毒と花
雑踏の向こうに見え隠れしているその男の顔に気づき、視線が止まってから、男もこちらを凝視していることに気付いた。
……どうしてここに。
化粧して女のなりをしていても、目だけは隠せない。その目をまっすぐ向こうから見据えてくる。
何年振りだろう、もう四年か。こんなになってもこの顔はわかるのかな。
周囲の人間がまばらになって、男と自分の間に空間ができる。ゆっくりとした足取りで男がこちらに寄ってくる。
声をかけるか、やめようか。ぎりぎりまで待った方がいいのか。
男が目の前まで来た。呆気にとられたようなその顔は、近づいてみると白髪がいちだんと増え、十も老け込んだように見えた。
「……お前か」
呆然とした表情で、男が口を開く。観念してSYOUは答えた。
「そうだよ、父さん」
「何年ぶりだ。……どうして顔を見せない、どこにいってた。もう長いこと帰ってないだろ」
「よく僕がわかったね」
「息子の顔を見忘れるものか。お前は変わらないよ」
「……」
「ほのかそっくりだ、本当にそっくりだ。どこにいってた。母さんもお前も、俺を本当に思いだしもしないんだな」
泣き笑いのような表情で、頬に手を伸ばしてくる。
「何でそんな恰好をしてる。相変わらずだな」
大きな手が、幻のように頬を突き抜ける。父親は驚いたように手を引っ込めた。
「晶太。お前……」
なぜかそのとき、自分は驚かなかった。すでになにもかもをわかっているような気がしていた。そしてただ静かに言い返した。
「ごめん、父さん」
「……晶太、お前に言っておきたいことがあったんだ。ちゃんと言っておきたいことが」
「ごめんね」
「晶太! 晶太、お前……」
……死んだのか?
はっと目を覚ましたとき、目の前にあったのは、暗い天井をバックにこちらを覗き込む楊の顔だった。
「俺に謝ってるのか?」
「……」
呆然と楊の顔を見返すSYOUに、やれやれといった表情で楊はあたりを見まわした。
「手近にハンカチはないな。冷蔵庫の取っ手のタオルでも渡そうか」
「ずっと見てたのか」顔をそむけて頬を拭い、半ば非難するようにSYOUはいった。
「何度も謝りながら涙をほろほろ零すあんたはあなかなか見ものだったよ」
「夢ってのは感情が野放しになるもんだから」
言い訳がましく言い、床の寝袋から体を起こして深夜の室内を見る。パイプベッドの上では若宮が寝息を立て、灯りを最小にしたダイニングテーブルの上には手術用のメスと砥石があった。
「また古いメスを研いでたのか」
「俺の唯一の趣味なんでね」
楊はじっとSYOUの顔を見ると、ぼそりと言った。
「……あんたはなんていうかときどき妙なんだ、半分どっかに行ってるような。上手く表現できない。とにかく、まだちゃんとここにいろよ」
いつになく神妙な表情の楊を見て、SYOUはふっと笑い、立ち上がった。
「明日は、いやもう今日か、とにかく晴れの大舞台だ。ちょっと景気づけに乾杯しとくか」
「影響が出るとヤバいんじゃないの」
「動くのは深夜だし、今なら構わないだろ。国際線のパイロットじゃないんだから」
冷蔵庫から出した安いジンを炭酸水で割り、二人ダイニングテーブルで向かい合ってグラスをチンと合わせる。
ひと口飲むと、楊は何か決心したように口を開いた。
「……起きてくれてよかった。実は朝が来る前に言っておきたいことがあったんだ」
「なに」
「ジェイ・チャンのことだけど」
「ジェイ・チャン?」
「けっこうやばいことになってる。俺たちとのつながりがばれたらしい」楊は扇風機のスイッチを入れると、つまみのスモークチーズを口に放り込んだ。
「ばれた? チョウに?」
「ああ。きのう遅く、人を介して彼の状況が俺のところに届いた。
邸内で胸にいつも差していたトランシーバーが盗聴器になってたらしい。つまり、彼がこっそり俺とかわした携帯での通話も、邸内での会話も、すべてご主人様に筒抜けだったってことだ」
筒抜け?
