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未来の季節 短編集

遠吠え高鳴る猫魔ヶ岳

作者: 沙魚川 出海

犬と猫の物語です(大嘘)

短編なので世界観や設定の説明をそれなりに省いていますが、これだけでも読めるかと思います。

登場人物は『哀しき遠吠えは虹の橋に』(http://ncode.syosetu.com/n1697bz/)と同じ乾と寧子なので、そちらを先に読んでいただけるとわかりやすいかもしれません。

 メール。

 ごめんね。

 私は化物になってしまったんだわ。

 もう、お前に触わることもできない。

 もう、お前を撫でることもできない。

 ごめんね。

 痛かったよね。

 熱かったよね。

 弱くて、臆病で、情けないお姉ちゃんでごめんね。

 お前みたいにこの世界を自由に歩き回れたなら、どれほど幸せだったろう。

 化物(ほのお)に怯えることもなく、汚穢(くらやみ)を怖れることもなく、自由に走り回れたなら。

 お父さん。

 お母さん。

 悪い子でごめんなさい。

 汚い子でごめんなさい。

 生まれ変わったら――綺麗で可愛くて、穢れのない猫がいいな。

 そしてメールと一緒に、広くて美しい世界を冒険するの。

 きっと、きっと楽しいと思うわ。

 涙に歪む視界は、煉瓦色に燃え上がる私の世界。

 火に憑かれた、醜い私の肢体。

 焔に灼かれる、汚い私の四肢。

 もう何も見えない、深海のような闇の中――

 空から舞い降りた王子様が、私を力強く抱き締めた。



「あんにゃ、この娘に欲情してるにゃ?」

 キャシャシャ、と女は奇妙な声を発した。口元が三日月をつくっているのを見て、今のが笑い声なのだと理解する。

「ニンゲンのオスは困ったもんだにゃ~。年がら年中発情期かにゃ」

 ニャー、と溜め息を吐く女。頬に当たった吐息の感触に、全身が硬直した。

 いつもと同じ、お気に入りの猫耳ロングヘア。研いだ爪のように鋭く凛々しい三白眼。動物看護の専門学校に通う、まだ未成年の女の子。

 そして――天神(アマツカミ)機関の予備職員で、俺のパートナーでもある娘。

 見慣れた顔であるにもかかわらず、安眠を妨げ突如覆い被さってきたものの正体が『寧子(ねいこ)』だと認識するまで、俺の脳は幾許かの時間を要した。

 清々しい初夏の朝、安ホテルのベッドの上。

 彼女――屍体を奪う妖怪猫、〈火車(かしゃ)〉の娘・鈴木(すずき)寧子は。

 なぜか下着姿だった。

「うおっ!?」

「ニャ、でも発情期なのはこの娘も同じだにゃ。仕方ないにゃ~」

 これは夢か幻か――

 信じられないことに、寧子は俺の頬に自分の頬をこすりつけてきた。火傷の痕が残る左頬に、すべすべの絹のような肌が押し当てられる。聞いたこともない猫撫で声を漏らしながら、それはもう男を誘惑する色っぽい声音で、にゃんにゃんにゃんと――

「えいにゃ」

「ひいいいっ!」

 首筋に甘く歯を立てられ、思わず悲鳴が出てしまった。

 な、何がなんだか――わからねえ!

 異常事態だ非常事態だ超常事態だ。

 突き飛ばすように寧子を押し退け、とにかく彼女の下から逃れる。窓際まで転がりながら、俺は事態を理解しようと全力で頭を働かせた。俺が寝ていたベッドの上に、なぜか寧子があられもない姿で座っている。どうしてだ。俺は過ちを犯してしまったのか? 否ッ! そんなはずはない。昨夜は間違いなく一人で寝た。寧子も隣の部屋にいたはずだ。冷静になれ、(いぬい)一朗(いちろう)。お前に必要なのは自信だ。自分を信じろ。俺は無実だ!

「冤罪だ! 俺の両手は塞がっていた! 駅員室には絶対行かないぞ!」

「何の話にゃ?」

 微睡みを振り払い、冴えてきた頭がようやく現実に追いついた。目のやり場に困る下着姿――しかし寧子は恥じらう素振りすら見せていない。これはおかしい。寧子はそんな大胆な性格ではないし、隠れ露出狂というわけでもないはずだ。

 そもそも――さっきからそのふざけた語尾はなんだ!

「お前、寧子じゃないな! 誰だお前はァ!?」

 ビシッと人差し指を突きつけると、『寧子』はキャシャシャと目を細めた。

「よくぞ見破ったにゃ! ニャーはネズミの格好をした、猫です」

「は?」

「間違ったにゃ。ニャーはネイコの格好をした、猫です。名前はまだにゃい」

「ね、猫……?」

「猫です」

 狭い部屋の中で、ナイトウェアの男と下着姿の猫娘――二人(?)の視線が交差する。寧子の三白眼――その瞳孔が、通常の円ではなくやけに縦に細長い気がした。

「……どういうことだ。寧子をどこへやった」

 射し込む朝陽に背を向けて、俺は低く唸るような声で訊いた。

「勘違いするにゃよ、イチロー。この体はネイコの体にゃ。ニャーはただ、ネイコの体を借りてるだけにゃ」

「体を借りてるだと?」

 俺はもう一度『寧子』の肢体を正視する。至ってシンプルな白の下着姿。彼女のそんな姿を見るのは初めてなので何の参考にもならないが、確かに顔も姿形も、そして声色も匂いも間違いなく寧子本人のもののようだ。

