月明りの下で
階段を下りた先、鉄の扉を開けて踏み込む陰気な地下室は、コンクリートと泥水の匂いがした。はじめて入る空間に、リンはかすかな血の匂いを嗅いでぶるっと震えた。
「外からカギをかければ誰も入ってこられません。ここは安全です」
むき出しのコンクリートの壁に囲まれて、天井には陰気な蛍光灯が光っている。ジェイは空間の隅の小さなベッドにリンをいざなうと、肩を押して座らせた。
「ここでじっとしていてください。奥の扉がトイレになっています。右隣の扉は収納です。部屋の隅の箱に入っている保存水も食料も賞味期限内です」
「ここはいや。血の匂いがするわ」
「ここが一番安全なんです」
「こんなところにいたくない。ジェイ、チョウに話して」
「そういうわけにいきません。おとなしくしていてください」
「じゃあ恬恬を連れてきて。あの子だけ危ないところに置いておけないわ」
「わかりました。あとで届けさせます」
胸のポケットのトランシーバが録音機能付きとチョウに明かされたうえ二十四時間所持を義務付けられて、もうジェイは本音をしゃべらなくなっていた。
リンは、がちゃんと閉まる鉄のドアの重い音を聞き、さらに施錠の音を聞くと、あたりを見廻した。
ここは死の部屋だ。おそらくチョウの機嫌を損ねた何人もの憐れな使用人や手下が、ここで……
じっとしていたら気が変になりそうだった。顔を上げて、収納、と言われたドアに近寄り、何が入っているのかとドアを開けてそっと中を覗く。真っ暗な部屋は三畳ほどで、水タンクや食料、医薬品などが積み上げられているようだった。
リンは部屋に踏み込むと灯りのスイッチを探り、点灯した。むき出しのコンクリの壁の四面には、それぞれいびつに紙が貼ってあった。……まるでなにかを隠そうとするように。
リンは紙の破れ目に手を入れた。乾ききった接着剤がはがれ、北面の紙が一枚、ぱらりとはがれた。
リンはその裏から出てきた異様な光景に息をのんだ。
罅の入った陰気な壁面一面に、変色した無数の茶色い字が躍っている。
去死吧月鈴去死吧月鈴去死吧月鈴去死吧月鈴去死吧月鈴去死吧去死吧去死吧去死吧……
(死ねユェリン死ねユェリン死ねユェリン死ね死ね死ね死ね死ね)
リンは両手で口を覆い、こみ上げる叫び声を抑えた。
……ユン。
―何が救世主よ。嘘つき、お前は魔女だ。あのひとを、あたしのシェンロンを返して!
ジェイに引きずられて部屋から出て行った憐れな女、……自分をレイプしようとしてチョウに処刑されたシェンロンの恋人、ユン・シャオチン。彼女もまた自分に毒を盛り、暗殺しようとして失敗した。
これは彼女の流した血、この部屋で残した最後の叫び。
リンはがくがくと膝を震わせながら、その場に立ち尽くした。
わかっていた。十分わかっていた。自分はこの文字相応の呪われた身なのだと。
いったい何人が自分を求め、あるいは憎み、その結果命を落としていったことだろう。
それでも生き続け、夢を追い続ける自分はなんて業が深いんだろう。
けれど、生きて愉しいから生きるんじゃない。こうしてこの道を辿り、天が決めたゴールまでを生き抜くのが、苦しくても自分に課せられた宿命なのだ。だから生きる。因と果、果と因、無明長夜の果ての、遥かな目覚めの時までを。
……生ききったら、苦しくても生ききったら、SYOU、そのときは汚れたわたしとこの子を迎えに来てくれる?