SYOUは事態を冷静に掌握しようと、頭に上りかけた血を懸命に下ろしながら言った。
「……この計画の何がどれだけもれてるって話なんだ」
「詳細は一切伝えてない、ただ処分される十七人の命を救う計画に参加しないかともちかけただけだ。場所だの時間だのは含まれていない」
SYOUは楊の顔を見ながら慎重に考えを巡らせた。
……基本的にヤン・チョウはリンさえ手元にいればいいはずだ。それがかなうなら俺がどこで何をしようと一切邪魔はしないといったし、たとえ漏れていたとしてもこの件に関して大して関心があるとは思えない。
「基本的に彼にとってこのプランは損にも得にもならない、無視して終わりだろう」
「ああ。でも問題はジェイ・チャンが、チョウの宝であるファン・ユェリンとあんたとの間を取り持とうとしてたってことだ」楊は細い目を上げてこちらを見据えた。
「ジェイが望んでいたのはそれひとつだったはずだ、そしてヤン・チョウにとって一番許せない裏切りでもある」
それは確かにその通りだ。
あの月夜に百穴の森の出口で出会ったときから、彼の望みははっきりしていた。
リン様は憐れです。あのかたにはチョウ様ではなく、あなたこそが必要だ。
そのすべてがばれたとするなら、リンをチョウの手元から解放し、SYOUの元へ届けようとする彼の目論見を、チョウが許すはずがない。
「彼からの連絡はすべて途絶えている。いや、これ以降彼からとして入ってくるメールも電話もすべて真に受けないほうがいい。気の毒な話だけど、家族をみなチョウに殺されて彼に飼い犬として飼われたときから、それは彼だけの宿命だったんだ」
「……彼は、ジェイ・チャンは、最初からその宿命を受け入れたんだろうか」SYOUは静かな声で言った。楊は肩をすくめた。
「家族を全滅させられてるんだ、すんなり受け入れるはずがないだろ。だがチョウはどういうわけか最初から奴を気に入ったらしい。さんざん殴って鞭打って血だらけにしてから、ジェイにうんと言わせたんだ。今もあいつの背中は壮絶なことになってる。あいつは奴の手の甲にキスさせられて、その時に誇りも未来も捨てたんだよ。まだ十八歳だったんだ、仕方がない」
あくまで紳士的な口調で自分と会話をしていた端正な外見のあの男の本性がどういうものか、こうして人に外から言われて確認する。それでも、人を苦しめて醜態を楽しむ彼の酷薄さが、それを嫌悪する自分の本質とそう遠くない気がするのもまた事実だった。
「彼はこれからどういう扱いになるのかな」
「あまり気にするな。たぶん、あの邸内に幽閉して、何があっても最後までリン様の盾にして使い切るだろう。リン様を思うあいつの気持ちを利用するだけ利用して」
学生時代からの友人だったというジェイ・チャンを語る楊の口調はあくまで淡々としていた。
SYOUは周が楊について言っていた言葉を思い出していた。
……イマイチつかみきれない、何かは確実に持ってる、そしてやると決めたことはやる奴。自分の無念が煮えたぎってる部分を、きちんとかたちにして叩き潰してくれる奴と信じる。……
自分の持つ印象と、同胞として接する周の印象が同じであることで、自分は楊と周とを同時に信頼したのだった。
「やるときめたことだ、あとはやるしかない。チョウが介入して得になることもない筈だ、気にしないでいいだろう。それよりもう三時だ。そろそろ寝よう」
SYOUは唐突に言った。話せばなにもかもがとめどもなくなるような気がしたし、そんな風にこの男と話す機会が今までなかったのもすこし残念な気がした。
楊は時計を見て、眠れるかな、と呟いた。そしてSYOUの顔を意味ありげに見た。
「……何だ。まだなにかあるのか」
楊はポケットから一本のメスを取り出して、切れ長の目の前に翳した。
「実はあんたがなんだかんだ言いだす前からその綺麗な寝顔をみてたんだ。
で、このままこのメスであんたの服と喉を掻っ切ったらどんな感じだろうと真剣に考えてた。鮮やかな血が噴水のようにあたりを染め、それはそれは美しいだろうと。
……そしたら簡単におっ勃った」
SYOUは絶句した。
「こんなのと組んで仕事するんだ、覚悟しとけよ。あの変態殺人鬼ヤン・チョウを嗤えた立場じゃない。俺も案外同じ毒を甘露のように飲みこめる性分なのかもな」
