それぞれの迷路
「悪い、遅れた」
個室の入り口に現れた櫻田は、額の汗を拭きながら紅潮した顔で席に着いた。
「夜に入っても蒸すな。年々暑くなるな、東京の夏は」
「地球の夏は、といったほうがいいかもな」正臣は運ばれてきたばかりの自分のビールを櫻田のグラスに注いだ。
平日の夜の和食料理屋は人も少なく、天麩羅と吸い物の香りがゆるやかに店全体に漂っていた。
「で、奥さんと、あのかわいい姑娘は元気か」
「ああ、俺の友人の別荘に間借りして、よく海岸を散歩して買い物にも行ってだんだん表情も明るくなってる。昨日は油壺マリンパークに行った」
「まずはひと安心か」
「まあな」
個室に顔を出したウエィトレスに、頼んでいたコースを、とひとこと声をかけると、正臣は櫻田に向き直った。
「忙しいのに呼びつけてすまない、ここは俺が持つから勘弁してくれ。
……で、せっかちですまないが例の件は」
櫻田は手の中のビールをひと口飲んで言った。
「じゃあ、順に答えよう。
SYOU君については、捜査令状は出ていない。逮捕状もまだだ。だがそっちへ向けての動きはある」
「どんな」
「中国人の遺体を二体乗せた車が樹海に遺棄されていた事件があったろう。
あれにSYOU君がかかわっているというタレこみがあって、例の車から採取された毛髪と、“彼”が所属していた事務所が提出した私物から採取された毛髪と、実は現在照合中だ」
「……やはりそうか」正臣は額を撫で上げると溜息をついた。
「北原哲夫君が、自分の留守に事務所の子が彼の私物を勝手に警察に提出したと相当立腹して俺に相談してきたんだが、そういうことだったんだな」
「事務所存続にかかわる、とでもぬかして捜査員が高圧的に出たんだろうな」
「違法じゃないのか」
「それでも一応任意だからね」
「じゃあさっきの両方とも」
「万が一結果が一致すれば、逮捕状も近いうち出るだろう」
「そうか……」
正臣は渋面のままビールをひと口飲むと、視線を下に向けたまま黙り込んだ。櫻田は声を落として慎重に聞いてきた。
「もしかして、この質問はつまり、“彼”発か?」
それには答えず、正臣は淡々とした口調で言った。
「最近まで身を隠していたマンションに、捜査員を名乗るものが現れたらしい。部屋の中を見せろと」
「どこのマンション?」
「それは言えない。だが、令状が出る前にそれはあり得ないだろうな」
「俺みたいな先走ったバカが単独でやる可能性がないとは言えないが、あまりそういうフライングは聞いたことがないな」
正臣は視線を上げると、静かに言った。
「彼がお尋ね者になったら、お前とももうこういう話はできないな」
「……今はまだいいだろう。お前、その、連絡を取ってるのか、奴と」
「俺のほうでもいろいろ確認しておかなきゃいけないこともあるんだよ。これからは」
櫻田は黙り込んだ。自分と話ができなくなるといいながら、SYOUとの自主的な接触をほのめかす正臣の態度は、いっそ挑発的にも思えた。
「お前の胡散臭い相棒は最近どうしてる」
唐突な質問だった。櫻田は幾分顔をしかめた。
「菊地か。私的捜査のバディーとしては解散状態かな。俺の腹の中をどうやら勘付いたようで、背後で権力者の一枚岩にひびを入れる動きが始まってるのも察しているらしい」
そこまでいうと、
「……なるほどな。そこを訪れたのが菊池という線も捨てきれないか」独り言のように呟き、その先を続けた。
「今まで探ったところでは、あいつの背中には操り糸がついてるようなんだよ。中国の裏社会の、個人的な、ね」
「裏社会の、誰だ?」正臣は即座に聞き返した。
「あの会員制のホテルで少しだけ、個別に詩織嬢と話しをした。デレクスタイルの社長の兄。失脚した政治家から実業家へ転身を図っている、張財閥の一員。詩織嬢を拉致しかけた奴。俺が調べたところでは、相当前からその男の息がかかってるな」