「ニャーは今、ネイコに憑いてるだけにゃ。あの娘はまだ寝てるから、今起きていることは何も知らないし、何も覚えていないにゃよ」

「寧子は――無事なのか」

「ニャ。要件が済んだら、マタタビ添えて返してやるから安心しろにゃ」

 完全には信用できないが、その答えにとりあえずは安堵する。

 三白眼の奥に潜む、何か。

 それが本当に猫で、人語を解するのであれば――化け猫の類なのか。人に取り憑く化け猫や猫又なんて、実在するのか? 汚染生物や変容生物のように〈游泳する悪意(キリングダイバー)〉に憑かれた動物の、変則的な存在なのだろうか。

 寧子がキラーに憑かれ、意識を喰われてしまったのだとしたら――

 最悪の事態を想像し、背筋に冷たいものが走った。

「……要件ってなんだ? お前の目的は?」

「あんにゃ、そんなの――昨日のことに決まってるにゃ」

 昨日のこと。

 俺は昨日あったことを思い返した。

 俺と寧子がこの地に出向いた理由。

 猫魔ヶ岳(ねこまがだけ)での事件のことを。



「寧子、また猫がいるぞ。すごいな」

「たくさんいますね」

「昔から、この辺りにはたくさんの野猫(のねこ)が棲み着いていたらしいけど……それにしても多いな」

 大股で歩み寄ってくる夏の暑さから逃げるように、俺達二人は南東北の僻地を訪れていた。夜明け前に東京を出発、東北道を北へと走り、さらに田舎道を数時間。目的の場所に着いた頃、時刻は既に正午を回っていた。

 地理的に見れば東北本部の管轄なのだが、実戦経験のある職員のほとんどは中央本部に集中しているし、クニツカミなどという本来あってはならない即応戦闘集団も中央本部にしか存在しないため、今回のように地方へ駆り出されることも珍しくない。

「足下気をつけろよ、寧子」

「平気ですよ、こんな岩場くらい。猫は山が好きなんです。乾さんこそ、バランス崩して崖の下に落ちていかないでくださいよ」

「バカ言うな。山は犬のホームだ。それに俺は高等部の時、山岳部だったんだ。山を登るなんて慣れたもんだ。むしろ山が俺を下っていく勢いだぜ」

 ごつごつした岩が転がる山肌に、黒いスーツの男女が二人。

 一人は中肉中背、冴えない地味な顔つき。実用性のみを追求し短く刈られた髪の男――つまり俺、天神中央本部地祇(クニツカミ)捕縛課、三等方士(ほうし)・乾一朗。

 もう一人はすらっとした手足、印象的な三白眼。猫耳のようにアレンジされたロングヘアがトレードマークの大人びた娘――天神中央本部予備職員、二等諸士(しょし)・鈴木寧子。

 とある命令が下された俺は、悩んだ末に要員として寧子を指名し、遠路遥々この地にやってきたのだった。田んぼやら畑やらが広がる景色の中、点在する家々の間隔は百メートルを優に超え、まさにザ・山村といった地理的状況である。

 麓に車を停め、そこからは徒歩で山を登った。

 足下には砂利と岩石。

 頭上には青空と太陽。

 時折吹く微風が、汗ばんだ体を冷やしてくれた。

 三十分もしないうちに、開けた場所に出た。そこには夏制服を着た二人の警察官――おそらく近くの駐在所員だろう――がいた。

 どうやら目的の場所はここで間違いないようだ。予定の時間にもなんとか間に合った。

「んん!? ちょっとちょっと! 君達、今この山は立ち入り禁止だよ! 下で看板見なかったのかい!?」

 俺達に気づいた若い警官(と言っても俺よりは年上だが。三十手前くらいだろうか)が、声を張り上げ尋ねてきた。まるで油性マーカーで書いたような眉をした男だった。

「あ、いえ、俺達は」

「見たのかい!? 見なかったのかい!?」

「いや、見ましたけど」

「じゃあ入ってきちゃあだめじゃないか! ――って、先輩?」

 そこで太眉警官を制したのは、先輩と呼ばれた三十過ぎくらいの小太りの警官。肩をぐいと掴み、意味ありげに首を横に振った。

「ま、まさかこの人達が、先輩が仰っていた例の……?」

「うむ、おそらくそうだろう。この辺りでは見たことがない顔だ。それに、この山にスーツで入ろうなどとは普通思わん」

 太眉警官と先輩警官の視線が俺に刺さる。

 ごもっともな言葉だが、支給されている制服なのだから仕方がない。アマツカミで戦闘職種に就く者は、この黒いスーツを着用するのが規則なのだ。

 しかしこれはただのスーツではなく、難燃素材でつくられた耐久性や伸縮性、機能性等々に優れた戦闘服である。ちなみに、寧子の下衣はスカートではなくスラックスタイプだ。不測の事態に備えるため、革靴も戦闘用のショートブーツを履いている。もちろん背中のザックも黒一色だ。

