マスコット登場
グール研究所が、また妙な動きをしているらしい。
俺はいい加減うんざりしながら、まだ頭痛の残る頭を抑える。二日酔いより非道い状態だ、正直殺意が止まない。
そんな負の感情を抱きながら階段を登る。上った先で、なんだかがやがやと人溜まりが出来ている。
なんだなんだ、と事務所の前でたむろしている人の最後尾に向かうと、その人垣の中心で甲高い声で騒いでいるヤンキーが居た。いや、主任だ。
肩に白衣を羽織り、ジャージ、サンダル姿の赤髪ヤンキー、通称主任。本名を知る者は誰も居ない。こんなのがウチの会社の幹部クラスなんてありえないことだが、そんなのがウチの会社だ。
「貴様ら! 我が社に何が足りないか、わかっていないだろ!」
知るわけねえだろ、と胸の内で怒鳴り散らす。タイムカードすら押せず、戸惑っている社員多数。うんざりしている社員多数。主任が見えて喜んでいる社員少数。
俺は御多分にもれず多数派だし、妙に吐き気をもよおしてきた。主任がグリエリアスに見えてくる。
グリエリアス。あれは悪魔の飲料だ。確かにスーパーなドリンクだ。ハイパーマックススーパーありえない。
グリエリアス……。
「愛が足りない! わかるか? 愛だ! 愛とつく言葉は一つしか無い! 挨拶だ!」
「チィッスッ!」
うぜえ。
「愛ある挨拶なら尚更いい! だろう!?」
「チッス! ウィッス!」
死ね。
「だからあたしは貴様らの為に! 愛ある作業のもと! マスコットキャラクターを開発したァッ!」
さすが主任、すごいズレてる。
才能の無駄遣いとはよく言ったものだ。褒めてやろう。俺が富裕層なら百億ポンと叩きつけているレベルで。
「その名も『愛拶グール第一号』だァッ! どうだ、最強だろう!?」
もうわけがわからない。死んでしまえ。
いっそ作業中に補填機械に巻き込まれて頭パーツになればいい。いくら主任でも上等な頭部になるだろう。
「そして、それを事務所に配置してやった。泣いてもいいぞ、貴様ら」
お前が泣くまで殴んぞコラ。
「あー良いことした。貴様らが喜びと愛にむせび泣く姿を肴に酒でも飲んで寝るわ。完徹したし」
「永眠しろこの野郎」
「……誰か、何か言ったか? おお? テメコラグリエリアス飲ますぞボケ。グールにされたくなかったら手ェ上げろ粉微塵にすんぞハゲ」
なぜだろう。今になって頭痛が吹き飛んで、全身が震えだしてきた。進藤さんにも今になら勝てる。
「おお? テメエか? 目ェあわせろよ。テメエか? 何ニヤついてんだ殺すぞボケェッ!」
鋭い拳撃が水月を貫く。おっほぉなんて声を出しながら、最前列の男が屈した。おろろろ言いながら口から朝食の残骸を吐き出し床を汚している。すえた匂いが広がった。清掃のおばちゃんが可哀想。
でも、幸せそうな横顔が微かに見えた。良かったね。
一人一人睨んでくる主任は、さぞかし暇なのだろう。やがて十数人の最後尾、つまるところ俺の目の前までやってきた。
「……テメエだな」
びく、と身体が跳ねた。確かに無意識で、俺は五センチほど弾けたように跳んだ。
「な、なぜでしょう。ふ、ふへへ?」
「言っておく!」
主任が吠えた。
「あたしは野郎じゃねえ! ナイスバディなグッドグァールだボケ!」
ついでとばかりに裏拳が俺の顔面を穿った後、彼女はガキ大将を彷彿とさせるような態度で、肩で風を切り視界から失せた。
もうほんと、死ねよ。
事務室に入るとにこやかな笹原さんが頭を下げている。作業を止め、カウンターできれいな角度のお辞儀をした。
「おはようございます。お仕事、頑張ってくださいね」
語尾にハートが見えた気がする。
