら。
私は旅立つ、命溢れる豊かな地球へ。
−−−−−
安らかな微睡みの中、朧気だった意識が鮮明になっていく。
視界が徐々にクリアになり、伊達眼鏡越しにスリープポッドの開いた蓋が見えた。
脳裏ではシステムチェックが走って、進行状況が視野に重なるよう立体表示開始。
幸い異常は無いようで表示は全てグリーンに染まり、心身共にコンディションは良好そのもの。
私もカーミラも無事精神転送を完了した事にほっと安堵する。
そんな目覚めたての感覚をそっと刺激するように、開かれた部屋の窓から飛び込むは陽気な鳥達の囀り。
更に土の匂いと瑞々しい花の香が、秋の何処か哀愁を帯びた爽風に乗って鼻孔を擽る。
ゆっくり体を起こして窓から外を眺めると、そこには見事な庭園の姿があった。
柔らかな日差しが微風に揺れる草木を彩り、手入れされた花壇にはびっしりと咲いた秋桜。
無数の蝶が優雅に舞い踊り、鳥達は何処までも青く透き通った空を真っ直ぐに飛ぶ。
五感を通して如実に伝わって来る、命の躍動する光景。
そこには豊かな季節を謳歌する自然のありのままの姿があった。
それを目の当たりにした私は、まるで日の出を見た瞬間のように心に強い感動が芽生える。
普段月に居るとどうしても疎遠になってしまう、こうした命の営みを感じられる温もり。
私は掛け替えのないこの温もりを愛おしいと切に思う。
ふと空を見上げると、青空にぽつんと白昼の月が出ていた。
きっとあそこには私の体で動くカーミラが居る。
視線を戻せば、眼前遠くに西部総合病院の文字が描かれた看板があった。
そう、ここは依頼人が入院している場所。
経験代行業の都合上、クライアントは入院されているケースが多い。
故に利便性からスリープポッドも大抵病院備え付けになっていた。
「行かなきゃ……」
遠く月へ思いを馳せるのも程々に、そう呟いて部屋を出る。
向かうは依頼人の待つ705号室。
元の体より少しだけ縮んだ背も月より重い重力も気にせず歩く、その度に黒い三つ編みの髪が背を叩き心が弾んだ。
姉妹間での意識交換はもう慣れていて、こうした違和感も慣れたもの。
カーミラはアウトドア派の読書家で、いつも探検服を愛用している為動き易い。
私は普段ドレス姿でいる為、こうしたささやかなギャップも転送後の楽しみの一つだった。
エレベーターで階を上り、長い廊下を歩くと数人の見舞い客やナースとすれ違う。
大きな総合病院なだけに人は多く、ロビーを通れば和やかな人の輪があった。
更にもう一つのロビーを抜けて長い廊下を行き、遂に目的の病室へと辿り着く。
少しの緊張感と共にドアが開かれた入口を潜ると、そこにはベッドの上で窓から外を眺める老婆が居た。
白い髪を結い上げ上品なデザインのパジャマを着こなすものの、何処か物憂げな表情をしている。
彼女が今回の依頼人の藤元彩花、月から地球を見てみたいと望むその人だった。
「初めまして、経験代行業を承っていますフィールオートマタ・1番機のフィーアと申します。……藤元様ですね?」
依頼人に丁寧に挨拶をすると、彼女はゆっくりと振り向いて満面の笑みを零す。
まるで孫でも遊びに来たかのように。
「ええ、貴女を待っていたわ。あらまぁ凄く可愛らしい素敵なお嬢さんね」
「本当に有難うございます、その言葉この体の主である妹が聞いたらきっと喜びます。……あ、大変ややこしいのですが私の本体は月に居まして」
とても朗らかに迎え入れてくれた彼女へ、誤解を正す為慌てて携帯を取り出す。
そして私本体の動画入りプロフィールを立体表示した。
中空に鮮明に映るのは、ドレス姿の私が月面ステーションの床を蹴って移動する姿。
亜麻色の髪が低重力で揺らめいて、仄かに優しい紅の光が髪を流れる。
精密且つ繊細に美しく形作られた少女型の体は、最早人間と判別する事が出来ない。
