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何もおこらない

作者: つちふる

 最初は、仁志が小学校四年生のときだった。

 学校帰り。いつものように友達とサッカーをしようと公園へ急いでいると、手のひらほどもある大きな蝶が目の前を覆うように羽を広げて道をふさいだ。異様なほど大きな蝶。しかし、仁志は恐怖や気持ち悪さを覚えることなく、ひらひらと動く青色の羽に、透明に限りなく近い青い羽にただ見とれていた。

《お願いがあるのです》

 それは声として届いたのではなく、『言葉』という形で理解したのでもなかった。喩えるのなら、言葉以前の『思い』そのものが頭の中に染み込んできたと言うのが一番近い気がする。その状況をさほど戸惑うことなく受け入れることができたのは、仁志がまだ素直で、心の歪みも少なかったからだろう。もしくは、単純だったからだろう。

「なに?」

 蝶のそれとは違って、仁志は『思い』を言葉に、さらに言葉を声に変換して聞いた。それ以外の伝達方法を知らないから。

《私たちに力を貸してください》

「え?」

《本来、人の力を借りるのは違法なのですけれど、場合が場合ゆえ仕方ないのです》

「場合?」

《準備はよろしいですか? では、この鱗粉を吸ってください》

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 勝手に話を進め、青い鱗粉を放ち始める蝶に仁志は慌てて制止の声をあげた。もしこの時、何も言わず、考えもせずに蝶の鱗粉を受け入れていたらどうなっていただろうか。今でも、そんなことを時々思う。

《力を貸してはくれないのですか?》

「何をさせる気なの?」

《私たちの力では動かせない、ある物を動かしてほしいのです》

「あるモノって?」

《あなたがたにとっては片手で扱えるような、とるにたらない物です。でも、私たちにとっては大き過ぎて手に負えないもの》

「なにそれ」

《すぐにわかります》

 ですから力を借してくれませんか、と蝶は言う。言葉を用いずに。

「悪いけど、ほかの人に頼んでくれないかな」

 そのころの仁志は不思議な現象を不思議と思わず、素直に受け入れることが出来る子供だった。だけど、それゆえに蝶の頼み事をただ面倒くさいと思ってしまい、それよりも友達と遊ぶ楽しさを選んだのだった。仁志にすれば、『蝶から頼み事をされる』という不思議な現象も、赤の他人から迷惑な頼み事をされるのと同レベルの出来事に過ぎなかったから。

《どうしても駄目でしょうか》

「友達が待ってるんだ。ほら」

 仁志が指さす方向には、サッカーボールを蹴りあっている少年たちがいた。ランドセルはベンチに放り投げられ、ヘルメットは地面に転がっている。学校帰りに公園でサッカーをするのが仁志たちの習慣だった。

「仁志! はやくしろ!」

 友達の一人でリーダー格の雅喜が、まだこない仁志に気づき、手を振って叫ぶ。

「何やってんだよ!」

「すぐ行くよ! ――ほら、もういかないと」

《そうですか。…残念です》

 ずいぶんと落ち込んでいるらしい蝶を見て仁志は後ろめたい気持ちを覚えたが、それでも優先すべきは友達とのサッカーだった。

「僕じゃなくて、もっと大人の人に頼むといいよ。ここら辺にいる大人は暇な人ばかりなんだから。ムショクって言うんだって」

《そうですね。…そうします》

「うん。じゃあ、僕はいくから」

 仁志はバイバイと軽く手を振って、友人たちの待つ公園へと駆けだす。

「何やってたんだよ」

 ようやくやってきた仁志に、雅喜が非難の眼差しを向ける。リーダーの彼は団体行動を乱すことを嫌うのだ。

「ごめん。ちょっと頼み事をされたんだ」

「頼み事?」

 雅喜は首をかしげた。彼が見た限りでは、仁志のほかに人は見あたらなかった。

「誰に?」

「蝶」

「うん?」

「すごく大きい蝶。何かを動かしたいものがあるから手伝ってくれって頼まれたんだ。自分じゃ無理だって」

「………」

「でもサッカーがあるから駄目だって、ちゃんと断ったよ」

 仁志は団体行動を乱さない、協調性のある自分をアピールするかのように誇らしげに言う。

「あ、そう」

「うん」

「…まあ、いいや。とにかくチーム分けするぞ」

 雅喜は仁志のおかしな言動に慣れていたので、あまり深く追求せずに皆を集めた。

 そして、まもなく3対3のミニサッカーが始まり、誰もが夢中になってボールを追う頃には、雅喜はもちろん、仁志も蝶のことをすっかり忘れてしまっていた。

 それ以来、蝶の姿を見ることはなかった。

 

                       ★


 二度目は、中学に入り二年に進級して間もない頃。

 仁志のクラスに時季はずれの転校生がやってくることになった。職員室へ偵察に行った男子数名の報告によると、転校生は女子、しかもめっぽう可愛いとのことで、男子はむろん、女子のほうも色めきたっていた。仁志も男子の一員として、しっかり期待していたのは言うまでもない。しかし、同時に妙な胸騒ぎも覚えていた。それは恋に落ちる予感―― と言うような甘酸っぱい感覚ではなく、吊り橋の上でふと眼下をのぞき込んだときの、あの悪寒めいた感覚に近かった。

「知っているのも多いと思うが、このクラスに新しい仲間が増えることになった」

 朝のホームルームが始まると、担任教師はさっそく転校生の紹介を始めた。普段はまとまりがなく、好き勝手に騒いでは怒られている生徒たちも、今日ばかりは静かにしている。

 担任は「普段からこれぐらい静かにしろよ」と苦笑しながら、教室と廊下をつなぐスライド式のドアを開け、そこで待っているらしい転校生に「入りなさい」と声をかけた。

 二拍の間をおいて彼女がゆっくりと教室に入ってくると「おおっ」という声が男子側から、「可愛い!」という率直な感想が女子側から漏れた。転校生は偵察部隊の前情報どおり、確かに美人だったのだ。

「じゃあ、自己紹介して」

「はい」

 彼女が一歩前に出ると、教室は演奏が始まる直前のクラシックコンサート会場のように静まりかえった。生徒全員が注目するなか、彼女はゆっくりと頭を下げる。

「…沖美玲子と言います。父の仕事の都合でこちらへ引っ越してきました。よろしくお願いします」

 凛とした声。それは冷たいわけではないけれど、どことなく人を拒絶しているような響きがあった。――と感じたのは仁志だけらしく、周りは歓迎の拍手でわき上がっていた。

「ええ、本人の自己紹介にもあったように、沖美はお父さんの都合で中学生活の半ばで転校してくることになった。少し特殊な状況だが、みんな仲良くするように。くれぐれもイジメをしたり、除け者にしたりするなよ」