リンは震える両手で自分の腹を抱え込んだ。
「このわたしに家族を殺されたとかいう医者志望の青年が、こちらへ向かっているそうだ。その口から名前を言え、ジェイ・チャン」
ジェイは顔をこわばらせてチョウの前にただ立っていた。
「……それより、リン様をどこかへ余所へ避難させた方が」
チョウは黒い手袋をはめた手で横ざまにジェイの顔を思い切り張った。
「誰がお前の意見を求めた」
二、三歩よろけてたて直し、ジェイは頬を赤く染めて口を開いた。
「……楊 天です」
「その忌々しい奴の名は日本語読みでいい。きさまの学友だったそうだな。いいか、この屋敷内でそいつを仕留めるのはお前の務めだ。仕留めそこなえばわたしの手でお前は最期を迎える」
「はい」
「手榴弾を持っているそうだ。なかなか派手にやらかしそうだな」
ジェイは物言いたげに口を開いた。
「たとえどんな武器を持っていようとも、リンをこの屋敷からは出さない。それこそが奴らの目的かもしれないからな。外におびき出して人数にモノを言わせてさらう手だてを立てているかもしれない。
どこかの馬の骨にくれてやるぐらいなら、連中の目の前であの女の喉を掻っ切ってやる。誰が渡すか」
「あなたにはできません」ジェイは断固とした口調で言い放った。
「あなた様はただ守りたいはずです。あのかたを殺したいはずがない。あなた様はあのかたを幸せにしたいと思っていらっしゃる。どうかご自分の気持ちに素直になってください」
「その言い草の報いはあとだ」チョウは両手の指の股をきしきしと組み合わせると言った。
「今邸内に何人いる」
「わたしを含め、六人です」
「よし、目立つ武器を持って表門と裏門を内側から張らせろ。どうせ脅しと陽動で、手榴弾をまず庭で使う気だろう。そうして音のした方向に警護を集めさせ、手薄になった場所から侵入する気だ。二人ほど好きにふっ飛ばさせておいて、こちらはその裏をかく。おまえはリンのそばにいろ」
「……」
二人ふっ飛ばさせる。既にジェイの頭の中で、表門と裏門で命を落とすであろう同僚の名前が浮かんでいた。
「戦争ごっこの経験があるやつが来るわけじゃない、スナイパーでもない。いざとなればこのわたしで十分対応できる」そう言ってチョウはコルト・ガバメントを手に取った。
「派手にやろうじゃないか」
表裏を返して銃を見ながら、チョウは続けた。
「多少この世の長旅も面倒くさくなっていたところだ。ドンパチが長引くようなら、こっちにもある手持ちの手榴弾でどいつもこいつも吹っ飛ばして綺麗に終りにしてやる」
……狂っている。
冷静に見えて、この男はもう根本的に狂っている。
ジェイはしんとした胸の内でただ、そう思った。
あのかたを手中にしようなどと、思ってはいけなかったのだ。
……水に映る月のような、あのかたを。
チョウに雇われてまだ半年の若いガードマン、明杰は、左手に猫を抱き右手に鍵を持って地下への階段を下りた。チョウと打ち合わせ中のジェイがいつも警護を担当しているリンの姿は、噂に聞くばかりで遠目にしか目にしたことはなかった。
暗いじめじめした地下室の、鉄の扉に鍵を差し込む。どきどきと、胸が高鳴る。あれほど非道の限りを尽くしたと言われている主人が溺れている美しい女性。初めて身近に顔を見るのだ。
「恬恬を連れてまいりました」
錠を開けたドアをごんごんと叩き、そう挨拶すると、明杰はそっとドアを押し開けた。
蛍光灯ひとつが灯る暗い室内のベッドに、目指す少女の姿はない。
「リン様?」
食糧その他の入っている箱以外何も置いていないがらんとした部屋の隅の、トイレのドアをノックする。
「そこにおいでですか?」
床に置いた恬恬がにゃあお、と細い声を上げた。
ノブを引く。内側からカギがかかっている。ノックしても返答はない。
「リン様。ご無事ですか」
たしか円筒錠だ、万が一なら簡単に開けられるが、どうしたものか……
と、背後からいきな視界がふさがれた。
「あ」
細い指が揃って瞼を覆う優しい感触。
そのまま二つの手で後ろに引かれ、男の身体は薄いベッドに仰向けに倒された。
目を開けると、まるで花が咲いたような美しい顔が、煌く瞳が、長い髪を絹糸の滝のように己の顔にたらしながらこちらを見ている。
「……」
目のくらむような美貌に言葉を失っていると、鈴を振るような声で、少女は言った。
「ありがとう。猫を待っていたわ」
そして両手を男の首に巻きつけると、豊かな胸を押し付けてきた。
「あ、あ……の」
眩暈を伴う混乱と興奮が一気に男の身体を無力にした。
にゃあお。にゃああお。胸の中から、猫の声が響く。頬に唇が押し付けられ、睫毛の長い深い瞳が、まさに眼前でしんとこちらを捉える。
「あなたは、いいひと。こんなところで死ぬことはない」
