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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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まっすぐな道

「あなたはリンに会っていないのよ。何のためにここまできたの、どんなことをしても会う、そのためでしょう」詩織は悲鳴のような声で叫んだ。

「会うさ」

 SYOUは即座に言った。

「どんな形にしろ必ず会う、それが運命だから。会わずに死ぬわけがない。きみはきみの命を生きろ」

 SYOUの顔に浮かんでいる微笑みに気づいた次の瞬間、ライトの灯りが切れた。

 詩織は暗闇の中で後ずさった。そして男の遺体に踵が当たると後ろ向きに跨ぎ、くるりと階段の上を向いて手すりを掴んだ。

 視界は煙と涙で曇り、激しい頭痛と眩暈と吐き気で世界が揺れている。

 全身の力を振り絞って中ほどまで上がったとき、階段の上で足音がして、なにかの灯りが揺れた。と思うと光は真正面からこちらを捉え、次に光の輪の向こうの人影が口を開いた。

「お、そこか」

 見慣れた楊の顔が微かに笑い、こちらに向かって手を差し伸べた。

「ちゃんと歩けてるんだな、レディ。SYOUはどうした」

「……下。下に」

 かすれた声でやっとそういうと、楊は階段の下を見た。

「下か」

「助けて、お願い。助けて」

「よし、まかせろ」

 その手には柄の先が赤く塗られた斧が握られていた。

 詩織は階段を早足で駆け降りる楊のあとについて、もつれる足で階段を下りた。

 三、四段飛ばしていきなりどんと飛び降りてきた人影にSYOUが驚いていると、人影は手元のライトで遺体を照らし、続いて驚いたような声を上げた。

「おい、容赦ないな。こいつ目玉がないぞ」

 SYOUはただ、奇跡のように眼前に現れた楊の顔を見た。そして子どものような口調で言った。


「……ああ。ないよな」


 どんな顔をして答えていいかわからなかった。

 おそらく今、自分は笑っているのだろうとSYOUは思った。


「一撃必殺か。……さすがお前さんだな」

 楊が半笑いで言う。

「彼女もそう言ってくれた」

 楊は振り返って詩織を見ると、斧を翳して見せた。

「タイタニック、見た? あのクライマックスシーン、実はローズは斧でジャックの手をかすめてるんだぜ」

 詩織はいきなり楊に飛びつくと、その手から斧をもぎ取ろうとした。

「ちょっと待てレディ、案外元気じゃないか。いいから俺を信用しろよ。ちゃんと鎖にヒットするからさ」

「よくあそこから出られたな」

 楊はSYOUの顔を見て笑った。

「この船が傾いてんのは俺のせいだ。何しろ大急ぎであそこを出なきゃならなかったんで、手榴弾を二個ほど使った。そしたらいろいろと必要な配管も施設も吹っ飛ばしちまってさ。まあいいだろ、浮かんでるのが不思議なぐらいのぼろ船だし」

「いいから早く切って!」詩織が叫ぶ。

「もっともだ」

 楊は詩織にそう答えると、SYOUの足元に回り、動くなよ、と言って斧を振り上げた。

 一度目で床を叩き、二度目でばんという音とともに枷との連結部分で鎖が断ち切れたその瞬間、ああ、という感嘆の声をあげて、詩織はその場に座り込んだ。

「よし、行こう。もうあまり時間がない」

 楊はそういうと斧を投げ捨てた。

「……」 

 詩織は焦点の合わない目で黙って中空を見ている。その様子に、楊はふと表情を曇らせた。

「SYOU。酷い怪我とか言ったが、彼女はどこにダメ―ジを受けてる」

「その男に足首を持って引き倒されて、気絶するほどひどく後頭部をぶつけたらしい」

 SYOUは菊池の骸を見ながら言った。

「なるほど、それで鼻血のあとがあるのか」

 楊は眉根を寄せて言ったあと、

「いいか、しっかり彼女の手を握っててくれ。行くぞ」

 そういって、懐中電灯を手に階段を駆け上がった。


 舷梯(タラップ)を渡りながら遠いサイレンを聞き、聞きながらSYOUは楊に問うた。

「ほかの連中はどうした」

「正臣氏の船にいったん乗せてもらって、適当なとこで接岸してもらってバラバラに逃げたはずだ。俺たちは陸路で逃走するしかない」

 コンテナや荷物の陰に身をひそめて道路の方向へ移動する途中、詩織は立ち止まって二回、嘔吐した。

「大丈夫か。休むか」SYOUの問いかけに、

「いいえ、行って。このままだとなんだか、……眠くて」

 力のない声で答える。

「眠い?」

「すごく眠いの」

 SYOUは黙って振り向いた楊と、顔を見合わせた。


 金網の切れ目から道路に出ると遠方に若宮の愛車がみえた。SYOUの持つ合鍵でドアを開け、まず後部座席に詩織、その横にSYOU、運転席に楊が座り、間髪を入れず車を発進させた。