 フラワーホールの二つの金色は、アマツカミの職員である証と、捕縛課所属を表す徽章。一方、職員ではない寧子は銀色の徽章が一つだけ。

 寧子は俺のようにアマツカミの中で教育を受けてきた『生徒』ではない。あくまでもアマツカミが管理・監視している対象として、つまり超能力者及び異能力者登録簿に載っているだけの一般人として、任務に協力しているだけだ。

 寧子の特異な能力を鑑みればすぐにでも予備職員になれるだろう。最近では高校生でも予備職員になれるらしいし、実際寧子本人も希望を出そうとしているのだが、俺の猛烈な反対によってそれは達成されていない。

「俺達はGHEです。駐在所の方ですね? 申し受けが済んだら、あとは俺達が担当します」

「やはりそうか……。まさかこんなに若い人が――いや、なんでもない。了解した。申し送ろう。ついてきてくれ」

 話が早くて助かる。

 先輩警官に連れられ、山の奥へと足を進める。前を行く太眉警官が先輩警官に疑問をぶつけていた。

「先輩! あんな若い二人に任せていいんですか!? 事件ですよ!? やっぱりちゃんとぼくたちが上に報告して対応に当たったほうがいいのでは!?」

「騒ぐんじゃない、後輩。いいか、その『上』がおれに言ってきたんだ――現場はGHEに一任しろとな。そういう調整が既にされてるんだよ。事件が終息したら、この件は全て警察が処理したということになる。世間的には、そうなるんだ」

「で、でもそれじゃあぼくたちは」

「お前は初めてだったな、GHEの職員を見るのは。いいか、おれたちにはおれたちの仕事があり、彼等には彼等の仕事があるんだ。その線を越えるとロクなことにならん。納得できないのはわかるが、その気持ちは胸の中にしまっておけ」

 GHEとはアマツカミ機関のイニシャリズムであり、外部の者に対してはこの呼称を使用するのが一般的だ。

 先輩警官の言う通り、警察には警察の仕事があり、アマツカミにはアマツカミの仕事がある。

 鳥は空へ。

 魚は海へ。

 犬は野へ。

 花は土へ。

 そして、闇は闇よりも暗き深淵へ。

 闇を暴き、さらなる闇へと葬る天神地祇(てんじんちぎ)

 アマツカミとは、そういう組織だ。

「乾さん、あれは」

「ん? なんだこれ」

 彼方に青々とした山が望める、見晴らしのよい地形。そこには四、五十センチほどの石が無数に転がっていた。下半分は地面に埋まっているので、人力で動かすのは無理そうだ。

「それは猫石(ねこいし)と言って、この辺りに昔からたくさんあるんだよ。言い伝えでは、死んだ猫が石になったもの――だそうだ」

 石を避けて進んでゆく先輩警官の後ろに、俺と寧子が続く。

 猫石。

 なるほど――『猫魔ヶ岳』とはそういうことか。

 事前の情報では、この辺りに猫魔ヶ岳と呼ばれる野猫が棲み着いた山があり、事件はそこで起きているらしかった。

 俺は捕縛課に属していながら、対人ではなく対動物――つまり汚染生物の捕縛・駆逐任務を常に要望している。今回の標的が人間か動物か、それは定かではないが、キラーが絡んでいるのではないかという予測の下、俺達はここに赴いたのだ。誤報だったりガセネタだったり、単に警察の肩代わりをさせられることも多々あるが。

 だが、あまりに残虐だったり奇怪だったり――犯人の思惑が不明瞭な事件の場合、アマツカミは警察から助力を乞われる場合があるのだ。

 猫石の向こう、案内されたそこには――凄惨な光景が広がっていた。

「う……」

 鼻の奥が沁みるような、嫌な臭いが風に乗ってきた。

 事件の情報を耳にした時、寧子を連れてゆくか悩んだ理由は――これが猫に関する事件だったからだ。

「死後数日経っているから相当傷んでいる。それに、鴉にでも食い荒らされたんだろうな――内臓はぐちゃぐちゃだ」

「これで三度目なんですよ!? 殺された数はもう三十匹を超えてる! 酷いことをする奴がいたもんですよ!」

 土の上に――十を超える猫の屍骸が並べられていた。

 しかも異様なのは、『中身』が取り除かれ、屍骸の横に綺麗に整頓して置かれていることだった。どうやらこれも毎度同じのことらしい。

 しゃがみ込んだ寧子が、野晒しの骨を一欠片拾い上げた。

「お、おい――寧子」

「内臓は食い荒らされていて判別がつきませんが――この、十三個あるのは肋骨ですね。長いのは胸椎と腰椎で――ああ、こっちの子は上腕骨と前腕骨も……」

 可哀想に、と視線を落とし呟く。

 切り裂かれた腹部、取り出され食い荒らされた内臓。そして――屍骸の横に並べられた骨。

 何者かに惨たらしく殺された猫達。

 空洞の瞳は何を見たのか。大きく開いたままの口からは尖った歯が覗き、絶命する直前の痛々しい啼き声が想像できた。

「寧子」

「大丈夫ですよ、乾さん」

 寧子は薄く笑った。しかしその唇は、怒りと悲しみに震えているのがわかった。

「間違いなく――人間の仕業でしょうね。汚染生物ではないと思います。動物はこんなに丁寧に腹部を切開できませんし、わざわざ取り除いた骨を並べるなんて――そんな趣味を持つ生き物は、ニンゲン以外ありえませんから。問題は、キラーに憑かれた人間なのかどうかということですね」

