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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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てのひらの月

 青畳の香る茶室の床の間には一行物の掛け軸がかかり、青磁の花器には真紅の夏椿がほっそりと活けられていた。


 白くふくよかな手によって目の前に置かれたのは、()(てき)天目(てんもく)茶碗(ちゃわん)


「御点前頂戴致します」


 詩織は一礼すると右手で取った茶碗を左手にのせ、右手を添えて軽くおしいただいた。ふところ回し(時計の針の向き)に二度まわし、ほのかな甘みを含んだ苦味を舌に喉に含んですっと吸い切る。

 飲み口を右手の指先でぬぐい、指先を懐紙でぬぐう。

 逆向きに二回まわして茶碗の向きを戻し、膝正面、畳の縁の向こうに置く。


 ……掬水月在手。


 掛け軸の表す情景をうっすらと頭の中で思い描くその眼前で、澪子は左手で鉄瓶を取り、帛紗で蓋を押さえて、返された茶碗に湯を注いだ。

 薄鼠に水紋の柄の着物に、髪は夜会巻き。対する詩織は浅黄色のワンピースだった。


「どうぞお仕舞いください」

「重ねてもう一服いかがですか」

「充分頂戴しましたのでどうぞお仕舞いを」

「それではお言葉に従いまして仕舞わせて頂きます」


 右手で茶筅をとり、左手を茶碗に添えて、サラサラとしまいの茶筅通しをする。その手先の滑らかさを見ながら、詩織は今自分が置かれている状況とこの静けさとの乖離に、なにか体が遠くなっていくような浮遊感を覚えていた。その浮遊感の中心に夏椿が揺れて、網膜の中心をあかく染めた。


 茶室から移った客間は、床の間の脇に出書院が設けられ、竹に雀の飾り障子から午後の夏の日差しが差しこんでいた。澪子は無垢の欅の座卓を挿んで詩織と向かい合い、着物の膝に手を置いて語りかけた。


「話があるのはわたしではなくて、お父様のほうでしょう。悪かったわね、あのひとの予定が定まりきらなくて」

「いえ、実は最初にお話ししたかったのはあなたなんです。もう力は借りないつもりで啖呵切ったこともあるのに、不本意なんですけれど」

「ブローニング銃を握ってわたしの家に来たときよね、SYOUの居場所を教えろと。大した迫力だったわ」

 詩織はわずかに赤面して言葉を切った。澪子は視線を飾り障子に投げて、話題を変えた。

「あのひとがあのお茶室を増築して、あそこに通すようなお客がいないことに気づいて、わたしに勉強のためと言って使わせたのが八年前ぐらいかしら」

「わたしも父に強制的にあそこでお点前を習わされたわ、先生をつけて」

「一度お茶会でお顔を合わせたころ、詩織ちゃんは高校二年ぐらいだったわね」

「三年です」

「よく手順を覚えていたわね」

「女優として仕事の中で生かしたりしていましたから」

「何ひとつ無駄にならない仕事というわけね。たしか、クレー射撃にも通っていたのよね」

「父と一緒に通いました」

「大した英才教育だわ」澪子は肉厚の唇を左右に広げて笑った。

「突然あんな場にお誘いして御免なさいね、あなたが一身をかけるほどの話があるというからわたしもそれなりの気構えを示したのよ。でもたいしたものね、それほどの相談事の前に、あなたの作法にも気にも乱れはなかった」

「お点前の時、重ねて、なんて言われたことはなかったから正直戸惑いました。でもこういう場を用意してくださったことに感謝してます。これからのお話の前に、自分の覚悟を見直すためにも、一服いただけてよかったわ」

「あなたは成長したわ。お茶の所作だけ見ても、それがわかる」

 二人の間に沈黙が落ちた。しんとした炎暑の庭からは、何の物音も聞えて来なかった。

 詩織は傍らのレディースビジネスバッグを引き寄せ、中からクリアファイルを出した。

「まずあなたに見ていただきたい書類があります。中に書いてあるのは、九道会が請け負った仕事の大まかなラインです。その内容は、後半を権田組にお願いする形で作り変えてあります。

