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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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薔薇の花束

 気が付くと、楊の体は後ろから羽交い絞めにされていた。

 楊はまず目を上げて眼前のリンを見た。手に銃を持っているのに初めて気づいたが、銃口は茫然と下に向けられている。次に、背後を斜めに見やり、窓の外から自分を拘束しているのがジェイだと確認した。次にようやく目を上げて、螺旋階段の上を見た。

 

 冷たく整った顔の男が、染めたのか地毛なのか暗めの銀髪を陰気に光らせて、銃口を上に上げている。


「屋根伝いに来たのか」男はまず楊の背後のジェイに言った。

「そうです」

「持ち場を離れたのは命令違反だな。なぜリンを外に出した」

「……出られているとは、知りませんでした」

「なんだと?」

 チョウは薄笑いを浮かべると、青い顔をしているジェイに言った。

「まあ、いい。落とし前はその手で付けてもらう」

 次に、楊に目を留める。

「きさまがネズミか。素人にしてはだいぶ射撃の訓練を積んだようだな」

「……」

「わたしを殺しに来たか、それともリンを奪いに来たか」

「両方だ」楊は蒼白な顔で言った。

「きさまに相応しい死をくれてやりに来た」

「そいつは残念だったな」

 次にチョウはジェイに向けて顎をしゃくった。

「ほかに侵入者は」

「ふたりいましたが、庭で撃たれました」

「ふん」 

 静まっている庭を見おろすと、チョウは楊に言った。

「それで全員か」

 楊は黙って頷いた。

「ジェイ、その窓から入れ。こいつを階下の居間に連れて行け」

 そして突っ立っているリンに近寄ると、そっと右手の銃を取り上げた。

「こんな薄汚れたものを持つな」

「……その人をどうするの」

「これから決める」

「殺すの」

「命乞いをしてみるか? わたしを殺しに来たと宣言し警備を撃ちまくったこの賊を?」

 リンは黙ってチョウを見上げた。どんな言葉を駆使してもこの男をとめられるものではなく、むしろ庇った相手をひと思いでは済まない壮絶な目に遭わせるのが関の山だった。沈黙した瞳に向かい、チョウは言った。

「いいか、わたしはお前にとって得難い男だ。わたしはお前に認めているんだ、雑魚の手の届かぬ玉座に座って屑どもの裁きを見守る権利を」

 チョウはジェイのほうを見やると声を荒げた。

「何をぐずぐずしてる。さっさと連れて降りろ」

 ジェイは楊の肩を掴んでそのまま階段を引きずるように降りていった。その背中に向かい、チョウは言った。

「とりあえず傷口はしばっとけ、血で床を汚されるのはたくさんだ。あと庭の連中は室内に引きずり込め、警察が来たら爆竹で若い奴らが悪ふざけしたとでも深緑(シェンリュ)に言わせておけ。どうせ金は積んである」

 二人の背中を見送ると、チョウはリンに言った。

「自分で仕留めたかったのか? 勇ましいことだな」

「……」

「お前のおかげで死体が絶えない。だが、あいつの最期はお前にも見る価値があるだろう」

「……どうして?」

「あいつは船に、仲間のSYOUを置き去りにした」

「え?」

「大体の情報は掴んでいた。SYOUはある貨物船から、閉じ込められている陽善功の信者の娘を救出する計画を立てていたんだ。だがその船はどうやら沈没した。SYOUを乗せたまま」

「嘘よ!」リンは甲高い声で叫んだ。

「さっき聞いただろう」

「……」

「あの男はその計画に加わった仲間、いわば片腕だ。だがわたしへの復讐心を優先し、戦列を離れてここに来た。SYOUは船から最後の電話をしてきたんだ。あいつはさらに、あわよくばお前をも奪おうとしていたんだろう。命ごとだ」