艶やかな黒髪を背中まで流したロングストレートで、その事務員の制服すら何らかの衣装に見えてしまうほど美麗な女性だった。こんな美人がこの世に存在していいのか――そんな具合の、工場の紅一点だ。
俺はぞろぞろとタイムカードを切っていく列に並んで、出勤を押し、タイムカードを切る。
そうして笹原さんと他愛もない話でもひりだそうかと振り向いた瞬間に、カウンター脇に異形をみた。
「ヴァルヴォヴォヴォヴォギャバン」
何事だ。グールが居るぞ。俺は心のなかで叫んだ。
「ヤマザキ! グール持ってくんじゃねえ!」
と叫ぶも、他の同僚たちは既に事務所を後にしたところだった。この場には、俺しか居ない。
カウンターの隣に、グールが居る。いっそお化けのほうが気が楽なくらい、実体のある化け物だった。
――そういえば、これが主任の言っていたグールか、と思い出す。さすがはグール、さすがに主任よりインパクトがある。
「連中、逃げやがったな……」
「記念すべき挨拶一人目ですね」
「あ、挨拶……だけ、なんですよね?」
全身焼けただれたようなシルエット。黒く沈んだ瞳。無用なまでに鋭く伸びた爪。壊れた声帯が紡ぐ挨拶。
愛のある? 馬鹿野郎、憎悪の塊じゃねえか。笹原さん食われたらマジで主任殺すぞマジで。
「ええ、主任に間違いはないそうですから」
「それは、主任が言ったんすよね」
「はい」
穢れのない笑顔は、なぜだか説得力があった。
「笹原さんが信じるなら、笹原さんが信じる主任を信じます」
よく見れば、グールの首から小さなホワイトボードが吊り下がっている。殴り書きで、『愛挨グール一号。おはよう、こんにちは、こんばんわを喋る』と雑に書いてある。ほぼ箇条書きだった。
「ほら、挨拶返してみたらどうです?」
「え、……え?」
「おはよう、って言ったみたいですし」
「完全にヴァルヴォヴォヴォヴォギャバンって言ってたじゃないですか」
「はい」
「はい?」
いいから、と彼女は急かすように言ってくる。いくら笹原さんのお願いでも、限界ってものがある。具体的には俺の貯金残高までだ。さすがにヤミ金に手を出す根性はない。
恐る恐る、近づいてみる。腕を伸ばし、爪が届く距離は一・八メートル。踏み込めば二・六メートル。大分距離をとっても、相手が勢いをつければ五メートルあったって安心は出来ない。
ジャンプを買ってくれば良かった、と思う。コロコロの方がいいか。まあそんなことはどうでもいい。思えばここにパッと出てシュッとお腹を守ってくれるわけでもないし。今すぐトレースオンしたいけど、俺には出来ない! 俺がマスターだ、来いセイバー! 来ない。来るわけない。俺は頭がおかしくなってしまったのか。
「お、お、お、お、お、お、お」
「朝は、おはよう、ですよ」
「は、はは、ははは」
「笑ってないで」
全身が震える。もう進藤さんを凌駕した気がした。
「お、おおお、うおおおおおはよう!!!」
「ヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァ」
「さっきと違う!」
笑ってんのか!? あれは笑ってんのか!? 怒ってんの? 狂ってんの? もう殺されちゃうの?
クソ、笹原さんだけはやらせねえ!
と思ったが、グールは動かない。ただヴァヴァヴァと繰り返すだけだった。
やはり主任の開発だ。ぶっ壊れてやがる。
「ヴァルヴォヴォヴォヴォギャバン」
「うおっ」
ジョロ、とパンツが濡れた。
俺は笹原さんの前で些細な量の失禁をしてしまったというトラウマと、単純なグールの恐怖を植えこまれてしまった。
俺は豆腐のようなメンタルで、主任に対して面と向かって悪態をつく決意をした。