 いきなり父に見せるにはあまりに多くの説明が必要だと思うの。どうしてこの計画を知っているのか、なぜ九道会が用意した計画をわたしが持ってきているのか、あなたなら途中までは察してくれると思う。問題はその先」

 澪子は渡されたファイルの中から閉じられた数枚の紙を取り出して眺めた。

「父にはこの計画を通した場合の結果から話すしかないと思っているの。

 この通りにすれば、上からの命令に添ってミッションは遂行される。命令を受けた権田組が傘下に丸投げして逃げたとも言われない、九道会の怨みも一身に背負わずに済む。痛みは分かち合い義務は果たし、そして結果は」

 詩織はそこで言葉を切って澪子を見た。

「件の少女たちが永久に日本から姿を消すというかたちで果たされるわ。誰も損をしない」

「船は雑貨船? 船主は?」書類に目を落しながら澪子は言った。

「韓国籍の雑貨船で490トン、貨物船としては小型です。船長は韓国と日本のハーフ。今回の航海で廃船になる予定だそうです」

「船長はどこまでかかわってるの。計画の中身は話したの?」

「なにも話していません。まとまった金額を支払って三日間借り受け、口止めをしただけです」

「ええ、話さないほうがいいわ。知りえないことは話せない、それが一番。特に、合法的な拷問がないらしいこの日本ではね」

 ヤクザの愛人の範疇に収まらない、諜報活動に長いこと身を投じてきた中国人の顔になって澪子-(シン)(レイ)は笑った。

「九道会の仕事はT埠頭に十七人を運んで、船倉に閉じ込めるまでです。実はこの船には偽装パイプの配管があって、その下に隠し部屋があるそうです。何が目的か密輸か密航か、とにかくおあつらえの船であることは確かです。そして権田組の仕事はその先」

 詩織は視線に力を込めた。

「船に火を放つこと。その一点のみです」

 澪子はその目をひたと見返した。

「最初に聞いておくわ。裏にSYOUがいるわね」

「ええ」

 詩織は実にあっさりと答えた。

「すっきりした顔しちゃって」澪子は苦笑した。

「で、次の質問。九道会はどこまで知っているの、この計画の裏を」

「裏は知りません、表だけです。複雑に絡み合った利害関係で権田組はもう上部からの命令は断れない。霊燦会と明和党、現政権が抱える権力の構図。その下で庇護されて生きながらえた広域暴力団が生き残るために、どうしても成功させなければならないミッションが、年端もいかない十七人の少女を跡形もなく消し、後ろ暗い接待所を『なかったことにする』こと。

 九道会は権田組のフロント企業の仕事において何千万単位の大穴を開けた、そのかどでこの汚れ仕事を押し付けられたでしょう。その理不尽さを怒って九道会の若衆が権田組に切り込んだのはご存じのとおりよ。九道会の九道貴一は、計画の最後を権田組が背負い、受けた仕事の最後を仕上げるという形でこの計画を飲んだだけ。裏が怪しいと思ったにしても、疑ってもどうにもならない。信じたとして、何も不都合はない筈」

「そんなわけのわからない話をよくあの疑り深い九道貴一が受けたものだわ」

「父にもそうあってほしいんです。裏がどうだろうと誰が作り上げたシナリオだろうと、これに乗って損をする人間は誰もいないのよ。そして、罪のない少女を大量虐殺したい人間もまたいないはずですから」

 澪子は詩織の、綺麗な刃のような瞳を見ると、微かに微笑んで言った。

「最後まで、全貌を知るのはわたし一人にしておいた方がいいとは思うんだけど、あなたのお父様がそれで済むかどうかは一番難しいところね」

「わたしは父に、(おとこ)としての誇りを持ってほしいと思ってるんです。そしてそれを信じてもいるわ。このままでいいとは思っていない筈」

「ええ、その通りよ」

「もし必要なら、わたしから洗いざらい父に話そうと思っているの」

「どこからどこまでを?」

「わたしの一生一度の恋から」

 澪子は目を丸くした。

「そこから始めるの?」

「すべてはわたしの、そして父の“保身”から始まった話。だったらそれをわたしの立場からひとつひとつを裁き、崩していかなくてはどうにもならないわ」

 澪子は黙ってもう一度紙面に目を落とした。

「死ぬと分かっていて少女たちの部屋に火をつけるか、死なないと信じて火をつけるか。それはどんな修羅をくぐってきた男にとっても大きな話よ。そこをはっきりさせるために、誰がどうかかわり、最終的に彼女たちがどうなるかを具体的に話す必要が出て来るわけだけど」