 リンは混乱する頭で、あなたにお会いしたかった、といったときの男の悲壮な瞳を思い出していた。誰の語る何を信じたらいいのか、人形のように飾られ花と猫と絵本で生きてきた身には、もう手に負えなかった。


 居間の寄木細工の床に座らされた男は上半身の服を脱がされ、その肩はぐるぐると乱暴に包帯で巻かれていた。

 脇の花台の上、白磁の花瓶には、リンが活けたとりどりの薔薇が咲き香っている。滅多に手にしない大ぶりの薔薇をリンが望んだため、出入りの業者に命じてチョウが揃えさせた、珍しい種類ばかりだった。

 その正面のソファにはチョウが座り、隣にはリンが座っている。ジェイは相対する楊の背後に控えていた。

「もう一度聞く。自分の意志でここに来たのか」チョウは組んだ足をぶらぶらさせながら聞いた。

「何度聞かれても同じだ。誰かに雇われているのかというなら、雇い主はいない」楊は痛みに顔をゆがめながら言った。

「ここにきてリンを奪って、どうするつもりだった」

「その人は多くの人が必要としている尊い存在だ。外にお連れして、信者で守る」

「守れると思うか、何の力もないくせに。庭で倒れている同朋がいい見本だ」

「お前のそばにいるよりは数万倍ましだ」

「本人に聞いてみろ、宗教団体のご本尊になるのがお望みかどうか」

 楊は顔を上げて、リンを見た。リンの冷ややかな目が、矢のように自分を射ている。

「何か聞きたいことがあるなら聞け、リン」チョウは鷹揚に言った。

「……SYOUはいま、どこにいるの」

 楊を見据えたまま、リンは言った。

「……言えません」

「どうして」

「彼の生存を望んでいない男に、居場所を言うわけにいかないのです」

 チョウはふっと笑って見せた。

「だそうだ。信じるか?」

「生きているの」

「……」

「それとも船にいるの」

 楊は苦しげに視線を落とした。

「今まであなたも船にいたの? そうなの?」

「なにも言うわけにいかないのです。お許しください」

「生きていないから言えないのだ。わかったか、リン」

「きさまは生きている限りそのでたらめ三昧でリン様を騙し苦しめるんだな」楊は低い声で唸るように言った。

「さてと、お前の仕事だ」チョウはジェイに視線を投げた。

「リンだと思って仲間を代りに閉じ込めるという失態。お前の旧友にこの屋敷を襲わせるという失態。こいつでチャラにしてやろう」チョウは手招きすると、自分のコルトガバメントを手渡した。


「撃て」


 ジェイは銃を手にすると、視線を上げて楊を見た。

「待って、答えて。SYOUは死んでいないわよね、そうよね?」

 楊はひたとリンを見た。

「生きています。それだけは言えます」

「ほんとう? ほんとうに?」リンはすがるように繰り返した。楊は間髪を入れず答えた。

「本当です。リン様。その男は大嘘つきです。嘘に嘘を重ねて生きてきた男です。なに一つ信じないでください」

「何の力も持たず、この女を奪って黄泉の国に連れて行こうとしていた嘘つきが何を言う」

「この世にあってお前の残虐趣味と欲望の餌食になる毎日がどれだけ幸せなんだ」

「本音を言ったな。きさまはリンを殺すつもりでここに来たんだ。

 どんなことがあってもわたしは彼女を生かす。お前は殺して解決すればそれでいいと思っている。負け犬の発想だ。死は死でしかない、敗者のゴミ箱だ」

 リンは二人の男の言い争いの間で、途方に暮れたように瞳を泳がせた。

「何をしている、ジェイ。撃て」チョウは声を荒げた。

「お前はお前の責任をとれ。取って元通りリンの警護役に戻れ」

 リンはチョウの肩をぎゅっと掴んだ。止めるための言葉を探そうとしたが、喉は声の出し方を忘れたかのように静止していた。


 ジェイは震える手で楊に向けて銃を構えた。

 楊は座したまま、じっとジェイの顔を見つめた。


「撃てばいい」


 瞳を逸らさずに、楊は言った。


「撃て、ジェイ・チャン。俺達はどちらも、この悪魔に人生を奪われた。お前がそれでもこいつを許し、こいつともに生きるのが正義だと思うなら撃てばいい。それがお前の人生だ。俺は俺で自分の選択に誇りを持つ。お前のことは恨まない」

