7
可笑しさと痛みにハリーが悶絶している頃、話題のアーロンは、地下室にいた。
扉を開けると、薄暗く、生臭い部屋だった。暗さに目が慣れてくると、置かれた品々に嫌悪感を否めない。
―――拷問部屋…?
輝度の低い照明に浮かび上がるのは、ステンレスの手術台や手術器具の他、壁にかけられた拷問器具や方法を記した本や絵の数々、拷問を施される人形達…。
こんな所にノアがいる筈はない。
戻ろうと一歩退いた時、奥の方から金属の小さな音がした。
「…ノア…?」
呼びかけに対して気配を感じ、戦慄がはしる。ゆっくり進んで行くと、探すまでもなく、壁を背にして震えるノアがいた。アーロンと目が合うと、大粒の涙がこぼれた。
胸元で両手に握られているのは、手術メスらしき刃物。
アーロンは目を凝らしてノアを観察する。まだ、どこも傷つけてはいない。
「来ないで!」
アーロンが一歩踏み出すと、聞いたことのない声で、ノアが怒鳴った。否、叫びと云っていいだろう。
アーロンは構わずゆっくり近付く。すると小さく首を振り、壁伝いに後退るノア。
「来ないで、先生!ボクは汚れているんです。だから、先生の傍にいる資格なんかないんです」
「そんなことか」
アーロンは、ため息混じりに笑った。
躊躇なく進み、あっと云う間にノアにたどり着く。ノアの、メスを持つ手をそっと握る。それを簡単に奪い、手近な所に置いた。もう片方の手は、既にノアを抱き寄せている。
「オレだってノアが初めての…恋人じゃないし…」
最期にもう一度会いたい、ノアがそう思っていた人は、笑って抱きとめてくれた。そして彼は大きな手で、何度も頭を撫でてくれる。
「過去をさらされるのは恥ずかしい事だけど、オレも潔癖じゃないし…。過ぎた事は仕様がないだろ」
「でも先生を騙してた。ハリーの事も」
泣きじゃくりながら、それでも許しを受け入れないノア。
「怒ってないよ。ハリーも。オレも」
ノアは頑なに頭を振る。肩を抱くアーロンの手に力が入る。もっと、壊れるほど抱きしめて欲しい。―――ダメなボクを壊して…!
「ノアはノアなりに、精一杯やったんだろ。それでひとりで頑張って、傷ついて」
背中に回されたノアの手が、アーロンの服をギュッと握った。
ノアの柔らかい髪をついばむように、アーロンは口元を埋もれさせる。甘い匂い。
「ノアだけ謝るのは不公平だな。オレも、謝る」
ノアの肩を胸から離すと、アーロンはひざまずいた。見上げる瞳の優しさに、甘えてしまう自分がいる。
「ノアもペータース側にいる、って知ってた。ごめん、黙ってて」
ポロポロこぼれる涙を払うように、また頭を振る。―――ボクは悪い人間だから。先生やハリーを傷付けるから、いない方がいい。いなくなればいい。
アーロンの肩に手をつく。この人に甘えてはいけないんだ!
「ノア。もういいから、戻って来てよ。意地張らないで。ノアに、傍にいて欲しいんだ」
「でも…」
「ノアじゃなきゃ、ダメなんだ」
この人には敵わない。この腕の強さも、優しさも。
その後、程なくして突入部隊が到着し、アーロン達以外は拘束された。
「こいつらを全部、あなたが倒したのか…!?」
唖然として見渡した後、隊長はジョオをまじまじと見下ろす。
「私だけじゃなくて、二人の男性諸氏と3人でね、今回は」
元の、少女の姿でジョオが云った。ざわめく隊員達。
「やっぱり魔女だ!」
「あの噂、本当なんだ!」
「一個大隊を一人で潰せるワケだ!」
ドン引きしつつも、こそっと訊いてみるアーロン。
「ホントにヤッたの、一個大隊?」
「私が軍隊なんか潰すわけないでしょ!―――出来るけど…」
「やっぱ出来るんだ」
「やったのは一組織。それも民間」
「民間!?」
「マフィア」
「ならいっか。―――なわけないだろ!マフィア全滅させたの!?」
肩をすくめて降参のポーズをとるジョオ。
「あれは昔の事。―――やり過ぎだったとは思う。反省してるよ」
アーロンは呆れて、首を振って大きなため息をついた。それを見て口を尖らせるジョオは、上目遣いがひどく幼く映る。こんな表情は今まで見たことなかったが、やっと、対等な関係になった気がして、アーロンはつい、ジョオの頭をクシャクシャに撫でずにはいられなかった。
「この子は、私が依頼人の元に届けるので、部隊は解散して下さい」
隊長に向き直ると、ジョオはノアの肩に手を回して云った。
「了解しました!」