「妄想するのと理解するのと共感するのと実行するのとは全部、別の話だ」
きっぱりとしたSYOUの口調に、楊はふと笑顔を浮かべて立ち上がった。
「それを聞いて安心したよ。あんたはいいリーダーだ」
歯磨いてくる、と呟いて洗面所に向かう楊の背中を見ながら、SYOUの胸にはそのリーダーとして負うべきものの重さがずっしりと落ちてきていた。
血の妄想を抱えたまま荒ぶる気持ちでそのときを迎えることが自衛になるなら、それもいい。
すべてが終わったのち目覚めて見る風景は、そしてそのときの気分は、自分にとってどんなだろう。
まるで百年先を思うように、SYOUはふた晩先のはるかな未来を思い描いた。
「菊地とはまだ連絡が取れないのか。いつまでかかってるんだ」
レースのカーテン越しに真夏の午後の庭を見下ろしながら、チョウは言った。
怒声の余韻が切れるのを見はからって、ジェイ・チャンは答えた。
「ご命令にしたがって、あらゆる手を尽して連絡を取ろうと試みています。ですが、どのルートからのアクションにも反応がありません」
「まさかくたばったんじゃないだろうな。自宅は張っているか」
「ここ二、三日出入りがないようです。どこか外にお泊まりかと」
「他妈的(くそっ)」
チョウは拳でだんと壁を叩くと、充血した目でジェイを振り向いた。
「とにかく一日連絡を取りつづけろ。万が一繋がったら、例の件は中止だと言うんだ」
「わかりました。必ず」
ジェイは頭を下げてから、ガウン姿のチョウに控えめな視線を投げた。
「横になっていらした方がいいのでは。まだ完全には……」
「余計な口をきかずに仕事に戻れ!」
「わかりました」
ジェイは頭を下げて部屋を出た。
あちこちから集めた情報が語る、決行の日。
本を読むリンの細い声、髪を撫でる指、透き通った無言の目の語るもの。
そんなものとたっぷり向き合った一分一分が、今ヤン・チョウの本質をじわじわと侵し、命ごと追い詰めていた。
毒を食らうのもたいがいにしようとリンを部屋に戻せば、すぐにも顔を見たくなる。顔を見ても見なくても煉獄の日々が続く邸内で、呪いのように同じ言葉と向き合い続ける。
お前の息の根を止めるのは俺だ、俺だけだ。
それが【覚悟】なのか【決意】なのか【詭弁】なのか、もはやチョウには判断できなかった。
詩織が現地に到着したのは午後十一時だった。
埠頭を海越しに眺める駐車場に止めた車の窓を叩くと、サングラスをかけたSYOUがドアを開けた。
「直前までくるくる集合場所変えるから手こずったわ」
「悪いな、いろいろと用心が必要でね」
するりと滑り込んでくると同時に、詩織は口元で手をはたはたと振った。
「ちょっと、これいい加減にしたら。外から見ると中で発煙筒をたいてるみたいに見えたわよ」
車内に詰めた中国人参加者のうち三人が煙草を吸っていた。
「大袈裟だ。窓は開けてる」宋が不機嫌そうに言った。
「その窓から秋刀魚を焼くような煙が出てるから言ってるんじゃない」
「そろそろ煙草を消してくれ。これで全員だ」運転席のSYOUが時計を見ながら言った。
「全員って、楊さんは」
「念のために離れた場所で待機してる。ヤバいアイテムを分散させる意味もあって」
「そのヤバいアイテムはどうなってるの」
「銃は彼の手元とここに一丁ずつ、それと」
「わたしには手持ちがあるから」
「全部で三丁か。使わずに済むことを祈ろう」
「“柘榴”はどこ?」
「ここにひとつ、あとは楊の管理。というか、若宮さんと楊の管理下にある」
「監督も一緒なの?」
「ああ、楊と同じ車にいるよ」SYOUはこともなげにいった。
「どうして。実動部隊には参加しないんじゃなかったの」
「船に乗らないまでも、すべてが見える位置から状況を把握する係りは必要だ。そういう意味で現地待機組」
そこではじめて、SYOUは詩織の顔を見た。
「権田組のほうは大丈夫か」
「伝えることは伝えたし、やるといったことはやるでしょう」
「そうだな。なら、いい」
