来て、ハニーボーイ
頭上に開けた午後三時の蒼天には層雲が広がり、飛行機雲がいくつか交差していた。
屋上の手すりに肘をかけて、哲夫は言った。
「でかい話が来たよな。で、……どうするんだ」
用件を告げずに哲夫に呼び出されたSYOUは、その話か、といった顔をして投げやりに答えた。
「こんな大きなオファーに対して俺に拒否権があったためしがある?」
「断りたいのか」
返事はない。足元から風に乗って、桜の花びらとクラクションの音が上がってくる。
「まあ、いいか。で、……聞いていいかどうかわからないけど」
いったん言葉を切り、決心したように哲夫は息を吸い込んだ。
「……端的に言って、地獄と天国のどちらだったんだ、例の場所は」
眼下ではほころびかけた桜並木が春の風にざわざわと揺れていた。その薄い色合いを見下ろしながら、SYOUは淡々と言った。
「自分という立場と、この職業に嫌気がさすには十分な場所だったよ」
何か言葉を続けようとする哲夫を遮るように、SYOUは続けた。
「……おかしいと思わない、哲っちゃん。
あんな大手企業が、いくら大物とはいえ、指定暴力団の言うことなんて聞くんだろうか。むしろああいう団体との癒着そのものが命取りのはずだろ。俺に仕掛けてきたことだって、なんていうか、大げさすぎる。なぜあの花園とやらに俺が行かなきゃいけなかったか、どうしてもわからない」
哲夫は額にかかる前髪をかき上げながら答えた。
「警察の規制強化であおりをもろにくらっているところと、どうやらお目こぼしをいただいているとしか思えないところがある。権田組は無風状態の代表だな。普通に考えれば、独自なルートで大きな権力と裏でつながっているという推理が成り立つ。ありきたりな推測だけど」
「……俺が行かされた場所と、関係があるのかな」
「それは“花園”のほうか」
「まあね」
哲夫はちらりとSYOUをみると言った。
「そこがどういう場所かは知らないが、だ。たとえば大仕掛けな接待、ハニートラップ。いちど足を踏み入れたら、その足跡そのものに縛られるという、そういう場なら、ありえるかもな」
「………」
「そこでしか手に入れられない、中毒性の強い麻薬もセットならなおさら」
SYOUの脳裏にリンの顔が浮かんだ。そして、ヤオ・シャンの言葉。
――あなたはまたおいでになる。
彼女を抱いて、二度来なかったお客はいません――
「……お前さ」
黙り込むSYOUに向かい、哲夫は声を低くして言った。
「……仕事、ちゃんと続けられるか。芸能界の」
「精神的にってこと?」
哲夫は黙って頷いた。
SYOUは視線を下げると、静かに言った。
「一人でスキップしながら歩いてきた道じゃない。多くの手があってここまで来て、ここまで届けてくれた人に対して責任がある。……わかってるよ」
「……そうか」
そう、理屈では。だが、頭の中にはいつでもあの薄青いそうそうとした水が流れているのだ。
どうして彼女はあそこにいる?
