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「あの子は?」
ひと仕事を終え、欠伸をしながらドアを開けると、ハリーが心配そうに立ち上がった。アーロンは癖の一つ、ドア枠の上部に手を置き、くぐるように通り抜けながら答える。
「眠ってる。―――街のどこで拾ったって?」
「売春ストリート」
「またか」
「通りかかっただけだ」
アーロンは信用の微塵も感じられない目でハリーを見やった。彼は肩をすくめて口を尖らす。大学を卒業してから数年経つはずなのに、少年じみた表情をする。
「あの雨の中で、乱闘に出くわした訳か。――警察には届けないとな」
ハリーから熱いコーヒーの入ったマグカップを受け取る。
「仕方なく乗せたって云うさ」
「それで通るのか?」
「実際、関わってはいないからな」
今度はアーロンが肩をすくめた。
警察に事情聴取された時の備えに打ち合わせをしていると、隣室から派手な物音が響いた。―――まだ一時間ほどしかたっていない。
顔を見合せる二人。
腰を浮かせるハリーを手で制して、アーロンが病室を覗くと、扉からの灯りに浮かんだのは、ベッドの下に倒れた少年だった。
アーロンは慌てることなく部屋の電気をつけ、少年を横抱きに抱える。身長165cm未満。白人男性で十代後半で、この体重は軽過ぎる。―――今まで長い期間、満足な食事を与えられていなかった可能性が考えられる。
そんな事を分析しながら、アーロンが少年をベッドに戻すと、小さく呻き声をあげる。
「まだ寝ていなさい」
「ここ、どこ?」
か細い声でやっと云った。声も幼い。「―――あの人は?」
「別の部屋だよ。心配しないで君は休みなさい」
アーロンは極力優しく云った。しかし少年は警戒するようにうかがっていた。
「私は医者だよ。傷の手当てはした。大したことはない。今はゆっくり休みなさい」
「誰も来ない?」
「ああ」
「何もされない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「ああ。だからゆっくりお休み」
アーロンは見上げる少年の額にかかる髪を撫でる。少年は反射で目をつむり、アーロンの指が頬を撫でると目を開けて再び見上げる。アーロンは吸い込まれそうな視線をかわすように立ち上がって、こめかみにそっとキスした。少年は深く息をつき、目を閉じた。
「役得だな」
ハリーの待つ部屋へ戻ると、見ていたのかいやらしく云った。
「子供だぞ。安心させる為だ」
「どう見たってハイティーンだぞ。パパのキスを求める年か」
「怯えてるみたいだった」
云ってから、アーロンは自分の言葉に眉をひそめる。
「怯えるほどひどかったのか?その乱闘」
「オレが放っておけないほどにね」
「よく手を出せたな」
「可愛い少年の為なら、当然」
演じる様に大きく腕を広げてポーズをとる。「―――と云いたいところだけど、連れの男がドアを開けて乗って来ちゃったの」
「ドアロックは?」
「見に行こうとして開けた直後だった」
アーロンは額に手を当てて嘆いた。
「ほんっとに、おまえはトラブルを招き寄せる天才だな、ハリー」
「どーも」
白濁したまどろみの中に、覚えのある良い匂いが立ち込めてくる。
寝心地は覚えのないベッドの中。いつものこと。
「おはよう」
ドアが開いて、背の高い男が入ってくる。誰なのか、記憶を辿ると薬品の匂いが嗅ぎ分けられる。あまり好きではない記憶の匂い。
「まだ夜明け前だけど、よく眠れたかな?」
―――昨夜の医者か。
「……」
「チキンスープだよ」
トレイに載ったスープボールから湯気が立ち込める。さっきから漂っていた、良い匂いの正体だった。「―――お腹空いただろう?」
ノアはわずかに口角を上げただけだった。―――この男は客じゃない。愛想は要らない。でも、スープを作ってくれた。
「これ、先生のシャツ?」
大きすぎて、袋を被って頭だけ出したみたいだ。両脇に自分の二の腕の肌を感じる。
「ああ―――」
頷いて、優しく笑う。「君には大分大きかったみたいだな」
「心配ないよ、ちゃんと洗ってある」
もう一人、背の高い男が部屋に入って来た。「―――ハリーだ。オレが君をここへ連れてきたんだ。覚えてる?」