 少なくとも第一印象の限りでは、その心配はなさそうだ。あとは彼女に打ち解けようとする気持ちがあれば、すぐに馴染むに違いない。

「沖美の席は、あそこの空いてる席だ」

 担任が指さしたのは、中央の列の最後尾。隣にはお調子者の木内雅喜が座っている席だった。

「いいか? …まあ、良くても良くなくてもあそこしかないんだけどな」

「いいです」

 玲子は淡々と答え、自分の席へと歩いていく。

「ずるいぞ雅喜!」

「沖美さん気をつけて。そいつは、ぎりぎり犯罪者側だ」

 男子勢から罵声を浴びながらも、雅喜は嬉しそうだ。罵られるのが好きなわけではない。多分。

「よろしく」

「ええ。よろしく」

 雅喜が満面の笑みで声をかけると、玲子も相好を崩した。一見、無表情でクールそうに見えるが、愛想がないわけではないらしい。笑うとずいぶん印象が変わる。

「沖美がクラスに馴染めるように、みんな協力しろよ。わからないことは教えてやれ。それから、自己紹介はいっぺんにするな。いきなり全員の名前なんて覚えられないからな」

 担任の言葉に、生徒達は「はい」と答える。転校生を前に良い子ぶろうとしているのか、妙に素直だ。普段を知っている身としては、思わず苦笑をもらしたくなる。

 転校生の紹介が終わると、いつも通りのHRが始まった。時間がないので担任お得意の無駄話が省かれ、必要な連絡事項だけが話される。

「――それから、このごろ校内を不審者がうろついていると言う報告があった。目撃されているのは放課後、それも夜に近い七時ぐらいで、いずれも部活帰りの生徒たちが見ている」

「男ですか?」

「断言できないが、おそらく男だろうという話だ。体格はだいたい俺ぐらいで、俺みたいな眼鏡をして、髪の量も俺ぐらいらしい」

「先生じゃん」

「先生か」

「先生だな」

「こんなところにいたら駄目でしょ。ほら、出頭出頭」

「お前らなあ」

 うんざりしたように担任がため息をつく。

「何で俺が、わざわざ自分の学校で不審者まがいのことをしなきゃならんのだ」

「何でそんなことするんですか?」

「だから、俺じゃないっ」

 話によると、その不審者は学校の正門から校舎の正面玄関の間に植えられている桜並木に隠れるようにして、部活帰りの生徒たちを観察していたらしい。誰かを捜しているようだったという証言もある。今のところ被害を受けた生徒は出ていないが、何かあってからでは遅いので、しばらく教師達が当番で正門に立つことになった。

「と言うわけで、怪しい奴を見つけたら当番の先生に報告すること。何があるかわからないから不審者には近づかないように。とくに男子。手柄をたてようとか考えるなよ。誰も褒めないし、報償も出ないからな」

 担任は念を押して警告するが、マンガやゲームの影響で自分には特別な力が眠っていると勘違いしている男子生徒の多くは、すでに不審者を捕まえる気でいる。中には、不審者を捕まえたことが翌朝の新聞に載り、それが教師によって報告され、女子から熱視線を浴びせられるところまで飛躍している者もいた。

「はい。じゃあ、今日も一日がんばるように」

 HR終了を告げるチャイムが鳴り、担任が教室を出ていくと、すぐに女子の大半と社交能力にぬきんでた男子が沖美の周りを取り囲んだ。女子の目的は、おそらくこの見栄えがよい転校生を自分たちのグループに引き入れることだろう。男子は単純に自己アピールが目的だ。沖美玲子は基本的に無表情で受け答えしているが、ときおり見せる微笑でうまくバランスをとっていた。それが計算されてのことかどうかはわからないけれど、いずれにしてもこの分なら孤立することはないだろう。遠目で彼女を眺めながら、仁志はそんなことを思う。

「すごい人気だね」

 仁志に話しかけてきたのは、中学に入ってから仲が良くなった倉沢だった。倉沢は、少し背が低くて、多少ふとり気味で、やや音感がなく、かなり運動能力を欠いているものの、他の成績は抜群に良いという優等生気味の男だ。ちなみに当時の仁志は、全てにおいて中ぐらい、あるいはそれより少し上という、器用貧乏の代表格みたいな生徒だった。

「仁志は行かないの?」

「お前は?」

 質問に質問で返すと、倉沢はひょっとこのような顔になった。

「あんまり興味ない」

「へえ」

「――ってわけじゃないんだけど」

「あるのかよ」

「そりゃ、あるよ。この時期の転校生なんて珍しいし、おまけに結構かわい子ちゃんだもの」

「かわい子ちゃん」

「でも、あの様子じゃ今行ったところで名前も覚えて貰えないだろうしね。もう少しほとぼりが冷めてから話しかけるよ」

「なる、ほど」

 考えあっての静観ということらしい。沖美の席周辺はさらに人だかりが増えており、もはや彼女の姿は見えない。ただ、ときおり聞き取れる会話のなかで、沖美が左利きであること、父親が転勤族でもう四回目の転校だといういこと、前の学校では吹奏楽部に所属していてフルートを担当していたことなどがわかった。

「仁志は」

「うん?」

「本当に興味がなさそうだね」

 一瞬、返答に詰まる。べつに興味がないわけではない。むしろ、あると言っていいだろう。倉沢の言うとおり、この時期の転校生は珍しいし、しかも美人だ。さらに、無愛想かと思いきや必要最低限の愛想もあるようで、稀に見せる笑顔も魅力的ときている。

 だけど――

「何となく、苦手な感じだ」

 仁志は思い浮かんだ言葉を、そのまま素直に口にした。

「苦手って。まだ話もしてないのに。 ちょっと評価するのが早すぎない?」

「うん。何だろうな、これ。一目惚れの反対? 一目厭い?」

「そんなのあるの?」

「さあ」

「要するに、美人が嫌いってこと?」

 そんなわけがなかった。仁志は、どうせつき合うなら顔立ちが良いほうが好ましいと考える、俗っぽい人間である。隣のクラスの君島さんや、クラスメイトの三枝さんとつき合えたらさぞ気分が良いだろうなと妄想したりする、ごく一般的な男子生徒だ。ならば、この二人より美人な――とは、仁志の主観的な評価である。しかし、それなら尚のこと―― 沖美玲子に興味を抱いても良さそうなものだろう。それなのに、仁志は沖美玲子に対して『なるべく関わりたくない』と思ってしまった。そう思わせたのは彼女の容姿ではなく、もちろん性格でもない(まだ話もしてないのだ)。

「じゃあ、何が気にくわないの?」

 むりやり理由をつけろと言うのなら、

「…雰囲気?」

 そう言うことになるだろう。仁志は、沖美玲子が身に纏っている雰囲気が苦手なのだ。

「まあ、確かにぱっと見ると素っ気なさそうな感じはするけどね。でも、ああやって話をしたり笑ったりしてるところは凄く良いと思うけどなあ。…人だかりで良く見えないけど」