……俺がここにいるから。
結局のところ、その問答ばかりが、ずっとSYOUの頭を巡り続けていた。
翌日の携帯ドラマのリハは散々だった。あまりNGを出さないSYOUが、簡単なせりふを噛み続け、あるいはすっ飛ばすのに監督は呆れ、しまいに台本を放り投げた。
「おい、ショウちゃん。まさか台本を読む時間がなかったとか言わないよな」
「すみません。台詞は入ってるんです。集中し直すのに少し時間を下さい」
共演者たちに頭を下げながら、SYOUは何度も台本を読み直し、そこに気持ちを持っていこうとした。だが、恋人の心をつかみかねて疑心暗鬼に陥る役柄に、なんの気持ちも込めることができず、今度は棒読みを繰り返した。
首のあたりを掻いていた監督は、右手を上げるとストップをかけ、SYOUひとりを目の前に呼んで腕組みをした。
「今日はダメだな、何度撮り直ししても同じことだ。時間に余裕はある。三日間やるから気持ちを入れ替えて出直してきてくれ。きみ抜きのシーンだけリハを進めておく。だめなら脚本を書き変える」
そこまで言うと、幾分表情を和らげて、SYOUの前に顔を近づけた。
「……あのな、携帯ドラマはテレビ配信のものより下に見られてるのが現実なんだよ。だけど僕はそれを、きみを主演に据えることで世間の鼻をあかすほどの作品に仕上げようと思ってんだ。わかるか、ショウちゃん。
わかったらその覚悟をもってもう一度出直してくれ」
「……はい」
SYOUは唇を噛むと、周囲の冷ややかな視線の中、自分自身に癇癪を起こしそうになる衝動をかろうじてこらえていた。
「あたしよ、ハニーボーイ。わかる?」
鼻から息が抜けるような気だるい声を、SYOUは自宅の洗面所で聞いた。防水機能付き携帯から、息の抜けた声がどこかうっとりと絡みついてきた。
「……わかります」
「今どこなの」
「自宅……ですけど」
「もしかしてお風呂? 声が響いてるわ」
「今出たところです」
女の声に、封印していた記憶が立ち上がり、戦慄と吐き気が同時に体の奥から湧き上がっていた。
「洗い髪の匂いをかがせてよ。来て、ハニーボーイ。あなたに二度目のお願いがあるの」
SYOUは天井を仰ぐと目を閉じた。
……ここに社長がいたら聞かせてもらいたい。愛されるべき犬としてはどっちを選べばいいのか。台本読みか、お勤めか。
だがそのときSYOUの脳裏を支配したのは一つのイメージだった。
あの茫漠とした霧の向こうの船に乗る、長い髪の少女。あそこに至るカギはおそらくこの女だけが持っている。祈るような気分で問いかけてみた。
「行先はどっちですか。あなたの家ですか、それとも……」
「どっちでもないわ。場所を言うから来てね。スペアリブとワインのおいしいお店の個室を取ってあるの。今度はあたしとあなたの二人きりよ」
車を転がして三十分あまりで店に着くと、澪子は胸の大きく開いたドレスにタイシルクのショールをかけて、裸足の足を組んでワインを飲んでいた。ルビーをちりばめたアンクレットが足元で揺れている。
「外反母趾だからどんな靴もあわないのよね。高いお金出してオーダーしても駄目」眉をしかめながらつま先をさすって見せる。
二人掛けのテ―ブルの向かい側に座ると、澪子は卓上のワインクーラーにつっこんであったロゼのボトルを取り出して、SYOUのグラスに勝手に注ぎ始めた。
「あたし甘いのでないとダメなのよ。いいでしょ、こっちのおごりだし」
「どうも。せっかくですが、車で来てるんで、この一杯は澪子さんに差し上げます」
SYOUはバラ色に輝くグラスを澪子のほうにすっと押し戻した。女は少し意外そうな顔をすると、にっと笑って呟いた。
「いい子ちゃんね」
クラブ・ホーネットでのわたし、があたしに代わっているのは酔いのせいか、距離が縮まったせいなのか。警戒するSYOUの目の前で、澪子はSYOUのグラスを一気に空にした。
「思い通り、涼しげな顔して出てきてくれちゃって。打たれ強いと言うか、大した子だわ」
注文を聞きにきたボーイにSYOUの分のスペアリブを頼むと、油で光る赤い唇を大きく開けて自分の皿の肉をかじった。
「多少苛めたいのやお仕置きを頼まれたのがいると、あなたのときと似たような歓迎をしてあげるんだけど、たいてい潰れて芸能界を去るかあたしの前に顔を出せなくなるのよね。あるいは無理に呼び出すと死にかけの魚みたいな目をして引きずって来られるか。あなたみたいな子、初めてだわ」
澪子は鰐皮のバッグを開けると虹色に光るディスクを取り出して、目の前でひらひらさせた。