 倉庫街を出たところのジャンクションの下で赤色灯を回しながら埠頭に向けて列をなしてくる緊急車両とすれ違うと、楊は振り向いて言った。

「危機一髪」

「詩織。……詩織、気分悪いか? 大丈夫か?」

 SYOUの問いかけに詩織は答えず、ただぼんやりと膝を見ている。

「早く病院に運んだほうがいいな」楊が運転席で言った。

「さっきちらっと彼女の瞳孔を見たんだが、左右で大きさが随分違う。ちょっと危ない状況かもしれない」

「どこの病院に……」

「正臣氏からその点は指示を受けてる。さっき船の彼に女の子たちを引き渡したとき、SYOUか詩織嬢が怪我をしていたらここへ運べと病院を指定された。知り合いが院長をやってて、事情は問わずに優先して治療してくれるそうだ。夜間救急外来もある。機密を守ってくれる唯一の病院だ」そういうと楊は病院の名前と住所を書いたメモを、後ろ手でSYOUに渡した。

 SYOUは小さな紙切れを眺めながら、詩織を抱く手に力を込めて語りかけた。

「病院に行こうね。ちゃんと診てもわらないと」

 前かがみになった詩織の鼻から、またすーっと鼻血が落ちた。

「……楊!」

「わかってる」

 車は一段階、ぐんとスピードを増した。SYOUは詩織の鼻をハンカチで押さえ、詩織はふらふらと手を動かしてそれを払いのけた。

 窓の外を過ぎる街灯や湾岸の灯りを見ながら、SYOUは胸のわななきを抑えられずにいた。詩織は何も言わない。何も言わずに、薄く目を開けたり閉じたりしている。

「リンに、……会うんでしょ」

 唐突に、呟くように言う。

「ああ。でもきみを運ぶのが先だ」

「リンは葦の船で、蛭子(ひるこ)の神様と一緒にいる。とても遠いわ。だからそっちを曲がって、お土産を買っていかないと」

「詩織、もうしゃべらなくていから」

「SYOUにもお土産を買わなくちゃ。水の色をした、ピアス。大事なピアスを買わなくちゃ」

 不安と緊張から、詩織の肩を抱く指先が冷たくなっていくのが自分でわかる。どんどん手の届かない方向へ走り出していくかのような詩織の肩を、SYOUは力を込めて抱え直した。

「……ごめんなさいね」

「詩織、もう何も言わないでいいから。考えなくていいから」

「あなたの宝物、どこへいったか、わからないの。どこを探しても、どこにも……」

「もういいんだ。もう……」

 語るそばから、涙が滲んでくる。手の中から、小さな鳥のように詩織が知らない世界へ飛び立つような、そんな未知の恐怖が背中から自分を襲う。

「少しは役に立った? わたし、いままで」

「ああ、少しどころじゃない。本当に感謝してる」

「わたしを許してね」

「何を許すっていうんだ」

「リンが待ってるわ。あなただけを待ってる。葦の船に乗って、高天原に……」

 詩織は俯くと長いため息のようなものをつき、瞳を閉じ、SYOUの肩に寄り掛かった。

 そしてあとはもう何も言わなかった。


 詩織の頭を抱えこむSYOUの姿をバックミラーに見ながら、楊は、恐怖と焦燥という感情が全身を震わせるのを感じていた。

 家族が殺されてから、こんな激情は久しく忘れていたのに。


「……息をしてるか」

「してる」

「よし、大丈夫だからな。ちゃんと手術してもらえば助かるからな」

 SYOUももうしゃべらなかった。ただ走行音だけが、車内に響いた。

「今だから言うけどさ」楊はSYOUの反応を誘うように、口を開いた。

「……なんだ」

「初めて会ったときから、俺はそのレディに惚れてた。気づいてたか?」

 十秒ほどおいて、SYOUは言った。

「……なんとなく」

「いい女だよな。あんたは贅沢だよ」


 まっすぐに伸びる道の先、ビルとビルの陰に、病院の看板が見え隠れするようになっていた。


「ずっと疑問だった」楊はまた口を開いた。

「……あの悪魔のような男の元にリン様を置いて、あんたはそれで平気なのか。あの尊い魂が奴に食い散らかされるのを、何とも思わないのか」

 しばらくSYOUは返事をしなかった。そして、静かに口を開いた。

「それについては他人に説明して伝えられるようなことじゃない。自分の判断が最良だとも思っていない。だが、もしかしたら俺は彼に近い誰よりも、あの男の一部については理解していると思う」