 倉沢はひょいと肩をすくめた。

 彼女を見ると、なぜか背中に冷たい手を入れられたような悪寒が奔る。その感覚がどうにも好きになれない。近づきたくない。真夜中の墓地にいるような。崖の先端に立つような。しつけの悪い犬に手を近づけるような。そう説明しても、おそらく理解してもらえないだろう。

「まあ。そう、だな」

 だから、仁志は曖昧に頷いておいた。

 授業開始のチャイムがスピーカーから流れ、教師が教室に入ってくる。

「おい、何やってんだ。もう授業は始まってるんだぞ」

 生徒たちは慌てて席へと戻り、教科書やらノートやらを取り出して遅い準備を始める。仁志はすでに準備を終えていた。優等生ではないが真面目ではあったのだ。この頃までは。

「そう言えば、転校生が入ったのはこのクラスだったな」

「そうでーす」

 生徒の誰かが調子よく答える。

「じゃあ、ちょっと立って自己紹介してもらおうか。名前と顔を覚えないといけないからな」

 沖美は席を立ち、軽く頭をさげて簡潔な自己紹介をした。

「沖美玲子です。よろしくお願いします」

「国語を担当している脇坂だ。授業の進み具合は沖美が前にいた学校と同じくらいだと思うが、もしわからないことがあれば言ってくれ」

「はい」

「うん。じゃあ、授業を始める。教科書を開いて。今日は124ページから」

 沖美が再び席につき、教科書を広げる。隣に座る雅喜が何やら話しかけると、沖美は小さく口を動かした。何かおかしなことを言ったらしく、雅喜が笑う。沖美は無表情のまま、さらに一言二言つぶやいた。雅喜は笑い顔のまま頷き、何かを肯定する。早速打ち解けたようにも見えるし、壁があるようにも見えるやりとり。仁志はその様子をぼんやりと眺めていた。

「笹崎、読んでみろ」

 ふいに名前を呼ばれ、仁志は慌てて教科書を広げる。何も聞いていなかった。聞いていなかったからこそ、指名されたのだろう。

「どうした?」

 とっさに浮かんだ対応策はふたつ。ひとつは、いちかばちか適当なところを読んでみる方法。もうひとつは、聞いてませんでしたと素直に謝る方法。リスクは高いが一発逆転を狙える前者。被害を最小限に抑える後者。どうするべきか。

「なんだ、聞いてなかったのか?」

 しらじらしい。仁志は想像の中で舌打ちしながらも、ここは素直に謝るべきだと判断する。下手なことをして嫌味が長引くのだけは避けたかった。

『124ページ、3行目』

 それは、ささやくような小さな声だった。誰の声なのか咄嗟にわからないが、はっきりと聞き取ることが出来た。空耳ではない。あとはこの助言を信じるかどうか。

「――私は臆病だった」

 仁志は信じた。というよりも、ほとんど反射的に教科書を読んでいた。直感に近い感覚で、助言が正しいと判断したのかもしれない。

「自分が傷つくことを何よりも恐れ、人を傷つけることを誰よりも恐れた。しかし、それゆえに人を深く傷つけ、自分も深く傷つくようなこともしばしばあった。例えば、もうずいぶんと昔の話になるが、私にはTと言う友人がいた。Tは嘘をついたり冗談を言うのが苦手な、また嘘や冗談を真に受けてしまう、真面目で純粋な男だった」

「そこまででいい」

 嫌味をいいそびれた教師は、当てがはずれたような表情で仁志の朗読を止めた。

「つづきを、山口。読んでくれ」

「え、俺?」

「そうだ」

「あ、えっと」

「どうした? 笹崎の読んだ後を読めばいいんだぞ」

「………」

「聞いてなかったのか?」

 新たな獲物を見つけ、教師の顔が喜怒にゆがむ。

 粘度の高い嫌味を受ける山口をながめながら、仁志はホッと息をついた。これは助言してくれた相手に感謝しなければならない。あれがなかったら自分が山口の立場になっていたに違いないのだから。

『――聞こえる?』

 仁志はぎょっとして顔を上げた。

 声。

『聞こえてるでしょ?』

 今度はさっきよりも明瞭に聞こえる。女性の声だ。

『私の声が聞こえてたら、ちょっと自分の消しゴムを落としてみて』

 左隣に座る佐伯良子だろうか。仁志が勢いよく顔を向けると、佐伯良子は驚いたように目を大きくさせた。

「え、なに? どうかした?」

「今、何か言った?」

「…え、なに? どうかした? って言った」

「いや、その前」

「その前? ……わあ、お金持ちなんだ」

「は?」

「だから『わあ、お金持ちなんだ』よ。さっき沖美さんと話してたときの相づち」

「あ、そう」

 つまり彼女ではないということだ。

 それなら、後ろの席に座る松本里江だろうか。

「…なに?」

 後ろを振り返るなり、つっけんどんな声で応対された。眼鏡越しに向けられる視線の鋭さからして、彼女でないとわかる。ついでに好かれていないこともわかる。

『おかしいな。聞こえてるって思ったんだけど』

 また聞こえてきた。今になって気づいたことだが、この声はどうも耳から鼓膜を震わせて聞こえてくる、いわゆる普通の声ではない。何というか、頭に直接ひびいてくるような声なのだ。

『聞こえてないの?』

 いや、聞こえている。

 聞こえているからこそ、反応しない。反応できない。

 嫌な予感がするのだ。声に答えたら何かのきっかけを与えてしまう、何かが始まってしまう。そんな予感。

『もう一度言うよ。私の声が聞こえてたら、消しゴムを落としてみせて』

 消しゴムはシャープペンシルの隣に置いてある。色も形もシンプルな、ごく一般的な消しゴムだ。ただ、時々ちぎって投げあいをするせいで、先の部分が虫に食われたようにでこぼこしている。

 そう言えば女子の間で、好きな人の名前を消しゴムに書き、誰にも気づかれずに最後まで使い切ると両思いになれるというおまじないが流行っているらしい。消しゴムの表面に名前を書き、ケースで隠して使うのだ。

 この話を聞いて仁志が疑問に思ったのは、二人の女子が同じ男子の名前を書き、お互い消しゴムを使い切った場合はどうなるのだろうと言うことと、同姓同名の男子がいたらどうなるのだろうと言うことだった。そもそも両思いにしてくれるのが誰なのかもわからない。

