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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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砂漠とオアシス

 海の見える丘の上のホテルは廃墟としては新しく、あちこちのマスコミで紹介されていない分、まだそれほど荒らされてもいなかった。

「ラドン温泉?」詩織が足元の看板を見て言った。

「それが売りだったけど、はやらなかったみたいだな。潰れたのは四年前らしい」SYOUが答える。

 落ちた看板を越えるとき、二人の足元で割れたガラスがぱりぱりと鳴った。


 風呂場やゲーム室のある地下の廊下は、湿り気を帯びて空気も淀んでいた。光源がないので、手元のライトを消せばあたりは漆黒の闇に落ちる。

 足元にキャンプ用の強力なライトを置き、突き当りの非常用ドアにマットレスを立てかけて的にする。

「構え方にもいろいろあるけど、動きを伴う銃撃戦ならコンバット・スタイルね。体に角度を付けず、上から見て体と腕のつくる形が二等辺三角形になるように正面を向いて構えるスタイル」

 詩織はリボルバーを握り、両手で構えて見せた。

「足幅は肩幅と同じ、こうつま先を開いて。

 膝は曲げ気味にして、つま先に重心をかけるの。で、ちょっと猫背な感じ。

 肩をすぼめて、こう顎を胸に埋める。で、視線はまっすぐ先。両肘は完全には伸ばさないで。こう」

 SYOUは両手でリボルバーを持つと、詩織の隣で身体の正面に構えた。

「手首はしっかり固定して、両肘でショックを吸収する感じで。

 反動に逆らわずそのままの姿勢で、動くときは銃を出来るだけ水平に前後動させて」

 その日、廃ホテルの地下で、SYOUはマットレスに向かって銃を五発撃った。詩織は三発。銃弾も有限なので無駄遣いはできない。

 横に並んで的に正確に当てるかつての恋人の横顔を、研ぎ澄まされたように美しいとSYOUは思った。

 重い破裂音と反動、シリンダーとバレルの隙間から漏れるガス。自分の吸う空気の匂いが、これから突入する修羅場を静かに語る。

 ホルスターから銃を取り出す時の手首の角度、決して自分の身体に銃口を向けないこと、暴発を防ぐ方法。詩織が父親から受けた驚くべき「英才教育」に、SYOUは粛々として従った。

「大したもんだなきみは。こんなことまで教わってきたんだ」

「日本だとクレー射撃もしてたし、グアムや韓国なら射撃場で子どもでも銃が撃てるから。外国でサバイバルゲームに参加したこともあるし」詩織はこともなげに言った。

「権田眞一郎は本気できみを後継者にしようとしてたんじゃないか」

「唯一の息子が思い通りに育たなかったからね。わたしで一時的に腹いせしてたんでしょ」詩織は苦笑しながら缶コーヒーを飲んだ。

「でもこんなの使う可能性はほとんどないんでしょ、だってこれから動く先に“敵”はいないんだし」

「身内から裏切り者が出なければね」

 詩織ははっとした表情でSYOUを見た。

「その可能性があるなら、どこから銃弾が飛んできてもおかしくない」

「なんのための銃弾?」

「俺は知ってはならないことを山ほど知っているし、顧客データという火薬庫を抱えてる。俺の行方が知りたい奴は多いだろう」

「だから、銃の訓練にほかの連中を呼ばなかったの?」

「彼らを信じてないわけじゃない。だけど俺の信念として、連中に武器を持たせたくはなかったんだ。まあ持たせてもいいかなと思っている楊については、銃の扱い方は知ってると言っていたし」

「軽く言ってたけど、どう思ってる?」

「趣味で上海の射撃場に通ったことがあるといってた。別に不思議なことじゃない」

「身内は疑っていないのね」

「きりがないからね。少なくとも、少女たちを救おうと思っていることだけは確かだ、そこは信じてる。けど空気や水と同じで、こういうことはどこから漏れるかわからない。敵が来るなら、外部からだろう。でも」SYOUは意味ありげに笑った。

