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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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夜と体温

「彼女、の部屋にテレビはないのですか」

「余計な情報はいらん悪夢の元だからな」

 ブランデーを垂らした紅茶を啜ると、チョウは来客の前でゆったりと足を組んだ。

「それではかえって夢の中に棲むしかなくなりましょう」

「お前は時々面白いことを言う」

 壁の時計が眠気を誘う音で五時を打った。

 夕時とはいえまだ明るい七月の庭からは、ちーよちーよと高いヒヨドリの声がした。

「庭に出れば風も吹く、花の香りもする、鳥も鳴く。この空はかのひとの頭上につながっていると、夢見がちな女がひとときの感傷に浸るにも十分だ」

「その思い人の命も限られているから、そこまで慈悲深くおなりなのでしょうな」

 チョウは男の冷えた笑顔を見ると、サイドテーブルに紅茶を置いた。

「ミッションの遂行に自信がある、という返事とうけておこう」

「そうとっていただいて結構です」

「お前が現在属する外事課が、東京の空を飛び交うほとんどの通信電波を傍受できるシステムを持っているという強みは、この際何物にも代え難い」

「それも時間の問題です、わたしが外事課にいられるのもおそらくあとわずかですから。今捕えている情報は、秘密の花園から一斉に住人が消えるという図面と、その請負先ぐらいです。なにもかもわかるというものでもない」

「今はそれでいい、具体的なことが分かったら動け。こちらも手の内に情報源がある」

 そういうとチョウは薄く笑ってみせた。

「菊地。お前が今の仕事についてどれぐらいになる」

「仕事、をどこから数えるかによりますが。任務そのものを本国から形として受け取ったのはおよそ二十年前ですから」

(シン)(レイ)の少しあとか」

「あのかたの実績には叶いません。同職と言うのもおこがましい」

「雇い主を変えた回数は」

「今年に入って党本部を離れてからあなた様ただ一人、つまり一回です。信じていただければですが」

 チョウは腕組みをして菊池の顔を見据えた。

「離れた、か。その事実を党本部も知らないまま、お前は党とわたしとそして桜田門から三重に報酬を得ているわけだ」

「いずれ警察にもいられなくなります。これは気配ですが、わたしの動向が背後から探られている。警察側ではなく、その警察まるごと告発しようとする動きがあるのです、流れと言ってもいい。現政権が揺らいでいることはご報告した通りです」

「そうすれば権力の擁護の下で甘い汁を吸っていた連中の持っていたカードがすべてひっくり返る。沈みかけた船とわかったネズミがいつからどれだけ飛び出してくるかだ。お前は多少早かった、つまり多少賢かった。この世界では賢い臆病者から順に生き残る」

 チョウは立ち上がると、窓から下を見下ろした。日影の伸びてきた庭では、芝生に広げたラグの上で、リンがジェイに見守られて子猫を遊ばせていた。そこに深緑(シェンリュ)がガラスのポットに入った飲み物を運んでくる。純白のレース地のスカートのすそを広げてルビー色のジュースを受け取るリンの姿は、背景を知らなければただ豪邸に暮らす深層の令嬢と見えた。菊池も立ち上がると、チョウと向かい合って芝生を見下ろした。