「そこは話しません。上からの命令通りに何の横槍も受けず仕事を貫徹したという既成事実が、組の存続のために、組を統べる長としての父のために必要でしょう」

「……」

「どう思いますか」

「その通りだわ」澪子は心からそう言った。

「権田眞一郎は、あなたという娘を持ったことを天に感謝すべきね」

「わたしも、あなたという味方を天の配材と感謝しているの」

 詩織は微笑んだ。

「事情を知らない父に、立場と意地から火をつける役を引き受けられたらそれはそれでわたしには痛手過ぎるわ。でも、あなたがいる」

「まいったわね、あなたって子には」澪子は苦笑した。

「……SYOUが立てた計画なのね?」

「ええ」

「彼を信じてる?」

「わたしが信じる信じないじゃないんです。わたしたちの仕事ですから」

「ああ、ごめんなさい。じゃ、詳しく計画を聞かせて」澪子は頭に手をやった。

 この子たちには、もう敵わない。

「あともう一度聞くわ。権田眞一郎に何を話すの?」

「伝令としてのわたしの言葉を信じ、この話を受けてほしいと。そしてなにがあっても最後にある意志が立ちはだかり、父の魂を地獄に落とすようなことにはしないでしょうと。そういう意味で、わたしを信じてほしいと」

 客間のインターホンが鳴った。詩織は立ち上がり受話器を取った。

「はい」

『お嬢様ですか。お父様がお帰りです』

 女中の声に、詩織は澪子を振り向いた。澪子はその視線ですべてを察したようだった。

「今玄関にお迎えに出るわ。そう伝えておいて」


 玄関を上がりスリッパに足を通そうとして、眞一郎は一瞬ぐらついた。

「大丈夫ですか」

「構うな」

 太った女中の手を振り払い、額の汗を拭く。

 このところろくに寝ていなかった。

 疲れ切っているのに妙に冴え冴えとしている脳の中心に、焦躁と煩悶が病のように住みつき、さらに怒りを燃料として青い焔を上げていた。その熱感はじりじりとおのれの内部に向かい、可燃性のものから丸焦げにしようと狙っていた。

 筋を通そうと思えばその筋の何倍も太いしがらみがナイロンザイルのように全身に絡みつき、無視しようとすれば炎が自分を焼く。外国航路の切符を買った愛人は払い戻しを受けて戻ってきて、自分の泥をかぶると平気で言い放った。だが自分が胸を張って足を降ろせる場所がない以上、誰かの勇気を受け入れる余裕すらないのが事実だった。

「お嬢様と澪子様が客間でお待ちです」

「……客間?」

 そう言えば娘さんが来るわよと言っていたなとぼんやりと思い返し、眞一郎は自室に寄る前にまっすぐ廊下を進んで客間に顔を出した。


「二人ならんで何だ。込み入った話か」

「シャワーを浴びて、さっぱりなさってからでもいいのよ」

 茶卓の前に並ぶ二人は、なにか緊張と余裕を併せ持つ不思議な風情で其処にいた。手強いのが二人そろって、と思わずため息をつきかけて、眞一郎は自分に苦笑し、そのまま二人の前に座った。

「疲れてる。長い話なら明日にしとけ」

「澪子さんの和服、素敵でしょ」

「ああ。茶でもたてていたのか」

「久しぶりに、娘さんと向き合ってね」

 眞一郎は娘の顔を見た。何か今までよりも、その表情からにじみ出るものが厚みを増している気がした。日々のシノギや懲罰に汲々となっている組員たちからは感じたことのないオーラがそこにはあった。