 神様なのか。消しゴムの精なのか。あるいは科学的根拠のある、因果律に裏付けされた自然現象なのか。

「仁志君」

 また、声がした。しかし今度の声は先ほどの声とは違い、耳から入って鼓膜を震わせるタイプの、ごく普通の声だった。

「仁志君ってば」

 仁志は声の方向へ顔を向ける。佐伯良子だった。

「なに?」

「消しゴム、貸してくんないかな?」

「消しゴム?」

「消しゴム」

 消しゴム。今日はずいぶんと消しゴムがちやほやされる日だ。

「なくしたのか?」

「このあいだ終わっちゃってさ、新しいの持ってくるの忘れたの」

「ん」

 仁志は消しゴムを手に取り、良子に渡す。

「…なんか、ずいぶんデコボコした消しゴムだねえ。ちぎって投げた感がすごいよ」

「お前、殺す」

「なんでよ」

「ま、使えるんだから問題ないだろ」

「使いづらいけどね」

 顔をしかめながらも、良子は巧みに書き損じを消していく。

「はい、返す。ありがと」

「ん」

 仁志は差し出された消しゴムに手を伸ばしかけたところで、ふと動きを止めた。

「どしたの?」

「えっと…」

「これは君の消しゴムだよ」

「知ってるよ」

「うん」

「うん」

「…じゃあ、はい。どうぞ」

「あのさ」

「うん」

「それ、ちょっと落としてみて」

「うん――んうん?」

 良子は奇妙な声をだして仁志を見た。言葉の意味が分からなかったのではなく、言葉の意図するところがわからないといった感じだ。

「落とすって、これ?」

「それ。消しゴム」」

「これ、消しゴム」

「お前、それ、床に落とす」

「私、これ、床に落とす。……なんでよ」

「まあ、ちょっとした実験?」

「実験?」

「実験」

 落ちるのは仁志の消しゴムだけど落としたのは仁志ではないという場合、声の主はどう判断するか。そんな実験だ。もしこれでも声をかけてくるようなら、ちゃんと話を聞いてやろうと仁志は思う。

「何かよくわかんないけど。じゃあ、落とすよ?」

 仁志が頷くと、良子は親指と人差し指でつまんだ消しゴムをそっと離した。

 消しゴムは当然のように床に落ち、二度三度と跳ねたあと、仁志の足下で止まった。

「うん。わりと良いところに落ちたんじゃない? 実験は成功?」

 何やら納得の出来栄えだったらしく良子は満足そうに頷くが、仁志は返事をせずにじっと耳を澄ませている。

 声が、聞こえてこない。そのままの状態でゆっくり十を数えて待ってみたが、やはり何の反応もない。仁志はさらに十を数え、あらためて声が聞こえてこないことを確認してから、身をかがめて足下の消しゴムを拾った。どうやら声の主は聞こえていないものと判断したらしい。あるいは既に見切りをつけられていて、今の場面を見ていなかったのかもしれない。

「おーい。実験はどうなったのかって聞いてるんですけど。私」

「ん? うん。まあ成功、と言えば成功。失敗と言えば失敗」

「何それ」

「やっぱ、返事をするべきだったかな?」

「誰に?」

 ひょっとして自分は、窮地を救ってくれた相手に対して大変失礼なことをしたのではないだろうか。そんな罪悪感さえ生まれてきた。

「実は聞こえてました」

 とりあえず、つぶやいてみる。

「何が?」

 反応したのは良子。

「君の声」

「私?」

「違うよ。…もしもし。俺の声、聞こえてますか」

「そりゃ、こんだけ近くだからね」

「だから、お前じゃないっての」

「じゃ、誰よ」

 結局、それから声が聞こえてくることは二度となかった。

 ひょっとして、あれは転校生の声だったのではないか。しばらく経ってから、仁志はそんな疑いを持つようになった。聞き慣れない声だったことや、彼女が現れるまでそんな体験をしたことがなかったことからも、沖崎玲子が声の主だったと考えるのが一番しっくりくる。

 確かめる機会は何度かあった。席替えで同じ班になったり委員会が同じだったりと、話をすることは意外と多かったのだ。ただ、どう聞いていいのかわからなかった。

「そう言えば沖崎さ。転校してきた日に話しかけてこなかった? ……俺の心のなかに」

 彼女が声の主であると言う確信があればそう聞いても良かっただろうけど、そこまでの自信はなかった。もし違ったら、とんだ恥をかく。それどころか、下手な口説き文句だと思われたあげく、クラスに広められたりしたら学校に来られなくなる。そんな恐怖が仁志の口をふさいだのだ。

 中学三年になると、沖崎玲子はまた転校することになった。理由は転入してきた時と同じく、父親の仕事の都合。唐突な別れに、当然クラスの仲間たちは悲しんだが、彼女自身はと言うと、まるで何かを成し遂げた後のような晴れ晴れとした顔をしていた。

「ここはもう大丈夫だから」

 挨拶の締めくくりに、沖崎玲子はそんなことを言った。それがどういう意味なのか、何が大丈夫になって、今まで何が大丈夫でなかったのか、誰も理解できず、聞くこともできず、彼女もまたそれ以上なにも言わなかった。

 目立った存在ではあったけれど、一緒に過ごした期間が一年程度しかなかったせいか、沖崎玲子が去ってもクラスはさほど陰鬱になることも悲しみに包まれることもなく、すぐに以前の雰囲気を取り戻した。

 彼女に関する話題もやがて誰も口にしなくなり、まるで始めから存在していなかったかのように沖崎玲子は忘れられていく。

 仁志もまた『聞こえるはずのない声が聞こえた』という不思議な現象や、声の主が沖崎玲子ではないかという疑念をすっかり忘れ、至って平和で平均的な中学生活を送っていくことになる。

 沖崎玲子に会うことは、それから二度となかった。


                       ★


 最後は高校に入って三年目の夏。

 一学期を終え、周囲が夏休みという名の夏期講習や受験勉強に明け暮れている中、仁志を含めた数人の生徒は名前通りの夏休みを満喫していた。

 すでに進学が決まっているから余裕があったとか、成績がきわめて優秀だから必死に勉強する必要がなかったとか、そう言うわけでは全くない。

 単に危機感がなかったのだ。

 幼稚園から小学校、小学校から中学校までは義務教育だったから当たり前に進学できたし、高校進学のさいに始めて経験した試験もあっさりとパスできた自分である。大学受験もまたあっさりと、軽く足をあげて階段を上る程度の努力でパスできると思いこんでいたのだった。

 仁志は溶け出したアイスクリームのような、だらだらとしまりのない夏休みを過ごしていた。朝から日が暮れるまでテレビゲームに没頭したり、一日中パジャマのままで過ごしたり、同類の友人と希薄な一日を過ごしつつ、お互い勉強が全くはかどっていないことを確認しあって安堵したり。

「将来、絶対に後悔するよな。俺ら」

「そりゃ、するさ。しないはずがない」

「このままずるずる過ごしてるうちに受験を向かえて、何か適当なさ、とにかく入れる大学校に進学して、気がついたらしょっぼいサラリーマンとかになってるんだよ。で、休み前は安い居酒屋の片隅で、こんなはずじゃなかったとか、もっと勉強しておけば良かったとか、真面目に進路を考えておけば良かったとか言うんだぜ。きっと」