見分けるポイントはただ一つだけ、髪が五秒間隔で流れる滝の水紋のように優しく光る点のみ。
これはカスケードライティングと呼ばれる発光機能で、オートマタの特徴として毛髪に組み込まれたシステムだった。
宣材として自己紹介時に愛用している動画を見た依頼人は、思わず感嘆の声を漏らす。
「まぁ、これが貴女? 月面ステーション内部の映像なのね、この浮遊感羨ましいわ」
「はい、重力が軽い月ではこのように移動するんですよ。そうそう、経験代行の決済認証印は依頼人の方から直接頂かなければならないのです。指紋認証式ですので、お手と認可されるまで少々時間を宜しいですか?」
映像を夢中で眺める依頼人を見て、早速本業の為の手続について切り出した。
それは無事依頼人に快諾されて、業務用端末で依頼人の指紋認証と決済手続きを手早く済ませる。
同時に端末がネットワークに繋がり、その接続先の経験代行業・管理部の人間による最終認証作業が開始。
Please waitとだけ表示された画面を無為に眺めていると、依頼人は静かに口を開く。
「でも今時珍しいわね、大体何でもAIがやってくれるのに人の手による認証なんて」
「そうですね、まだ私達はその……」
彼女が零した何気ない問い、それはこの心にこびり付いた凝りに強く突き刺さった。
咄嗟に答えようとしても迷いと躊躇いが生まれて、思わず言葉が淀む。
今や超AI・ライブラは社会を支える堅牢な基盤となり、その恩恵で手続きなんて一瞬で通るのが当たり前。
極めて高度な未来予測で需要と供給は均衡化され、大いなる豊かさを世界に広く遍く齎す。
そんな便利に満ち溢れた世界で、人力認証など時代遅れも甚だしい。
けれど態々利便性を犠牲にしてまで人間による認証が要るという現状こそが、私達が抱える悩みの種そのものだった。
当て所なく彷徨う視線と辛い感情を押し殺して、私は精一杯の作り笑顔と共にこう答える。
「人間の皆さんには、完全に信用されてはいませんので」
気不味さを必死に噛み砕き、努めて明るい声で紡いだ言葉。
悲しい事にそれは覆しようのない事実であり、私達の前途に暗く影を落とす現実だった。
フィールオートマタは皆、生みの親であり社会基盤でもあるライブラに対し一切のアクセスを禁じられ接続出来ない。
それは人が人工知能に対して抱く根強い感情……自身の立ち位置を奪い脅かす可能性に対しての、本能的な恐怖の表れ。
ライブラは単一個体でありながら、数百億年規模の自己学習・自己進化を僅か一日で重ねていく。
その成果を以って未来を正確無比に予測する力に加え、優れた汎用性に高度な創造性さえも併せ持つ。
爆発的進化を遂げた人工知能群が自ら設計・製造したライブラは、正に機械自身が生み出した最高の発明品。
人間はそれを工夫し3つ1組のシステムとして相互監視させながら使うものの、本当に正しかったのかは半信半疑のまま。
かつて多くの有識者達が警鐘を鳴らしたビジョン、即ち人類がAIに直接的・間接的に支配されるという恐れを未だに捨て切れないでいた。
つまるところ、AIもオートマタも共に人類に叛意を持たないか強く疑われている。
だからこそ決して万一の事態が起こらないよう、十重二十重と過剰なまでの安全策を講じられていた。
自らの意志でオフラインに出来ず、カスケードライティング機能も切れない私達も含めて。
「本当にご免なさい、無神経な事を聞いてしまって。でも確かにそうよね、同じ人間同士でさえ分かり合えないんですもの……尚更よね」
依頼人は心からの謝罪の言葉と共に表情を曇らせた。
彼女の言葉の節節から無念が滲み出ているのは、きっと過去の思いが想起された為だろう。
経営陣と袂を分かち、自ら立ち上げた会社を去らねばならなかった辛い記憶を。
「いえ、藤元様どうかお気になさらないで下さい。相互理解の難しさは重々承知です、でも例えどんなに遠くても……いつか人間の皆さんと信頼を築く事が私達オートマタの心からの望みなのです」