「そう、だな」

 やはり連れてくるべきではなかったか。

 寧子は賢い娘だ。猫をはじめ、動物が大好きなこの娘は――世界の残酷なシステムも十分知っている。

 引っ越し先がペット禁止だから。

 成長して可愛くなくなったから。

 たくさん生まれてしまったから。

 そんな人間の都合で年間十万匹以上の猫が炭酸ガスで殺処分される現実を、寧子は十分知っている。組み込まれた歯車の一つになってしまっている、命を奪う残酷なシステムを、寧子は知り尽くしているのだ。

 けれどそれでも――まだ十代の女の子だ。この光景を前に彼女の心がショックを受けていないか、ただただ心配だった。

「……とりあえず、この猫達を弔ってあげようと思います」

 このまま猫を放置するわけにもいかない。渋い顔の先輩警官は、頷きながら同意してくれた。

「そうだな。おれたちも手伝おう。そこから先は君達に任せるよ」

「ぼくも手伝いますよ!」

「ありがとうございます。……寧子?」

 気づくと寧子は、スーツが汚れるのも厭わずに一匹の猫の屍骸を抱きかかえていた。灰色の毛をした、死んでもなお美しいと思える野猫だった。

「お腹の中に……赤ちゃんがいます」

「え?」

 ザックから取り出した革手袋を嵌め、寧子は猫の腹の内部を手で探った。慣れた手つきだった。俺にはできない芸当だ。

「もちろん死んでいますけど……この子はもうすぐお母さん猫になるはずだったんですね」

 そっと、慈しむように亡骸を撫でる。

 この猫達は、人に飼われていた猫でも人間の生活圏に依存した野良猫でもない。完全に野生化した野猫であるため、生前に人に撫でられた経験などおそらくないだろう。

 だから、寧子の行為をこの猫がどう捉えるのか――それはわからない。そもそも既に死んでいるのだ、意味なんてきっとない行為なのだ。

 それでも、どうか安らかに眠ってほしいという彼女の無我の願いが、猫達の魂に少しでも届いてほしいと思った。



「悪意を抱く者は悪意に憑かれ、心に猫を飼う者は猫に憑かれる――そういうものにゃ。この娘の意識は――この娘の魂は、それほどまでに猫に魅入れらているのにゃ」

「何が魅入られているのにゃ、だ。お前が寧子の体を乗っ取ったんじゃねえか。さっさと寧子を返せこの化け猫」

「酷い言い種だにゃ~。この山に近づいたネイコが悪いのにゃ」

 ごつごつした岩が転がる山肌に、黒いスーツの男女が二人。

 足下には砂利と岩石。

 頭上には青空と太陽。

 化け猫に取り憑かれた寧子と共に、俺はまたしても猫魔ヶ岳を登っていた。天気もいいし、まだ陽は昇りきっていないので絶好の登山日和だ。

「いいか、寧子に妙な真似したら殺すぞ」

「キャシャシャ。怖いにゃ~、動物愛護の精神はどこに行ったのかにゃ」

「俺は犬派なんだ」

「問題発言にゃ。猫差別にゃ。ニャ~、それにしてもあんにゃたちが着てるこのスーツ、なかなかの着心地にゃ。気持ちいいにゃ」

「普通のスーツじゃないからな。一着十万円以上するらしいぞ。大事に扱え」

 今朝のできごとが未だに頭から離れない。軽い足取りで歩く寧子の、スーツを脱いだ姿を想像して、すぐさま頭から追い払う。さっきからその繰り返しだった。

「それにしても腹減ったにゃ」

「朝飯も食わずに飛び出してきたからな。何か食べるか? 行動食なら少しあるけど」

「食べるにゃ~」

 ザックから取り出したそれを寧子に手渡す。

「はい、チョコレート」

「殺す気かにゃ!」

 言うや否や、寧子は崖下にチョコを投げ捨てた。止める間もない、見事なクイックモーションだった。

「あーッ! 何しやがる!」

「こっちの台詞にゃ! 猫にチョコを食べさせるとはとんでもねえ野郎だにゃ! 猫はチョコレートやココアに含まれるテオブロミンという物質を分解できないので、下痢や嘔吐を繰り返して最悪の場合死んでしまうこともありますなのにゃ!」

「お前は元々死んでるだろうが! それにその体は寧子本人のもんだアホ! 寧子は甘いものが好きなんだよ!」

 まったく、もったいないことしやがって。

 仕方ないのでスティックチーズを差し出すと、気に入ったのかぱくぱくと胃の中へ運んでいった。

 チーズを齧りながら歩く寧子はさながら、お魚銜えたドラね――

「ところでイチロー。ユリには十分気をつけるんにゃよ」

「は? ユリ? なんだよ急に」

「あれは危険なんだにゃ……!」

 何を思い出しているのか、寧子は恐怖に青褪め震えている。

「知ってると思うがにゃ、猫には命すら落としかねない危険な有毒植物がたくさんあるんだにゃ。中でもユリ科の植物はマジでやばいんだにゃ。尿細管変性を起こし、脱水症状、腎臓障害、視力障害、全身麻痺などの症状を来す最悪の植物――ユリユリ無理絶対にゃ」

