起きろ!
埠頭公園の柵に寄り掛かりながら双眼鏡を目に当てていた澪子は、目を上げて呟いた。
「来たわ」
視線の先にはちらちらと光るT埠頭。その先に泊まる貨物船の上に、人影が複数動いているのがぼんやりと見える。背の高い大人のシルエットに続いて、小柄な複数の人影。
「……姐さん」
背後で呻くように呼びかける若衆の高尾に、黙って双眼鏡を押し付ける。おそるおそる覗いた彼は、ため息のような小さな声で、ああ、と言った。
「移動するわよ」
つかつかと車に歩み寄り車のドアを開けると、運転手の古瀬が青白い顔でこちらを見た。
「出して」
澪子のあとから無言で乗り込んだ高尾は、そのまま膝から視線を上げなかった。倉庫街を抜け、橋を渡り、車は華やかな観光地の夜景と海に映る工場地帯の灯りを交互に見ながら、十七人の生贄の乗った、錆びた貨物船に近づいてゆく。
「権田組に入って何年」澪子は鞄から煙草を出しながら高尾に尋ねた。
「二年です」
「自分から名乗り出たんですってね」
「……」
「大した度胸ね、そんなに若いのにこんな仕事に手を出すなんて。へまでもしたの」
高尾は下を向いて、呟くように言った。
「姐さん、不躾な質問を許してください。おやっさんのこと、……男としてどう思われてますか」
澪子は黙って煙草に火をつけた。
「尊敬してらっしゃるか、とことん惚れてらっしゃるか。それとも何かおやっさんに対してその、負債でもあるのか、実は俺からも聞きたいことなんです」
「女がする仕事じゃないというわけ?」
「誰だってしちゃいけないです。でもどうしても姐さんがするというなら、俺は代わりたいと思いました」
澪子は横を向いて煙を吐き出すと、天井を見た。
「見上げた心根だけど、もし考え直せるならほかの生き方を見つけたほうがいいわよ」
埠頭入口には守衛小屋があり、車の出入りを監視している。離れた場所で車を降りると、高尾はペンチで埠頭を囲む金網の一部をさっさと切り取って進入路を作り、そこから細身のパンツ姿の澪子と二人埠頭内部に入った。
コンテナや荷物の山の向こうに赤くさびた貨物船が静かに停泊しているのが見える。煙突には、ハングルをもじったファンネルマーク。
足音に気を付けながら舷梯(タラップ)を渡り、上甲板に乗り込む。デッキクレーンの下をくぐりハッチから内部に侵入すると、澪子は手元のランタン・サーチライトを点けた。
低い天井の配管に頭をぶつけないよう背をかがめながら鉄の階段を下って第二甲板へ降りる。
かすかにオイル臭のする第二甲板の狭い通路を進むと、暗闇の先に甲板間貨物室があった。
がらんとした貨物室の内部はただ暗黒で、ライトの灯りを向けると、トウモロコシの粉や肥料、ウッドチップと表記のある箱が次々に照らし出された。その横に、緑色のさびたコンテナが三つ並んでおり、そのひとつの入り口にマル印の付いた赤いシールが貼ってある。
「これだわ」
額の汗を拭くと、澪子はシールを撫でた。空気の淀んだ船内は熱気をはらんでひどく暑い。コンテナは外から施錠されている。あらかじめ携帯に送られていた映像と照らし合わせると、澪子は改めて言った。
「間違いないわね。じゃ、手筈通りに」
「……本当にやるんですか」
「今さら、なに?」
男は全身を細かく震わせながら言った。
「俺、……」
そして背中からリュックを降ろすと、手元のライトの向きを真上にして足元に置いた。
「俺、ここまでついてきたのは、もしかしたら最後の最後に抜け道があってターゲットを生かす道が残されているのではと、実はそういう計画なんではとかすかに思っていたからなんです。でも、まさか、本当に……」
「そんなことを当てにしてここまで来たの。残念だったわね」
「まだ信じられないです。あのおやっさんが、本当にこんなことを」
「でかいものを抱え過ぎると自分の意志では動けなくなるものよ。何人の極道を食わせてると思ってるの」