「美しい光景ですね」

 背を屈めるリンの鼻先に、子猫が鼻を摺り寄せていた。

「なんともあなたにしては酔狂が過ぎる」

「女と猫、どちらについて言っている」

「両方です」

 チョウは下を見下ろしたまま黙って笑った。

「……あの女はつくづく地雷です。どちらの国にとっても生きていること自体が災厄で、しかもかかわった男たちを悉く」

「そんなことは言われないでもわかっている」チョウは早口で言い捨てた。

「出過ぎたことを申しました」

 チョウは少しおくと、ゆっくりと語り継いだ。

「あの女の胸にも修羅がある、それを飲みこんでわたしと一つ屋根の下にいる。

 憎しみを溶かして愛に変えようとするあの女の中の錬金術を見せてやりたいものだ。

 打ち砕かれ粉砕されても、結晶になって瞳の奥に凝るある種の感情。

 上質な酒を汲むようにあの魂、あのかなしみを汲むよろこびは、常人にはわかるまい」

 チョウはつまんでいたレースのカーテンの端を離した。カーテンはふわりと揺れて、二人の男の眼前に紗をかけた。


 白い皿の上のカナッペから、胡桃とチーズと無花果をはがして口に運ぶと、リンは残りのパンを千切って芝生にばら撒いた。

 ちーよちーよと鳴いていた鳥たちが一斉に木から降りてきてついばみ始める。子猫がそれを狙って背を低くして尻を振る。

恬恬(テンテン)、だめよ。勝てないわ」

 笑いながら言った直後、リンはふいに口元を押さえて屈みこんだ。

 少し離れて見守っていたジェイは、斜めに首を伸ばすと苦しそうな表情を確かめ、リンに歩み寄った。

「どうされました。大丈夫……」

「あっちへいって」

 短く言うと、リンは植え込みの方向によろけるように走り、ハンカチで口元を覆って咳込んだ。そしてぎゅっと目を閉じると、そのまましばらく口もきけない様子だった。

 映像でよく見るあからさまなその反応がなんなのか、離れて立つジェイにもわかった。薄く開いた瞳にわずかに涙をためたリンの気持ちがいまどうあるのか、推し量ることもできない。かつて自分が一方的に、その腹の中の命の父親からのメッセージを伝えてから、リンはなぜか一度も自分から彼についての消息を尋ねることはなかったのだ。俯いて黒土に手をついたまま、ただリンは吐き気にあらがって背中を波打たせていた。