「一部?」

「お前には彼を憎む権利がある、だからこの口からは言わない。そういう一部だ」

「なるほど。その通り、俺にはわからないね」楊は鼻白んだ。

「リン様を尊ぶ気持ちはあんたと同じだ。だがあのかたにとって、悪魔とともにいるよりはましな場所もあるだろう。それなりに相応しい場所が」

「この世にか?」

「この世でなくちゃいけないか?」

 SYOUははっと目を上げて、バックミラーに映る楊の、凍えたような瞳を見た。

「あんたがあんたの都合でやつを許すなら、それでいい。それはそちらの道だ。俺は俺の都合でやつを許さない」

 SYOUが口を開きかけたそのとき、楊は急速にスピードを落とし、病院の手前の並木道で左に車を寄せた。

「悪いがここからはあんたに任せる。俺は行くところがある」

「いくところ?」

「レディをよろしく頼む」

「楊、どこへ行くんだ」

「最後に聞くよ。今まで言わずに来たが、リン様が妊娠していることは知っているか」

 SYOUは詩織の肩を抱いたまま、ひと言で答えた。

「……知ってる」

「そうか。なら、いい」

 楊はさっと車の外に出るとドアを閉めた。そして窓から中を覗きこむと言った。

「じゃあ、ここまでだ。お互いの道を行こうぜ。まっすぐにな」

「楊、ちょっと、ちょっと待て。どこへ行こうとしてるんだ」

「お前は女を守れ。ひたすら女を守れ、そしてその子どもを守れ。そういう風に生まれついてるんだから」

「楊。お前ではリンを守れない。もしこの世ではなくあの世のほうが彼女にふさわしいと思っているなら、それが本気なら、俺はお前を敵として戦うことになる」

「それでいい、遠慮するな。拉致少女奪還同盟は終わりだ」

「楊!」

 楊はそのまま背を向けて深夜の並木道を走り去った。


「……くそっ」 

 口の中で小さく呟くとだんと拳でドアを打った。

 次に顔を上げると、腕の中の詩織を見て、その頬を撫でた。


「……死ぬなよ、詩織。きみは誰よりも強いだろ」


 額にキスしてその体を横たえると、SYOUは勢いよく外に出て運転席に乗り込み、正面の病院に向かってぐんとアクセルを踏んだ。





 眠れないままに、寝室のナイトテーブルでバーボンをあおる。

 もう何杯目か、アルコールは機能を失ったかのようにただ胃の腑に消えてゆく。

 チョウは振り向いて自分のベッドを見た。

 安心した子どものように眠るリンの周りに、護符のように絵本が何冊も散らばっている。桃花源記、胡蝶の夢、ラプンツェル、人魚姫…… 日を追って増える、おとぎばなしの数。

 喘息が始まると自分のそばに寄り添い、収まると絵本を読み聞かせるリンの習慣は、まるで遥かな冥界へ自分をいざなう儀式のようにも思え、それならそれでいいかもしれないとチョウは思い始めていた。

 突然卓上の携帯が振動する。表示を見て、チョウはグラスを落としそうになった。


 ……菊池!


 ついに連絡がついたかと勢い込んでとりあげると同時に、いままでどこに、とわめこうとした頭を冷やし、静かに言った。

現在在哪里(シェンザイザイナーリー)?」(いまどこだ?)

 数秒の沈黙を挿んで答えたのは、予想と違う声だった。


『どこにいると思う?』


 ……SYOU!