「パパ」

「なんだ」

「娘の恋物語を聞く気はない?」

「そんな戯言(ざれごと)を言いに来たのか」

 詩織はにっこりと微笑んだ。

「恋は戯言(ざれごと)じゃないわ」

 そして、女中の運んできた冷茶のポットを受け取ると、父の前のクリスタルのコップに注いだ。

「しばらく部屋には近づくな」

 眞一郎は女中に言った。女中は一礼して出て行った。

 詩織はちらりと隣の澪子の顔を見た。澪子はかすかに微笑みを含む目で応えた。

「わたしは今も恋をしてるの。いえ、今までずっとよ。一生一度の恋。黙ってきたけれど」

「恋? 誰にだ」

 父親の顔になって、眞一郎は訝しげに娘を見た。娘は今まで見たことがないような、まっすぐな視線をこちらに向けた。

「ひとでなしの伊藤詩織が、そして権田眞一郎が、酷い目に遭わせ続けてきた男。保身のために地獄に落とした男。彼は地獄の底で別の恋を見つけたわ。

 別の人を選ばれるのは仕方がないこと。でも今、わたしは自分の人生に悔いはない。

 惚れる価値のある男に出逢い、心から惚れた。行く先が煉獄でも、ひととして女として、これ以上ない幸せだと思っています。

 今のパパならわかってくれるでしょう。心から信じられる人に出逢った幸せを」



 暮れて行く窓の外を眺めながら、SYOUはその電話を受けた。

「話が通った?」

『ええ』

「……ほんとうか」

『信じられない?』

「いや、それは、城島澪子にも、そしてお父さんにも……?」

『とにかく、九道貴一に言って。改めて九道貴一から権田眞一郎に話を持って行くようにと。このプランはそこで初めて権田眞一郎の耳に入る、建前ではね。そしてその計画はあの通りに実行される』

「……で、最終的な詰めのところだけど」

『そこは大丈夫』

「ということは……」

『澪子さんのお点前、美味しかったわ』

「……」

 SYOUはため息をついた。

「すごいな。……きみは」

 電話の向こうが沈黙した。

「詩織?」

『ね。みずをきくすれば……って知ってる?』

「みずをきくすれば? 月手にあり、ってやつ?」

『そうそれ』

「水を(きく)すれば月手に在り、花を(ろう)すれば香に満つ。唐の詩人、()良史(りょうし)の『春山夜月』だね。禅語の掛け軸でも見た?」

『さっきいったでしょ、澪子さんにお薄を点てていただいたの。実家のお茶室で』

「本当の話だったんだ……。たとえかと思った」

『水を掬えば、天の月も掌の中。

 ちょっと思ったの。わたしにとって(ユェ)(リン)という人はそういう存在だったかもしれないって』

「……」

『実際に会ったのは二度きり。桜の散る季節、あなたのピアスを持ってわたしの前に立った。あっという間に桜の渦の中に消えた、幻のように美しいひとだった。

 次はあのマンションで、突然訪れたわたしを、ただいいひとだと言って、頬にキスしてくれた。正気じゃなかったけれど、生まれたての赤ん坊のように美しく、痛々しいぐらい純粋なひとだったわ。

 わたしが恋したのは美しい月かもしれない。手で水を掬うたびに、その面影がこの掌に落ちるの。あなたと会い続けて、あなたに恋し続けて、あなたを輝かせる月の光にもわたしは恋をした。花を弄して、花の香りに包まれた。なにがあっても、人生の最後までこの光は輝き、香りは続くのよ』 

「……詩織」

『わたしは幸せだわ。あなたたちに会えたから』

「……なんだか影が薄くなるような不安なことを言うなよ」

『そんなつもりはないんだけど』

「帰っておいで」

『うん』

「帰っておいでね」


 

 電話を切って、SYOUは振り向いた。背後で帰ったばかりの楊が複雑な顔をしていた。

「決行だ、近いうち九道貴一にもう一度連絡を取る。そっちの助っ人は」

「一応集まった。男三人、女が一人」

「みな信者か」

「ああ」

「なら信用できるな。近いうち会わせてくれ」

「ここに連れてきていいか」

「もちろんだ」

「SYOU」

「なんだ」

「あんた最近涙もろいんだな」

 楊はハンカチを差し出した。あ? と短くいい、SYOUは白いハンカチを受け取ると、薄く涙のにじむ目元をぐいと拭いた。


 

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