取引
九道貴一が馴染みのクラブを出たとき、時計は深夜一時を回っていた。
「クサクサしたらまたどうぞいらして」
「ああ、またその魚顔拝みたくなったらな」
「クラブ竜宮城の新入りスター揃えてお待ちしてますわ」
卵色の着物の袖を押さえて手を振るママに手を上げると、貴一は楊枝を咥えたまま若頭とともに車の後部座席に乗り込んだ。
「……どこでもええから海の見えるところに寄ってくれ」
「海。ですか」運転担当の若衆が言った。
「夜の海が見たいんや」
黒塗りのBMWは夜の銀座を抜け、東京湾に向けて晴海通りを走った。
「……おやっさん、つけられてませんか」
五分ほど走ったところで、バックミラーを見ながら隣席の若頭が言った。
「ああ?」
「店出たとき横道から出てきてずっとついてきてます。あのバイク」
九道は振り向いて後続のバイクを見た。車もまばらな夜の道を、一台のバイクがぴったりついてくる。
「ええ度胸やないか。おい柘植、勝どき橋を渡ったら右折しろ」
「T水産埠頭ですか」
「ついてきたらもてなしたるわ」
若頭は身を縮めるようにして組長を見た。クラブにいたときから額に青筋を立てるような勢いで酒をあおり、手下たちに強い酒をふるまってきた貴一が、どういうもてなし方をするかは想像できる。だが、今面倒を起こすとまずいというようなご注進のできる人間はこの場にいなかった。
埠頭に入ると車は減速し、竹芝桟橋を正面に見る見晴らしのいいエリアに来て駐車スペースに停車した。バイクも減速すると、少し離れて停車した。
「おやっさん。自分と柘植で話つけます。どうかそこで」
暗い車内で囁くように言う若頭に、貴一は酒臭い息を吐きながら答えた。
「まあ、待とうや」
やがてバイクの男はヘルメットを外すと髪を一振りし、まっすぐこちらに向かって歩いてきた。
両掌をこちらに向けて肩の位置まで上げている。何も手に持っていないというサインは、同時にどうあってもこちらと交渉したいという意志の表れと見えた。闇に沈む迷いのない足取りの背の高い男は、窓のすぐ外に立つと、堂々と運転手側の窓をノックした。
「開けたれ」胸の中に手を入れて身構える若頭の隣で、貴一は後部座席から鷹揚に言った。運転手はしぶしぶ窓を細く開けると吐き捨てた。
「何じゃコラ」
「不躾にすみません。後ろは九道貴一さんですか」
運転手はお? と小さく声を上げた。
「おやっさん。こいつ……」
「まあ待て」
貴一はゆっくり眼鏡をかけると、後部座席から窓の外の男の顔を凝視した。長い茶髪にざんばらにおおわれているが、その下から覗く睫毛の長い目と高い鼻は、一見して一般人のそれではなかった。
「……兄さん、えらくええ男やな。芸能人には疎いんやが、その顔には見覚えあるで。あんた、確か行方不明とかになっとる……」
「S・Y・O・U。SYOUという通り名で仕事させてもらってるものです。どうしても親分さんとじかにお話がしたくて、こんな方法をとりました。最初にご無礼をお詫びします」
九道は車内灯を点けるとまじまじと青年の顔を見た。
「本物か、驚いたな。……なんの用や」
「その前にお人払いをお願いできますか」
「このかたを何だと思っとる。なめとんのか」
隣席で声を荒げる若頭に九道は言った。
「お前らちっと外に出とけ。誰かはわかったからもうええやろ」
二人きりになった車内からは、竹芝桟橋からレインボーブリッジまで夜の海を取り囲む街灯りが夢幻のように見渡せた。
「この風景をまさかこんな有名人さんとみるとはな」
SYOUは同じ光景に視線を投げながら言った。
「夜の海がお好きなんですか」
「今はたまたまや」
頬にいびつな長い傷のある、ナイフで切ったような目のその男は、刈り上げた頭をごしごしと擦るといった。
「行方不明のイケメン俳優さんが、いきなり闇から出て極道に身を明かすとは面白い筋書きやないか。気紛れか自棄か、大枚積んで思い知らせたい相手でもおるんか」
メッシュのライディングジャケットを脱いでタンクトップ姿になったSYOUは、長い指で前髪をかきあげた。
「僕はあなたの現在の苦境と、その大元を知っています」
九道は膝をとんとんと打っていた指を止め、真横の青年を見た。
「……なんと言うた」
「あなたの苦境を」
「強請りタカリなら目の前の海が揺り籠になるで」
「とんでもない。もう沢山ですから、海に叩きこまれるのは」SYOUは苦笑した。
「……そういやあんた、一部じゃ海に沈んだという話になっとったな」
九道はSYOUの顔からフロントガラスの向こうに視線を移した。
「ええわ。先を続けてもらおか」