「菊地という男は、お前の見る限り、中国共産党の子飼いのスパイじゃないのか。張は政治家としては失脚してるんだろう?」
「金のある方、報酬のめでたい方に寝返るのはよくある話だ。それに張という男は、裏の情報収集に長けたやつで、共産党首脳部の黒い噂や弱みも相当握っているらしい。おそらく日本の権力者サイドのものも。だから相当なことをやっても生き延びてきている。餌の欲しい雑魚がくっつくにはいい相手だ」
正臣はそこまで聞くとふっとため息をついて目を上げた。
「わかった。話を元に戻そう。
SYOUは、自分にまだ罪状がないなら、お尋ね者になる前に桜田門であるお前とコンタクトをとりたいと言ってきた。まあ逮捕状が出たら、お前は相談に乗る前に手錠を用意しなくちゃならないからな。それでまず俺に聞いてきたよ、櫻田という男は信用できるだろうか、いい人間と言えるだろうか。正臣さんのラインで言ってほしい、自分はそれを信じる、と」
「ふん。で。お前はどう答えた?」
半ば愉しそうに櫻田は聞いてきた。
「きみの好きなタイプではたぶんないだろう、だが人間として日本人として守ろうとしている線は間違いないと思う、と」
面映ゆそうな表情をすると、櫻田はビールをあおった。
「三好国土交通省大臣が国会で突き上げられてる収賄事件があるだろう」正臣は急に話題を変えた。
「ああ。何だいきなり」
「代々木に建設予定の新しいスポーツ施設の工事の受注先をめぐって、金をもらって入札に便宜を図ったと」
「で、大臣に賄賂を贈っていたK建設が勝ち取った」
「その件で、民自党の幹事長、伊吹満が国会で激しく追及している。彼は解散総選挙になれば次期総理と目されている一人だ。現政権、明和党が、かの宗教お抱えの党だというのは誰もが知っていることだが、この件を突破口に、霊燦会絡みでうまい汁を吸う連中ばかりがいい思いをしてきた明和党の腐敗体質にメスを入れようとしているわけだ。この動きが上手くいけば、今隠蔽されている権力と暴力と宗教との連携体質がひっくりかえせるかもしれない。どう思う」
「俺もその方向にじつは期待していた。まあ、流れ次第だな」櫻田は答えた。
「流れは誰がつくる」
「運命と、周囲の人間」
「期待は持てそうか」
「少なくともここに二人、その方向に尽力しようとしている人間がいる。それぞれのきっかけで」
それを聞くと正臣はうっすらと笑い、机の上で手を組んだ。
「俺が警官をやめたのは、ひとつひとつの事件をいくら潰しても根本解決はできない、きりがないという絶望感に捕らわれたからなんだ。
当たり前だ、個人が社会を変えるなんて無理だ。その頃、妻と会った。彼女は自分が預かっている甥っ子が手におえないというんで、警察署で怒鳴り散らしながら少年を平手打ちしていた。たった一人の子どもを何とかしようと身体を張っていた一人の女性を、その姿を美しいと思った。それが“彼”、……SYOU君との出会いだ。それがきっかけというんでもないだろうが、俺はその後自分の資産でできることとして、子どものためのNPOという方向に鞍替えした」
「……初耳だな」櫻田は心底驚いたというような顔をして聞いていた。
「あれからずっと、俺は妻とその甥っ子を見つめ続けてきた。
彼は昔から名うてのトラブルメーカーだったが、今彼が巻き込まれてる、あるいは人を巻き込んでいる渦は、もしかしたら社会を浄化する動きにつながるかもしれないと俺は思ってるんだ。
周囲が上手く流れを起こせれば、もしかして世の中は少し変わるかもしれない。万が一“彼”が暴れて逮捕される憂き目にあっても、闇から闇ではなく、メディアごと膿を外に出す動きが始まるかもしれない。むしろ騒動そのものが、膿を流しだす起爆剤になるかも知れない」
「なにかしでかそうとしてるのはわかった。“庭”絡みか」
「それは言えない」
「ふむ。流れによっては、菊の御門を仰ぐ立場の人間が暴走したとしても、いずれ世間が許すかもしれない、か」