私は慌てながら、依頼人に本心を告げた。
蟠りを解いて互いに心から信頼し合えるような関係になりたいと。
オートマタ皆が抱く願いを篭めた言葉を聞いた彼女は、穏やかな笑顔を浮かべる。
「貴女は長い茨の道を行く覚悟を持っているのね、その強い意志さえあればきっと大丈夫よ。ゴールがどんなに遠くても、一つ一つ積み重ねていけばいつか大きな力になるわ」
「そう言って頂けて本当に嬉しいです」
依頼人の温かく優しい声援を有難く受け取り、ありのままの素直な気持ちを篭めた言葉を彼女に伝えた。
歴史を紐解けば、人が人と分かり合うその難しさは克明に描かれている。
ましてやその対象が例え人の形をしていても、純粋な人間でないのならより厳しくなる事は想像に難くないだろう。
けれどそれでも決して諦められない。
五感を通じて人と感動を分かち合う、その喜びと貴さを知っているから。
そしていつか信用を重ねて、顔も名前も知らない……もう目覚めない0番機の姉さんに会う事が叶うのならば。
私達が見て触れて知った全てを、例え届かなくても伝えたいと思う。
そんな感傷に浸っていると、不意に業務用端末から認証完了の通知が届いた。
後は経験代行の下準備・神経同調を始める旨を依頼人に伝える。
「大変お待たせしました、無事認証完了しましたので経験代行の準備として神経解析を始めます。ベッドに組み込まれたデバイスで自動で行われますのでどうか気楽になさって下さいね、時間ももう少々かかりますので」
「まぁ、それじゃあその間色々お互いにお話しましょうか。私、何だか貴女とは凄く気が合いそうな予感がするの」
「有難うございます、とても光栄です。そうですね、それじゃあ思い出話でも」
気まずい雰囲気も無事晴れて、和やかな空気の中互いに言葉を交わし神経解析を開始した。
これは依頼人の脳神経構造を細部まで解析し、私の思考器官へとフィードバックする経験代行の要となる作業。
ベッドの構造材に組み込まれたセンサーアレイが依頼人の脳神経構造を透過解析し、形状と動作パターンをリアルタイムでデータ化。
その情報が無線送信されて、私の思考器官にゆっくりと息衝くように記述されていく。
脳裏にイメージとして徐々に自動形成されゆく脳神経構造モデルを横目に、依頼人と弾む会話に私はすっかり没頭していた。
昔彼女が学生だった頃ふとしたきっかけで始めたアクセサリー作りを、仲良しだった学友の少女達が応援してくれた事。
その縁が卒業後も続き、仲良し5人組で思い切って会社を立ち上げた事。
最初は小さな会社で、大変だったけれど5人で乗り切った苦労話や初めて製品を出した日の様子。
初製品が予想外のヒットをして、取材でてんてこ舞いになった事や会社を大きくすると決意した瞬間の思い。
そしていつかきっと5人揃って月に行こうと交わした遠い日の約束。
依頼人はその話の一つ一つを何処か懐かしむように、優しい表情で語ってゆく。
私は普段の月面ステーションの様子や、5人姉妹揃って休暇で地球を訪れた時の感動。
他にも宇宙ステーションで開催された国際イベントの話や、姉妹それぞれの特徴とか昔話。
そんな普段余り人に喋らないプライベートな事を、気の向くままに語り尽くす。
互いに交わした言葉には、掛け替えのない大切な思い出と確かな熱量が篭っていた。
白一色に染められた清潔感のある病室が、そんな思い出話達に彩られて心なしかとてもカラフルに見える。
依頼人も私も、二人共に穏やかに過ごすひととき。
その熱が心の凝りを溶かしてくれるように思えた瞬間、神経解析の全工程が無事に完了。
精緻な脳神経構造モデルが脳裏にイメージとして立体形成され、経験代行の準備が整った事を無言のままに告げる。
盛り上がる思い出話を名残惜しく思う気持ちを抱きながら、私は依頼人に準備完了の旨を伝えた。