男は全身が痺れるような思いで、ただ美しい少女の顔を眼前に見続けた。胸のポケットから、細い指がトランシーバーを抜き取る。
「わたしは猫だったことがあるような気がするのよ」
「……?」
「とてもとても幸せな猫だった。そのときに帰ることができれば、それでいいような気がするの。余計なことを考えるのをやめれば、世界はきっとそんなふうに単純に満たされるのよ。あなたは生まれる前は何だったの?」
何をどう答えていいかわからず困惑していると、いつの間にか少女の手には自分の銃があった。
「あ」
「こんなものを持っていると、いつか死ぬわ。だから」
少女は撃鉄を起こすと、明杰の顔に銃口を向けた。
「わたしにちょうだい」
「……」
呪文でも唱えられたかのように動けずにいる明杰の腰から今度は鍵を奪うと、そのままリンは後ずさった。
「そこにいれば死ぬことはないそうよ。だから、安心して」
外からがちゃりと鍵が閉められたとき、はじめて体が自由になった明杰は跳ね起きて、ドアに突進した。
「リン様! ここを開けてください、リン様!」
丑三つ時の庭中に男たちが立ち、異様な空気があたりを支配していた。
ジェイは張と打ち合わせた後、地下に至る階段の上に立ち、銃を構えてあたりを見渡した。鉄扉を内側から叩くどんどんという音が続いている。ここにいたくない、ジェイに話して、と言っていたリンは、おそらくあの空間で殺された人間の残像におびえているのだろう。だが今はどうあっても出すわけにはいかなかった。
爆発音も車の音もしない、侵入者の影もない、静かな時間が過ぎる。そのとき、胸元のトランシーバ-が鳴った。
「Wei」
『裏門担当の奏だ。明杰が所定位置に来ない。知らないか』
「いない? まさか、もう誰か邸内に?」
『今更指定場所を動けない。とにかく警戒してくれ』
トランシーバーを切ると、ジェイはごくりと唾を飲み、両手で銃を握りなおした。
リンは使っていない応接室の暖炉の薪の陰に暫く隠れたのち、ひとの気配が消えたのを見計らって、裏階段へと進んだ。
高いところ。この屋敷には実質三階にあたる小さな尖塔があり、そこからひと目で邸内が見渡せるという。誰がどこからどういうふうに入って来るのか、そこからなら見えるだろう。
なぜか心のどこかで、来るのはSYOUではないのか、自分を救いだしに来るのではないのか、という思いが捨てきれなかった。最近読んだラプンツェルの絵本を思い出し、恋する女が隠れている塔に救いの王子は来るのではないかという妄想にとりつかれていたのだ。狭い世界での追い詰められた生活の中で、リンの意識は現実と非現実の間を迷子のように彷徨うようになっていた。
ほとんどの警備が庭と一階に集中している状態で、上のほうは人の気配がない。チョウがどこにいるのかもわからない。自室とチョウの部屋しか知らないリンは、不思議な箱を巡るような気分で、入り組んだ屋敷をそろそろと進み、階段を上がった。
そのとき、使用人用の裏階段を二階へと上がる途中の踊り場の窓に、すっと人影が写った。リンは咄嗟に踊り場の壁にある物入れの小さなドアをあけると、身を縮めて入り込んだ。窓の外は背の高いモミの木だ。誰かが、あれを伝って?
窓のガラスが外から小さく割られ、鍵が外される気配があった。
物入れの鍵穴から覗くと、観音開きの窓をするりと開けて細身の男が入り込むのが見えた。男の姿はそのまま階段の上のほうに消えた。
物音に気付いたガードマンの一人がそろそろと下から階段を上がってくる。そして割れたガラス、あいた窓に気づくと、銃を構えて周囲を見回し、進入路を確かめるように窓の外を見た。そして連絡用のトランシーバーを手に取った。
次の瞬間、銃声も悲鳴もなく、ガードマンは床に倒れていた。
何があったのか自分からはよく見えない。細身の男が上から降りてきて、ガードマンの上にそっと屈みこむ。何かを手にして、男はそのまま階段を上に上がっていった。
男の姿が階上の闇に消えると、リンは物入れを出てふうっと長い息をつき、呼吸を整えた。
SYOUではない。……SYOUではなかったけれど。
足音を忍ばせ、リンは後を追うように狭い階段を上がった。
この上には尖塔への階段がある。もしかしたら、高い場所から庭の人間を狙うつもりだろうか?
リンは手元の銃を見た。これの使い方を知らないわけじゃない。今たぶん男に一番近いのは自分なのだ。
それでもなぜか、一瞬鍵穴の前を通り過ぎた男の不思議に寂しげで端正な横顔が、SYOUを思い出す時によく似た痛みと切なさを突然胸に満たし、そして静かに押し広げていた。
地下に下りる階段の上で時計を見ていたジェイの耳に、突然複数の悲鳴と鈍い銃声のようなものが聞こえた。
庭のほうから?