「万が一俺に何かが起きてことが公になるなら、それもいいと思ってるんだ。今日も若宮さんが、あちこち回っては少しずつ餌をばらまいてる。自分の生存と居場所、今まで見たこと聞いたことを一気に明かすというネタふりをしながらね。俺の生存も含めて」

「え……」

「彼は懇意の記者と密談を取り交わしながら、上に振り回されない暴露ルートを作ってるんだ。火薬庫に火がついて一気に明るみに出るならそれもいい。機会としては多少早すぎるとしても、より痛手を被るのはどちらか、それも勝負のうちだ」

 詩織はじっと目の前の美しい男の顔を見た。

 青白いキャンプ用灯光器に照らされたその顔は、初めて会った時より細く、強靭に、そしてどこか非現実的な風貌になっていた。

 そして言葉にせずとも、心に満ちる違和感。


 そのことばのどこにも、もうリンの影はない。リンに会うための策もない。

 彼は何のためにこれを始めたのか。

 それは遥かな、それこそ目に見えないくらい遥かな目標となってしまったのか……

 だが、これほどそば近くにいても、それはもう自分が口に出してはいけないことなのだと本能で悟ってもいた。


 詩織はぽつりと言った。

「いまでもわたしに、一流の女優になってほしいと思ってる?」

「もちろん」SYOUは即答した。

 空き缶やスプレー、たばこの吸い殻の散乱するホテルの廊下に並んで座って、二人は突き当たりのマットレスの穴をただ眺めた。穴は正確に、マジックで書いた的の中心に集中していた。

「わたしにも夢はあるんだ。ささやかな、でも、野望と言えば野望」

「どんな。ていったら、話す?」

「……話さない」

「なんだ」SYOUは笑った。

「それじゃ何も言わなかったのと同じだろ」

「そうねえ」

 詩織は笑って、残りのコーヒーを飲んだ。


 ……わたしの夢はね。

 死ぬまでにもう一度、一度でいいから、

 たった一人の人と、一生忘れられなくなるようなキスをすること。

 それを思い出すだけで死んでもいいと思えるようなキスをすること。

 それだけ。

 でも、いわない。

 きっとあなたは困る。

 今まで困ってきたぶんを全部合わせたぐらい、ただ、困るから。


 肩にとんと詩織の頭が乗る感触に、SYOUは視線を斜めに落として汗ばんだ腕を軽く抱き、そのまままた前を向いた。


 昔大好きだった遊びがある。

 綺麗な色紙をできるだけ小さく折りたたんで、あちこちに鋏で繊細な切り目を入れる。それを苦労してまた開くと、美しいレースのような紋様ができている。

 指に食い込む鋏の痛さが多い分、苦労して切り落とした場所が多い分、紋様は美しく繊細になる。

 誰かが折りたたみ、自分が鋏を入れ続けているこの世界を開いたとき、その紋様はどうなっているのか。それとも、誰かの手でそれが開かれる時が世界の終わりか……


 詩織の肩から髪に手を移すSYOUの脳裏に、白い手を広げてレース編みのような紙を広げてゆく長い黒髪の少女の姿が、幻のように浮かんで消えた。




「ちょうど今目の前にある窓から、大火事みたいな夕焼けが見えてる。そっちからも見える?


 で、どうしたの急に、あなたから電話してくるなんて。

 今? 行ったりきたりだけど、主にホテル住まいよ、お陰様で。

 大丈夫、そのうちまたまとまったお金が入る予定があるの。まあ、生きていられればだけど。

 そっちはどんな具合。長年の夢だった姫君を手にしたご感想はどう?


 ……頼みごと?

 ああ、そう。いいわよ、万が一の話なら。万が一ならね。

 でもどうして彼じゃなくてこのわたし?