「うん、まあ、そうだな。犬にとっても危険な植物だ。散歩中の犬が食べないように、飼い主が気をつけなくちゃいけない」

「あんにゃ、ユリは危険なんだにゃ! 恐ろしいのにゃ! 人生を台なしにしたくなければ、百合には絶対近づくなッ!」

「わ、わかったよ。近づかねえよユリになんて」

 ものすごい剣幕で迫る寧子。過去に何かあったのだろうか。というか最後の語尾はどうした。

「ニャー、そんなことより服が気持ち悪いにゃ。脱ぎ捨てたいにゃ。裸になりたいにゃ」

「ふざけんな。寧子の尊厳をなんだと思ってんだ。ていうかさっき気持ちいいとか言ってただろ」

「猫は気紛れ、嘘吐きな生き物なのにゃー」

 他愛もないことを話しているうちに、あの現場が近づいてきた。

 寧子が言うには、あの猫石が並ぶ場所に――猫達が惨殺されていた場所に、犯人がまたやってくるらしい。

 そもそも寧子に取り憑いている化け猫は、大昔にこの猫魔ヶ岳で死んだ猫の魂だと語っていたが――どこまでが本当なのか怪しいものだ。

 超常的事象を超現実的に考えるならば、強い超感覚的知覚エネルギーを持っていた生命が亡くなり、意識は溟海に渡ったが――その意識は自我を失わずに漂い続け、所謂幽霊となり、似た色をした意識・魂を持つ寧子に引き寄せられたというところか。化け猫の言葉を借りるなら、猫という存在に魅入られている寧子だからこそ、化け猫を引き寄せてしまったのかもしれない。

「なあ、なんで今から犯人があの場所に来るってわかるんだよ」

「簡単なことにゃ。ニャーには犯人の動きが『視える』からにゃ」

「視える? 遠隔視ができるのか?」

「ニャ」

 頷く寧子。

 アマツカミではリモートビューイング能力を細かく分類している。能力者からの距離が限定されるか否か、行ったことがない場所でも視ることができるか否か。場所・地点が固定されているタイプもあれば、他者の視覚情報を得るタイプもある。他者に干渉するのであれば、誰の視覚にも干渉できるのか否か、といった感じだ。

「にゃっへん。ニャーはボスだからこの辺りの猫どものことならみーんな知ってるにゃ。犯人の顔なんてここの猫ならみんな知ってるし、数日前から既に見張らせているにゃよ。そいつが今朝またあの場所に向かってるんだにゃ」

 なるほど――野猫が見たものを共有できるのか。寧子自身は遠隔視なんてできないし、完全に化け猫の固有スキルだ。

「犬の手も借りたいところだったから、この娘を借りてお前に頼んだってわけにゃ。これ以上ニャーの縄張りでニンゲンごときに好き勝手はさせんにゃ」

「――で? 犯人はいつ頃そこに現れるんだ?」

「あんにゃ、匂いでわからんのかにゃ?」

「俺の能力は嗅覚よりも視覚強化なんだよ。で、どうなんだよ」

「いや、もういるにゃ」

「何ィ!?」

 早く言えよと腹を立てる間もなく、俺は駈け出した。砂利を蹴り飛ばし土を跳ね飛ばし、登山道を疾走する。

 坂を登りきった先にある、開けた場所。

 猫石の向こうに――

 いた。

 いやがった。

 背は高いがガリガリに痩せ細った眼鏡の男。三十代――だと思うが、もし二十代なら随分老けて見える。髪はぼさぼさで、顔色の白さは気味が悪いほどだ。よれよれになった私服を着た、如何にも不健康そうな、如何にもガリ勉そうな、如何にも――

 猫を殺していそうな。

「いや、人を外見だけで評価する奴はクソだよな……。おい、寧子。こいつか?」

 ゆっくり坂を登ってきた寧子に――化け猫に、俺は訊いた。

 化け猫は嗤った。三日月の口で――キャシャシャと。

「ニャーの縄張りを荒らし、四十一匹の猫を殺したニンゲン。いや――正確には四十四匹、かニャ」

 男は表情を変えず、俺達を見つめていた。

 突然やってきた俺達に驚いたのかもしれない――とは思えなかった。

 双眸には狂気。

 ぎらつく眼鏡の奥――まるで屍人だ。

 右手には凶器。

 ぎらつく銀色の刃――あれはメスだ。

「気をつけるにゃよ、イチロー。そいつも奇怪な術を使うにゃ」

「異能遣いかよ……!」

 やはり汚染体ではない――か。

 ちくしょう。

 キラーのせいなら――キラーが原因だったなら、まだ納得できたのによ……。

「おい、お前! 『動物の愛護及び管理に関する法律』って知ってるか? 所謂、動物愛護法ってやつだ。たとえ野良であろうと、猫を虐待しちゃいけないって知ってるよな? 小学生でも知ってるぜ、そんなことは。人間ならわかるはずだよな――人間として生まれたんだったら、わかるはずだ。意味もなく動物を虐待することが、最低最悪の行為だってことくらいはよ」