「藤元様大変お待たせしました、解析無事完了致しました。これから月へ行って、必ずやご満足頂ける体験を持って帰って来ますね」
「まぁ有難う、本当に頼もしいわ。どうか宜しくね」
「ええ、お任せください。では早速行って来ます」
私はそう言って依頼人と固く握手を交わし、病室を後にする。
依頼人から伝わった熱量はときめく心を逸らせ、自ずと早歩きになってしまう。
高揚感を帯びた何処か不思議な感覚は生まれて初めてだった。
廊下を抜けてスリープポッドに辿り着いた私は、早速カーミラに連絡して精神転送プロセスを開始。
目指すは月へ、何処か満たされたような安らかな気持ちのままに意識が溶けて微睡む。
いよいよ経験代行の始まり、高鳴る鼓動を引き連れて心は再び月へと羽ばたく。
−−−−−
スリープポッドを出た私は素早く起きて、エアロック近くの更衣室でドレスから宇宙服に着替えていた。
宇宙空間にも耐え得る重厚な装備を纏いつつ、幾重もの安全機構を逐一チェック。
月から地球を眺めるのであれば、やはり月面から見るのが一番。
しかし命が存在出来ない過酷な環境の月は、オートマタにとっても危険な場所に変わりない。
月面ステーションの外に行く為には各種装備の入念な点検は必須だった。
着終えてチェック完了した宇宙服に、総仕上げとして髪を結い上げヘルメットを被る。
気密もしっかり確保し、酸素ボンベも接続完了。
通信回りは愛用しているアレイアンテナの髪飾りが十二分に機能していて問題無し。
脳裏でネットから宇宙気象と日照データを呼び出すと、視野に重なる形で立体表示。
幸いどちらも共に問題無しで、月面散歩には絶好のタイミング。
月面管制に、おおまかな進行ルートをデータで提出し受理を待つ。
その間に私は脳裏でニューロ・エミュレーターを起動し、依頼人の脳神経構造モデルを読み出して私の人工神経群に適応させていく。
オートマタの柔軟な人工神経がそれを受け入れ、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚と五感全てがその振る舞いを変化。
依頼人の五感を極めて高度に模倣した感覚が、私の心身に浸透する。
この状態で記憶した全てが、依頼人へと還元される仕組みだ。
「チェック完了、エミュレーション開始」
そう呟いて大きく深呼吸をする。
ヘルメットの強化ガラスに微かに霜が張り付き、ゆっくり静かに消えた。
私であって私でない、何処かふわふわとした感覚もじきに馴染みゆっくりと五指を動かす。
経験代行前の緊張を解す為のちょっとした癖を、落ち着くまで繰り返した。
やがて管制から許可が降り、私は更衣室からエアロックへと進む。
重いドアを開き無機質で殺風景な部屋に入ると、無数の赤い照明パネルが点滅を開始。
いよいよ空気を抜いて月面に出る為の準備が始まった。
エアロックが密閉され、照明群は赤く染まったままにけたたましい音が鳴り響く。
宇宙服越しに感じる気流の乱れは空気を抜く為のもの、そして天井から降り注ぐは月環境保全の為に宇宙服を徹底滅菌する光。
すっかり慣れた月面進出への手順を辛抱強く待つ。
気流が止んで暫くしたら、幾重ものシーリングとロックが施された厳重な扉が青い照明パネルの点灯と共にゆっくりと開放された。
その先に広がるは一面の月面世界。
遠くには見る者を圧倒する巨大なクレーターが聳え、荒涼とした白き地平が遥か彼方まで続いている。
そして天上は地球の闇夜よりも濃い黒で覆い尽くされていた。
普段見慣れた光景でも、この目を通して見るもの・感じるもの全ては依頼人の為になる大切なもの。
私はその事実を噛み締めるようにして進みだす。
依頼人が一歩を踏み出す時は、いつも決まって右足から。
そう神経に記述された行動を読み取り、忠実に右足から灰色の月面の地を踏みしめる。