「そう、だが、所詮はおとぎ話だ」
「夢物語だよな」
「ぎりぎりまでは夢物語、その先は運命の女神次第」
二人はひっそりと笑いあった。煙草の底をとんとんとテーブルで叩きながら、櫻田は言った。
「こちらは了解した。お前の感性を信じよう。あちらが俺を信じるなら、俺の連絡先をイケメン君に伝えてくれ」
頭上では流れゆく夜の雲が月の面を翻弄し、足の下からは街の喧騒が上がってくる。
そうして雑居ビルの屋上の木のベンチに背をもたせかけて頭上を仰ぐと、目まぐるしい夜空ごと自分がどこかに運ばれて行きそうで、詩織は両手を夜空に伸ばして目を閉じた。
半年前の自分、ひと月前の自分、そして昨日の自分と今日の自分。繋ぎ合わせようと思っても、合わせ目がいびつでほどこうとすれば痛く、なかなかひとつながりにならない。
「まだ帰らなかったのか」
抑揚のない声に振り向くと、屋上の出口に背の高いシルエットが見えた。
詩織は眉間にしわを寄せると、投げつけるように言った。
「こっちに来ないでよ」
「よく見るとあんた美人だな。俺の好みじゃないけど」
詩織は楊に向かって中指を突き立てた。
「こんなとこにいないで憧れのSYOUさんとでもいちゃこらしてなさい」
「彼は部屋にこもって手榴弾と地図とにらめっこ中だし、おっさんは熱が出たとかでゴロゴロしてるしな。これから俺たちがする仕事は半端じゃない。SYOUさんがそうしたいというならメンバーがだれでも俺は飲む。だがあんたとはこのままじゃいけない気がする。いいからもう一度座れよ」
詩織は腕組みをしたまま腰までの高さの壁に寄り掛かった。
「いい? お馬鹿さんにまともな日本語教えてあげる。座ってください、と言い直しなさい」
「くだらないことで怒るんだな。じゃあ立ち話といこう」
楊は平気で詩織の隣に寄り掛かった。詩織は体を離すと、呆れ声で言った。
「人を人とも思わないやつって最初に思ったのはSYOUだけど、あなたも相当ね」
「違うな。似てるのはむしろ俺とあんただ」
不快を通り越して頭に思いきり血が上ったが、取り敢えず手元には投げられるなにもなく、さりとて言い返せる言葉もなかった。何となく当たっているような気もしたのだ。
「あんた銃は使えると言ってたな」
「クレー射撃やってたからね。決闘させてもらえるならあなたなんか一発で撃ち殺せるわよ」
「じゃあ彼を争って決闘でもするか」軽口を叩くと楊は真顔で聞いた。
「そもそもなんで持ってる」
「うちの備品だから」
「持ち主の了解を得てるわけじゃないだろ?」
「頼めば持ち出してくれる素直な若い衆もいるわけ」
「指ぐらいは詰めたのかな」
「それが嫌ならヤクザなんてならなきゃいいのよ」
楊は噴出した。
「人を人とも思わないのが誰だって? やっぱりあんたと俺は同類だ」
楊はさっさとベンチに座ると、膨らんだポケットから卵形の何かを取り出した。
「手出せ」
返事をする間もなくその卵を放り投げる。詩織は咄嗟に両手を揃えて手榴弾を受け取っていた。
「何するのよ、気でも違ったの」握り込んだ手は細かく震えていた。
「落下したぐらいじゃ爆発しない。それの使い方を俺はSYOUに教えられた。何度も、何度も。あんたは見ただけで触ってないよな」
「……」
この場所に案内されて、所持している武器を見せられて、できるだけ使いたくないがやむを得ない場合もあるかもと説明を受けた、そのときのSYOUの昏い瞳を詩織は思いだしていた。きみは触るなと言ってこの手をそっと押さえた、あの長い綺麗な指。
自分が持ってきた資料を手元に置いて、銃と手榴弾を中心に見ながらこれからのことを話しあった。あのとき自分の中にきんと通った冷えた柱が、今も身の内にある……
