あなたは、だれ?
長い不在は、部屋の空気をじりじりと過去に戻す。
長いこと帰っていない自宅の部屋も、いまごろ埃臭いよそよそしい空間になっていることだろう。
そんなことを思いながら、SYOUは薄暗いマンションの一室に静かに踏み込んだ。
夏の熱気をはらんで淀んだ空気の中、じわじわと汗がにじみ出てくるのを感じながら、一直線に寝室に向かう。
クロゼットを開け、帽子の箱の横に押し込んである布袋に手を伸ばす。
中の箱を開けて、銃と手榴弾の数を確かめる。銃は二丁、手榴弾は五個。指先でその手触りと温度を再確認する。体温の移らない、よそよそしいごつごつした金属の塊。
……本当に自分は、これを使うのか。ほかに方法はないのか。
床に座り込んだまま、リボルバーを手に、SYOUは傍らのベッドに視線を移した。
この部屋を出たあの日、リンの幻影が静かに入っていって、その身を横たえていたベッド。懐かしそうにシーツに両手を広げ、泣くようにして枕を抱いていた。目を閉じたまま、自分は確かにそれを見ていた。
追想はさらに溯る。
……あなたはわたしのいとしいひと。
そう中国語で繰り返していたリン。目の前で揺れていた優しい白い乳房。ラベンダーの香りの、青紫の湯がゆらめく湯船。何度も何度もキスをして、お互いの身体を抱きしめて、このまま時が止まればいいと思ったあの夜、そして昼。
きれいになりたい、……きれいになりたい。
どうすればかなえられるのかわからないまま、きみを傷つけてすべては終わった。
あれが最後だなんて認めたくない。
自分がこれからしようとしていることは、本当にきみの願い通りなのか。この後何が起きるにしろ、もう一度会いたい。
リン、きみに会いたい……
ベッドの上で長い髪を広げるリンの姿を幻視しながら、手元の銃をごとりと床に落としたその時。玄関の外で話し声がしたと思ったら、いきなりチャイムが鳴った。
一回、二回、三回。
SYOUは覗き穴を見に行こうと立ち上がり、そのまま身をこわばらせた。、話し声は明らかに知らない人間のものだった。
ややあって、低く押し潰したような陰気な男の声と、年配の人のよさそうな女性の会話が聞こえた。
銃を箱に押し込み、袋に入れて口を縛る。
そのまま音を立てないように持ってきたリュックに詰め込むと、SYOUはそろそろと玄関に近寄った。 洗面所のドアの横に来たところで、ようやく会話の内容が漏れ聞こえた。
「……顔は見たことがないのですか」男の声だ。
「誰かいるらしい、ということはご近所から聞いてましたけど、実際に出入りしている方を見たことはわたしはないです」
「苦情が出ていたんでしょう? ご近所から」
「ええ、ときどき大声でやり合ったりモノがぶつかるような音がしたりはしていたようですね」
「住人が直接苦情を言ったことは」
「なんだか関わり合いになるのが怖いとかで、それは誰もしなかったみたいです。物騒な世の中ですからねえ」
……警察。直感でSYOUはそう思った。
応対しているのは管理人か。いつもカーテンを引いてほとんどいるのかいないのかわからなかった管理人。フルフェイスのヘルメットをかぶらずに入り口を通過したことはないから顔は見られていないはずだ。
「苦情が来ているのでお話ししたいとお電話したことも、直接うかがったこともあるんですがいずれも応答はなくて」
「海外にいるという借主はいつ帰られるんですか」
「さあ、それはちょっと。でも、留守中にお友達が出入りするかもとは言ってましたから。お家賃も頂いてますし」
「ちょっと中を見せていただけませんかね」
「ですから、そこは借主さんの許可がないと」
「捜査上必要なんです。ここに出入りしている人間がある犯罪にかかわっていることがはっきりしたもので、ぐずぐずしていると住人の方々の安全にもかかわります」
「あの、捜査令状は……」
「間もなく届きますが、あまり時間を置くと証拠品が持ち去られる可能性もあるのでね」
「困りましたね、本人と連絡が取れるといいんですが」
「海外での連絡先はわかりますか、こちらから許可を取りましょう」
「ええと、ちょっと待ってくださいね。それでしたら管理人室に」
二人の足音が遠ざかってゆく。
息を殺していたSYOUは、ふっと息を吐くと、あたりを見廻した。
ベランダに寄り、カーテンを開く。隣室との境のパーテーションは何とか手すりに尻を乗せれば乗り越えられる。その隣は背の低いビルで、気合で飛び降りれば屋上には着地できるはずだ。