 ジェイは胸の奥に広がる痛みに耐えながら、そのいのちと魂になにか光を当てたい一心で、そっと歩み寄ると思わずひとこと漏らしていた。

「……希望はどんなときも失わないでください。あなた様のひとあし前に、まず、とらわれの少女たちが自由を手にするかもしれません」

 リンは口元からハンカチを離すと、ジェイの顔を見た。

「……なんのこと?」

「ただの、夢の話です」

「夢?」

 ジェイは自分の失言に慌てていた。楊から概要を聞きかじっただけの救出計画。外に持ち出していい話では決してなかったのに。

「いい夢を見たと、それだけの話です。いい光景を見たらそれを覚えておけば吉兆につながると、そう聞いたことが」

「……」

 こちらを凝視するその澄んだ瞳が耐え難く、少し視線を落とすと、ジェイは囁くような声で言った。

「……妊娠の事実を、あのかたにお伝えしますか」

 リンは首を振った。

「やめて」

「なぜですか」

「彼の負担になりたくない」

「妊娠が負担ですか」

「知ったとしても、あの人にはなにもできないでしょう。わたしのそばにある無慈悲な男の手をますます恐れるだけでしょう」

「それでも、命は希望です。光です」

「わたしのことをあまり考えてほしくないの」

「なぜ」

 リンは視線を下に向けると、呟くように言った。

「考えすぎると、あの人が死んでしまう」

 ジェイは絶句した。眼前の乱れた髪の奥の白い顔、深い瞳が語っていた。自分は知っている。……その宿命を、自分が背負うものを。

 愛されることが、思われることが重荷になるというのなら、いったいそれでは……

「それでは」

 ジェイは思わず声を上げていた。


「それではあなたはこれから、一体どうやって生きるのです」


 背後で枝を踏む音がした。振り向いた先には、子猫を片手にぶら下げたチョウが立っていた。

「脱走しようとしていたぞ」

「あ」

 リンは首根っこを掴まれてぬいぐるみのようにぶら下がっている猫に、大急ぎで手を伸ばした。

「そんな持ち方やめて」

「文句を言う前に、ちゃんと見ていたらどうだ」

恬恬(テンテン)、だめじゃない。どこまでいってたの」

「正門に向かうフェンスの下を潜り抜けようとしてた。鳥を追いかけて興奮したついでだろう」

恬恬(テンテン)、もうしないっていいなさい」

 子猫はリンの胸の中でにゃあ、と甘い声を上げた。

「話し込んで目を離す方が悪いと思わないのか」

 黙って見ているジェイに目を移すと、チョウは言った。

「こんな植え込みで何の相談だ」

「いえ、リン様の具合が、ちょっと……」動揺で膝から下が細かく震えていた。

 様子を見に来た深緑(シェンリュ)が、背後で言った。

「悪阻ですね、ここのところちょくちょくあるんです。しばらくは吐き気とは付き合う覚悟をなさらないと」

 チョウは眉根を寄せると吐き捨てた。

「どこまで図々しい奴なんだ。女の栄養を吸って生きてるくせに食ったものを吐けとは」

 シェンリュは横を向いて小さく噴き出した。チョウはその横顔に向かって言った。

「猫は不潔だ。いいか、毎日お前が洗え」

「毎日は多いわ」リンが割り込む。

黴菌(ばいきん)の塊だぞ」

「そんなことをしたら弱るでしょう。わたしもあなたも汚いのは同じ」

 子どものように首を振るリンを見て、ジェイは複雑な思いに捕らわれていた。


 猫を洗う、洗わない。こんな他愛ない会話を交わす相手が、愛する男だったらどんなにか幸せだろう。もちろんそれが彼なら、一緒に並んで洗うのだろう。

 このかたは子どもの父親には、そのいのちを惜しむあまり気持ちの上で触れるのさえ避け、宿敵のように構えていたヤン・チョウとは何をおそれることもなく口をきいている。なんという皮肉か。  

 どんなに歪んだ環境でも、こうして暮していれば馴染んでゆくしかないのだ。諦めを受け入れ、この日々に慣れてしまったら、この方の人生はいったい何色になるのだろう。

 自分にできることは、いったい……


 