 吐き捨てながら、俺はザックの中に手を突っ込む。

 男との距離は十メートル程度。

 相手は未登録の能力者だ。どんな力を隠し持っているかわからない以上、警戒を怠るわけにはいかない。

 その時初めて、男が口を開いた。

「こんなにいっぱいいるんだし……構わないじゃん、一匹や二匹」

 返ってきたのは――あまりにも幼稚な言葉。

「つーか、あんたら誰? 何しに来たわけ?」

「……お前を捕まえに来た。東京から遥々来たもんで、せっかくだしぶん殴っていくことにした」

 ザックから引き抜いた手を――男に突きつける。

 俺の右手にある物体を理解した男が、わずかに動揺を見せた。

「え……え? 銃? 本物?」

「本物だよ。大人しく手を上げろ。妙な動きはするな」

 一歩ずつ、男との距離を詰める。

 クニツカミで火器の常時携行が認可されているのは、異能力を持たない衛士(えいし)の人達と、近接戦闘系の能力者が多い方士の者だけだ。異質な能力者が多い術士や、支援系の能力者が多い道士には認められていない。

 汚染体でもない一般人に銃を突きつけるなど言語道断だが、異能遣いとなれば話は別だ。それでも最初から撃つ気なんてさらさらないし、安全装置も外していない。

「お前がやっていることは犯罪だ。警察に引き渡す。まあそれでも、今の日本なら何年も懲役を食らうってことはないんだろうな。お前はすぐに出てきて――猫だけでは我慢できなくなり、今度は人を殺すかもしれない。しかもお前は不思議な力を持っているだろう。なおさら危険だ」

「お、おいおい……冗談だろ。誰が人を殺すって? おれはちょっと猫を虐めちまっただけじゃねえか。人を殺すなんて、くく、あんた頭おかしいんじゃねえか?」

「猫は殺せても、人は殺せないのか。なあ、何が違うんだ。お前にとって人の命と猫の命……なあ、何が違うんだ? 言ってみろよ」

 命の重さとは――なんだ。

 命の重さは平等なのか?

 人の命だけが重いのか?

 一人の人間の命と釣り合う、犬の命はいくつだ? 猫の命はいくつだ?

 天秤の右皿に寧子がいて、左皿に――シエルがいたら。

 その天秤はどっちに傾くんだ?

 ここに棲む野猫達だって、小動物や虫を食べる。それらを殺して生きているのだ。特別な命なんてないのだ。ではなぜ俺は犬や猫の命を贔屓する? 彼等に肩入れする?

 命とは――なんだ。

 答えが出せない今の俺が自分に関して言えることは――例えば凶悪犯を一人殺せば動物達が救われるという状況になった時、乾一朗は迷わず凶悪犯を殺すだろうということだ。

 一歩、また一歩、歩み寄る。

 男は手を上げない。

 じっと――俺が持つ銃を見つめていた。観察していた。

 メスが一瞬、ぎらりと光った気がした。

「――イチロー!」

 寧子の声が響き、男がメスを振り払ったと同時に右手の銃が音もなく崩れ去り飛び散った。メスが直接銃に当たったわけでも、結合不良だったわけでもない。いきなり螺子が外れ、発条が飛び出し、銃身が弾け弾倉が落下し、右手には握把だけしか残っていなかったのだ。

「なっ……!?」

 驚愕した隙を突かれ、男が目の前に踏み込んできた。メスが閃く。回転するように後方へ逃れ、立ち上がろうとした――それなのに。

「あ……?」

 た――立てない。

 右足が、動かない……!

 優位を奪われ、全身に脂汗が滲み出す。

「その拳銃、9ミリだろ? 自衛隊とかで使われてるやつだ。くく、知ってるよ。知ってる知ってる。その銃の構造は識ってるんだ。だから解剖できる」

 解剖、だと……?

 いつしか男の体を、枯茶(からちゃ)色の靄が覆っている。異能だ。異能をくらったのだ。

 自分の体を確認する。首、右手、左手、左足――問題なく動く。右足を動かそうとして、鋭い痛みが膝に走った。

「くく、動かさないほうがいいよ。右膝を脱臼させたんだ。人体の構造なんて実習で飽きるくらい見てきたし、余裕余裕」

 解剖――

 まさかこいつ、構造を理解していればその物体を分解できるのか? 確かにさっきの拳銃も、破壊されたというよりはただ結合部位が緩み分解されただけに見えた。俺の右膝も、骨の正常な位置をずらされ膝の構造をおかしくされたのか。『構造の破壊』、『結合の破壊』とでも言うべき、物体の分解能力……! 接近して攻撃を繰り出してきたところを見るに、能力の射程は短いのだろう。そしておそらくは直接メスで切らなければ、もしくは切る動作をしなければならないのだ。

 膝立ちの状態で俺は言う。

「その力を――猫に使ったのか」

 あの猫達の屍骸。

 骨が綺麗に取り除かれていたのは、分解能力を使ったからだ。

 殺してから取り出したのか、それとも生きている間に苦しませながら取り出したのか。

 想像しただけで目の前の男をぶち殺したい気分になった。

「んー、でも猫も飽きちゃったんだよねえ。やっぱり、そろそろ、人間イっとく? 人間イっちゃいますか? くく、くくくく」

 嗤い声を昏く漏らす男に――しなやかに近づく影があった。

 獲物を見据え、静かに燃える三白眼。

 彼女は――男の言葉に同意した。殺したいなら殺せばいい、と。

「殺せ殺せにゃ。ニャーに言わせてもらえば、ニンゲンなんてどいつもこいつも似たようなもんにゃ。いっぱいいるんだから殺したって構わないのにゃ――一人や二人、にゃ」

 ニャー、と溜め息を吐く。

「ニンゲンどもは相変わらず猫を殺す生き物だにゃ~。食うわけでもないのに、やれ人語を喋っただの、ニンゲンを祟るだの、死者を操るだの――そんなクダらない理由で今まで何万匹、何億匹の猫が殺されたのかにゃ。月を見上げただけで殺される時代もあったんにゃよ? 理不尽だと思わんかにゃ?」