今下に降りても、管理人室にいるはずの二人はまたエレベーターで上がって来るだろう。いや、二人きりとは限らない。非常階段も当然、下で張られているかもしれない。
この武器を抱えて身柄を拘束されれば、すべては終わりだ。武器を捨てても、この有名面を下げて出て行くわけにはいかない。ヘルメットもアウトだろうし、話しかけられて答えれば声でばれる。チェーンで時間稼ぎはできても、開錠されれば中に人がいる証拠になる。
SYOUは手元の携帯を開き、楊の携帯の番号を押した。
『WEI』
「外は変わりない?」
『特には。たださっき黒い車が斜め前に止まって、なんとなく油断ならない風情の男がマンションに入っていったけど』
「ひとり?」
『二人』
「そうか。じゃあ、悪いが南側の細い路地に入って待っててくれ。金融会社の看板の下だ。玄関から出るわけにいかなくなった」
『ブツは』
「手元にある。だからヤバいんだ。いいか、なるべく外に注意して、エンジンかけといてくれ。多分俺は上から降ってくる」
『面白いな』
楊はぷつりと電話を切った。なんでも面白がる奴だ。SYOUは苦笑するとリュックを背負い、掃出し窓を開けてベランダに出た。そして手すりに足をかけ、そろそろと身をそらしてパーテーションの外から隣に移った。幸い、隣りの住人は留守のようだ。ベランダの内側に飛び降りて、角部屋の端から下を見る。隣のビルの屋上との高低差は三メートルほどだ。これなら楽勝だ。だがひとつ重大な懸念があった。
……背中の手榴弾の安全ピンは絶対なのか、この衝撃に耐えられるのか。もし背中から落ちたら?
パソコンがあれば開いて調べるし、手引書があれば読むだろう。だが今そんな暇はない。
もう一度下をのぞき、SYOUは目を閉じた。もし手榴弾が爆発したら。
そのときは、この身がヤオと同じに木端微塵になるだけだ。彼が行った先の世界がもし見えるとしたら、そこに彼がいるとしたら、一体なんと言われるだろう。
哎呀、と嘆きの声を上げ、そしてなぜ彼女を一人置いてここへ来た、と胸ぐらをつかまれるだろう。
そうしたら自分は言おう、やれるだけのことはやったのだ。そして僕は終始、あんたが羨ましかったよ……
塀の上から飛び降りる人影を見て、楊はドアを開けた。リュックを背中から外しながら駆け込むSYOUに、アクセルを踏みながら話しかける。
「空から降ってこなかったな」
「簡単に降っちゃいけないのに気付いたんだ、爆弾を背負ってるんだからな。飛び移った後はビルのてっぺんからちゃんと階段で降りてきたよ」
「誰か部屋に来たのか」
「部屋に入ろうとしてた。多分警察だろうけど捜査令状が間に合ってなかった。間一髪だ」
「ギリギリで運び出せたな。どこからあそこが漏れたか見当ついてるのか」
「漏れるというより、ヤン・チョウはすでに知ってる。だがお互いのすることに邪魔はしないはずだ、そういう契約だから」
「じゃあほかに知ってるのは」
……詩織と、若宮と、宝琴。
どれも外に漏らすとは思えない。ではどうして、誰が警察に?
それともチョウが裏切ったのか、……まさか。
「きみのことを何か言っていたか。外の奴は」
「犯罪にかかわったものが中にいるかも、とか管理人にいっていた。証拠が持ち出されるとか……」
いや、むしろ逆だ。
日本政府が、それこそ国単位で自分を追い求めるとしたら、目的はひとつ。
持っているかどうかわからない武器ではなく、権力者たちの恥部であり現政権にとっての真の爆弾。
ガーデンの客の名簿とDNAデータ。売買され使われた薬物の種類、金の流れを示す資料。その一群だろう。あれを証拠というなら、それが証拠となってすべてを失うのは相手のほうなのだ。
SYOUはTシャツの胸元に手を入れ、ネックレスを引っ張り出した。先には小さな鍵がついている。
「何だ、それ?」
「見ての通り鍵だよ」
SYOUは楊の視線の先で小さな鍵をまじまじと見ると、また服の内側に戻した。
「ある意味、手榴弾よりも破壊力があるかもしれない」
そして流れてゆく車窓に目を向けた。
……もしも。
もしも自分が取引としてチョウに渡した資料やデータのすべてが、あらかじめ用意しておいたフェイクとわかったら。本物は別の場所にあると分かったら。
彼はどういう形で自分に報復するだろう。あるいは見せしめにリンに?