 タクシーを降りる前から、邸宅の玄関先で団子になっている男たちの姿が見えていた。

 怒鳴り合う声が深夜の住宅街に響く。

「おどれ、一人でカチコミとはいい度胸じゃ。このご時世にポン刀一本たあどタマいってんのちゃうかい!」

 関西出身の若頭、島岡の声だ。凄むと必ず関西弁が出る。

「この糞ガキ、九道の若衆だな。面拝んだことあるわ」

「九道会のカスどもが。下手こいてカスリ(上納金)も払えんまままたおやっさんに借金重ねよるかコラァ!」

 権田組の組員の怒声に対抗して、

「刃先は一遍もそっちに向け取らんわ、腹切りに来ただけじゃい!」

 かなり若い声が威勢よく怒鳴り返していた。地面に押さえつけられているのか、くぐもった苦しそうな声だ。


「お釣りはいいから」

 差し出した札を見ると、運転手は心配そうに言った。

「ここで本当に降りられるんですか。権田邸の真正面ですよ」

「大丈夫」

 ヒールをアスファルトに打ち付けるようにしてタクシーを降り、暗い道を待っ直線に門に近づくと、組員が一斉ににこちらを向いた。

「こんな時にどこの阿呆……」

 言いかけた組員の頭を、隣りの男がばしっと音を立てて叩いた。

「姐さん。 ……近頃お見かけしないので、ご無事かとみな」

「ここで騒ぐのはおよしなさい」

 澪子は地面に押さえつけられた九道会の鉄砲玉を見下ろした。

「若いわね。いくつ?」

「……に、にじゅうに」

 苦しそうに答える男から目を上げると、澪子は言った。

「とにかくこの件そのものが外に漏れないようにしなさい。あのひとはいる?」

「奥の書斎に。これからこの件を」

「この子はわたしに預けて。さ、一緒に行きましょう」

 男の腕をつかむと、澪子は日本刀を拾い、右手にぶら下げたまままわりの男たちに頭を下げられて玄関を上がった。

「おどれら、玄関先でガタガタすなとあれほど」

 廊下の奥からどたどたと出てきた組頭の関根は、長い暖簾のこちらから突然現れた澪子に日本刀を横ざまに突き付けられてうわ、と小声で言うと反射的に両手で受け取った。その後ろに立つ眞一郎は、澪子の姿を見ると眉間にしわを寄せ、それから口の端を上げて笑った。

「短い旅行だったな」

「こちら、九道会のお客よ。あなたにお話があるんですって」

「……そうか」

 澪子に腕を掴まれたままの男の顔を見やると、傍らの関根に向かい、眞一郎は言った。

「関根、お前ももういい。ドアの外に一人見張りをおいて、若いもんをしばらく奥の部屋に近づけるな」


「……九道のおやっさんは関係ありません。一人の判断で来ました」

 須永秀樹、と名乗ったその若い男は、応接室の床に正座したまま固い声で言った。

「そうだろうな」眞一郎が答える。その後の沈黙に耐えかねたように、須永は続けた。

「うちのとこの兄さんが、若頭が、権田組の舎弟企業でヘタ打ったのは事実です。経理担当が横領したうえ姿消して上納金も払えない。でもそれの返礼がこれですか。そっちでも手下に言いきれてないのと違いますか。今度の仕事の内容を」

「その通りだ。誰も知らん」

 すんなりとした返事に、須永は拍子抜けしたような顔で眞一郎を見た。澪子は横のソファで足を組んでいる。こんな話の最中に女が横に侍っていること自体が異様だった。

「うちのおやっさんは権田組長には恩があるから汚れ仕事で使い捨てられるのも仕方ない、言うてます。でも今日はけじめとして、おやっさんの無念を伝えに来ました。あの手の仕事はヤクザがやるもんやないです。違いますか。おやっさんにも、娘さんがいるんです」

 テーブルの上には無造作に日本刀が置かれていた。眞一郎はひょいと取り上げると、切っ先を眺めた。

「久しぶりだな、こんなもんを振り回す奴を見たのは。どういう覚悟で持ち出した」

「顔が見られなければ、ほんまにこの腹切るつもりでした」

 ドアがノックされ、関根が顔を出した。

「九道貴一が、あと一時間ほどで顔を出すそうです」

「そうか。この威勢のいいのは来たら引き渡す、と伝えておけ」

「……そのまま、ですか」

「そうだ」

 眞一郎は怪訝な顔の須永に向かい、ひとこと言った。

「玄関わきの応接室で大人しくしとけ。ひとりで先走った件については指を詰めるほどのもんでもなかろう、こちらから貴一さんに話しとく。おい関根、応接室に萩の月があるな、茶でも入れてこちらさんに食わせとけ」