「何とも思わないんですか。この中にあるのは、いのちなんですよ」
「あなたたち日本人のほとんどは中国人が嫌いでしょう。その中国の、何の縁もゆかりもない子どもが命を奪われたからと言って、今まで心を痛めたことなんてある?」
「目の前にいればなに人でも同じです。俺は極道にはあこがれたけど子どもを殺す大人に憧れたことはないです。姐さんは平気なんですか」
「長年人間の感情を捨てるための訓練しか受けてないものでね」
「俺、姐さんに惚れてました」
高尾はじっと澪子の目を見ながら、震える声で言った。
「姐さんは大して覚えてないだろうけど、いろいろ辛かった時、誰にでもあることよと励ましてくれた。夏祭りで、美味い酒をなみなみ注いでくれた。姐さんの笑顔を見るのが好きでした」
澪子は腰に手を当てるようにして、男を見やった。
「噂では聞いていたでしょう、わたしは日本人じゃない。この内部にいる子たちと同じ国籍よ。それでも、自分の利になるなら何でもできるような穴倉のような魂しかもってないの」
「……」
「それでもあの爺さんはわたしを命がけで庇い、海外に逃がそうと船のチケットまで買ってくれた。ある程度恩を返したいと思ったとしても不思議じゃないでしょ。
わたしがこれをするのは、弱みがあるからでも義務だからでもない。権田組を顎で動かしてる上の連中のしようとしていることをきちんと世間に見せるため。これはあなたの持ってるカメラで記録として残る。
これがどういうことか、そのうち連中も知るでしょう」
「だからってそのために、……そのために、本当に」
澪子は鞄からハンカチを出すと、男の額の汗を拭いた。続いて頬の涙もそっと拭き取った。
「燃料を置いて外へ出て。あなたの記憶にいらない映像を残さないほうがいいわ」
高尾は唇を震わせながらうつむいた。そして、足元のリュックから着火剤と時限発火装置と、大きなシャトルポットを二つ出した。
「それは?」シャトルポットを見て、澪子は聞いた。
「冷えたウーロン茶です。たぶん、ろくな扱い受けずにここまで来てるんだろうから、暑いし喉が渇いてるかもしれないから、せめてこれを飲ませてやりたいと、そう思って」
澪子はつくづくと男の顔を見た。
「……どうしてこんな稼業につこうと思ったの」
そういって、足元のポットを拾い上げる。
「キーなら持ってるから、わたしが開けて中の子に飲ませてあげる。顔を見る?」
「無理です。俺、……」
「そうね。車で待ってて」
男はそのまま、ふらふらと通路を戻っていった。
澪子はその背中を見送ると、ほっと小さく息をついて額を汗をぬぐい、足元に屈んで肥料の山に着火剤を塗った。そして、大きめのライターぐらいの大きさの時限発火装置を置くとタイマーをセットし、肥料と肥料の間に置いた。
シャトルポットを手に立ち上がるとあたりを見廻し、発火装置にカメラを向けてシャッターを切る。
そして、ライトを消したまま倉庫室を出て、暗闇の通路を突き進んだ。
猫のように夜目のきく自分の体質は随分と重宝がられたものだ。自分の人生も、目を開けて闇を突き進むようなものだったかと他人事のように思いながら、階段を下へ船尾と進み、やがて頭の中の構造図の通りに船尾水タンクの手前まで来た。
天井の低い配管だらけの空間で、改めてライトを点ける。偽装パイプの継ぎ目を見つけ、ネジを回して取り外す。聞いていた通り簡単にパイプは外れ、やがて隠し部屋の入り口が現れた。
取っ手を持ってゆっくり上に引き上げると、鉄さびの香りが鼻を突き、足元には真っ暗な空間が広がっていた。
微かに泣き声のような溜息のようなものが充満するその空間をそっとライトで照らすと、黒髪と怯えた瞳がいくつもこちらを見上げた。
澪子は瞬間、背中を痛みに似た冷気が駆け抜けるのを覚えた。薪のように束にされた命の、重い、濃い体温。自分が様々な機会に目にしてきた、女たちの最後の目だ。
澪子は少女たちに向かい、母国語で呼びかけた。