「しょぼいサラリーマンにさえなれないかもよ」

「うわっ、あれか。引きこもりでニートってやつか?」

「家で一日中ゲームをしながら、親に養ってもらう日々。まあ、今も同じようなもんだけどさ」

「そう考えると、大したことじゃない気がしてくるな」

「でも、年齢は三十とか四十だぜ。それが親からお小遣いをもらって生活する」

「そう考えると、寒気がしてくるな」

「……勉強、するか」

「そうだな。勉強しよう。少しでもましな未来のために。…まあ、でも今日は無理だろ。お前とこうしてる時点で」

「確かに。明日から頑張るしかないな」

「ああ。これから毎日三時間ぐらい勉強すれば、どうにかなるだろ」

「いけるいける」

「じゃあ、今日ぐらいは目一杯あそぶか」

「だな。遊び納めだ」

 そう言って二人はゲームコントローラーを手に取り、テレビ画面の向こうに広がる剣と魔法の世界へと旅立っていく。

「こういう世界に生まれてたら、俺の人生も充実してただろうになあ。そう思わん?」

「その世界の主人公になれるんだったら、そうだろうな。でもまあ、俺らはせいぜい店で物を売るとか、町を徘徊して『ここはドグマの町です』とか言う役だと思うぞ」

「夢のない話をするなよ」

 こんなやりとりが幾度も繰り返され、それがいつのまにかテンプレートとなり、夏休みは順調に浪費されていった。


               ★


 その日も途中まではテンプレート通りだった。今日で最後と言いながら二人はコントローラーを手にとり、ゲームにふける。

「こういう世界に生まれてたら、俺の人生も充実してたよなあ。絶対」

 友人が架空世界へのあこがれを口にするのも、いつも通り。

 仁志もだから、いつもと同じように答える。

「その世界の主人公になれる保証があるなら、そうだろうけどな。でもまあ、俺らは物を売る商人とか宿屋の主人ぐらいが良いところで、下手すりゃ決められた台詞だけを繰り返す町人役だぞ」

「じゃあ、主人公になれるって保証されていたら行くんだな?」

「それが現実―― あれ?」

 仁志はゲームをする手を止め、思わず友人を見た。自分のあとに続く台詞がいつもと違う。ここは「夢のない話をするな」と怒るところなのに。

「行くだろ?」

「…いや、どうだろ」

 仁志は困惑して曖昧な言葉を返す。テンプレートを外れた話の展開に、頭がついていかない。

「どうだろって、お前。え? こっちの世界のほうが良いの?」

「いや、良いも悪いもないだろ。…て言うか『こっちの世界』って何だよ。『あっちの世界』があるみたいな言い方だな」

「そう」

「ん?」

「そうだよ」

「え?」

「あったんだ、あったんだよ」

 友人は仁志の肩をがっしりとつかんだ。

「何が」

「あったんだ、あったんだよ!」

「だから何が」

「異世界が。この世界じゃない世界が」

「は?」

「この俺の、俺たちの望む世界が」

「………」

「あったんだ。あったんだよ。本当に!」

 これ以上ない真剣な面もちに、抵抗するのは危険だと仁志は瞬時に判断する。

「うん。そうか。やったな。おめでとう。いや、おめでとう」

「まて。簡単に納得するな。お前、信じてないだろ」

「いや、信じてるよ?」

「ほんとか?」

「ああ。だからさ、今日はもう帰って休め」

「全然信じてねえだろ! あのな、俺は疲れて幻覚を見たわけじゃないし、冗談で言ってるわけでもねえぞ。めちゃくちゃ本気だ」

 確かに、友人の目は嘘や冗談を言っている目ではない。それはどこまでも真剣で、純粋で―― ちょうどネズミ講に引っかかっていた親戚のおばさんの目に良く似ていた。

「そうやって憐れんだ目をしているのも今のうちだ。とりあえず」

 友人はポケットの中をまさぐって何やら取り出し、

「これを見ろ」

 と、机の上に置いた。

 仁志は言われるまま、机の上の物体を観察する。

 それは人差し指ほどの大きさで、おおまかに三つのパーツからなっていた。上の部分は何かの動物と思わしき彫刻が施され、そこから細長い棒が伸び、下の部分は複雑な形の凹凸が刻まれている。材質は金属だろうか。でも、それにしては妙な柔らかさある。触れた瞬間も冷たさを感じなかった。

「何だかわかるか」

「…鍵?」

「そう、鍵だ。でも、ただの鍵じゃあない」

「お前んちの鍵?」

「お前、人の話をきいてるか? そういう当たり前の鍵じゃないんだよ。これは特別製だ。いいか」

 友人は鍵を手に取るとやおら立ち上がり、部屋を出ていこうとする。

「なんだ、帰るのか?」

「お前んちって、鍵ついてるの玄関だけ?」

「いや、窓にもあるけど」

「鍵穴のあるやつだよ」

「それなら玄関だけ。のはず」

「よし。じゃあついてこい」

 言うなり友人はさっさと部屋を出ていってしまう。取り残された仁志は後を追おうとせず、しばらく手近にあった漫画本をパラパラとめくっていたが、自分を呼ぶ大声がするとさすがに無視するわけにはいかなくなり、面倒くさそうに立ち上がった。

「遅い。何してんだよ。ま、いい。とりあえず外に出るぞ」

 仁志に言い返す間もあたえず、友人は靴を履いて外へと向かう。仁志もしかたなくサンダルを履いて後に続いた。

「よし。じゃあ、玄関をしめろ」

 命令口調であることに多少の反発を覚えながらも、仁志は言われたとおりにドアを閉めた。玄関のドアはいたってシンプルな木製タイプで、鍵穴はドアノブと、それよりもやや上にもう一つ、補助の鍵穴が付いている。

「閉めたぞ。これでいいのか」

「ああ。準備は整った」

 友人は満足そうに頷いて玄関の前に立つと、芝居がかったしぐさで仁志を顧みた。

「これから、俺が何をするかわかるか?」

「…まあ、何となく」

「言ってみろ」

「その鍵をドアの鍵穴に入れてまわす。とか、何かそんな感じだろ。多分」

 その結果どうなるのか。

 どうにもならないだろう。

 合わない鍵を入れたところで、どうにかなるわけがないからだ。

「ふむ、ほぼ正解と言っていいな。褒めてやるよ」

 友人はニヤリと笑う。

「お前、何かすごい偉そうだな」

「そりゃ、主人公になるんだからな」

「あ…うん」

 仁志は、もはや憐憫の目で友人を見ることしかできない。

「そんな目でみるなって。大丈夫、俺は正常だ」

「ああ、知ってる」

 正常じゃない奴はみんなそう言うことを。

 友人は鍵を天にかざし、太陽の光を反射させた。仁志は目を細めてその光景を見守る。

「これは、俺たちを進むべき場所へと――あるべき場所へと――誘ってくれる鍵だ」

 これがもし映画であったなら、序盤の山場になるだろう。壮大なBGMが流れだし、カメラはめまぐるしくアングルをかえ、友人と手にした鍵をアップにし、どこからともなく突風が吹いて二人の髪や服を強く揺さぶる―― そんな場面だ。