 ジェイはぶるぶると全身を震わせながら撃鉄を起こした。楊は瞳を閉じた。

 次の瞬間、ジェイはくるりと自分の頭に銃口を向けた。

(ファン) (ユェ)(リン)様に栄光あれ!」

 次の瞬間、破裂音とともに血まみれになったジェイの身体はどんと床に倒れていた。

 リンは悲鳴も上げず顔も覆わず、ただ眼を見開いて張りつけられたようにそこにいた。ドレスの胸に血しぶきが飛んで、赤い点々をにじませてゆく。

 楊は目を開けて膝の先に倒れ伏しているジェイを見下した。一瞬前に生と死の葛藤のはざまにいた悲しい男の、今はただ赤く染まった無言の身体を。

 チョウはゆっくりと立ち上がった。

「……つまらんことを」

 その表情にほんのわずか、ほんのかすかに憐みの色が宿ったその瞬間、楊は素早く自分の靴の内側に手を入れた。

 それからの一連の動きは、リンの目にはまるでスローモーションのように見えた。

 薄い鞘を放り投げて取り出した細い細い銀色のメスがきらりと光り、さっと振り上げた手の先を見て、チョウは瞬間リンの前に手を広げた。その首に宙を飛んだメスが刺さり、首を押さえるようにしてチョウが崩れ落ちる。  

 床に転がったチョウは一回転したその先で手を伸ばし、楊の足首を掴んだ。

 いつの間にか手にしていた二本目のメスを振り上げ、楊が両手で真下に突き落とそうとした次の瞬間、その手とチョウの間にリンが飛び込んだ。同時にチョウが思いきり足首を引く。楊は横ざまに倒れ伏し、その手からメスがソファの下に滑り込んだ。

「……」

 肘をついて顔を上げた楊が見たのは、倒れたチョウの上に長い髪を落として屈みこむリンの姿だった。

 チョウの首の右側に刺さったナイフの周囲を押さえるリンの指の間から、後から後から血が噴き出して肘まで真っ赤に染めている。仰向けになったままもがくように口を開け閉めしていたチョウは、やがてリンの顔に視線を留めると、震える手を頬に伸ばした。

 楊は身を起こすと膝をつき、そのまま静止して呆然と二人を見た。

 リンは血だらけの手で、頬に添えられたチョウの指を握っている。

 チョウは光のなくなった目を楊に向けると、かすれ声で言った。


「……殺すな。この、女を」


 その口元から鮮血が糸を引いて流れ落ちる。

 リンは微かに首を振るようにした。豊かな胸元が大きく上下し、呼吸が荒くなっているのがわかる。


「自由に、……してやってくれ。たのむ」


 リンがこちらを見た。

 まるで知らない山に置き去りにされる幼子のような目が突き通すようにこちらを見ている。手掛かりのない、無色透明のかなしみに捉えられ、楊はいてもたってもいられない焼けつくような痛みに襲われた。

 チョウはリンに視線を移すと、唇を震わせ、絞るような声で言った。


「生きろ」


 その口からまた新たに鮮血が溢れる。


「……大丈夫だ。ひとりでも、生きられる。大丈夫だ。わたしも」


 リンの白い頬を涙がひとすじ転がり落ちた。


「……わたしも、ずっと、ひとりで……」



 ゆっくりと瞼を閉じたチョウのそばで、リンはそのまま動かなかった。

 ただ俯き、ただ血だらけの指でチョウの頬を撫でさすり、その唇からは呪文のように同じ言葉が零れつづけている。


 チョウおじさん。

 ……どうして?