「何だかわかるわよね」
SYOUは目の前に押し出されたその円盤に目を落とし、戦慄とともに中身を瞬時に察知した。
……あの日の、彼女の家での。ご丁寧に。
「結構個人的に楽しませてもらったんだけど、やっぱりあなたの手に戻してあげようかしらと思って」澪子はにっと笑うと付け加えた。
「こんなこと珍しいのよ、他では手に入らない貴重なコレクションだもの。特にあなたの場合、外に出れば過去の傷どころじゃないスキャンダルでお宝画像よね」
「どうも。……それで、条件は?」
「悲しいわね」
澪子は指先でくるくるとディスクをもて遊んだ。
「脅しで釣ろうというわけじゃないのよ。正直言えば、あなたを試したかったの。まずは、あたしの声で出て来てくれるかどうか。二人きりとは言ったけど、信用してさっさと登場するとは思わなかったわ」
「僕を好きだと言ってくれる人間のほとんどは信用ならないけど、嫌ってる相手は信用することにしてるんです」SYOUは皮肉を込めて答えた。
「そう。じゃあ、これからはあたしのことも疑いなさい」
SYOUのひとみに視線を止めて、澪子はディスクにキスをして見せた。
「これを返すのはあなたのためよ。いらない情が湧いちゃったみたい。お陰様で、少しだけ傷が癒えたわ」
真っ赤な爪を伸ばすと、SYOUの顎から頬を撫で上げる。
「あんなこと言われれば、そりゃあ少しだけ女心が疼くじゃない? で、あなたの素敵な表情を堪能させてもらって思ったの。久しぶりに若い男に惚れるのもいいかもしれないって」
「……」
絶句したSYOUの表情を見て、澪子はあはははと高笑いした。
「そんなに怯えた顔しないでよ、傷つくじゃない。大丈夫、もう生臭い恋なんてこりごりだから。でもあなたをいじめるのはやめにするわ。だから断る権利をあげる。
秘密の庭から再度のお誘いよ。日にちは明日」
心臓が散漫に波打った。SYOUは用心深く表情を抑え、聞き直した。
「断る権利があるっていうのは……」
「だから今度はあなたの自由意思よ」
「……」
こちらを凝視する女の視線に、SYOUはすべてを見透かされていることを覚悟した。その上で、この口から、返事をしなければならない。
……わたしが味わった極上の蜜をあなたにも味わってほしいの。
初めて会ったとき、彼女は確かにそういった。
わたしが味わった……
彼女はリンを『知って』いる。
「行きたい?」
SYOUは黙ったまま彼女の目を見て、はっきりと答えた。
「行きたいです」
澪子は驚いたように目を見張ると、取り出しかけていた煙草を箱に戻した。
「……妬けるわね」
香水の香りが息苦しいほどに顔を近づけ、かすれた声でそっと囁く。
「それは、恋?」
唇を動かしたが、声にはならない。すっと顔を離して、女は笑みを浮かべた。
「いいわ。悲恋の見物も、また素敵」
SYOUはディスクを手に取ると、黙って鞄に入れた。
ゆったりと椅子に寄り掛かると、澪子は一人芝居のような口調で語り始めた。
「この世にはいろんな道があるの。鼻歌でいきたくなるような野山の一本道、でもその先には枯草に覆われた落とし穴があるかもしれない。クリスマスイルミネーションで輝く恋人たちの道、でも突き当りを曲がれば修羅があるかもしれない。ごろ石の散らばる山の悪路、頂上はきっと絶景でも、下り道で命を落とすかもしれない。でも大事なのは多分、どこに行きつくかじゃなくて、道の途中で見る風景と、そのとき手をつないでくれる相手よね。誰かを愛するというのは、そのひとの歩いてきた道を知ってその記憶に寄り添うこと。そして修羅であってもこれからの人生の風景をともに見つめようと誓うことよ」
一気に語ると、ほんのり上気した頬で、付け加えた。
「ああ、またこれだわ。ロゼを飲むと、いつも何か余計に酔いが回る」
手酌で残りのワインを継ぎ足すと、そのグラスを目の高さに持ち上げて覗き込むようにした。
「この風景が好き。ばら色のワインを通すと、何もかもが舞台芝居のよう。始まりもなければ終わりもない、酔い心地の迷宮。そこでは何もかもが可能で、誰も何の責任も取る必要がないの。偶然と必然はすべて繋がり、どんな奇跡も思いのまま。出会うべき人々はみな出逢い、愛しあうべきものは愛しあい、死ぬべきものは死ぬ。
酔迷宮。あたしが名づけたの、素敵でしょ。あたしが神様なら、あなたを主人公にしてこの世界に閉じ込めるわ」
グラスを高く持ち上げると、とろりとした目でSYOUを見て言った。
「馬鹿な坊やに乾杯」