「安全レバーについてる安全クリップをはずして、T字型の割ピンの先をまっすぐに戻す。親指で安全レバーを押さえ込み、安全ピンを抜いて投げる。咄嗟の場合、自分が逡巡していても、きみは横から奪い取ってピンを抜くんじゃないかと心配してたな」楊は冗談交じりに言った。
「……」
「俺が途中で割り込んできて不満か」
「一方的に質問ばかりされるのも迷惑だし、答える義務はないわ」
「自分がないがしろにされてると思ってるだろ」
「ひとの答えを聞いてないの?」
「彼は人数が少ないと言ってたろ。人手はほしいんだよ、喉から手が出るほど。だがそれは、俺みたいに良心の呵責もなく、一山いくらで使い捨てられるような狂信者の安い命だ。あんたは別格だ、だから武器にも触らせてももらえない」
「……」
「人数は増やすだろうな。そのときはほかのメンバーとも仲良くしてくれよ。あのかたの写真に炙られて、今なら命を懸けられるという信者が結構いるんだ。彼は喜んでそいつを握らせるだろう、失っても何一つ惜しくない命だからな」
詩織は手の中の手榴弾を見つめた。楊は手を伸ばして、詩織から手榴弾を受け取った。
「多少は怖かっただろう? 自分の命をないがしろにされる気分はどうだ。満足か、勇敢なレディ」
詩織は目を上げて、静かな声で言った。
「返す時、SYOUに伝えて。わたしはあなたが止めるなら決してピンは抜かないのよ、そんなこともわからなくなったのって」
楊は軽く口笛を鳴らすと手榴弾を持った方の手を上げ、くるりと詩織に背を向けた。
ああ、いまわかったことがある。
詩織は鉄のレモンのような手榴弾の感触を思い出しながらぼんやりと考えていた。
逆の立場なら。
わたしが命を懸けて愛する者のために戦うなら、過去の恋人が自分を役立ててくれと追いすがってきても、もらえる情報と武器だけ頂いて蹴り捨てるだろう。そんな鬱陶しい相手に一片の情もかけないだろう。
なんて自分はうざったい存在なんだろう。
腹を立てるのは間違いだ。自分を尊重してくれている相手に。身勝手な自分とは比べ物にならないぐらい優しい彼に。
……それでも。
それでも、今までの彼と自分の間に流れた濃密な時間が、ほかの誰かにとってかわられるようなものではないと思いたかった。
リンを愛してる、SYOUを愛してる。その気持ちだけで、なにかができると思っていた。
本当はわたしは愛されたかったのだ。愛する人に、愛されたい。それなくして、ここまで来れはしなかった。
詩織は両手で自分を抱きしめた。
愛されたい。死がずっと自分の身近に来ている気がする。なんでも捨てるから、あと一度だけ。骨がきしむほど、魂が震えるほど……
携帯の画面には、正臣が送ってきた櫻田の番号が並んでいた。
SYOUは傍らのメモパッドに書き留めると、口の中で何度か呟いて頭の中にインプットし、携帯から消去した。
相手は菊の紋章を背負って仕事をしている男だ。じきに指名手配になるであろう自分とのコンタクトの軌跡を残すわけにはいかない。
彼との間の関係は今までで一番危険なものだった。それでも、今考えていることを成功させるには、警察内部の手の内を知らせてくれる誰かが必要だった。何が行われようとしているかについてまともに通報したとしても、何の救いにもならない。何しろこの計画の大元は、警視総監なのだ。そのさらに大元は議員や閣僚を辿って、中枢の中枢にまでたどり着くかもしれない。
やるからには成功させなくてはならない。全員助け出さなくてはならない、どうしても。
詩織が寄越した資料には、ガーデンに所属する少女たちの人数と場所、そこを「粛清する」大まかな日にち、そして実行を傘下の工藤会に投げたという事実が記されていた。
工藤会は残酷で強引なやり口で知られる武闘派の一派だ。これだけの汚れ仕事を投げられたことで、工藤会の中でも権田組に対する不満が募っているという。工藤会の代表の工藤喜一は韓国系で、日本の任侠魂を尊重する権田眞一郎との間には不協和音が鳴っていたが、極道なりのプライドを重んじる言葉とは裏腹に、女子供を闇に葬る仕事を丸投げしてきたことに不満が爆発しているらしい。