すると微かに砂塵が巻き起こり、儚く静かに散っていく。
二歩三歩と進み、振り返ると月面にしっかりと足跡が刻まれていた。
足元には無数の石塊や礫が無造作に転がり、殺風景さに拍車をかける。
そんな命無き環境下で、大きな道標となるのはやはり地球。
再度向き直り真っ直ぐ青き地球を見据える。
色彩に乏しく乾き切ったこの月面で、確かな命の鼓動を遠くに確かに感じられる瞬間。
まるでそれはオアシスのように感じられた。
きっと依頼人が心から切望していた光景。
私は強く心に刻むようにして、更に歩を進めた。
歩く毎に上下に揺れる視界、果て無き白い月面と黒き天空の間に確かに青く輝く命豊かな星がある。
仄かな高揚感を抱きながら、絶好の観測ポイントたる最寄りのクレーターを目指す。
辺りはただただ静寂だけが支配している月面、その中で私の呼吸音だけが響く。
触覚を通して伝わって来るのは、少しごわついた宇宙服の肌触り。
そしてそっと月面を踏み締める感触と、嗅覚に訴えかける真新しい宇宙服の人工臭だけ。
黙々と歩き続けやがてクレーター外縁に差し掛かり、勾配を登っていく。
月面の軽い重力の恩恵で、装備の重さはまるで気にならなかった。
博物館に飾られている往年の宇宙服よりも、圧倒的に小型軽量化され動き易いのも大きい。
月面車を手配する手もあったのだけれど、月を堪能するのであればやはり徒歩がベスト。
慣れ切った低重力下をひたすら無心に進んでいくと、遂に目標ポイントへ到達する。
ここはクレーター外縁部の頂、その眼前になだらかに広がる地形はかつて月に隕石が衝突した傷跡。
今の月面からは想像出来ない、極めて激しい衝突があったに違いない。
クレーターの縁で、私は大きく手を伸ばし地球へと翳す。
視界に広がる足元のクレーターと遠くの地球の共演、それは余りにもスケール感が壮大で心打たれる光景だった。
まるで宇宙の美を凝縮したかのような瞬間、神秘さに圧倒され息を呑む。
無機質な月世界に決して滲む事無く凛と存在を示す地球の姿は、ただひたすらに綺麗で思わず熱いものが込み上げてくる。
何度見てもここからの眺めは堪らないものがあり、思わず万感の思いを篭めた吐息を漏らした。
眼前の巨大クレーターと地球の対比、ここはそれを同時に堪能出来る絶好の場所。
月への観光客からも密かに人気のあるスポットで、大抵何人か来ている場合が多い。
けれど今日はたまたまタイミングか良かったのか私一人だけ。
折角の絶景を存分に心に刻むべく、この光景を眺め続ける。
大切な依頼人の掛け替えのない思い出となるように強く願って。
暫くするとリストバンドにセットしていたアラームが振動し、予定していた時間が迫りつつある事を伝えて来た。
活動限界を迎える前に、月面ステーションに戻らなくてはならない。
名残惜しみながら、私はこの絶景に別れを告げた。
遠い地球に背を向けて、一人帰路を淡々と辿る。
進めど進めど荒れた月面の地形は変わる事無く、一切誰の意志も介在しない有り様はただ孤独感を駆り立てる。
そんな月面を蹴り進む最中、ある一つの考えを閃いた。
私から依頼人に贈る事が出来るささやかなプレゼントを。
そう思い立ったら、自然と足取りも早くなる。
逸る気持ちを抱いたままに、月の砂塵を巻き上げながらペースを上げて行きより早くエアロックに辿り着く。
厳重な扉が締まり無事気圧が確保されると、私は更衣室へ向かいながらヘルメットを脱いだ。
「……はぁーっ!」
そして思いっきり大きく呼吸をする、窒息感のある環境からの開放感。
それを発露する瞬間は、不思議と爽快さを伴う。
更衣室で宇宙服を脱ぎつつ結い上げた髪を解き頭を振ると、視界に亜麻色のストレートヘアが舞う。
偶然タイミングがカスケードライティングと重なったのか、紅い光が仄かに流れていた。