 おまつりにつれていってくれるんじゃなかったの?


 かたぐるましてくれるんじゃ、なかったの?



 やがてリンはチョウの首に刺さったメスを見、両手で握ると、忌々しいもののように一気に引き抜いた。

 楊は あ、と声を上げ、リンに手を差し出した。

「それを、こっちへ」

 傷口から吹き出す新たな鮮血を見ながら、リンは微動だにしない。


「こっちへ。そんなものに触れては。僕のほうへ。さあ」


 リンは顔を上げると氷のような視線で楊の顔を見た。

 次の瞬間、メスを握った右手でリンはしゃっと目の前の掌を横に払った。楊は鋭い痛みに瞬間、う、とくぐもった声を上げた。その耳に、抑揚のないリンのきっぱりとした声が届いた。


「あなたとはいかない」


 掌に横一直線に傷がついた。

 ゆっくりと血が滲んでゆく。

 黙ってそれを眺めると、楊は突然リンの右手を掴んでねじり上げ、床に叩きつけてメスを落とした。リンは叫び声をあげて左手で楊の顔を平手打ちし、楊はその手をもったまま、床に組み伏せた。

 這うようにしてリンがまたメスを取ろうとする。楊は再びメスを弾き飛ばし、花台の花瓶を掴むと薔薇を放り投げ、いきなりその水をリンの上半身にぶちまけた。びしょ濡れになりながら、リンは叫んだ。

「SYOU!」

 悲鳴は泣き声にかわった。

「ショウ、ショウ、助けて! ここにきて!」

「楊!」

 背後からの低い叫び声に、リンを組み伏せていた楊は振り向いた。


 部屋の入り口に、SYOUその人が立ちつくしていた。


「リンを放せ!」

 船にいたときと同じ、黒のタンクトップに黒の細身のパンツ、そして黒のジレ。両手で銃を構え、茶色いもつれた髪がざんばらに顔にかかっている。


 純粋な、あまりにも純粋な歓喜がリンの迷子のような顔を満たしてゆくのを、楊は見ていた。リンは信じられないというように目を見開き、いやいやするように首を振り、そのあと両手を広げると、ああああああ、と泣き声のような歓喜の叫びのような声をあげて膝立ちになった。よろけながら伸びあがり、全身でSYOUに飛びつこうとするその体を、楊が後ろから抱きとめる。

「いや!」リンは絶叫した。

「何をするんだ、楊。何のつもりだ、放せ、いますぐ!」

「お前は、怪我をしていないか」息を切らせながら楊は言った。

「何だと?」

「どこかに、怪我を」

「……後頭部は打ったが、それ以外は別に」

「じゃあ」

 楊はリンから手を離した。リンはよろけながらSYOUに駆け寄り、びしょ濡れの身体で飛びついて五本の指でぎゅっと服を掴んだ。言葉もなくその胸に顔を埋めるリンの頭を、SYOUは力いっぱい抱き留め、その髪に顔を埋めた。血の匂いとリンの体臭と柔らかな体の感触が、奇跡のようにその身を包んだ。


「……SYOU」

 しばらくして楊が弱々しい声を出した。SYOUが顔を上げると、真っ青な顔の楊が床に座り込んで肩で息をしていた。


「俺を殺してくれ」


 楊は全身をぶるっと痙攣させると、細かく震える声で続けた。


「……俺は助からない。そのメスには、奴の身体に刺さった刃物には、毒を塗ってあった」

「なに?」

 楊は震えながら掌の傷を翳してみせた。

「リン様に、ついた血は、毒で、汚れている。もっと、ちゃんと、洗い流さないと」

 SYOUははっとしたように、足元のメスを見た。そして自分にしがみつくびしょ濡れのリンを見た。

 