 言われてみればその通りか。

 でも、まわりがそれでおさまるかどうか。

 一応、万が一の話として受けときましょう。昔のよしみでね。

 そうよ、あなたは身に余る幸福の代償は払わなきゃね。

 贅沢よあなたは。とても贅沢。

 先の見えない人生を送る死刑囚たちの中にあって、あなたにはもう見えてるじゃないの、その幸福な幕引きが。こよなく愛した月の姫君の傍らで」

 (シン)(レイ)は左手に携帯を持ち変え、右手のペンで手元の紙に文字を気ままに書きつけていった。新疆(ウイグル)崑崙(コンロン)

「覚えてる? 張、あなたと一緒に行った砂漠の町、ホータン。

 諜報活動の一端でチベットに潜行したとき、あなたはわたしをたずねてきて、いきなり一緒に行こうと誘ってくれたわね。

 あのころ、山奥の訓練所で信頼していた指導係にレイプされて、わたしの若い夢も理想も(つい)えかけてた。

 今も時々夢に見るの。あなたがどうしても見たいと言ったあの川。タクラマカン砂漠に六月になるとあらわれる雪解けの大河、ホータン川」

 テーブルの上のコーヒーを啜り、爪でカップを軽く弾く。

「崑崙山脈の氷河が溶けて、砂漠の下の地下水脈が地表近くに上がってくると川が出現するのよね。

 ジープで砂漠を走って、オアシスの街ホータンに泊まって、大河の最初の先端を見るために待機して。

 川を待つ間あなたは、朝夕の砂漠の風景に見とれてた。夕暮れの砂漠の色が好きだと言ったわ。

 干上がった川底を二人で歩いて、靴の下に水がしみ出して、ああもうじき川が流れるとわかった。それから、はるかかなたから水が流れてきたのよね」

 飴玉のようにとろりと赤い夕陽がビルの谷間から最後の残光を投げてよこし、静蕾の頬を赤く染めた。

「ジープで川と並走して、魚の跳ねる姿に見入って。川とともに緑地帯に入ると広がるあの美しいポプラ並木、そこに流れ込む水路。川の水を引き入れてここぞと潤う農地。

 でもあなたは、緑の沃野よりやはり砂漠が好きだと言った。

 世界中が砂漠になったらさぞ清潔で美しいだろうと。一緒に人類の住処を木端微塵に吹っ飛ばして地球を美しい砂漠の星にしようと、そんなことをいったわね。

 わたしはそんなあなたが好きだった。


 ……何笑ってるの。おかしい?

 あなたはひりひりするぐらい痛々しくて、美しくて、いい男だったわ。

 いつかもう一度歩きましょう、ホータンのポプラ並木の道を。

 砂漠の味のするあなたのキスは素敵だったわ。


 ……だから、来世があるならよ。

 あなたみたいな悪党にも、わたしみたいな人でなしにもね。

 来世がないというのなら、次は地獄で会いましょう」



 携帯を切って窓の外を見ると、言われたとおり火事のような夕焼けが目に入った。

 チョウは部屋の灯りを消し、そしてソファの上のリンを振り返った。

 リンは胸の上に絵本を乗せて、薄くまどろんでいる。

 部屋を赤く染める夕日が、桂花陳酒に酔う少女のように、白い頬を朱色に照らし出していた。                    

 絵本は陶潜の、桃花源記。晋の時代に、桃の花咲く幻の村に迷い込んだ漁師の物語だ。

 リンがまだ幼かったころ、よく彼女を膝に乗せてこの絵本を読んだ。

 争いの絶えない現世を離れて、平和を願う人々が移り住んだ美しい桃の村。優雅な人々の歓待を受けた漁師は、一度そこを離れたのちまた村を探したが、再び見つけることはなかった。

 桃源郷への道は、一度しか開かれなかったのだ。

 そして村の名は伝説になった。


 どうしたらそこへいけるの、と何度も聞く幼いリンに、どこかにはあるけれどどこにもない場所だからね、と答えた。

 入れない場所からは出ることもできないんでしょう。いってみたいけれど、少し怖い。探すときは、一番好きなひとと探さなきゃ。迷宮に閉じ込められても、帰りたいと思わないように。


