笹原さんと愛挨グール
今日も今日とて今日が始まり、今日が終わる。
普遍的な一日。午前零時から十七時までで、計一万体のグールを製造。どこもみんな忙しそうに動いている。
俺は時計が十六時三○分をすぎるのを見て、一息ついた。数分前にノルマはクリアした。予備のための百体製造は、結局昨日の製造時点から倉庫に眠っているから必要ない。
ラインの清掃も済ませたし、と思っていると、暇を持て余した先輩が近づいてきた。俺が気づくや、手をあげて挨拶する。
「よお」
「おつかれやーっす、やっと終わりましたね」
そういった挨拶も、一時間ぶりだ。製造四ライン末尾のチェック担当の彼こそ俺より忙しいはずなのに、一区切りする度に雑談のタネを持ってくる。
もっともそのタネというのは当然、
「つーか、なんか恐ろしいんだが」
「何がです?」
「ヤマザキだよ、今日に限ってミス一つねえってんだ。わけが分からねえ、替え玉か?」
ヤマザキのミスをダイレクトで受ける先輩だからこそ、その愚痴が絶えることはない。
「ま、いいじゃないですか。たまには定時で上がって飲みにでも行きましょうよ、笹原さん誘って」
「まあ製造終わったからこれ以上のミスはねえとは思うんだが……保管箱も冷凍庫に入れ終わったし。だがヤマザキのことだから冷凍庫で何かしでかすかもしれねえ……」
「心配症ですね」
神経質ですね、とはいえなかった。他人事だから言えることだが、苦労している張本人を前にさすがに軽口は叩け無い。
先輩は帽子の上から頭を掻いて、少し苛立たしげに言った。
「お陰で白髪が増えたわ。ヤマザキは本当にくそったれでどうしようもないクズ野郎でな、あいつはまったくどういう習性を持ってんのかムツゴロウさんに頼んで教えてもらいてえわ。どうやって壁に並んでる箱でドミノ出来んだ? グール入って一二○キロ以上あんだぞ? あいつはミスをする瞬間だけハルクにでもなれんのかってんだクソったれ。それに今日だって俺が見てなきゃあいつ、グールの爪もって動かそうとしてたんだぞ!? わかるか? あのアホ、テメエの爪ペンチで掴んで引きずり回してやろうかってんだ!」
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。パーッと酒でも入れて、不満も一緒にションベンにして出しちまいましょう」
「……ふう、悪かったな。いや、最近少し愚痴が多くなっちまって。にしてもあのヤマザキのカス野郎ってヤツは――」
俺は何気なく時計を一瞥する。時間はまだ終業の五分前だったが、もう仕事が終わったんだ。構わないだろう。
「先輩、もう時間だから上がりましょうよ」
「ん? ああ……ま、いっか。さっさと帰ろうぜ」
そんな矢先だった。
二人がラインを後にしようとしたその時、ボン、と鈍い音が遠くで響いた。地面の揺れから、それが何かが地面を叩いたものではない事に気づく。
爆発に似た衝撃。直後、がしゃん! と激しい音を立てた。続いてがしゃん! がしゃん! と倒壊の連続が空間に響く。
「ヤマザキィィィィ!!」
リーダーの、喉が裂けんばかりの怒号が大反響した。
「……帰りましょうか」
「そうだな」
気づかないわけがないが、知らぬふりをするのが最善だった。
疲れた顔の先輩は「今日は八時に寝るわ」と言って先に帰ってしまった。俺は着替え終わってから、しかたがないので笹原さんに癒やしを求めて事務所に留まることを決意する。
「よし」
俺は喫煙室で一服してから、事務所に向かう。タイムカードを切った後、振り返ってそのまま、まだカウンターにいる筈の笹原さんのもとに向かった。
が、先ほどまでそこに居た彼女は居なかった。そして俺は目を疑う。目が腐ったのかと思った。視神経が別の何かを捉えて幻想を見せているのかと思った。突如として何らかの影響で俺はまったく別の世界を見せられているのかと思った。そう思わなければ気がどうにかなりそう――だった。
カウンター脇に立つ異形。化け物。怪物。悪魔。悪夢の権化。最悪の雑兵。原初にして史上最強の尖兵。その屍兵、つまり愛拶グール。
笹原さんの隣に、グール。否、グールの隣に、笹原さんが居た。この世の全ての悪夢は彼女の周りでは暖かく優しく変換される……そうとさえ噂される彼女の隣に居るグールは、それでもグールだった。
何者なんだグール。やはりそのおぞましい姿には効かないのか、効いてアレなのか、無効化されているのか。
ともかく。
「さ、笹原さん、お疲れっす」
「あ、お疲れさまです」
「ヴヴヴヴァルヴォイヴォッヴォ」