 寧子の中の化け猫は続ける。

 あくまで猫として。

 俺の味方でも、寧子の味方でもない、ただの猫の化身として。

「ニャ、その点に関してはこの娘だってそうにゃ。ネイコが飼っていた猫。信じてたはずの飼い主に殺され、キャシャシャ、可哀想ににゃあ。しーかーもー、ニンゲンは自分達と同じニンゲンですら、猫を理由に殺すにゃ。化け猫に取り憑かれているだの、猫が化けた姿だの、にゃあクダらない。ニャーは猫だから、猫のためにこいつを殺すにゃ。殺された仲間の無念を晴らすためににゃ。――イチロー、お前はニンゲンにゃ。ニンゲンのために戦えばいいのにゃ」

 そう言った寧子の肢体から、煉瓦色の靄が溢れ始めた。

 様子を見ていた男は、今にも襲いかかりそうな寧子に対しメスを構える。だが――もし寧子が本気で男を殺しにかかったら、猫を風呂に入れるよりも簡単に、あっさりと、呆気なく、男は灼け死ぬだろう。

 それは――阻止しなければならなかった。

 寧子に対し――化け猫に対し、俺は告げる。

「人間なんてさ、いっぱいいるんだから――一人や二人、お前達のために戦う奴がいたっていいだろ」

「あんにゃ」

「俺は――そうで在りたい。人の命は大事だ。そして犬や猫、動物達の命も――大事なんだ。人は人のために生きる。猫は猫のために生きる。それが自然だ。でも人がお前達に危害を加えようとしたなら、それを止めるために戦うのも人だ。だから俺は――お前達のために命を懸けたい」

「……バカな奴にゃ」

 俺の体躯から溢れるのは、空色の光。

 ――ハウンド。

 全身に満ちる獣の力。両の腕にありったけの気合いを籠め、俺は地面に半分埋まっている大きな石――猫石に手をかけた。

「ぬおおおおおおおおああああああああーーーーッ!」

 半分座った状態で、俺は百キロは優にあるであろう猫石を地面から引き抜いた。それを楯に、男に向かって片足跳躍で突進する。右足が地面に触れるたびに激痛が走ったが、痛みは『待て』だ。犬は待つのが得意なのだ。

 男が血相を変えてメスを構え直した。だが無駄だ。繋ぎ合わされた構造を分解しようにも、これは石だ。石は鉱物質の塊、これを分解するには結晶構造や化学組成レベルで構造を破壊しなければならない。そんなとてつもない異能力、この男には――ない!

「くたばれクズ野郎ーッ!」

 犬恨一敵、もとい乾坤一擲の体当たり。

 いくら特異な力が使えても、それ以外はただのガリ勉ガリガリ眼鏡だ。ガリガリと砂利の上を滑るように吹っ飛んでいった。

「あ、あが……」

 死にはしない。

 殺してはいない。

 ――でも。

「……きっとお前には、こいつを殺す権利があるんだろう。こんなクズ、俺だって死ねばいいと思う。でも、その体は寧子の体だ。寧子の手を、こんな奴のために汚してほしくない。あいつは――すごく綺麗な奴なんだ。ああいう、穢れのない綺麗な心を持った人間もいるんだよ」

 やっぱり足が痛い。

 汚れてもいいやと、土の上に座り込む。

「ネイコのことが、大切なのかにゃ」

 言うなり、何のつもりか寧子は俺の左頬を摘んできた。細い指の感触に、顔が熱を持ったように火照った。

「大切だ」

「好きなのかにゃ」

「……好きだ」

 言ってから、気づく。

 ああ、俺はやっぱりあの娘が好きなんだな。

 それはシエルへの愛情とも、今はもう消えてしまった両親への愛情とも違う。

 鈴木寧子という、一人の女性への高鳴りってやつだ。

「あーあー、にゃあにゃあにゃあ、突然体が熱くなってきたにゃ~。あっついあっついにゃ。人体発火にゃ~」

「え、おい大丈夫か」

「熱いからニャーは帰るにゃ。この猫魔ヶ岳にも平穏が戻りそうだし、にゃ」

 そう言って寧子は俺に背を向けた。

「……あんにゃ、本当はニャーはそいつをぶっ殺そうと思ってたんにゃよ。ネイコの体を借りてにゃ。でも、ネイコがイチローに任せろってうるさかったんだにゃ。だから仕方なくあんにゃと一緒にここに来たんにゃ」

「寧子がお前にそう言ったのか?」

 ん?

 待て待て、おかしくないか?

 それだと化け猫と寧子が――

「体はネイコに返すにゃ。ニンゲンにしてはなかなか面白い男だったにゃ、イチロー」

 それが化け猫の最後の言葉だった。

 猫魔ヶ岳。

 この山の猫達の暮らしに、安寧が訪れますように……。

「……ん?」

 ゆっくりこちらに向き直った寧子は――頬を紅く染めていた。

 その瞬間、俺は全てを理解する。

 ――猫は気紛れ、嘘吐きな生き物なのにゃー。

「あ、あんのクソ猫……ッ!」

 寧子は寝てるから何も知らないとか言っていやがったくせに――これ全部ばれてるじゃねーか! お前との会話全部筒抜けか!? 五百文字前に口走っちゃったアレも!?