キレイにウィンクを決めながら少年の右手を取る。そしてなかなか離さない。それを横目に医者が口を開く。
「私はアーロン=ワイアット。内科医だよ」
ベッドサイドの椅子に座ってはいるが、足が長いのか、膝の位置が高い。
「この人は君の服を脱がせたんだ」
「着替えさせて治療したんだ。―――君は、あー―――」
「ノア」
「よろしく、ノア。―――痛い所とか、目眩とか、気持ち悪いとか、ない?」
「ええ…」
舌や瞳孔を見たりして、簡単な診察をされる。
「頭を殴られてたみたいだけど、見たところは問題ないよ。でももし具合が悪くなったらすぐに云ってね」
白衣は着ていないが、手慣れた様子で仕事を進める。茶褐色の瞳は仕事以外の雑念は一切映さない。自分を見ても何の色も見せないのは、職業に忠実だからなのか、それとも本当に何とも思わないのか…。
「昨夜の... 、連れの男性は、君の知り合い?」
診察を終えると、知的な薄い唇が注意深く問いかけた。
「連れ…?」
ノアのオウム返しに、ハリーが注釈を付ける。
「ほら昨夜、キミと一緒にオレの車に乗ってきた…」
その瞬間の映像と共に、ようやく記憶が蘇ってくる。ノアはゆっくりと首を振った。
「知らない人。―――何故?」
少年は男達の表情を見逃すまいと、大きな目で見据える。彼等は答に躊躇している。
「亡くなったんだね」
「気の毒だけど、遺体をここに置いておく訳にはいかないので、警察に届けたいんだ。いくつか質問をさせてもらえるかな」
アーロンが云った。気を使っているようでいて、拒否は認める気のないニュアンス。
ノアも、気にはなっていた。しかし、肩をすくめる。
「何も知らないけど」
「名前も?」
「ええ」
「知り合ったのは、いつ?」
「知り合いでもないよ」
ふたりの男は顔を見合わせる。
「何故一緒に?」
再び肩をすくめる。
「襲われた時、突然現れて―――助け出してくれたみたい。―――よく覚えてないんだ。襲ってきた奴らに後ろから殴り付けられて、気を失っちゃって... 」
「あそこは売春ストリートだ。君は何故あんな場所にいたのかな?」
「何故って... 売春ストリートだから。仕事だよ、ボクの」
三度、肩をすくめる。
「仕事って、ばぃ――もがもが」
云いかけたアーロンの口をハリーが塞いだ。
「―――あの男性は、君の客なの?」
「ううん。―――しばらく前からボクのことを遠目で見てはいたけど、声をかけてくる素振りもなくて。お金、持ってなさそうだったし」
死んだ男の所持金は子供の小遣い程もなかった。
「たまにいるんだ、あーゆー人。誰か、他の客が来るまでずっとボクを遠くから見続けてる人。絶対に声もかけてこないし、近づきもしない」
「何故男達に襲われたのか、思い当たることは?」
ノアは黙って頭を振る。ハリーは続ける。
「囲まれた時、何か云ってた?―――以前の客の名前とか、縄張りがどうとか」
「新しい客じゃなかったの?」
アーロンがとんちんかんなことを云った。呆れ顔でハリーが見返すと、ノアの表情もほころんだ。
「5人以上いたし、ナイフを突き付けてきたし」
「何か云ってた?」
「ええ。そう云えば何か云ってたな」
気持ちがほぐれてきたのか、何とか思い出そうと努力する様子を見せるノア。「―――ボクの手足がどうとか... 」
アーロンがはっとして、ノアの細い腕を取った。あくまでも慎重に。
「二の腕の内側にアザがあるね?」
ノアは驚いて、シャツの襟から覗きこむが二の腕までは確認できず、急いでボタンを外そうとして、アーロンに制止される。
「ハリー」
アーロンが咳払いを一つ。
「え、なんで?」
「診察」
アーロンが立ち上がると、身構えるようにハリーも立ち上がった。
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや... 」
背中をグイグイ押してくるアーロンに対し、小声で抗議する。
「せっかくシャツを脱ごうとしてるのに―――」
「オレの患者に手を出さないでほしい」
「手は出さないよ」
「目付きがアウト」
「減るもんじゃなし」
「神経がすり減る」
「あれ、妬いてるの?」
アーロンはハリーを思い切り睨んだ。
「患者と医者は信頼が大事なのっ」
大きな音をたてて閉まったドアに向かい、「冗談だよー、怒るなよー」とハリーの声があがいていた。
「ボクは構わないけど」