『あと少し辛抱して、じきに出られるからね。これを飲んで待ってなさい』
少女たちは中国語を聞いてほっとしたような表情を浮かべ、澪子が降ろす二つのシャトルポットを幾つもの手で受け取った。そして、口々に囁くような声で言った。
「謝謝」
ばたんと隠し扉を閉めると、澪子は目を閉じ、それから瞳を上げて立ち上がった。
幾重もの被膜となって感情を包んでいた、いわば胞衣のようななにかが自分からするりと取れて、むき出しのひりつくような戦慄が感情を襲う脅威。久しく感じたことのないものだった。それはなぜか、その「謝謝」が与えた恐怖なのだった。
澪子は携帯を取り上げると、短いメールを打った。
「終了。今すぐ来て」
携帯を閉じてアクセルを踏むと、足元から形にならない不安がせり上がってきた。
SYOUはまっすぐ正面を見ながら、不意に高鳴り始めた動悸を押さえこんだ。
大した計画じゃない、自分たちがすることはあの通路を辿り、船底の隠し部屋に至って少女たちを脱出させ、全員を走らせて船外に誘導することだけだ。
ものの五、六分で済むだろう。
すでに少し離れた場所に正臣差し回しの船が停留しているのも確認している。船に何かあっても、若宮の待つ大型バンも陸地に待機している。彼が弟子にこっそり用意させたワゴン車もさらに埠頭の外に停まっているはずだ。
それでも、この焦げ付くような恐怖は何だろう。
車を降りて金網の外を回ると、ぽつりと立つ背の高いシルエットが見えた。
次の瞬間、それが楊であることを確認してほっとする。
「ここだ。先遣隊が切ってくれてる」楊は手招きすると金網を指差した。
SYOUは楊の大ぶりなベストを見て言った。
「いいもの持ってたんだな。フィッシングベスト?」
「これで釣り竿持ってたら夜釣りにきた暇人みたいだろ」
楊はベストを開くと、内側の金具にぶら下がった四つの柘榴―手榴弾を見せた。驚き顔の詩織に向かい、楊は言った。
「知ってる? トレンチコートのベルトについてるDリングって、本来手榴弾をぶら下げるためのものなんだぜ」
七人順々に埠頭に入る。
暗闇に鉄の廃墟のように浮かぶ錆びた貨物船は、なにか巨大な棺のようにも見えた。
全員ただ無言で舷梯を渡り、デリックポストやマストが直立する船尾甲板に回る。船橋楼脇のハッチから船内に入り、最短距離を選んで、緊急用階段から下に降りる。
「もうかなり煙が出てるな」楊は呟いてSYOUの顔を見た。船全体にきな臭い空気が立ち込めている。
「火災報知機は切ってあるのか」
「工藤会がすべて落としてあるはずだ。中途半端に消防が入って少女たちが警察の手に渡ったら、中国側に引き渡されてさらに悲惨な運命を辿ることになる」
SYOUは答え、急ごう、といってあと一つの階段を下に駆け下りた。
偽装パイプのうねる船底まで来ると、錆びとオイルの匂いが煙臭さに混じって鼻を突いた。
「ここだ」SYOUは錆びたパイプを掴んでがたがたと揺すると、緩んだネジをさっさと外した。
この下に待ち構えている十七の命を思い、全身の血が燃え上がるような緊張と興奮を覚える。あと少しで解放される十七の魂――
鉄製の板を上に引き上げると、真っ暗な空間が下に見えた。懐中電灯で下を照らした次の瞬間、SYOUは思わず声にならない呻き声を上げた。
「これは……」
目に飛び込んできたのは、いくつもの体が折り重なるようにして空間の底に倒れている、悪夢のような光景だった。誰一人、頭を上げている者はいない。
「楊。楊!」
SYOUは叫び声をあげて背後の楊を呼んだ。楊はSYOUの横から中を見て、哎、と口の中で呟いた。
「ヘイ。ヘイ!」中に向かって叫ぶが誰一人頭を起こさない。
「降りてみよう」SYOUが楊を押しのけて梯子を下ろうとすると、
「待て、酸欠かもしれない。リーダーのお前は行くな、俺が少し下って様子を見る」楊は懐から出した蝋燭に火をともし、梯子を五、六段降りてそこで止まった。後ろの全員が息を飲んで見つめる中、背をかがめて匂いを嗅ぎ、炎を見、暫くすると言った。