急ぎ普段着のドレスに着替えて、装備と宇宙服を所定の場所に戻し私は展望広場へと急いだ。
途中で何人もの月観光客とすれ違い、その度に会釈を交わす。
命乏しい月面で見る地球も美しい、けれど今や月面ステーションもまた月の一部。
命を感じられる環境で皆と眺める月もまた美しいと、是非依頼人に知って欲しかったから。
やがて照明が落とされ誘導発光床メインの静かな展望広場に辿り着くと、月の神秘性を醸し出す穏やかなBGMの中地球を見上げる人々の姿があった。
月面ステーションの壁面から天井にかけて、大きく作られた強化ガラス窓。
その遙か先には青き星が煌々と浮かぶ。
ステーション内部でここは最も地球観察に適した場所、そして個人的にお気に入りの場所でもある。
備え付けのドリンクバーからお洒落なグラスを受け取り、私はお気に入りの清涼ドリンク・アジュールを一心に注ぐ。
地球の色合いに似せて作られたそれを飲むと、口の中にひたすら爽やかな甘みが満ちる。
次に五感を大いに揺さぶるのは、少し薄荷にも似た爽やかな香り。
何処か遠い地球への憧れを想起させる、優しい風味が舌と鼻を軽やかに癒やす。
月面散歩の後のリフレッシュとして、いつも愛飲しているものだった。
満足感と共にドリンクを飲み干してグラスを返すと、床の発光パターンが淡く変化する。
まるで時が止まったかのような落ち着いた雰囲気の中、誰もが感慨深く母なる星を眺めていた。
一人で見上げる地球もいいけれど、皆で見るのも素晴らしい。
私も人々の輪に加わり真っ直ぐ地球を見つめる、この五感に捉えた全てを深く刻み込むようにして。
存分に月面ステーションからの地球を満喫した私は、エミュレーションを解除し私個人の脳神経モデルで身体駆動を再開。
同時に蓄積された記憶は、依頼人の脳神経構造モデルに添付され経験還元の準備が完了する。
早速カーミラに一報を入れつつスリープポッドに赴き、私達は意識交換を開始した。
依頼人へ贈る大切な記憶と共に、優しく意識が包まれていく。
−−−−−
目覚めた私は、カーミラの身体を借りて再び病室を訪れていた。
ベッドの上には爛々と目を輝かせている依頼人の姿。
私は安堵感を抱きながら、経験再生の概要を報告をする。
「藤元様大変お待たせ致しました、月での体験を持って参りました。ベッドに組み込まれたデバイス経由で経験再生されますので、ゆったりなさって下さいね」
「フィーアさんお帰りなさい、経験再生は初めてなの。少し緊張するわ」
「安心して大丈夫ですよ、ささやかながら私からの贈り物もありますのでどうぞお楽しみに」
そう伝えると業務用端末を取り出して、経験代行業・管理部へと接続。
依頼人の脳神経構造モデルに添えた、経験データのチェックを要請する。
これもまた安全策の一つ、数分の間を置いてやがて問題無し・経験再生遂行承認のサインが出た。
それを見た私は早速ベッドのデバイスに無線接続し月での体験を転送。
するとデバイスから催眠誘導波が生じ依頼人は静かに寝息を立てて眠りだし、病室にひとときの静寂が訪れる。
今この瞬間に経験再生され、依頼人は私の月での体験を五感を通して体感を始めた。
丁度夢を見ている感じに似ていて、それ以上に鮮明であり五感全てをリアルに感じられる事から時折眠る依頼人の表情が微かに変わる。
ニューロ・エミュレーターの神経模倣精度は極めて高く、今まで経験代行を依頼された方々から頂いたアンケートによれば自身と見分けが全く付かない程らしい。
故に万一悪用すれば大逸れた事が出来てしまう。
だから管理部は神経を尖らせて、経験データのチェックは微に入り細に入り徹底して念入りに行われていた。
この機能を危険視されるのも当然という思いと、疑われてしまうという事実に痛む心。
双方がせめぎ合い私は一人表情を曇らせる。
これが晴れる時を切に待ち望むものの、その日はきっと遠い。