当然と言えば当然だ。多分、詩織の父も内心忸怩たるものがあるだろう。
詩織の話では、これだけのことをして手を汚すからには自分なりにけじめをつけなければいけない、というようなことを電話で話していたという。工藤会もそして権田眞一郎も、ここが限度というギリギリに来ているらしいのは間違いなかった。
「父の誇りを、わたしは信じている」
謎のような言葉を、詩織は呟いた。誇りがあるなら、なんとするのだろうか。決行を撤回するとは思えない。だが、おいそれと質問できないような厳しい空気が、そのときの詩織には満ちていた。
地図を見ながら、ぐるぐると頭を巡らせる。そして結局、どうにもこうにも人数が足りないという結論に行き当たる。人数が足りない。ではどこから調達する。秘密が守れて命を惜しまず、裏切りのない兵隊……
どうしてこの選択の中心に今自分がいるのだろう。楊に言えば二つ返事で信者を差し出してくるだろう。そして詩織も、どうぞと両手に乗せて自分の命を差し出してくる。
片方を受け取り、片方を遠ざける。なんのために、どういう基準で。
SYOUは前髪に両手を突っ込んだ。
傍らで死んだように眠っている若宮の、バチのように包帯が巻かれた左手の指。
爪が三枚ないのを、詩織は知らない。
そして見えないところに押された焼き鏝のような火傷のあとも。
彼はその苦痛に耐えかねて薬をあおり、それゆえにそれ以上の地獄を見ずに生還した。
自分が結託したのは、ひとの命を紙切れ一枚ほどにも思っていない悪魔のような男だ。
ヤン・チョウ。一見紳士的に見えるだろう。口のきき方もソフトなら見た目も下品ではない。
だが彼は凍った血を持っている。ヤオの持っていた資料の中にあった、陽善功の若い支部長の、生きながら真っ黒に焼かれた顔。性器を潰された男女。皆あの男が指一本でさせたことだ。あの男に宿っている正の方向の衝動はただ一つ、リンを愛し守ること、それだけだ。それ以外において、自分は何一つ彼を信じていない。自分との関係も何かのきっかけでいったん崩れれば、自分に属する者すべてが同じ目に遭うだろう。
自分が彼にとって危険な恋敵であることに代りはないのだ。
目の前には、振り払っても振り払っても嫌な映像がちらついていた。ここ一週間、眠るたびに脳裏に浮かぶ悲惨な映像。あそこから詩織を脱出させたい。何度眠っても、何度夢を見ても、映像は同じだった。
夢の話などしても、詩織は降りるまい。益々意地になるに決まっている。だが、わかっていて悲劇の坂を転がり落ちるような予感は、SYOUを逃してはくれなかった。
この世に神がいると信じているものは幸いだ、自分には祈る神すらいない。ただ重い叫びが体の多くからわんわんと湧き上がっているのが聞こえるのみだ。
生かして、助けて、そして返して。
あの子たちの故郷に……
リン。
ことの発端は、きみを愛したことだった。望んだのはそれだけだったのに。
世界がどうなるかよりも、ただきみ自身を手に入れたかったのに。
世界は茨に覆われた城にきみを閉じ込め、ぼくには鋼の武器ばかりを渡す。
迷路は城の周りをぐるぐる回るばかりで、一向にきみに近づけない。
きみは本当にいたのか、あの日々は本当にあったのか。
子どもたちを一人一人助け続ければ、きみは最後に手を差し伸べてそこに立っているのか?
鷲の勇気と、鷲の目をぼくにくれ。自分が今迷路のどこにいるのか、誰か教えてくれ……
詩織がノックして室内に入った時、地図と資料を床に散らばせたまま、SYOUは若宮が眠るパイプベッドの脇の床で、銃を抱くようにして眠っていた。
詩織は静かにその傍らに座ると、顔を覗き込んだ。眉間に、苦しそうに小さな皺が寄っていた。
もつれた茶色の髪に手をやり、手の上に手を添えて、詩織は愛しい男の顔をいつまでも眺めていた。