隊長が敬礼すると、他の隊員達が一斉にそれにならい、動きに合わせてブーツを鳴らす音が響いた。
突入部隊が駆け出していくと、ジョオも踵を返して3人を促す。
「ジョオ、どういう事?」
アーロンが尋ねる。眉間に少し不安の色を見せながら。ジョオは口角をわざと上げて、アーロンを見上げた。
「ペータースとホーバット製薬の関係は大体想像通り」
テオの待つアウディに乗り込み、ナビをセットすると、ジョオは話し始める。
「何らかの方法で手に入れた情報を、ペータースがバラ撒いて、ホーバット製薬が乗っかったんだろ」
ハリーが応える。
「そ。アメリカに、ホーバット製薬のライバル会社があって、そこで開発された薬品の全情報―――成分から臨床試験、副作用に至るまで全部の情報を手に入れた。ある種のガンには初めての特効薬になるはず。この情報は、アメリカの会社に返してあげないとね」
「金の成る木だな」
アーロンが驚いたのは、絶対にジョオを受け入れるはずのないハリーが、大分親しく話をしていること。
「それとは別件で、ペータースはある依頼を受けていた」
「ハリー=フリートウッドの殺害…か」
独り言のように呟くハリー。
「そこで今回のゲームを思いついたわけか」
アウディは山間の、整備された静かな道路を、国境の東側から北側に向かって走る。
「ホーバット製薬が食いつくのは解るとして、なんでペータースの部下が改めてノアを捕まえたのか、やっと解った」
「ペータースのところで囲っていた少年に、ある男が手を出した。痴情のもつれで殺された男は、実はフリートウッド家の末っ子だったなんて、知らなかった」
ハリーの言葉に、ジョオがあらすじを付けてみせる。
「部下が誤って殺したことにするつもりだったんだな。ノアも死んでしまえば他に証言する者はいないからな」
「突入部隊は何だったの?」
黙っていたアーロンが質問する。
「ペータースの蒔いた種とは別。たまたま情報を見つけて、それを利用して追っていたの。―――ノアは、ある国の政治家の私生児なの」
全員が驚いてジョオを見る。感情を交えずに続けるジョオ。
「父親であるその政治家のところで一時、事務員のアルバイトをしていた女性との間にできた子よ」
そこで、ジョオは足を組み替える。記憶を辿るように目をつぶる。
「父親の方は全く知らなかった。母親はノアを産んだ時に病気が見つかって、ノアを育てられないまま入院していて、今から数ヶ月前に亡くなったの」
「…」
ノアは、息をするのも忘れて聞き入っている。
「ある弁護士が、彼女の事を調べるうちにその政治家に辿り着き、同時にこの国の児童養護施設にノアが預けられていたことが判った」
ここでジョオは初めて、ノアを真っ直ぐ見据えた。
「父親にあたる政治家の方もいろいろあって、今は近しい家族がいないし、ノアのことを弁護士から聞くと、認知したいと云うので、この国と、私に依頼がきたの」
「ノアを連れて来い、て?」
含みのある云い方をするアーロン。眉をしかめるハリー。
「その為に特殊部隊まで動かすか?」
「私が頼んだわけじないわ。その国とは何かと仲良くしておきたいのよ、この国はネ。私の仕事は、ノアを無事に依頼主の元に届けること。もちろん―――」
姿勢を変え、ジョオは体ごとノアに向かって、
「あなたには拒否権がある。行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」
「父親の方は、それでも良いのか?」
ハリーが代わりに尋ねる。
「知らなかったとは云え、今更父親面は出来ないものね。一目会いたい。それが依頼内容よ」
ジョオが黙ってノアを見つめる。誰も、ノアの答えを急かさず待つ。
「着きました」
進路を変えた車が傾き、坂を登って行く。小さな丘の上の建物がホスピスで、レンガ調の外装と花壇が見える。
皆の視線が前に移ると、アーロンはノアの手に、自分の手を重ねた。見上げたノアの目に、優しく微笑むアーロンの顔が映っていた。
ハリーは遠慮して、建物の外に残った。
病室に案内されながら、ジョオがアーロンの前を歩く。アーロンはノアとつなぐ手に、知らないうちに力を込めていた。
「先生は、どうしてお父さんに会いたいの?」
アーロンが緊張していると気づき、ノアは彼の気を紛らす為に話しかける。訊きたい事でもあった。