 須永は振り返りながら関根に連れられて部屋を出て行った。ドアが閉まると、眞一郎は澪子の顔を見た。

「……同じ立場なら、わしもあいつと同じことをやっとる」

 そう言って眞一郎が手にした葉巻に、澪子は傍らのライターで火をつけた。

「汚れ仕事を受ける人間がいないなら、つまるところここに一人いるわよ。覚えといて」

 眞一郎は顔をしかめた。

「いくらなんでもお前が手を出す仕事じゃない」

「命はどんな皮をかぶってても結局、同じよ」

「……呆れた女だな」

 自分も唇に細い煙草を咥え、澪子は問わず語りに語り始めた。

「そんなことを言ってた男が昔、いたの。

 この腐った世を変える力が自分にはあるかもしれないという夢の片鱗をわたしがまだ捨て切れてなかった頃のこと。 

 けっこう一時は熱くなってね。多分、お互いの血が体温が、常人に無く冷たいことを悟りあったんだと思う。

 母親が資産家の愛人で、喘息もちで面倒くさくなった息子を屋敷に連れていって門前に放置、自分は若い男と逃げたそうよ。十三歳のころと言ってたわ。

 その家で、兄に継母に足蹴にされこき使われ、粗暴な使用人の慰み者にされ、いい加減嫌になって二年後、飼いならした弟と従弟と一緒に兄を井戸に落とした。

 母親は車に細工されて事故死。非情な当主は彼の才を買って取り立てた。彼はその家を実質乗っ取ったわけ。

 日の当たる海岸で、あるいは白人ばかりの保養地で抱き合っても、わたしたちは二人ともブリザードの中にいるようだった。ただお互いの指が触れた先だけが温かかった。

 周りは彼の魂を恐れたけれど、わたしには可愛い人だった……」



  

 うら寂れた夜の運動公園の真ん中に、壊れた時計塔が立っている。

 錆びた鉄柱に背を持たせる人影は、遠くからでも八頭身とわかるすんなりとした立ち姿だった。

 ごうごうと高みで鳴る風の音を聞きながら、櫻田はゆっくりと歩を進めた。

「柚木君?」

 時計塔から身を離すと、青年は微かに笑ったようだった。

「どうも、初めまして」

 二人はそのまま手を伸ばして握手した。指の長い青年の手は、思ったより大きく暖かかった。

 トラック沿いに並ぶ遠慮がちな灯りは運動場の真ん中までは届かず、二人の表情はまるごと暗闇に沈んでいた。それでも斜めに角度をつけた青年の顔の、高い鼻と長い睫が影絵のようにぼんやりと見えた。

「噂に聞くその尊顔を拝することができないのが残念だ」

「あなたのお立場を考えると、来ていただいただけでありがたいと思っています。正臣さんにお礼が言いたいけれど、直接お会いするのはなかなか難しいので」

「僕から十分に伝えておこう」

「ありがとうございます」

「元気そうだね」

「ええ」

「きみを応援する人たちの前にも、まだ姿は見せられないか」

「するべきことをするまで表に姿は出せません。いずれ、無事にいろいろなことが済めば、そういう時も来るとは思いますが」

 柔らかな低い声には、のっぴきならない立場に追い込まれている渦中の男とは思えない静かな落ち着きがあった。

「するべきこと、について質問することはできないのだろうね」

「残念ながらノーです。こちらから伺いたいのは、僕の現在の立場と、警察、あるいは国が今どういう立場から僕がかかわっている件について動いているかです。簡単でいいのですが、なにしろ急ぐので」

 櫻田はじっとSYOUの顔を見ていたが、やがて顎を撫でるようにすると、声を一段低くして言った。

「では言おう。あまりよくない知らせだ。あの樹海の中の車から採取した毛髪と、事務所が提出したきみの私物から採取した毛髪の型が一致した」

「ということは……」

「残念ながら現在、きみには逮捕状が出ている」


 SYOUは少し顎を引くようにして目の前の男を見た。それから首を巡らせて、頭上の夜空を仰ぎ見た。ああ、とかすかに呟いた声が、ごうごうという風に溶けて夜空に四散した。

 視線をこちらに戻すと、静かな声でSYOUは言った。

「手錠をお持ちですか」

「持っていて、もしかける気があると言ったらきみは手を出すか?」

「言ってほしくないですね。お互いの無事のために」

 ジャケットのポケットに入れたままの手元がかすかに膨らんでいた。

 櫻田は両手を広げて肩をすくめた。そして呟くように言った。

「今夜の密会は最初で最後だ。だから穏やかに、親密に、印象深く行こうじゃないか」

 月が雲から出て、彫刻のような顔に青い影を落とした。櫻田が感嘆のため息をつく間もなく、その顔に浮かんでいた透明な笑顔は、またむら雲の影の中にかき消えた。


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