「ごめんね、デリカシーがなくて」
ため息をつきながら、アーロンはノアの傍らに戻った。ノアは再びボタンを外して、肩をはだけた。華奢な胸があらわになる。
アーロンの云った通り二の腕の内側に、直径2センチ程の小さなリング状のアザが一つ。
「そうか、一昨日の客だ」
「何か思い当たる?」
「目隠しされてたからよくは判らなかったけど、何かを充てられて、チクっとした」
「よく診せて」
ノアの腕のシャツを脱がせ、照明に当たるよう、頭の後ろに手を付けさせた。脇がガラ空きになる。アーロンが二の腕を掴むとノアはビクッと震えた。
「痛かった?」
「ううん。―――女の子みたいだって、からかわれるんだ」
頬を赤らめて、不機嫌に顔を背けた。
「他の人より少し敏感なだけだよ。おかしくはないさ」
優しく云って、アーロンはもう一度ノアのアザを注意深く診た。二重のリング状で、中心には線状の傷がカサブタになっているようだった。
「ちょっと触ってみるから、痛かったら云ってね」
アザ全体を押してみると、ノアの腕が強ばった。
「痛む?」
ノアはぎゅっと目をつぶって息を止め、首を横に振った。
「くすぐったい?」
「…少し…」
耐えながら、声を絞り出す。返って可逆心を煽る姿だが、敢えて見ないふりをして、アーロンはアザに集中する。
「力を抜いて」
もう片方の腕も診ると、アザの中心に、わずかにしこりのようなものが感じられた。元の腕をもう一度触診すると、やはりわずかにしこりを感じる。
「足の方も診せてもらえる?」
ノアは困った様子を見せた。
「ああ、そうか」
夕べ着替えさせた時、新たに着せたのはシャツだけだった。アーロンのシャツが大きくてスリーパーパジャマのようだったので、それ以外は何も着せてはいなかった。アザがあるのは内腿なので、少年の診察にはそれなりの配慮が必要だ。
が、立ち上がったアーロンの袖を掴み、少年は引き留めた。
「大丈夫、です」
顔を赤らめてうつむく。
「すぐ済むからね」
職業スマイルを向け、用意した大きめのタオルで隠れるようにして、内腿のアザを診た。腕のものと同じように、わずかなしこりを感じた。
―――この大きさは何だ?
しこりはおそらく、何かが埋め込まれたものだろう。しかし思いの外、小さい。
「先生」
ふいにノアに声をかけられた。振り向くアーロンの目に、羞恥で頬を赤く染め、目を逸らす少年が映る。後ろについた手を強く握りしめて触診に耐えていた。
「ボク、お金ないんです」
アーロンは上体を起こし、タオルとシーツを掛け直して笑顔で首を振った。
「お金の心配なんて、いらないよ」
「でも必要でしょ、診察料。ボクの―――」
向き直ったノアの目は真剣だった。「ボクの体で払います。それで勘弁して下さい」
アーロンは小さくため息をつき、いいかい、と語りかけた。
「私はそうやって診察料を受け取ることはしていないんだ。お金の心配はしなくても、大丈夫だよ」
「いいえ、ボクにはこうするしか他に何もないんです。先生にはきちんと、―――きちんとお礼をしたいんです。でも、ボク、何も持ってなくて…」
「ノア」
アーロンの茶褐色の目が、ノアのグレーの瞳を射るように見据える。指を一本たてて、云った。
「もう一度云うよ。診察料は、いらない。治療って程のことは何もしてない。それから―――」
ノアの長めの前髪を指ですいて、少し辛そうに眉をひそめる。
「体で払うとか、売春とか、いずれ―――もしかしたら君が思っているより早く―――それでお金を稼ぐことができなくなるようになる。真剣に、別の方法を考えてみないか?」
「そんなこと…無理だよ」
「そんなことはない」
「だってボク、何も出来ないもん!学校だって満足に行ってないし、頭も良くないし器用でもない。天涯孤独だし、動物も苦手。自然も機械もみんな苦手だもん。行くところも帰るところもないよ」
「じゃあ、ここにいればいい」
「え... !?」
「ここで、働きなさい」
ノアは耳を疑った。そんなことを云う人に今まで会ったことがない。言葉を失うノアに、アーロンは続ける。
「働きながら、何か資格をとると良い。勉強なら私が見てあげるよ」
「…本当に!?」
大きく頷くアーロン。
「…ありがとう、先生」
大きな潤んだ目が、アーロンを見上げた。それは、少女のように綺麗だった。