「もし後悔しても、会わない後悔より、会った後悔の方がマシかな、と思って」
少し照れたように答えるアーロン。
「仕事の先輩としてなら会ったことあるけど…」
その先が云えないのは、複雑な気持ちがあるから、ということはノアにも解る。自分の場合も同じだから。
「それに―――」
うつむき加減のノアに、アーロンは付け加える。
「もう、チャンスはないから」
寂しそうに、ノアには聞こえた。が、アーロンは、別の意味を込めていた。―――ノアの場合、母親に会うチャンスは失われたが、父親に会うチャンスは残されている。
案内された部屋はそれほど大きくはなかった。簡素な内装で、ベッドの傍にはサイドテーブルと丸椅子、部屋の隅に小さなチェストがひとつあるだけ。
ベッドには、自力で起き上がることさえできない老人が、呼吸も弱々しく横たわっていた。
「カール…」
ジョオが、肩をさすり、静かに呼びかける。中東にいた頃は数年前の事なのに、フーバー先生は衰弱の為か、随分老けて見えた。その彼に対するジョオの目はやはり、先程までとは全く違っている。そして、フーバー先生よりも、ジョオの方を見ている自分に気付くアーロン。
ふいに、握られた手に力が入った。ノアも緊張していたのか、フーバー先生が薄っすら目を開けると、反応してしまったようだ。
「フーバー先生…」
アーロンはそっと声をかけ、ゆっくりと視界に入る。
「お前は―――死神か?」
力ない声は、舌もあまり回らず、ひどく聴き取りにくい。理解するのにも時間がかかった。
「ワイアットです。―――アーロン=ワイアット。中東の紛争地で、一緒でした」
「…アーロン」
遠い目をして何度も呟く。何度も何度も。やがて虚ろだった目の光が揺らぎ、目尻が少しだけ濡れる。
「私の息子…。アーロン」
アーロンは手を取った。骨と皮だけの力ない手は、握っても握り返してはくれない。
「…お父さん」
言葉を口にして初めて、アーロンにも感情がこみ上げてきた。これまでの生涯で一度も呼びかけたことのない言葉。
「アーロン―――」
急に口調が強くなった。
「キミがそんな顔をすると、患者は不安になるものだ。大丈夫と云ってやれ」
「…はい、フーバー先生。―――大丈夫です」
「エライな、アーロン」
そう云ったかと思うとまた、フーバー先生は黙ってしまった。
ジョオが、アーロンの肩にそっと手を置き、部屋を出て行った。
しばらくの静寂が続き、アーロンは丸椅子に腰掛けた。フーバー先生の方を見つめたままノアを抱き寄せると、頭を撫でてくれる。
その時が近かった。
ホスピスの建物の外は、穏やかな風が渡ってゆく。
アーロンはノアを草原に座らせ、後ろから包み込むように座る。
「初めて、褒められたよ」
ノアの後頭部に鼻をつけながら、話しかけるアーロン。その腕の中にぴったり密着してハマるのかと思いきや、アーロンは大き過ぎて、ノアは小さ過ぎる。
「フーバー先生は中東で一緒に仕事してたけど、オレのことを褒めてくれたことは一度もなかったんだ。―――なのに、『エライな』て…」
「せん…」
一瞬のためらいの後、ノアは云った。
「―――アーロン…」
「ノア。ありがとう、一緒にいてくれて」
後ろから回す腕を引き、ノアと密着する。こんなに細くて華奢だけど、しっかりと温もりを感じる。
「ずっとこうしていたい」
「先生、ボク…」
「アーロンて呼んでよ。―――判ってる。行くんだろう?」
子供の癖のように、ノアの骨ばった肩をにぎにぎする手が、止まらない。ノアの髪は柔らかくて、いい匂いがする。
「本当は行く気なんかなかったんだけど、アーロンとお父さんのこと見てたら、一度は行かなくちゃ、て思って」
「それが正解だとオレも思うよ」
そう云いながらもアーロンは、にぎにぎの手を止めない。ハリーの云う通り、寂しがりなのかも知れない。
ノアは身をよじって振り返り、アーロンの頬を撫でる。意外にもアーロンは、唇を引き結んで頑なな表情をしている。その唇の稜線をなぞると、ゆっくりと開いて、甘噛みした。
「アーロン…」
ノアの手が急に掴まれ、抱き寄せられて乱暴に口付けられた。ノアもアーロンに応えるように彼の髪を掴んで引き寄せる。
唇を離しても、鼻キスのまま離れず見つめ合った。アーロンの茶褐色の目は愛おしそうに細められている。
「大丈夫」
ノアは口角を上げて見せた。
「ああ。大丈夫」
アーロンも大きく頷いた。