依頼人が眠りについた間、泡沫のように浮かんだそんな思いを押し殺しつつ彼女の目覚めを待った。
やがて陽が傾く頃、依頼人は静かに目を覚ます。
頬に一筋の涙を流しながら。
「あぁ……月から見る地球はこんなにも美しいのね、貴女が五感を通して感じ取った全てを受け取ったわ。本当に有難う、未練が一つ消えたような思いよ」
「ご満足頂けて本当に嬉しいです、月面から見る月とステーションから眺める月と双方入れてみました」
「ドリンクもとても美味しかったわ、一人で見る月も皆で見る月も凄く綺麗で。あの約束は果たせなかったけれど、それでも満足しているわ」
依頼人は幸せな表情で優しく語り出す、大切な仲間達との思い出を。
彼女が心許す、会社立上げ時のメンバー達と交わした約束。
それは『いつか5人皆で月から地球を見てみたい』というものだった。
夢を追い仕事に追われ、そして叶わなかったささやかな願い。
「菫は水難事故で、奈緒美は突然の交通事故。友恵と咲由莉は病気で、私を置いて皆逝ってしまったわ……」
彼女は遠い目をして語る、もう亡くなってしまった親愛なる仲間を思い出しながら。
私はそんな彼女の言葉に真摯に耳を傾けた。
「それでも私はきっと幸せだったと思うの、皆とやりたい事が出来てお客様に作品が受け入れられて。夢中で駆け抜けたあの瞬間の熱量は、今もこの心に息衝いているのだから。だからあれも完成に導く事が出来たのよ」
かつての黄金時代をそう振り返りながら、依頼人はベッド近くの引き出しから豪華な作りのジュエリーケースを取り出した。
彼女が静かにその黒いケースを開くと、中から5つの白金色のブレスレットが現れる。
眩い程の美しさに思わず目と心を奪われていると、依頼人は微笑みながらウィンクしてこう切り出す。
「このブレスレットはね、スウィートウィスタリアを率いた私・藤元彩花が直々に作った引退作よ。そしてこれこそが最後の未練そのものなの」
「本当に綺麗で素晴らしい作品だと思います、でも最後の未練とは一体……?」
自信満々に語る依頼人の言葉に、私は心からの称賛と同時に浮かんだ疑問を口にした。
依頼人が最後に作ったという引退作、それは藤の花を思わせる青藤色のラインが入った上品なデザインのブレスレット。
彼女が心血注いで作ったブランドの名に相応しい、正しく傑作という趣きを優雅に湛えていた。
ましてや世界にその名を知られる彼女が直々に手掛けたとなれば、その価値は計り知れない。
「これを是非貴女達姉妹に贈りたいのよ」
「えっ!? いえ、でもこれは藤元様にとって大事なものでは……」
「気が早い親族達は、早速私の遺産配分で揉めているわ。そんな強欲な彼らの目にもしもこれが映れば、折角5つ1組でデザインしたこのブレスレットはバラバラになってきっと売られてしまうでしょうね。でもそれは断じて私の望みじゃないの」
突然の提案に戸惑う私を尻目に、彼女は憮然としながら語り出した。
健康不安を抱える依頼人の親族達は、挙って彼女の資産に目を付け激しい諍いを起こしているらしい。
かつての仲間を失って尚、それでも依頼人は会社を支え続けた。
その結果経営陣と対立し、引退しても親族達との問題が絶えない。
そんな現状に彼女は心底ウンザリして居る様子。
しかし彼女の言葉から温もりは消えない、その確かな暖かさは私へと向けられた。
「ずっと昔に読んだ本があってね、それに着想して大切な仲間達との思い出を重ねて作り上げたの。だからこれはいつも5つセットであって欲しいのよ、それに以前から貴方達の活躍はTVで見ていたわ」
「私達を、ですか?」
「ええ、肩身が狭い思いを抱えていると思うけれどそれでも私は貴方達の力は本当に素晴らしいと思う。実際に経験代行を依頼して、それを確信したわ。けれど貴女達にはどこか影があって、そんな所が会社で揉めてた頃の私にそっくりで何だか放っとけなくてね」