立ち並ぶガントリークレーンのシルエット、ちらちらと揺れる客船や汽船の灯り、彼方に向かい合う恐竜のような青白い東京湾ゲートブリッジ。皆同じ夜景を見ながら、音もなく高まってゆく緊張の中にいた。対岸の灯りの一つを指差すと、誰に言うともなくSYOUは言った。
「これから移動するのがあそこ、T埠頭。この間実際に船に乗り込んで内部を見たな。もう一度各自の頭の中で再現して動線を確かめてくれ」
そういうとSYOU自身、目を閉じて九道会との打ち合わせから繋げて頭の中で再現した。
まず九道会の実行組が、契約してあるコンテナトラックに少女たちを乗せてT埠頭に入る。
ハングルをもじったファンネルマークのある、錆びた貨物船に少女たちを誘導する。船尾の船尾水タンクの横の偽装配管の下の入り口を開け、梯子を降りると隠し部屋がある。そこに全員を隠す。ここまでが九道会の仕事だ。
一方権田組には、船首近くの第二甲板の甲板間貨物庫に少女たちを閉じ込めると伝えてある。彼らは外にある、積荷の肥料に火をつける。
その後、自分たちが乗り込んで隠し部屋から少女たちを出し、全員を走らせて船尾の階段から第二甲板へ、デッキへと誘導する。火をつけた場所と船尾とは50メートルぐらいの距離がある。緊急車両が来る前に正臣差し回しの船に移動させる。最終的に燃料タンクに引火させて船は爆発炎上、あるいは沈没。要所要所を撮影し、任務遂行の証拠とする。たとえ最終的に少女たちの遺体が出て来なくとも、二度と彼女たちが世間に生きた姿をさらさないならば、それ以上上部は騒ぎ立てないだろうと言う目論見を含めた計画だった。逆に、十七人もの遺体が出てくれば大事になりすぎて、世間が放っておいてくれないのもまた事実だ。
やるべきことと結果のみを繋げた茶番劇。その向こうには十七人の未来と、リンの願いのみが静かに横たわっている。それはまるで、底の見えない泥沼にふわりと咲く花のように。
その先は? さらに、その先の未来は? ……
「時間だ。移動しよう」
SYOUは腕時計に目を落とすと、自分に言うように呟いた。
「妙に無口なんだな」楊の隣で、若宮はからかうように言った。
「きみでも緊張するときがあるのか」
その軽口にも答えず、楊 天はハンドルに手を置いたまままっすぐ夜の海を見ていた。
「あんたさ」
決心したように口を開く。
「彼―SYOUと、その、あのかたとのことについてはずっと見てきたんだろ」
「ああ」
「ふたりは……」そこまで行って戸惑い、また続ける。
「恋人同士、だったんだろうか。つまり、男と女として、……契りを結んだ関係という意味で」
「本人から聞いてないのか」
「行動を共にした、恋をしていた、ぐらい」
「じゃあ、俺から言えることは“さあね”ぐらいだ」
楊は切れ長の目で静かに若宮を見た。
「あんたファインダーからずっと二人を見てたんだろう。どう思った。その、幸せそうだったか。二人でいるとき」
「幸せそうなときも、壮絶に不幸そうなときもあった。……と、思う。だがあの二人が到達したような場所には、凡百の人間はどんなに望んでもいけないだろう」
楊は下を向いて呟いた。
「本物なんだな」
若宮は半ば同情するように言った。
「受け入れられないだろう、こんな話。信者としちゃ」
「後から集めた連中は受け入れられないと思う、だからSYOUもそういう空気はできるだけ匂わせないようにしてる。だが俺が知りたいのはただ一つだ。
あの羅刹の男からリン様が自由になる時が来たとして、彼はあのかたのもとに駆けつけ、守ることができるだろうか。その気はあるんだろうか」
「気はあっても力がないのを自覚してるからな。自首すると言っていたし」
「本気だと思うか?」
「当然だろう。一生逃げ隠れして闇に身をひそめて生きるわけにもいくまいさ」
「……」
「不満か」
「じゃあ、あのかたはどこにも行く場所はないんだな」
「それはそれこそ神のみぞ知る、だ。だが少なくとも俺は俺のいる場所で、彼女が生き延びることができるよう、世界を広げる努力はしようと思う」
楊は若宮の顔を見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「あんたが船に乗らないのはいい決断だった」
そして時計に目を落とすと、呟いた。
「……時間だ。行こう」