「どうやら空気のほうは大丈夫だ」
SYOUは楊に続いて階段を下り、頭をつかえさせながらやっと立っていられる空間をライトで照らしだした。
十七人の少女たちは、酷い苦悶の表情を浮かべることもなく、ただ眼を閉じて折り重なっている。どの顔もおさなく整っていて、長い年月の疲れと絶望が細い頬に張り付いていた。
楊は座って少女たちの首筋に手をあて、瞼を開けて目を覗き込んだ。それから、床に転がっているシャトルポットを拾い上げ、匂いを嗅いだ。
「どうだ」SYOUは背後から尋ねた。
「大丈夫、生きてる。これは多分、薬か何かを飲まされてるな」
「麻薬か?」
「いや、多分睡眠薬の類だろう」
「ここはひどく錆が進行してるけど、たとえば錆で酸素が吸収されて酸欠を起こしてるとかそういう可能性は」
「確かに空気は悪いし頭痛はするが、この分だと酸素濃度は18%は切ってない。こいつに入ってた飲み物に混ざってたんだと思う。匂いはウーロン茶だが」
あとから降りてきた詩織が、階段の途中から言った。
「睡眠薬だとしたら、どうして、誰がいつそんなものを飲ませたの。わたしたち双眼鏡で確認したけど、全員自分たちの足で甲板を歩いてたわ。それ、ここで渡されたってこと?」
SYOUは少女たちの中に呆然と座り込んだまま、静かに言った。
「これは想像だけど。
……九道会のおやっさんは、少女たちに手をかけるのを本気で嫌がってた。そして権田組も九道会も、実動組はみな結果的に助けるというプランであることを知らずに動いている。
だとすればそのうちの誰かが、せめて彼女たちの最後が辛くないように、なにかを飲ませたのかもしれない……」
楊は口元を覆うとひと言、天啊(ちきしょう)、と呻いた。
SYOUは少女の一人の肩を掴むと、突然大声を出した。
「起きろ、起きろ! 目を覚ませ、立ち上がれ。Wake up!」
十五・六と見えるおかっぱのその少女は、微かに喉の奥でううん、といった。楊は気づいたように言った。
「……それもありかもしれない。アルコールでない飲み物に睡眠薬をまぜる程度なら、そう深い眠りではないかもしれないからな。とにかく大声で叱咤して意識を戻そう、階段じゃなくて梯子を上らせるにはとにかく目を覚ましてもらわないと」
SYOUは続けて言った。
「火は出てるんだ、時間がない。意識がもどらない子は背負ってでも上がるんだ、とにかく上の空間に全員を引き上げよう。急げ!」
詩織と清と宋は引き上げ役として上に待機し、残りは狭い空間に降りていった。
口々に大声で呼びかけながら、少しでも返答があった少女から頬を叩き、肩を支えながら梯子を上がる。
漂う煙の香りが少しずつ濃くなっている気がする。その息苦しさが、さらに焦りに拍車をかけてゆく。こんなことさえなければ今頃全員、通路を走って船外に出ているはずだった。間に合わないかもしれない、という不安を叩き消しながら、今できること、今できることと胸の中で唱えながら、SYOUは幼い少女を背負い、梯子を上がっては詩織たちに預けた。
額から流れ落ちる汗が視界を覆い、背中を流れ落ちる汗がとめどもなく衣服を湿らせてゆく。どこの誰ともわからない何かに、どうか守ってください、と祈りながらSYOUは無言で次々に力の抜けた体を持ち上げていった。
不意に、梯子の上から声がかかった。
「SYOU、船にいる正臣さんから電話が」
「この通りだ、時間がかかってることを説明をしてくれ」SYOUは少女の頬を叩きながら怒鳴った。
「そうじゃないの、まだメンバーがいるのかって」
「まだ?」
「いままた誰かが船に乗りこんだそうよ」
「……?」
SYOUは詩織の顔を見上げて言った。
「若宮さんじゃないのか」
「いいえ。彼はさっき車の中からメールをくれたわ」
楊とSYOUは息を飲んで顔を見合わせた。