レインボーブリッジを渡る車のライトが、陽炎のようにちらちらと明滅しながら移動してゆく。
「まず、あなたにとって悪い話では決してない。それだけは申しあげておきます。とにかく最後まで聞いてください。
ある筋から、あなたが権田組の汚れ仕事を丸ごと被せられたと聞きました。内容は都内五か所に散らばる高級接待所の始末と、“中身”の粛清。
客は政府閣僚をはじめ日本の中枢に位置するろくでなしの金持ちたちです。この仕事は極秘のうちに、完全に遂行されねばならない。おそらく上からの圧力で関連報道が抑えられることでしょう。
権田組の下で手下が開けた穴をペナルティに九道会はそれを負わされた。極道の道にも外れるこんな鬼畜仕事を負わされた無念は察するに余りあります。
組員と、そしてあなたのプライドのために、仕事の負担を最小限にし、同時に権田組にも等分の負担を担ってもらえるようなプランがあります。乗りませんか。今夜の僕の用向きはそれです」
呆気にとられた、という表現が一番近い顔で、九道貴一はしばらく隣の青年の顔を見ていた。そしてようやく口を開いた。
「……兄さん。あんた、何なんだ」
「ですから僕は」
「別に芸能人の成りすましと言うとるんやない。どこからそのネタを引っ張ってきて何のために提案してる、と聞いとる」
「このプランに乗ってもらえば、あなたにとって損になるところは何もない。顔をさらして身分を明かしている通り、僕はSYOUという名の二十二歳の芸能人です。これ以降あなたからは逃げも隠れもできません。もし裏切ったならこの身柄ごとどう扱っていただいてもいい。
こちらからの条件は一つ。どうしてこんなことを提案するのか、僕にとってなにになるのか、どこから聞いたのか、それを一切不問にしてくれるなら、九道会にとって負担が少なく権田眞一郎も荷を負うことになる、そして任務の遂行は間違いない、そのプランの実現に協力させていただきます。些少ですが」
SYOUは傍らに置いたサイドバッグを開けると、中の札束を見せた。
「これは親分さんに。とりあえず三百万あります。計画を丸ごと買わせていただく、その代価です」
九道貴一はバッグを覗き込み、眉間にしわを寄せると、言った。
「SYOUさんよ。理由も言わんでそんなけったいな提案されて飲むのは、オレオレ詐欺に素でひっかかるボケ婆さんレベルやぞ。話がさっぱり見えん以上、入り口から先に入ることもでけん。まともに話通したいなら、あんたのほんまの意味合いでの素性ぐらい明かさんかい。わしにはこれでも命預ける覚悟の可愛い舎弟どもがついとる。どこぞの芸能人の気まぐれで連中を動かせると思うか」
SYOUはサイドバッグを閉じると、言った。
「……ごもっともです。失礼しました。では、これだけ申し上げます。
権田眞一郎に、真の意味での漢であってほしいと願っている女性がいます。同じ血を引くがゆえに、許せないこともある。ただ、これはあくまで理由の一端です。これだけの説明ではご納得いかないのも分かりますが、これでぎりぎりです」
貴一ははっとしたような表情を浮かべた。
「そういや、聞いたことがある。権田の娘さんが昔噂になっとった相手は確か」
「その男は東京湾に消えました」
九道は面白そうに笑った。
「これは傑作や。あの臆病至極な爺さんの足元で、娘に手を出してお仕置きされた芸能人が今頃になって意趣返しか。そういうことにしとこう。権田組が出てくるなら多少横やりが入ってどないなっても責任も相殺、むしろ直接の依頼を受けてるあっちの穴や」
そこまで言うと懐から煙草を取り出し、窓を開けた。
「具体的なプランとやらを聞こうやないか。こっちの負担が少なくなるとか言ったな」
SYOUは一呼吸置くと、語りだした。
「まず、計画は一日で遂行します。とりあえず、女たちは一か所に集めてください。場所は」SYOUは窓の外を指差した。
「船です」
「船?」
「あそこに見えるT埠頭に、とある貨物船が停泊してます。起きることのすべてを結果から言いましょう。
その船である日火災が起きる。もちろん不始末による偶発事故です。消火後、船倉から少女たちの焼死体が見つかるかもしれない。アジアの某国から人身売買目的で密航させられた少女たちの憐れな末路か、あるいは売りに出されるところだったか。だが誰も彼女たちの身元を知らない。捜索願の出ていない身元不明の少女たちだ。船長はもちろん知らないという、誰かが勝手にコンテナの一つに潜り込ませたのだと主張する。真相はうやむやのまま、異国の貧しい少女たちの悲劇として始末されて終わりでしょう。どこの暴力団も名前が上げられることすらない。彼女たちの命を惜しむ者もいない。誰も困らない」