「SYOU、頼む」

 楊はよろよろと床に手をついた。

「そのかたに、罪を、犯させないでくれ。誰も、ころしては、ならない。お前の手で、俺を」


 ああ。……そうか。


 楊は知らないのだ。これまで何人の人間を、彼女が直接間接に死に追いやってきたか。あの細い手に銃を、刃を持って。

 SYOUは目を閉じて床に倒れているチョウを見やり、そして楊の顔を見ると、静かに口を開いた。

「……頼みを聞く前に、楊、俺からもひとつ聞きたいことがあるんだ」

「……なんだ」楊は震え声で答えた。


「なぜ菊池に俺を売った」


 楊はかすかに瞳を揺らした。


「……なんだって?」


「きみは菊池とつるんでいた、あるいは情報を菊池に流していた。そうだろう」

「なぜ、……そう思う」

「あの絶望的な状況で船内からきみの携帯に電話したとき、きみはゼンマ―ラ? と言った。

 その意味をずっと考えていたんだ。

 そして思いだした、中国語でゼンマリャオ、怎么了。日本語になおすと、どうした? 何があった?

 どこの誰ともわからない相手に対してする挨拶じゃない。

 あのとき俺が握っていたのは、菊池の携帯だった。お前は奴の仲間だった」


 楊は答えなかった。SYOUは勝手に先を続けた。

「……俺は(ヤン) (ティエン)を仲間以上だと思っていた。いや、友だちだと感じていた。数少ない友人の中でも一番大事にしたい人物だと、本当はそう思っていたんだ。

 教えてくれ。どうして殺そうとしたんだ。そしてなぜ、わざわざ助けに来た」


 長い沈黙のあと、楊は口を開いた。


「日本人は嫌いだ」


 SYOUは衝撃とともに、絶句したまま楊の言葉の(つぶて)を受けた。


「……お前は、リン様の身を、穢した」


 下を向いて咳込むと、また楊は続けた。

「……俺の祖父母は、湖南省の廠窖(しょうこう)で、……1943年、日本軍に殺された。抱いていた子ども、俺の親父は助かった。その父も、そこの糞野郎に、殺された」

 楊は蒼白な顔を、絶句しているSYOUに向けた。

「俺は、ずっと思っていた。

 殺人鬼のチョウも、善人面した日本人のお前も、所詮雄としてあのかたを取り合っているに、……過ぎない。信者である、俺たちとは、違う。自分のものにして存分に楽しみたいだけだと。……

 リン様は、憐れだ。どちらの囲い者になろうと、欲望の餌食となって生き続けるという、宿命は、同じだ……。

 それでもずっと、迷っていた。お前の、本気は、リン様の望む方向、だったから。お前は、きたないところの、ひとつも、見えないやつだったから……」

 楊は自分をじっと見ているリンを見ると、続けた。

「でも。俺は、知らなかった。

 このかたが、本当にお前を、愛していると。

 これほど嬉しそうな顔を、するのなら。

 それほど、それが幸せなら、俺は……」

 楊はずるずると床に倒れ伏した。声はほとんど消え入りそうになっていた。


「もういい。SYOU。

 お前の手で、俺を殺してくれ……」


 床をかきむしりながら呻く楊に、SYOUは黙って頷いた。

 楊は小刻みに震えながら、SYOUの隣の美しい少女を見上げると、静かに言った。


「リン様。

 あなたの手を、毒で汚したことを、お、お詫びします。

 ……あなたの魂が、この世において、彼のそばで、永遠の安らぎと、平和を得ることを、……」


 リンはそっと跪いて、楊の髪を撫でた。そして屈みこむと両手で頭を抱え、その頬に柔らかな唇をつけた。楊はしっとりと瞼を閉じて、細く長いため息をついた。

 リンが立ち上がると、SYOUは両手で銃を握り、撃鉄を起こした。


 楊は揺れながら頭を起こし、穏やかにこちらを見た。SYOUは自分の指が張り付いたようにそのまま動かないのを、たぶん時が止まったからだと思い、ならばこのまま止まりつづけてくれと祈った。