「こんばんわ、ですって」
「こ、こんばんわ」
さっきトイレに行ってきて良かった、と思う。そもそものコンセプトが挨拶をするマスコットなのに、こいつが挨拶をするということをすっかり忘れていた。
「つーか……良くわかりますね。説明書もないのに」
「あら、ありますよ? 主任が親切に作ってくれたみたいで、お嬢が持ってきてくださいました」
「カンパーニ嬢が?」
「はい」
にこやかに頷くと、その首肯の風圧で腐った沼が清く生まれ変わるというイメージが突如として生まれた。あながち間違いではないだろう。グールには効果がないようだが。
彼女がくしゃみをすればその空気が振動し波のように波動が広まって、世界から戦争が消えてなくなると思う。俺は本気でそう思う。
「多分それ、カンパーニ嬢が作ったやつですよ」
「え? でも手書きですよ?」
「主任の手作りか……」
仕事しすぎだろ主任。
はい、とカウンターに置かれた冊子を見せてくれる。表紙には『あいさつグール取説』と書いてあった。辛うじて丁寧に書かれている。
開くと、既に一文字目から象形文字だった。走り書きでどこをどう通ればこういった文字になるのか、一度本格的に検査すべきだと思う。
「よく読めますね」
「まあ、得意ですからね」
彼女ですらフォローは諦め、そう言った。
「挨拶の言葉が書いてあります。頭に特殊なチップが埋め込まれてるらしくて、経験を蓄積して知能を成長させていくみたいですよ」
「SFですね」
「だから暇な時は、こうして私がグルちゃんの相手してあげてるんです」
「名前つけたんすか……」
女神だ。
俺の相手もして欲しい。
「可愛いんですよグルちゃん、冗談も言うし」
「ヴァイヴォヴィヴィヴン」
「うふふ、もうダメだって」
なぜか楽しそうだ。そもそも主任の文字の解読はまだしも、グールの言葉さえも理解している。
前世は巫女さんかなにか? 主任はほんやくコンニャクでも開発したのか?
彼女の周りにぽわぽわと少女漫画チックなふわふわキラキラな何かが浮かんでいるような気がした。
「なんて?」
「彼氏ですか? って」
「彼氏ですよ」
「ヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァ」
「とても笑ってますよ、うふふ」
あれ笑ってんのか。つか笑うとかそういう感情とか感覚あんのか。ていうか笹原さんも冗談だと思ってるし。まあ冗談だけども。
無表情で笑ってるグール怖い。笹原さん居ても帰りたい。
「あ、そうだ。笹原さん、この後暇ですか?」
「すみません、友達とご飯食べに行くんですよ」
「ああ、そうすか」
残念。工場最後にして最大の良心に崖っぷちから突き落とされた気分。笹原さんなら許せる。
「もしかして、お誘いですか?」
「まあ、ただの飲みの誘いですよ。先輩もさっさと帰っちゃったんで」
「お、だったら丁度良かったなァッ!」
唐突に背後で放たれたシャウトが俺の鼓膜を破壊した。
がっ、と力強く俺の首をホールドする。なんて馬鹿力だ、ゴリラの筋肉でも移植しやがったか。
「あたしも飲みに行こうと思ってたんだよ。ところで笹原、アイグーの具合は?」
主任は豪快な笑みを浮かべて笹原さんに声をかける。まるで荷物のように首を真横から抱えられた俺は、荷物らしくプラーンとぶら下がっていた。
「ええ、とても良い子ですよ。主任の開発って感じがします」
「だろう? はは、照れるねこりゃ」
ガシガシと頭を掻く。動く度に、彼女の身体に染み付いている腐臭と汗と色々な匂いが鼻腔を穢す。嗅覚がイカれそうだ。
「んじゃあたしもう上がるから。おつかれさん!」
「お疲れ様です」
「ヴォヴォヴォイニッチ」
全身の力を抜くと、主任は突如として腕を離す。ビタン! とまるで床に叩きつけられたスライムのような音を立てて、俺の全身に痛烈なダメージが広がった。
「いてえ……」
「おらテメコラ、さっさと白木屋行くぞ!」
「な、なんだか気分が優れなくて……」
「酒飲みゃ治る! 治んなくても関係ねえわ!」
「くっ……」
ようやく立ち上がった隙に、首根っこを掴まれて連行される。
僅かに見えた隙から笹原さんを見れば、彼女はにこやかに手を降っていた。グールはなんだか「ヴィヴァヴォヴヴンヴヴンヴヴ」とかさえずっていた。悪口言われてるのはニュアンスでわかる。わかってんだかんな!
俺はそうして、主任に拉致られた。
――もはや悪態をつく余裕すら無く、五杯目のビール大ジョッキを一気飲みした辺りで、俺のその日の記憶は終わっていた。