九道貴一は神妙な顔で聞いていたが、どうも飲みこみきれないという風情で言った。
「筋書きはそれでええが、兄さん、仕事を甘く見てないか。うちも権田組も、仕事の遂行にはきっちり見張りがついとる。仕事をやり遂げるまでの証拠画像が要求されとるんや、何しろ依頼元が依頼元やからな。その上で女たちがどこぞで生きて見つかったらただじゃすまん。口と手を出しといて横から妨害するんやったら見当違いや、やるからにはやり遂げなならん仕事や」
「邪魔はしませんよ、ただ計画をこちらに任せてほしいと申し上げているだけで。証拠映像も残します、女たちもそれきりこの世から消えます」
「……」
貴一は煙草を持った手で頭を掻くと、ぼそりと言った。
「それならそれでええわ。それでうちの仕事はどこからどこまでや」
「各接待所から女たちを集め、船に運ぶまでです。彼女たちには母国に戻すと言えばいい、抵抗もないだろうし簡単な仕事です。マイクロバス一台動かせば済むことでしょう」
「その先は」
「権田組の仕事です」
「最終的に手を下させると?」
「ええ」
「どうやって」
「親分さんが提案するんです。今までのプランを」
「この計画をか? 正気か兄さん。こんな話あの権田組が受けるわけが」
「ご心配はいりません、あちらは受けます。根回しも任せてください。そうだとして、ここまでの話に乗られますか」
しばらく黙ったのち、貴一は低い声で言った。
「……権田のおやっさんのほうで最終的に飲むとなれば、そらこちらにとって悪い話やないが」
「そうでしょう」
「まず考えられん」
「うまくいきます、親分さんさえ決心してくだされば。信じてください」
九道貴一は狐につままれたような様子で、目の前の青年を見た。そしてしばらく考えた後、自分に言うように呟いた。
「……やってみるか。ほかに策もないことやし」
SYOUはにっと笑うと、貴一が指でもてあそび続けている煙草に、自分のライターの火を差し出した。
「ひとつお願いがあります。もしあなたのご負担が当初よりも軽くなったと思われるなら、どうかこの尽力に免じて僕、生存しているSYOUと会ったということは誰にも内密に願いたいのですが」
「当たり前やろ、この話ごとすでになかったことになっとる。外の二人にもよう言っとくわ」
「ありがとうございます」
貴一は窓の外に向けて紫煙を吐き出した。
「あんたが何者か、何を考えとるのかはやはりさっぱりわからん。が、考えるだけで死にそうやった仕事の半分が消えるなら、とりあえずホッとしとるのは確かや、その先がどうなるか定かでなくともな。
権田のじいさんを嗤える身やない。……ひとかけらも嗤えんわ」
「娘さんがおられるそうですね」
静かに言ったSYOUの顔に目を留めると、貴一は言った。
「中学二年や。そういやあいつは一時あんたの写真を壁に貼ってたこともあるで」
苦笑するSYOUの、血脈が感じられないほど整った顔を見て貴一は続けた。
「たとえご当人に口止めされんでも、誰に聞かれても、生きているSYOUと会ったなどとはわしは言えんやろう。今でも、自分が会話している相手がだれか自信が持てないんやからな。
娘が憧れていたのは、年端もいかん娘を焼き殺す計画を極道相手に淡々と話し、その権利を買い取るような、腹の凍った男やない」
SYOUは前を見たまま返事をしなかった。九道貴一は窓の外に煙草を投げ捨てた。
「あんたの根回しとやらが済んだら連絡をくれ、あちらに乗り込んでみよう。だが胡散臭い動きがあったり結果的にあんたが裏切るようなことがあれば、その身も事務所も潰れるぐらいの覚悟はしてもらうで」
「済んだの」
『ああ』
「うまくいったのね」
『ああ』
電話の向こうの淡々とした返事に、詩織はほっと溜息をついた。
「じゃあ、今度はこちらが動く番ね。あの計画通りでいいの」
『その通りに伝えてくれ。きみの返事を待って細かいところを詰める』
「どんな人だった」
『ありがちな感じの。いや、話を飲んでくれたんだから人格についてあれこれは言うのをやめよう。とどのつまり彼の中にもあった普通の親父としての情に訴えた、その点で多少後ろめたさはあるな。きみのほうは大丈夫か』
「大丈夫も何も、わたしが交渉するのはあの女性とオヤジだから」
『そうだな』
「いずれこうしなければならないと思ってたの。いろんな意味で、うちももう終わりかもしれない」
しばらく双方黙ったまま同じ夜の中にいた。
「わたしがいまどこにいると思う?」
『雑居ビルじゃないのか』
「あなたと初めてデートした場所。あの非常階段」
『……』