 もちろん、現実は違う。壮大なBGMは流れないし、めまぐるしくアングルをかえるカメラもないし、服や髪を揺らす突風も吹いたりしない。うすら寒い風が仁志の体内を通り抜けただけだ。

「じゃあ、やるぞ」

「ご随意に」

 友人は頷くと、合うはずのない鍵を玄関の鍵穴へと差し込んだ。

 普通、合わない鍵は最後まで差し込むことができない。型がずれているため、途中で引っかかってしまうからだ。無理をすると、入るどころか抜けなくなってしまうことさえある。仁志はそうした経験があったので、友人の試みも当然そうなるはずだと確信していた。

 しかし――

「……入った」

 友人の差し込んだ鍵は、何の抵抗もなく奥まで入っていた。まるで、我こそは正当な玄関の鍵であると言わんばかりに、ピタリと。

 仁志の身体を、さきほどとは意味の違う寒風が通り抜けた。

「おい見たか! 見てるか! ちゃんと入ったぞ!」

「そう、みたいだな」

 興奮してわめく友人に、仁志はつとめて冷静に答える。

「どうしてそんなに冷めてるんだ、お前は! …いや。いや、まあいい。どうせすぐに冷静じゃいられなくなるんだ。いいか、今から俺はこの鍵を回す。ガチャリとな。すると、どうなると思う?」

「ちゃんと回るなら、鍵がかかってドアが閉まるだろ。普通に考えて」

「ところが違うんだな」

「じゃあ、どうなる」

「その逆だ。扉が開くんだよ」

「いや、もう開いてるだろ」

「違う。開くのは異世界への扉だ」

 そう言って、友人はゆっくりと鍵を回し始めた。仁志は呆れつつもなぜか良くわからない緊張を覚え、その光景を見守っていた。

 本来なら回るはずのない鍵は。

『カチャリ』と。

 まるで、当然の義務と言わんばかりのスムーズさで一回転した。

 二人の間にジワリと沈黙がのしかかる。

「……回ったぞ」

「そうみたいだな」

 空気が変わった。

 友人は誇ることもはしゃぐことも忘れ、差し込まれた鍵を見つめたまま動かないでいる。自分はひょっとしたらとんでもないことをしたのではないかと、今さら思っているのかもしれない。仁志もまた、自分はひょっとしたらとんでもない場面に遭遇しているのではないかと言う、得体のしれない恐怖と好奇心で硬直していた。

「どう、なってると思う?」

 ようやく硬直の解けた友人が、つぶやくような声で仁志に問いかける。

「このドアの向こう」

「俺としては、普通に自宅の玄関があってほしい」

 余裕のある笑みを浮かべて答えたつもりだが、仁志の声は少しうわずっていた。

「…じゃあ、開けるぞ?」

「開けるのは良いんだけどさ。何て言うか… その、大丈夫なんだろうな。いろいろと」

「………」

「おい」

「いや、大丈夫。大丈夫だ。うん… 大丈夫」

「自分に言い聞かせてないか?」

「大丈夫。ここまでは話で聞いた通りなんだ。……よし、開けるぞ!」

 ようやく覚悟を決めらしく、友人はドアノブに手をかけた。

 たとえば、その話をしてくれた人は誰なのか。それはどんな内容だったのか。

 たとえば、この扉の先に別の世界が広がっているとして、それはどんな世界なのか。

 友人がそこへ行く目的は何なのか。行ったとして、帰ってこられるのか。

 そもそも、鍵はどこで手に入れたのか。

 疑問は幾つもあったけれど、仁志は何一つとして問い質すことができなかった。と言うよりも、口をはさむ余地がなかった。

 まあ、いい。

 とりあえず、全てを見届けてからだ。開かれたドアの向こうを見てから。それから。

 もし見慣れた玄関のままだったら、思い切り笑いとばしてやろう。

 腹を抱えて大袈裟に嗤って、さらに嫌味をひとつふたつ投げつけてやる。そうすれば、友人の目も覚めるに違いない。

 だけどもし、ドアの向こうに何らかの変化が生じていたら――

 知らない世界が広がっていたら――

 その時は、その状況に見合った表情と声で、その場にふさわしい言葉を紡ごう。

 ドアノブを握る友人の手が右へと回っていく。ノブは抵抗なく回り、つがいの外れる小さな音がした。

 友人はそこで手を止め、大きく息を吸い、吐き、こちらを見て一度頷き――

 ドアを開け放った。

 その先に広がる世界を信じた友人も、見慣れた光景を期待した仁志も、同じように言葉を失った。

「……ほら、みろ」

 ようやくしぼりだした友人の声は、興奮に震えていた。

「言われた通りだ…。やっぱり正しかったんだ!」

 仁志は言葉を返すこともできず、ただその光景を見つめている。

 ドアの向こうに広がっていたのは、白。

 吸い込まれるような、混じりけのない白い世界。

 見慣れた玄関は、どこにもなかった。

「……嫌いなんだ」

 ぽつりと、友人がつぶやいた。

「この世界がさ。本当に嫌でさ」

 違う世界へ行きたい。

「ずっと、願ってたんだ」

 そんな話を何度もしてきた。

 ただ、仁志のそれは冗談まじりの小さな現実逃避だったのに対し、友人のそれは、心の底からの願いだったのだ。

「ずっと」

 そのことに今、気がついた。

 仁志の逃避先は、ゲームの中、本の中、あるいはスクリーンの中で十分だった。

 けれど、友人は、本当の意味でこの世界から逃避したかったのだ。

「俺は行くぜ。ずっと望んでいたことなんだ。お前は――」

 二人の間のズレに、友人は気づいていたのだろう。

「お前は、どうする?」

 だから、聞いたのだ。

 仁志は咄嗟に答えることが出来ない。

 たとえばこれが何かの物語で、自分が主人公だったなら、ためらわずに足を踏み出すのだろう。

 だけど鍵を手に入れたのは友人で、このドアを開いたのも友人だ。

 これは、友人の物語。

「この先に何があるんだ?」

 仁志は答えるかわりにドアを指さす。

「声のない世界だよ」

「え?」

「声を持たない人々の世界。口はあるけれど声は出せない。じゃあ、どうやって会話をするかというと――」

「テレパシー。とか」

「近い。でも、心が漏れるわけじゃなくて、言葉にしようとしたことだけが伝わるんだ。あれは新鮮な感覚だった」

「経験したみたいな言い方だな」

「経験したんだよ。もう」

 言って、ドアから抜き取った鍵を見せる。

 ああ、そうか。

 鍵を受け取った相手が、そうだったのだ。

「あっちは声があるってだけでもう、とんでもないことなんだ。何て言うか、奇跡の人? みたいなさ。つまり俺でも、お前でも、あっちの世界なら特別になれるんだ」

 特別。という言葉は心地よかった。

 憧れや畏敬の眼差しが注がれる中を、悠然と歩く。そんな自分の姿を想像するだけで気分が高揚してくる。こちらの世界では、まずありえないことだ。何年先の未来を覗いたとしても、そこに映るのは人波に飲まれて歩く自分の姿だろう。