それだけはしないだろうという確信はどこかにあった。
あの男にとって最重要なものは間違いなく、リンなのだ。金も資料も、自分の地位を確固たるものとし、リンを生涯囲い込める空間と財力権力を確保するためにのみ必要なのだ。
日本政府に対する外交上の切り札として、チョウからもらった資料を温存させる気でいる中国が、その真偽に気づくのはずっと後のことだろう。今までの悪事を隠ぺいし、中国での人脈を利用して財をなし、とっとと勝ち逃げて国を出ればいいだけの話だ。ヤン・チョウはきっとそれをやるだろう。……
噛んで含めるように仕事を説明すると、何度もうなずきながら、豊満な老女は言われたことを復唱した。長いことアジア系の外交官の家で下働きをしていた忠実な女で、なにか牝牛のように実直で正直な顔をしていた。
「このままでは使える人間がいなくなる」とぼやいていたチョウが、つてをたどって見つけてきた彼女、深緑は、ジェイの目から見ても色々な意味で安心して部屋を預けられる相手だった。
「どう、リン様は」
部屋から下がってくる彼女に尋ねると、盆の上を見て首を振る。
「前に聞いていたよりは召し上がっているようなんですけどね。でもあたしの半分も行かないですねえ、これじゃ」
「一緒に食事をしてさしあげればいいのに」
「そればかりは旦那様がお許しにならないんですよ。ともに食べるなら自分がいるとおっしゃって」
「あの顔を見ながら食べてもな」
「なんてことおっしゃるんですか。首が飛びますよ」
苦笑しながら、ジェイは苦しい思いで皿の上の魚や果物を見た。
…………寂しかったの。ほんとうに、寂しかったの。ひとりで起きてひとりで食べてひとりで寝て……
自分が見るリンの印象は、さまざまに分裂してひとつにならない。この家に来てすぐ、全身から拒絶と殺気を漂わせていた鋭角的な少女。チョウの言葉に激昂し、叫び声をあげて平手打ちを食らわしていた美しい女。チョウをお前呼ばわりして罵倒していたあの時のユェリンと、まるで怒りという感情を手放してしまったような今の彼女は、重なるようでいて重ならず、重ならないようでいて十分に重なっているのだった。そして重なった部分は、ただ薄紫色の悲しみ色でできていた。
あのとき、全身を震わせて抗議した彼女を、チョウに言われるままに拘束して自由を奪ったのは自分だ。そしてすぐに鎮静剤を打たれ、彼女は精神の自由も奪われた。
そしてだめ押しのように、復讐に燃えていたであろうその身が妊娠していると告げられてから、彼女は棘も武器も捨ててしまった。
復讐を唯一の生きがいにして絶望の監獄を生き延びた男の映画がある。
脱獄に成功したその男は、怒りがなければ生き延びられなかったと言った。
彼女の身の内に息づいているものが唯一、会えない男への愛だとするなら、愛は失望と孤独の内にも、ひとを生かすだけの力があるだろうか。
ボディガードを部屋に引きいれて食事を分け与えてまで孤独を埋めようとする彼女を見ていると、ただ絶望に食い尽くされてお腹の命を空しいものにしないように、彼女が必死で体温のあるものにすがろうとしているようで、ジェイは差し伸べられない自分の手をひどく冷たいものに感じるのだった。
「……大丈夫かな」ぽつりとジェイが呟くと
「リン様ですか、お腹のお子ですか」
「両方だ」
シェンリュは部屋のほうを見やりながらいった。
「おそらく大丈夫ですよ。あのかたはなんだか、全身が愛でできているようなお嬢さんですから」
「だから心配なんじゃないか。ここには愛がない」
「好きな方のお子かしら」
「おそらくは」
「じゃあ、ね。その子が力になってくれます。
妊娠の初期はそりゃあ不安なものなんですよ。一番気持ちがブルーになる、不安定な時期でね。でも安定期に入ると、気持ちも体も安定して前向きになれるんです。精神病者でも一時的に正常になるほどといいます。母体の防衛システムですね。そこまてもちこたえれば、まず大丈夫」
「彼女の力になってもらえるか」
「もちろん、そこはベテランですからね」
ジェイは目の前のふくよかな女の笑顔を、まるで菩薩でも見るような気分で見つめていた。
バスルームから上がり、並べられたオーデコロンの中から鈴蘭の香りを選ぶ。
手足は細くても、バスローブからのぞく胸は相変わらず豊満で、乳首の先がつんと痛くなるような妙に切ない感覚があった。これも子どもができたせいかと、リンは掌を見てから何となく体に塗るのをやめ、首と頬につけて蓋を閉じた。
そのとき、ドアをノックする音がした。どうぞという権利も駄目という権利も自分にはない。鍵が外される音がして、まず大きな紙袋がのぞき、次に両手に大小の荷物を抱えたチョウ本人が姿を現した。