 自分を虐げた継母と兄を殺し父の遺産を継いだ自分の魂は、あのとき、聡明で美しい少女に溶かされるまで、氷河のように凍っていたのだ。

 会うたびに溶けだしてゆくこころはやがて大きな流れとなり、奔流となって欲望の荒野を朱に染めて駆け抜けた。


 ポプラ並木の両脇を清流となって流れるホータン川の支流を見ながら、静蕾とキスをした。

 あのときのままに、砂漠の地に甘んじてあの女と等身大の恋をしていれば、きょうの滑稽な自分もなかったかもしれない。

 だがそれでも、どんなかたちにしても、リンという底なしの泉に出逢ってしまえば、その水を汲むしかなかったのだろう。


 胸の上の絵本を閉じて表紙を見る。

 鮮やかな桃色が充血した目に染みた。





 海に照り映える夕焼けの朱色が、六階の部屋を朱色に染めていた。

 正臣は右手に携帯を握り込んだまま、海と空を見つめた。

「きみか。……実は、待ってた」

『叔母はそこにいますか』

「いないよ、(パオ)(チン)と買い物に出てる。例の件か」

『ええ』

「よし、場所と時間を手短かに頼む」

 正臣はペンを握り、メモ帳をめくった。指先が微かに震えている。

『そちらに送りました、手紙で。今日着くと思います。念のため内容はそちらで。偽名になってます、Tカンパニー』

 正臣はつと立ってダイニングテーブルの郵便の束を見た。心当たりのなかった会社名の封筒を取り上げ、Tカンパニーという文字を確かめる。

『大雑把ですが詳細はそこに書いてあります』

「いまここにある。ええと、ちょっと待って。……」

 乱暴に封筒の口を破り、取り出した手元の書簡をざっと見てしばらく、正臣は黙り込んだ。

『陸路でも海路でもいいんです、一時避難先は』

「すごいなこれは。ええと……」

『電波とはいえ念のためです、書いてあることの内容は口には出さないでください。あなたにはご迷惑をかけます』

「いや、むしろこっちから申し出たことだ。

 ひとついっとこう。弟……ビル会社のオーナーの座を譲った相手だが株は半々で持ってる……がプレジャーボートを持ってる。あてにはできると思う」

『ありがとうございます』

「で、櫻…… やつに、会ったんだってな」

『ええ。信用できる人だと思いました』

「このことはまだ?」

『それは言いません。あの人個人の判断でどうこうすることのできない話でしょうし、彼の判断がどうであれ背後についてくるものが大きすぎます』

「そのほうがいいな。で、事後のことは考えてるのか」

『はい。すべて終わったら自首します』

 正臣は目を閉じ、ひと息ついて、語りだした。

「明和党のスキャンダル浮上ももうすぐだ。きみが捕らわれの身になるころには、流れも変わっているだろう。出て来るころにはさらに」

『ええ。でも今は今のことだけ考えます』

「……そうだな」

 SYOUは幾分声の調子を上げて言った。

『宝琴は、……どんなふうに過ごしていますか』

「妻に書道を教わってる。なかなかの腕だよ、僕から見ても感心する出来だ。きみにも見せたいな」

『そうかあ。見たいですね……』

 しばらく沈黙が続いた。言葉を継いだのは、SYOUだった。

『いつかまた、きっと会えます。その日まで、元気でいてほしいと伝えてください』

「ああ、伝えよう」


 淡々とした通話を切って、正臣は室内を眺めた。

 壁にかかるみっつの書。妻と宝琴と、そして晶太の文字。

 友人の別荘を借りて海辺で過ごす日々は、波風はないが宝琴には先の見えない不安な日常であることだろう。どこにも存在しない、すでに死んだ身となっている自分。墨の香りに、妻も少女も、どれだけ助けられていることか知れない。

 落花流水。

 晶太が書いて奈津子に送った美しい水のような文字の横に、懸命にそれを真似て書いた宝琴の書があった。並べてみると晶太の書のほうが女性的で優雅で美しく、宝琴のそれはむしろ力強く見えた。

 これはいいことだ。正臣は自分に言い聞かせた。

 いいことだ、生きる力がまだまだあの子にはある。


 ……やるからには成功しろ。昔も今も、妻の、奈津子の魂の一部をつかんで離さないきみだ。

 やりとげろ、柚木晶太。


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