 手軽に特別になれるという友人の誘いは、だから、とても魅力的だった。

 魅力的だったけれど――

「俺は、行かないよ」

 それでも、仁志は首をふった。

「…ひょっとして、いなくなったあとの心配してるのか? 家族とか、学校とか。それなら大丈夫だぞ。みんな、俺たちのことをちゃんと忘れてくれる。誰も探さないし、心配もしない。俺たちはこの世界にいなかったことになるんだ」

「それなら、余計に行きたくないな」

「どうしてだよ?」

「忘れられるのは、悲しいだろ」

 友人はポカンと口をあけて仁志を見つめ、それから 「何だそれ」 と苦笑した。

「ゲームとかさ」

「ん?」

「小説とか、マンガとか、映画とか。俺は、そういうので良いんだ。現実逃避と言ってもせいぜい二・三時間ぐらいでさ、夕飯になれば電源を落としてこっちへ戻ってくる。みたいな。それで十分なんだよ」

 だから俺は行かない。と、仁志は結論を繰り返した。

「……やっぱ、一人か」

 友人はむきになって説得することも罵倒することもなく、ため息まじりににつぶやいた。

きっと、こうなることを予想していたのだろう。

「一人だと、ちょっと怖ええな。さすがに」

「べつに無理して行くこともないだろ」

「あん?」

「だからさ。お前にも『行かない』って選択肢があるってこと」

「……ねえよ。ばーか」

 その言葉が背中を押すきっかけになったのか、友人はふっきれたように笑うとドアの中へ足を踏み入れた。

 たちまち左半身が白い世界に飲み込まれ、玄関ドアだったはずの扉が閉まり始める。

「じゃあな」

「ほんとに、行くのか?」

「行くさ。《さよなら、録音再生みたいな毎日》だ」

扉がしまる寸前――

「やっぱ、俺も!」

 仁志は叫んだ。

 それが、友人に届いた最後の言葉だった。



 十七時の音楽が流れる。

「………何してんの?」

 夏期講習兼デートを終えた美咲は、玄関前で首をかしげている兄をしばらく観察したのちに声をかけた。

 仁志は首を傾けたまま振り返り、妹を見る。

「どしたの?」

「…今さ」

「うん」

「何をしてたんだっけ。俺」

「それを聞いてるのは、私」

「ああ、そっか」

「…中、入っていい?」 

 ため息と呆れ声を残して、美咲は兄の横をすりぬける。

「俺さ、友達と一緒にいたと思うんだけど」

「あ、そう」

「誰だか、わかるか?」

「知らないよ。間島先輩?」

「ちがう」

「倉田くん?」

「でもない」

「のっくん?」

「全然ちがう」

「じゃ、誰?」

 どうでも良いと言いたげな顔で振り返った妹に、仁志は真剣な面差しで答えた。

「俺もわからない」

「………じゃあ、元気でね」

 相手にするのが面倒になったらしく、美咲は玄関に向き直ってドアを開ける。

「あ」

 思わず声をあげる仁志。

 その先に広がっていたのは、見慣れた光景だった。

 三和土、下駄箱、傘立て、ゴルフバック。無造作に並べられた靴。

 当たり前の光景になぜかホッとする。

 それが当たり前なのだから、当たり前なのに。

 靴を脱ぎかけた美咲が、ふいにしゃがみこんだ。

 手を伸ばして三和土から何かを拾い上げ、まじまじと観察したのちに仁志に向ける。

 それは人差し指ほどの大きさで、おおまかに三つのパーツからなっていた。上の部分は何かの動物と思わしき彫刻が施され、そこから細長い棒が伸び、下の部分は複雑な形の凹凸が刻まれている。

「これ、お兄ちゃんの?」

「いや、あいつの」

 反射的に仁志は答えた。答えてから、戸惑う。

「あいつって?」

 美咲と同じ疑問を自分自身で感じたからだ。

「えっと」

 名前を言おうとして、言葉につまる。構成する音が見つからない。

 名前だけじゃない。顔も。姿も。声も。

 確かに友人はいたのに、記憶のスクリーンには何も表示されないのだ。

「…誰だっけ」

「だから、聞いてるのは私だっての」

 美咲から鍵を受け取り、手のひらで転がす。

 材質は金属だろうか。だけど、妙な柔らかさがある。

 それに、

「なんか、熱いよね」

 美咲の言うとおり、鍵は熱をもっていた。体温由来による熱さではなく、長時間使用したゲーム機のような熱さだ。

 何に使ったのだろうと考えて、仁志は思わず笑う。

 熱を持つような鍵の使い方って、どんなだよ。

「夕飯どうする?」

「え?」

「夕飯だよ。夕飯。今日、お母さんたち遅くなるって言ってたでしょ」

「……ああ」

「作るのも面倒だし、出前とろっか」

 地に足の着かないふわふわした話題から、いきなり現実色の濃い話題になり、仁志は戸惑う。

 美咲にしてみれば、仁志が友人を思い出せなてくても、鍵が誰の物であってもどうでも良いことで、それよりも夕飯を手軽に美味しくすませることのほうが重要なのだ。

「何がいい? ピザとか、ラーメンとか、定食とか」

「じゃあ、ラーメン」

「うん。美味しいよね、ラーメン。でも、本当はピザが食べたいんでしょ。私に気を遣わなくてもいいんだよ?」

「……じゃ、ピザでいいよ」

「ピザね」

 満足げに頷く妹に、仁志はため息手前の息をつく。

「そう言えば、金はあるのか?」

「あるでしょ。お兄ちゃん」

「おい」

「うそうそ。ちゃんと預かってるよ」

 美咲は笑いながら脱いだ靴を几帳面に揃え、それから不思議そうに仁志を見た。

「まだそこにいるの?」

「え? ああ。いや、もう入る」

「…なんか、ほんと変だよ。今日」

「いつものことだろ」

「そうだね」

「いや、そんなことないだろ」

「どっちよ」

 軽口を叩き合いつつ、仁志も家の中へと入った。

 手のひらに乗せた鍵を二度三度と、小さく跳ね上げる。

 そのたびに鍵は熱を失っていき、そのたびに記憶から持ち主の輪郭がこぼれ落ちていく。

 目が覚めて、形を失う夢のように。

「物語とかで出てくる魔法の鍵って、そんな形してるよね」

 ぽつりと美咲がつぶやく。

「それで扉を開ければ、別世界へ行けたりして」

「肝心の扉がないだろ」

「適当にそこら辺の扉で試してみれば? 玄関のドアとか」

「……別世界ねえ」

 仁志は鍵を親指と人差し指でつまみ、手首を捻って錠を外すジェスチャをする。

「もし別の世界へ行けるとしてさ。…お前、行く?」

 美咲は少し考えてから答えた。

「草枕」


                    ★    


 やがて仁志は高校を卒業し、夏休みからの猛勉強が功を奏して大学へ進むことができた。

 ずっと足を引っ張り合った親友がいたような気がしたけれど、それは気のせい。

 だって、名前も顔も思い出せない。

 大学生活は楽しかった。

 講義を適当に聞きつ流しつ、勧誘されたテニスサークルに入って遊び半分の汗を流し、時間があれば気のあう仲間と飲んで騒いだ。

 合コンでメールアドレスを交換しあった女性とつきあい、サークル内の三角関係でもめ、浮気をして、されて、結局は別れ、また別の相手を探す。そんな恋愛劇を繰り返し、卒業する頃には六人目の彼女と同棲していた。