 楊はほそく唇を開けると、囁くような声で言った。


「SYOU。

 生まれ変わってまた会ったら、そのときは、と、友達に、なってくれるか」


 頷いてきつく目を閉じた瞼の下から、涙が頬を伝ってゆく。

 震える声で、SYOUは答えた。


「きっと、会おう。……楊」


 広い邸内に一発の銃声が響き、やがて完全な静寂が訪れた。



 銃をおろし、瞼を開けて次にSYOUが見たものは、床にぶちまけられた花瓶の薔薇をゆっくりと拾うリンの姿だった。

 白い薔薇、オレンジの薔薇、紫の薔薇、赤い薔薇、ピンクの薔薇。

 それはまるで、野に出て花を摘む少女のように。


 リンはまずジェイの上に屈んで、花束の中からオレンジの薔薇を選び、血に染まった髪の上に置いた。

 次にチョウの首の上に紫の薔薇を置き、

 そして楊の胸の上に白い薔薇を置いた。

 目を閉じた楊の顔は、微かに微笑んでいるようにも見えた。

 SYOUの前に来ると、リンは静かに手を伸ばし、硬直したSYOUの手に握り込まれた銃をそっと掴み、床に放り投げた。

 そして赤い薔薇を選んで抜き取り、その花首を折った。

 茎を捨て、SYOUのジレの胸ポケットにすっと差し込む。その指に棘による傷はない。すべての棘は、チョウによって丁寧に切り取られていた。

 愛しい男を見上げるほの白い顔の中で、底のない泉のような瞳が煌いて微笑んだ。


 ああ、止まる。もう止まる。

 ……止まるんだ。

 感情を乗せない純粋な光のような、その美しい瞳を見ながら、ぼんやりとSYOUは思った。


 現実と夢幻、現在と過去、瞬間と永遠、正気と狂気、相対する二つの世界でゆっくりと振れてきたリンの魂の振り子。

 長い長い苦悩の日々の中で、今、最後の揺らぎを終えようとしている。


 SYOUは花束を受け取ると、優しい色合いのピンクの薔薇を抜き取った。

 そしてリンがやったと同じように、茎を落として花首を短くし、かたちのいいリンの耳の丁度上にそっと差した。

 リンは指を上げて花に触れ、にっこりと笑うと、静かに涙を流し続けるSYOUの濡れた頬に唇を押し付けた。そしてそっとSYOUの胸に耳をつけ、その両腕で愛しい体に抱きついた。

 ふたつの心臓が共鳴し合いながら、とくとく、とくとくとお互いの身体を揺らし続ける。とくとく、とくとく。

 SYOUは手を伸ばし、リンの腹部にそっと触れた。その手に、リンは自分の掌を静かに重ねた。


 静かだ。

 なんて静かなんだろうね、リン。

 みんな眠ってしまった。


 ピンクの花弁が揺れて、花のような白い顔がこちらを見上げ、くっきりと紅色に輝く唇が微かに開いて何ごとかを語り掛ける。

 起きているのはぼくらだけだから、きみと一緒に旅に出ようか。

 別れの挨拶はできないけれど、彼らの前で誓うことはできる。

 二人は顔を傾け、言葉の代わりにしっとりと唇を重ねあった。



 ……きみを孤独の中に置き去りにはしない。

 三人で探しに行こう。

 幾千のいのちがその足に踏みしだかれ、無明の闇に沈んでいこうとも、

 ファン・ユェリンという存在が、

 そのいのちを継ぐものが、

 だれにも侵されず奪われず、ただうつくしくしらじらと咲きつづける。

 その花を、そのいのちを、無限に許し続ける。


 そんな、ぼくたちのための、酔迷宮を。




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