「お前か。……なぜこの電話に」呆然とチョウは言った。

『これから話すのはとても大事なことだ。いいか、一言一句漏らさずに聞いてくれ』

「どこからこれをかけてるんだ」

『あんたの大事な操り人形は後ろに色々と余計な紐がついてたぞ。だが残念ながら手足はあっても目ん玉がない。これじゃうまく踊れない』

「……」

 魂が底冷えするような声に、本当にあのSYOUかとチョウは訝しんだ。

『ある刺客が、今たぶんそっちに向かってる。おそらく手榴弾最低二個と、銃も所持している』

「刺客?」

『将来有望な医者志望の青年だった、だがお前と国に家族と未来を潰された。

 彼の目的はリンだ。悪魔の手から女神を奪おうと捨身になってる。

 チョウ、彼女を守れ。とにかく人手を集めて護衛しろ。今からでも逃がせるなら逃がせ。俺はいま身動きが取れない』

「そいつが誰なのか名前を言え」

『たいして必要な情報じゃないだろ。お前が虫に噴霧器をかけるように家族ごと処刑リストに載せた罪人の一人だ』

「身動きがとれないとか言ったが、ネズミ用の罠にでもかかったのか」

『そうだよ』

「……」

『よほど俺が邪魔だったんだな。あんたのはなった殺し屋は俺に手枷足枷を付けて自由を奪った、さらに船に爆発物を仕掛けて降船した。

 奴にくらわした一撃で命は頂いたが、俺もここで死ぬ運命だ。憎い恋敵の最期だ。どうだ、嬉しいか?』

 チョウは背後の気配にはっと目を横に滑らせた。

 

 話し声で目を覚ましたリンが、いつの間にか後ろに立っていた。繊細なチュールレースを幾重にも重ねた美しい白いナイトウェアを着たリンは、生きた妖精のようだった。


『リンには俺のことは一切話すな、とにかくどこかに彼女を隠すんだ。あと、俺に別れの一言を言ってくれるかな』


「……」


 チョウは勘の鋭いリンの視線を針のように受けながら、ただ唇を引き結んでテーブルの上の拳を固く握った。

『俺は殺人鬼のあんたと、それなりにいい友人になれるようなつもりでいたんだぜ。残念だ』

「誰なの? 誰と話してるの?」

「黙っててくれ」

 リンの泉のように澄んだ瞳の深部に、青い焔が燃えているようだった。

 SYOUはたたみかけた。

『言ってくれ、チョウ。最後に本音が聞きたい。少しは後悔してるか?』


「……ああ」


 それだけ言うと、チョウは通話を切った。


「身動きがとれないって、誰のこと」

 リンは透き通るように白い頬をいくぶん紅潮させて、詰め寄った。

「今すぐ地下に降りるんだ」チョウは硬い表情でそれだけ言った。

「言って。電話の向こうは誰だったの!」

 そのとき乱暴にドアをノックすると同時に、チョウの寝室にジェイが踏み込んだ。

「ご報告します。埠頭を張っていた連中から連絡で、たった今あたりをつけていた船が爆発、沈没したと」

 そしてチョウの背後のリンに気づいて、はっとした表情になった。

「……沈んだのか」チョウは固い声で言った。

「はい」


 後悔してる? SYOUの言葉が頭の中で渦巻き、チョウはまたいつも自分を悩ませるあの眩暈に襲われていた。

 あの男は、本当に死んだのか……


「ジェイ、今すぐリンを地下に連れて行け、ぐずぐずするな。そしてすぐ上がってこい。賊が来るらしい」机を両手で握ると、下を向いたまま怒鳴った。

「わかりました」

 ジェイは強引にリンの手を掴むと、「行きましょう」と言ってさっさと部屋から引きずり出した。

「待って、まだ話が」

「それどころではありません。賊が来ることは聞かれたでしょう」足をもつれさせるリンを抱きかかえるようにしてジェイは早足で進んだ。

「爆発って、船って何? あなたは知っているの? SYOUはそこに乗っているの?」

「知りません」

「じゃあ賊って誰」

「あなたを求める人間、必要とする人間は世界中に何万といるのです、誰が来てもおかしくありません。あなたは希望を失った人たちの光なのですから」

「光?」

「どんな犠牲を払っても、あなたを手に入れればそれでもう光なのです。あなたは尊い存在なのです」

「もうやめて! わたしは誰にも何もできないわ。あなたはわかってるはずよ、ジェイ。もうわたしを閉じ込めないで。これ以上、顔も見たことのない人たちのためになんて生きたくない」リンは悲鳴のような声を上げた。

 地下に下りる階段の前まで来ると、ジェイはリンの腕をつかんだまま立ち止まり、その美しい瞳を静かに見て言った。


「では、一人の男のために生きてください」

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