 就職活動は困難を極めたけれど、だるま落としのような妥協を続けたあげく、頭を吹き飛ばす最後の一社でようやく内定。大学も、つぎはぎだらけの卒業論文に形ばかりの可をもらい、どさくさに紛れて抜け出すことができた。

 社会人となった仁志は、順風満帆とまではいかないものの、歩けなくなるような向かい風が吹くこともなく、口元がほころぶ程度のささやかな賞賛を浴びたり、その日一日の気分が重くなる程度の失望を覚えたりしながら過ごしていた。

 そんな中で、大きな事件がふたつ。

 結婚をして、子供ができた。

 正確には『子供ができたから結婚することになった』ので、事件はひとつと言って良いかもしれない。

 二人の親は呆れつつも喜び、友人たちは何とも言えない笑顔で祝福してくれた。

 生まれてきた子供を抱いたとき、仁志はどこかで扉の閉まる音を聞いた気がした。

 

              ★     

 

 会社の飲み会で周囲のバカ騒ぎにどうにか付いていこうと、アルコールを許容以上に摂取した帰り道。

 近道に利用するいつもの公園までは辿り着いたものの、いよいよ足がおぼつかなくなってきた仁志は、少し酔いを醒まそうとベンチに腰を下ろした。

 夜空を仰いで深呼吸。一度。二度。

 タバコの煙でするように、白い息でドーナツを作ろうとして、失敗。

 外灯に浮かび上がる時計は、もうすぐ日付をまたごうとしている。

 利加子たちはとっくにベッドの中だろう。帰宅するまで起きていてくれたのは結婚三年目までで、今では子供と一緒にさっさと眠ってしまう。

 それはでも、良い傾向だ。お互い無理をしなくなって、ちゃんと家族になってきたということだから。

「…家族かあ」

 ため息で作った雲が月を覆う。星空に溶ける。

 年を重ねていくごとに柔らかかった未来は固まっていき、夢みた世界の扉が一つずつシャッターを降ろしていく。

 今年も、またひとつ。

 だけど、固くなって不自由になった未来には安定があり、安心がある。開く扉が少なくなれば、その分だけ迷いが消える。

 淋しい気持ちにはなるけれど、悪いことばかりでもない。

 それに、そう。

 今の自分には、新しい役目がある。

 子供たちのために未来の扉を作るという、大きな役目が。

 なるべく多くの扉を、なるべく豊かな未来の扉を用意してあげたい。

 自分は、その扉を開くための鍵。

 魔法の鍵だ。

「……さて、帰るか」

 立ち上がり、軽く伸びをする。

 酔いは残っているけれど、平衡感覚は戻ってきた。

 一歩、二歩と、確かめるように歩き出す。

 ――鍵と言えば。

 歩きながら、仁志はふと首筋に手をやる。

「どこにやったかなあ…」

 ずっとお守り代わりに首から下げていた鍵がない。かつての妹曰く 『魔法の鍵』 を、なくしてしまったのだ。

 いつからなくなっていたのかも、思い出せない。ついさっきまであったような気もするし、もうずいぶん前からなかった気もする。考えるうちに、誰かにゆずったような気さえしてきた。

 大切な鍵だったのに。

 嫌なことや辛いことがあっても、あの鍵を握ると不思議と気分が落ち着いた。

 いつでもこの世界から逃げられる。別の世界へ行ける。そんな子供の妄想めいたことを当たり前のように信じることができて、開き直れて、頑張ることができたのだ。

 大切な鍵だった。

 だけど。

 このごろの仁志は、現実逃避をしなくなっていた。

 できなくなった、と言うべきかもしれない。

 結婚をして。

 子供ができて。

 責任やら絆やら愛情やらを強く意識するようになって。

 この世界から逃げるという選択肢を選べなくなったのだ。

 だから、か。

「……ああ、そうか」

 ふいに思う。

 だから、鍵がなくなったのか。

 もう、この世界からの逃避を選ぶことはないから。

 もう、必要がなくなったから。

 役目を失った魔法の鍵は、自分の手から離れていったのだ。

 そういうことかもしれない。

 そういうことだ。

 酔っているせいもあっただろう。

 その仮説は、仁志を十分に納得させた。

 ふっきれたような、諦めたような笑みをうかべて、いつもの帰り道をフラフラと行く。

「それなら、まあ……」

 つぶやきは白く夜空に舞い上がり、記憶とともに溶けて消える。

 ようやく、住み慣れた我が家が見えてきた。




             ★            


 

「いつも通りに作ったはずなんだけどなあ…」

 食卓に並べられた料理を見て、利加子が首をかしげる。

「いつも通り寝ぼけてたんでしょ」

 琴美はからかい混じりに答え、目玉焼きをつつく。薄皮が破けて半熟の黄身がとろりとあふれる瞬間が好きらしい。

「お父さん、醤油とって」

「ん」

「それ、ソース」

「目玉焼きには――」

「いいから醤油」

 強い視線に負けて仁志は醤油を差しだす。反抗期を抜けたのか、この頃は会話が増えてきて素直に嬉しい。つっけんどんなのは相変わらずだけど。

「おかしいなあ」

 その隣で、利加子はまだ首をかしげていた。

「まだ言ってる。いいから席につきなよ。余った分はお父さんに食べさせればいいじゃん」

「あ、それは良い案ね」

「いや。俺、最近太りすぎって言われてるからさ」

「じゃ、いただきます」 

「おい、人の話を」

「お父さん、ジャムとって」

「……ん」

「それ、マーガリン」

「トーストには」

「いいから」

 他愛のない会話と笑いに包まれた食卓。朝の光景。

「はい。じゃあ、これ。任せたよ。お父さん」

「こんなに食えないって。琴美も手伝え」

「私、ダイエット中だから」

「まだやってんのか。飽きっぽいお前がよく続いてるなあ。もう三年ぐらいしてるだろ」

「うるっさいな」

 すさまじい視線を受けた仁志は 「明日、健康診断なんだけど」 とぼやきながら、どういうわけか利加子が一人分多く用意してしまった朝食を引き受けることにした。

 変わり映えのない日々は退屈で、時にはちがう世界を夢見ることもあるけれど。

「……ま、頑張りますか。この世界で」

 

 今は、この光景を繰り返すために頑張るのも悪くないとも思う。



---------                      了


    

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