「晩上好」(こんばんは)
どこか他人行儀に言って、次々に荷物を降ろすと、まず一番小さい紙袋を下げて、チョウは鏡台の前に座るリンに近寄った。
「ほら」
紙袋の口を開ける。
リンがおずおずと中を覗くと、白黒の毛玉のようなものがふわふわと動いてこちらを黒い目で見上げ、甘い声でにゃあ、といった。
「まあ」
リンは小さく歓声を上げて手を差しいれた。
掬い上げるように毛玉を手に乗せる。子猫は両手の中で小さく体を震わせながら、何度も掌を前足で踏んではそのまま腕に上ろうとする。立て続けに上げる小さな鳴き声に、リンはまるで無意識に答えるように同じ声を返した。そうして猫も鳴き声を返す。にゃあ、にゃあ。にゃあ、にゃあ。
「日本語だけじゃなく猫語も習得していたのか」
珍しい軽口にも答えず、子猫の顔に背中に夢中で頬ずりする様子に、チョウは苦笑すると、傍の大きな紙袋から猫用のトイレと砂、ちぐら、缶詰や餌箱を出して並べた。
「あとはシェンリュに手伝ってもらえ。猫に触った後は手を洗うように」
最後に除菌用アルコールの瓶を出すと、紙袋をぐしゃぐしゃ丸め、チョウは立ち上がった。
「誰かからもらったの」背後からのリンの問いかけに
「拾った」ドアを向いたままで答える。
「拾った? あなたが?」
「悪いか」
リンはじっと、目の前の極悪非道な男の背中を見た。そうして暗い道端で、拾う人もなくただ鳴いていたこの小さな命を、足を止めて見やり、通り過ぎて考え、振り向いて戻って拾い上げる背の男の背中を脳裏に思い描いた。
「こっちへ来て」
意外な言葉に、驚いたようにチョウは振り向き、腕に子猫を抱えたリンの前にゆっくりと歩み寄った。
「……なんだ」
「この子に触って」
「わたしは喘息もちで、猫は嫌いなんだ」
「あなたは触るわ」
予言めいた言葉とともに黒曜石のような瞳で覗き込まれ、チョウは一瞬眩暈がするような思いに捕らわれた。
この浮遊するような感じは、そうだ、道端で猫に出逢った時の、あの感じに似ている。いったん通り過ぎた足を、誰かが止めた。考えるより先に、手が出ていた。拾い上げた猫を、もう降ろせなかった。 あれは、本当に自分なのか。
かすかに震える指先で触れた子猫の柔毛は、苛立ちと郷愁を同時に誘う、泣きたいような感触だった。
リンはじっと目を見たまま呟いた。
「……あなたは、だれ?」
チョウは絶句してリンの顔を凝視した。……なんといった?
「わたしの名前を忘れたか?」
「ヤン・チョウ」
そう呟いてから、リンはまた瞳を覗き込んできた。
あの眩暈が戻ってくる。
「……あなたは」
そういって、そっと指を伸ばし、額に触れる。じん、と痺れるような感覚が頭に広がる。
「あなたはたくさん、たくさんの人を殺した。
けれどたったひとつ、この小さな子の命を救った。
もしわたしがあなたより先に死んで神様のそばに行くことがあったら、そのことをきっと伝えておくわ」
チョウはかすかに眉根を寄せると、リンの手を乱暴に払ってくるりとドアのほうを向いた。
「この子をありがとう」
背後からのリンの言葉に、唇を引き結び、ぐっとドアノブを掴むと、
「神などいるものか」
そうひとこと言って、乱暴にドアを閉めた。
大股で廊下を歩き、自室に入ったとたん、あの真空がせり上がってきて、チョウは体を二つ折りにして咳込んだ。
咳いて咳いて、もう吸う空気がなくなってもまだ咳の衝動が湧き上がる。もうなにもない、からっぽだ。油汗が額に滲み、視界が霞んでゆく。
そうしてベッドに倒れ込み、やがて呼気だけでなく吸気が回復してくると、ぜいぜいと息をつきながら、生きているうちに考えるべきことを考えろとぼんやりした頭を急き立てる。
あのマンションにSYOUはいなかった。
菊池からの報告では、最近は人の気配がないという。
だがあそこ以外にいられる場所もない筈だ。あるいは新しい隠れ先を見つけたか。
神様に言う? 何のつもりだ。気色の悪い感謝をされるよりは、単純に憎まれていた方がずっとましだ。
SYOU、わたしは愛する女の中でお前の命が育っていくのを見守らねばならない。それを禁じればあの女は命を絶つだろう。それだけは避けねばならない。だが、生涯の宝を与える代り、お前たちが二度と出会うことのない未来を用意する権利はもらおう。
さぞかし情け深い男と感謝されてもいるだろう、だが猫以上のものを与えることはできない。神などいない。リン、それをきみは生涯かけて学ばねばならない。
チョウはシーツの端をぐっと握りしめた。
神などいないのだ。