「私の下着姿、興奮しました?」

 ななな何言ってんだこいつはー!?

 化け猫に取り憑かれてバカになったか!? バカ猫か!?

 しどろもどろで言葉が出てこない俺に、先ほどまでと同じ声で、けれどまるで違う口調の寧子が追い打ちをかけた。

「乾さん、私の裸は見たことあるくせに」

「わーッ! 急に何言い出すんだお前は!」

「裸の私を抱いてくれました」

「誤解を招くようなことを言うな! せ、せめて抱き締めてくれたと言ってくれ」

「いいじゃないですか、二人きりなんだから」

 いや、気を失ってるけどそこにもう一人います。

 文字通り憑き物が落ちた寧子は、なんだか以前より明るくなった気がした。いったいあの化け猫とどんな話を心の内でしていたのか。怖くて聞くに聞けない。

 動くのも億劫だったので男の拘束を寧子に頼み、俺達は応援が来るまでここで待つことにした。あの駐在所に連絡を入れたから、一、ニ時間で来てくれるはずだ。下山はかなりの重労働になりそうだ。

 寧子の隣で、空を見上げる。

 広く美しい世界を照らす唯一つの太陽。光は全ての生命に平等に降り注ぎ、そこに種の差異は関係ない。太陽の歴史を辿っていけば、きっと俺達の祖は同じなのだ。

 いつか寧子は言っていた。

 ――猫も犬も、祖先は同じミアキスですよね。シエル君とメールの先祖が――ずっと、ずっと遠い時代に、どこかの森で一緒に生きていたのかもしれないって思うと、なんだかロマンチックじゃないですか。

 ハジマリは同じだったはずなのに、俺達は今どうしてこうも違うのだろう。

 命の重さを量る秤を、まだ誰も持っていない。

「乾さん、あの猫石、元の場所に戻さないと。猫が石になったものなんでしょう?」

「おいおい寧子。猫が石になるわけないだろ。あれは――たぶん墓石だ。きっと大昔から、この山で死んだ猫を誰かが弔ってきたんだろう」

「じゃあ墓石を楯にして突進したんですか……」

「それは謝っておく……」

 猫魔ヶ岳。

 そこは数多くの野猫が暮らす不思議の山。

 彼等は今日も、人と同じように日々を生き、命を育んでいる。 

 生きるという行為に、人と猫でなんら違いなどない。

 隣に腰を下ろした寧子の手が、そっと俺の手に触れた。

 俺はその手を握り返す。

 気恥ずかしくて、顔は見られなかった。

「結局、あいつはなんだったんだろうな。あの化け猫は」

「……乾さん、見てくださいあれ」

「――あ」

 寧子が指差すその先に。

 猫の形をした大きな石が、自由な空を望むように佇んでいた。



 またあの日の夢を見た。

 絶望と希望が入り雑じった夢。悪夢と呼んでいい、昏い過去の幻想。

 悪行を積み重ねた末に死んだ者の、その亡骸を奪うという妖怪猫――火車。

 屍体を奪うその妖怪猫は、私の屍体を地獄へと運ぶために私に取り憑いたのかもしれない。メールを灼き殺し、父と母に怪我を負わせ、家族を壊し――町を燃やした私の悪行を償わせるために。

 けれど、汚い私の世界は既に地獄だった。

 誰にも触れず、誰にも触れさせない、他者を遠ざける孤独な火の檻。

 服すらも灰と化し、身を焦がす苦痛の中、夜の町を彷徨っていた私に手を差し伸べてくれたのは……。

 猫は三年の恩を三日で忘れると云うけれど、そんなの嘘八百です。

 私は忘れません。

 ずっと、いつまでも忘れません。

 あの日、貴方が私を抱き締めてくれたことを。

 私を――深海から大空へと連れ出してくれたことを。

 貴方と一緒に、広くて美しい世界をもっともっと冒険したい。

 どこまでも遠く――虹の橋の彼方へ、一緒に駈けて行きたい。

 だからどうか、私が屍体になるその刻まで隣にいさせてください。

 あまり素直になれない私ですが、どうか、これからもずっと。

 長い間他人に触れていなかった分、たくさん触っちゃいますからね?

 犬の――王子様。



〈了〉

男女の恋物語を書こうかと思ったのですが、なぜかこうなりました。

『哀しき遠吠えは虹の橋に』を意識したストーリーになっていますね。

そちらではシエル(空)とテール(陸)という犬が出ましたが、今回はメール(海)です。全てフランス語ですね。

シエルは身勝手な殺処分、メールは能力の暴走による焼死、テールは不明。みんな死んじゃってるんですね……。

程度の差はあれ、乾も寧子もペットロスにかなり苦しんだ人達です。

あと前作の時は本名を決めていなかったのですが、悩んだ末に尊敬するイチロー選手から名前をお借りして、二人にそれぞれ付けました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] どうも元エニートです。(なんとなくペンネーム変えましたw) ちょっぴり切ないお話で、でも最後にはちゃんと救いがあって、ホッとしました^^ あとお色気要素もあってぐふぐふ……/// 沙魚川…
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