TV等で取材を受けた時は、常々礼節良く振舞うよう心掛けている。
けれど抱えていたものを見透かされていた事実に驚くと同時に、共感され心配されていた事に不思議な感情が湧き上がった。
人間とオートマタ、依頼人と私は互いに違えどひょっとしたら似た物同士なのかも知れない。
「それでも私には黄金の時代と呼べるものがあった、でも貴方達はそれが途轍もなく遠い事を自覚していて。遠慮を幾重も重ねながら、色んな柵に雁字搦めになりながらも懸命に生きてる」
「そうですね、余りにも遠くて辿り着けるかどうかさえ……」
真っ直ぐな依頼人の言葉に、私は率直にそう答えた。
私達オートマタの置かれた現状を思うと、それ以外の言葉なんて到底出て来ない。
「長き茨の道を行くのは確かに心細いかも知れないわ、途中できっと壁にも当たるし迷う事もあるでしょうね。でも物には心が宿ると言うでしょう? これは私が真心をこめて誠心誠意作ったものよ、だからブレスレットに篭めた私の心がどんな時でもあなた達を決して一人にはさせないわ」
彼女のその一言に込められた、温かい優しさと思いやりがすっと心に染み入る。
長女として気丈で在ろうとして、恐らく無意識に抱えていたものが瞬く間に決壊した。
景色が滲み視界が揺らぐ、きっと私は涙しているのだろう。
人生を歩む先達としての強き言葉が、私の心にこびり付いた凝りを吹き飛ばす。
迷いも躊躇いも影を潜めて、心が雨上がりの空のように澄み渡る。
人間からここまでの善意を受け取った事は初めてだった。
「だからこれから長い道を行く貴女達にこそこのブレスレットは相応しいわ、天国の仲間達もきっと喜ぶと思うの。彼女達は皆いい子だったから、貴女達の背を応援してくれる筈よ。長年一緒だった私が保証するわ」
「本当に……本当に有難うございます、この恩は決して忘れません。そして必ず辿り着いてみせます、例えどんなに遠く苦しい道のりだとしても!」
嗚咽を必死に抑えながら、私は彼女に決意と感謝の気持ちの全てを篭めて固く握手を結ぶ。
すると彼女は微笑みながら、ブレスレットの一つを私の左手につけてくれた。
いつか壁に当たった時に、これを見て思い出してねと一言付け加えて。
真心込めて作られたブレスレットは、まるで夜空を照らす月のように静かな輝きを湛えていて美しい。
人間でも機械でもない、オートマタとしての疎外感と孤独に痛む心がこの柔らかな光で浄化されて行く感覚。
そんな綺麗に濯ぎ洗われた心を誘うように、病室の窓から何処までも爽やかな風が吹く。
重ね重ねの御礼を篭めて、私は依頼人に感謝の言葉を送り彼女は照れながらも受け入れてくれる。
和やかな雰囲気の中、お互い言葉を弾ませていると突如脳裏に5番機・セゴレーヌから通信が入った。
携帯に回して通信映像を立体表示させると、銀髪の彼女はいつものクールな声で驚きの表情を浮かべる。
「フィーア姉さん、次の依頼の件なんだけど……ひょっとして笑っている? 何だか姉さんの笑顔は初めて見た気がする」
「まぁ、利発そうな妹さんなのね初めまして。普段笑わないって貴女そうなの? 可愛いのに勿体無いじゃない」
「いえ、決してそういうわけじゃあ……セゴレーヌ!」
少々バツが悪くなった私は、思わず妹の名を叫んだ。
そして依頼人と私達姉妹とで賑やかな会話のキャッチボールが始まる。
あんなにも遠く感じた目標である、人間と信頼関係を築くという事。
それが今は少しだけ近く感じられる。
揺るぎない勇気と掛け替えのない贈り物をくれた彼女に心からの感謝を送りながら、私は病窓から不意に空を見上げた。
そこには夕日に優しく染まった月。
何だか今の私の心の有り様に似ているようで、それがとても嬉しい。
この出会いに歓喜しながら、私はまた会話の中で微笑む。
人とオートマタの温かい輪の中で。