「あの時も深夜だった。ふたりで、この世から吹っ飛ばしたい人間やモノの名前を叫びあったわね」
『そうだったな』
その後しばらく続いた沈黙を破ったのは、SYOUのほうだった。
『詩織。聞いても仕方がないことかもしれないけど、ひとつ聞きたいんだ』
「なに」
『きみにとって父親はあくまで父親だ。それは知ってる。でも、権田眞一郎にとって伊藤詩織は、きみという女優は、どこまでも娘だろうか。つまり、一万人からの組員を抱える一つの巨大組織の長である父上にとって、自分の知らない場所で大事な話を動かされたことがばれたら、それは許しがたい暴挙じゃないのか。そのさい、娘に対する父親としての位置よりも組長のプライドが上に立つなら、その恐れがあるなら、きみでなく俺が』
「知っていると思うけれど、わたしは父に認知されていないわ。母が一切のかかわりを拒否したからなの。それでも彼はわたしを娘と認識し、家への出入りを自由にさせてくれた。そばにいて暖かい触れ合いをさせてもらった覚えはあまりない、正妻が死亡したころわたしはもうローティーンになっていたから。それでも父が、権田眞一郎がわたしに許した特権は大したものだったと思う」
『……うん』
「亡くなった正妻の美佐子さんには一人息子がいるけれど、離れて暮らしているし、堅気の道に入ってる。父はお酒が入ると、お前が男だったら跡目を継がせるのにと何度か言ったわ。
まっぴら御免と言い捨ててきたけれど、もしもすったもんだになったら、何かあったらわたしが一時的に跡目を継いで、父が一番目をかけてる舎弟と結婚してあげる、と言えばそれで」
『……おい』
「冗談よ」
『……』
「冗談よ。わたしは女優ですから」
電話の向こうで、まだSYOUは黙っていた。
「女優になればいいんでしょ? 一流の女優に」
『きみはもう一流の女優だよ』
「これから大事なステージよ。成功してレッドカーペットを歩く姿を思い描いて待っていて」
そこまで言うと、詩織は電話を切った。
長いこと、思い続けてきたことがある。それはもう、動かしようのない事実。
この全てはなんと、自分から始まったのだ。
SYOUに別れ話を切り出され、嫌がらせのようにして彼のピアスを奪った。命の次ぐらいに大事にしていたあのピアス。愛猫の骨で作った形見。
激昂したSYOUに罵倒され引き倒されて、思わず叫んだ。
……SYOUのバカ! 大っ嫌い。何よ、結局わたしなんてあなたにとってはピアス以下のゴミ屑なんじゃない。いつも思ってた、あなたの目はきれいだけど底なしに冷たい、生粋の人でなしの目だわ。わたしがよく知ってるヤクザの目よ。
知らんふりして言わないであげたのに、あなたの秘密。わたし知ってるのよ、名前を変えて隠してるあなたの過去。言ってあげましょうか。
SYOU、本名、柚木晶太。
たった十四で、母親と共謀して実の父親を殺した……
何度思い返しても、総身が震える。何度思い返しても取り返しがつかない。あの到底許されない罵倒からすべては始まったのだ。ただ、自分の愚かさから。
あのあと自分を殴打して怪我を負わせたことのペナルティとしてSYOUはハニー・ガーデンに送られ、そこでリンと会った。彼は事務所ごとガーデンの秘密を守る側に回らされた。腐った政権とガーデンの甘い汁を吸う宗教団体との癒着、中国で弾圧を受けている宗教の少女たちが送られていたという事実。そのすべてと出会い、彼はリンを脱出させるため動き始めた。
自分さえいなければ、あんなことをいわなければ、彼はリンとも会わずこんな世界を知ることもなく、リンの復讐劇は彼女の側で終わっていたことだろう。
探偵をはじめ、多くの人が死ぬこともなかっただろう。これほど悲劇は広がらなかっただろう。
そう、すべては自分から始まったのだ。
それでもSYOUと同様、月鈴という悲劇の女性と出会ったことを、SYOUとともにその悲しみと美しさに殉じようとしていることを、自分は後悔していないのだ。
なんという身勝手、なんという矛盾。
けれど、だからこそ、どんなにSYOUにうとまれようと邪魔だと言われようと、自分は彼が立ち向かう危険の輪から外れることはできない。弾が彼に向かって飛んでくるなら、受けるのはこの身でなくてはならない。ずっとそう思ってきた。知ればどんなに彼の誇りは傷つくだろう、でも自分の道は自分で引いてしまったのだ。
SYOU、リン。あなたたちを愛している。
どうかわたしを許して、そしてできるだけ一緒にいさせて。
暗い空の向こうに、今はただ影絵のようにぼんやりと立つ東京タワーのシルエットを見ながら、詩織は自らの胸に祈った。