上を見上げ、階段を上まで上がる。再び、応戦するような遠い銃声が聞こえる。消音器を通したくぐもった音はこちら側の銃だ。
侵入したのか。手榴弾はどこで使う気だ。まさか邸内で?
と、胸のトランシーバーが鳴った。受信ボタンを押し、どうした、と短く言うと、苦しげな声が応答した。
『こちら、庭……の、陶。 上から、二人撃たれた』
「上?」
『上だ。上から撃ってきてる。それと、庭に刃物を持った侵入者が二人。俺ともう一人が切られた、が、射殺した。ひとりは、女だ』
「……」
『頭数が、足りない。こちらは手負いだ。応援を……』
そのまま声は途切れた。
ヤン・チョウに伝えようと彼の受信機を呼び出すが、応答がない。
どうする。ここは自分で判断するしかない。
ジェイは再び階下を見た。まだどんどんという音は続いている。仕方ない、ここはいったん場を離れて戦列に加わるしかない。
手榴弾で来る、というチョウの先入観念に縛られ過ぎて館の上階は警備が手薄だった、そこを突かれたのか。ジェイは階段を上がり、庭に面した小さな回廊に出た。
植え込みの陰から、芝生に倒れているガードマンの姿が見える。
わかっている、楊。
きみはチョウを絶対に許さないと言っていた。彼も、彼の側について彼を守る人間も決して許さないと。
あのとき少女救出に加われと言った彼の誘いを断ったことで、自分たちの道は分かれたのだ。たぶんきみは自分のことも許す気はないだろう。
自分はチョウの側についたのではない、リン様を守る側についたのだ。楊、きみの手に渡したとしても、彼女は生きられない。多分生かす気もないのだろう。美しい死しか与えるものはないのだろう。自分にはわかる。
リン様を巡り、自分たちの立場は決定的に別れたのだ。もう謝る気も、言い訳する気もない。
ジェイは銃を握り直し、先へ進んだ。
いったん銃撃をやめ、楊は銃口を上に向けた。
螺旋階段の途中の窓のすぐ下は二階の屋根で、その向こうに庭が見える。
庭の片隅に、清と周が倒れているのが上から見えた。銃を携えたプロに対し、刃物を持って参加すると言ってきた二人の仲間。まともに戦って勝てるわけがないのに、こんなところで最期を迎えさせたのは自分の責任だ。だが、いずれ自分が行く場所にあの二人はいるのだという夢のような予感が、すべての感情を麻痺させていた。
リボルバーにつけた消音器は、構造上の音漏れのためにほとんど役に立たなかった。爆音で通報されるのを避けて手榴弾は使わなかったが、はやくしないと警察が来る。この館の住人がアンタッチャブルな種族だということは知られており、近隣住民は何が起きようと真っ先に通報したりして怨みを買わないようにしているという噂を信じるしかない。
あと何人いるのか。塔の頂上を目指し、楊はまた歩を進めた。あのてっぺんにリン様が閉じ込められていると思った自分の勘は、当たっているだろうか。
そのとき、窓の外で音がした。楊はさっと銃を構えると、撃鉄を起こした。
「やめて」
背後から声がした。
楊は振り向いてそのまま動きを止めた。
視線の下、狭い螺旋階段の途中に、白いナイトウェアを着た少女の姿がぼうと浮かんでいる。そのとき青ざめた月がむら雲の陰から顔を出し、窓から差し込む月の光が、つややかに光る黒髪と陶磁器のような肌とチュールレースが縦に何列も連なったドレスを浮かび上がらせた。
「……リン様……」
楊は茫然と銃口を降ろした。
画像でしか見たことのない、こよなく美しい少女の生きた姿。
自分は夢を見ているのか。
夢に見たどんな映像をも凌駕して、だれも手の届かない高原にただ一輪咲く百合のように、その姿は孤高の美しさをあおく湛えていた。
「あなたはだれ?」
けぶるような睫毛に縁どられた深い瞳に射すくめられ、立ち尽くしたまま、楊は口を開いた。
「楊 天です」
不意に胸を突き上げてくる激情に、楊は銃を下げ、声を震わせた。
「あなたに、……あなたに、お会いしたかった」
ばん、という音と同時に楊の身体は後ろ向きに窓にぶち当たった。射ぬかれた左肩からは血が飛び散り、背後の窓ガラスは割れ、割れた窓が外側に向かって全開した。