落花流水
社長からは、一週間の休みが寄越された。
「とにかくひとまずリセットしろ、そして休みが明けたら真っ白な状態になって出てこい」
伝言はそれだけだった。SYOUはありがたく好意を受けとり、食料を買い込むと部屋に閉じこもった。
窓脇のベッドに寝転ぶと、四角く切り取られた空ばかりが深く美しかった。思い出せば、昔自分一人では手に余るほど傷つくと、一人ぼっちの部屋でよくそうやって過ごしていた。飛行機雲、鳥、星に太陽に月、二十四時間をひと区切りとして明から暗へ、暗から明へ、自在に移り変わる窓枠の中のキャンバス。
「仰せに従って彼女の耳栓を取って会話した。ほかの客の情報とか余計なことは聞いてない。自分の不利をいとわないなら自由だと君は言ったよね」
「その通りです」
ハニー・ガーデンでの傷の男との会話が、留守電の再生のように耳元に蘇ってくる。
「じゃあこのことで彼女にペナルティが科せられるようなことは……」
「ありません。重要なのはここでの出来事に関するあなたの守秘義務のほうです」
「彼女はここから出られないのか。同じ境遇のほかの女性たちと同様に?」
「お分かりだと思いますが、そういうご質問には答えられません」
SYOUは表情の読めない、背の高い蒼白な男の顔を見つめた。
「彼女を憐れと思いますか」
逆に質問されて、SYOUはとまどった。言えることはひとつだけだった。
「ここにいるのが僕のせいだというなら、……ただ、残念だ」
男は口元を少し緩めると、言った。
「あなたはまたおいでになる」
「なぜそう言える」
「彼女を抱いて、二度来なかったお客はいません」
SYOUは顔を上げて、まじまじと男の顔を見た。
「申し遅れました、私はヤオ・シャンと申します。彼女を憐れにお思いになるなら、どうぞ、また当ガーデンにお越しください。なんの慰めもない人生に、あなたの存在だけが光になるでしょう。お次の機会には、リンが手塩にかけた空中庭園のお花も御覧に入れましょう。あなたが心から彼女を思ってくだされば、もしかしたら彼女の運命も変わるかもしれません」
謎のような言葉を繰り返し辿り、自分の鼓動のみを聞いているうち、体と体を起動させる脳味噌がすべての労働を拒否し始めた。何も考えたくない、忘れたい、ただ眠りたい。いつが始めとも終わりともつかない、散漫な眠りと覚醒。その繰り返しにゆっくりと全身が引き込まれてゆく。
悪夢は間断なく訪れた。
刺激には耐性があるほうだと自覚していた自分の心身にも、さすがに限度があったらしい。生々しい感触、破壊された感情、永遠とも思える時間の間ひしゃげていた自分自身、繰り返す痙攣と陽物と強制的なエクスタシーのイメージ、それはそのまま遠い過去の、同じ感覚の記憶へと数珠のようにつながってゆく。
こんなことぐらいで自分は変わらない、こんなことぐらいで。呪文のような言葉は自分の中に刻印されたものだった。そこに、あの声が響いてくる。
――SYOU、ゆずきしょうた。
たった十四で、母親と共謀して実の父親を殺した……
言われてみればその通りなのに、あのとき、聞いてびっくりしている自分自身にびっくりしていた。
……こんなことも自覚せずに、自分はのうのうと生きてきたのか。
事実、言われてみればその通り、自分は母親と共謀して父親を殺したのだ。そしてその父親も、良心のかけらもない人殺しだった。
だがどうすればこの宿命から逃れ出ることができたのだろう。明るい日差しの中で多くの人に囲まれているとなおさらに、薄い舞台装置を倒せばその向こうでぱっくりと口を開ける闇の気配をいつも感じていた。行き場はない。昔も今も。あさい夢の中で目を閉じて、この舞台からの出口を探す。
そのうち、あたまの中をひやひやとした何かが流れだした。その感覚の中に身を沈めていると、いつしか自分の体は丸ごと、その無音の流れの中にあった。
うすあおい、サファイア・ブルーの水が眼前を満たし、自分が見上げているのが水面だと知る。その水面に、どこかから降って来る、フランジパニに似た花がうすももいろの影を作る。ぽたり、ぽたり、ぽたり。ああ、自分は川の中を流れているのだ、と思う。
その画面の中に、やがてすうっと人影がさす。こちらに顔を向けて、目を閉じた全裸の髪の長い少女が、うつぶせで流れてくる。
……リン。
細い腕は流れに揺蕩い、ふわりふわりとこちらに延ばされている。蝋人形のような顔の周りを長い髪が生き物のように渦巻く。しばらく向き合いながら、ともに流れてゆく、その冷たい感覚。さあさあと頭の中で音がする。脳みそをながれる髄液、全身を巡る血液、神経の中の電気信号の、視覚と聴覚の幻。
ああ、流れる速さを、同じにしなければ。彼女と、この花ばなと。
水の外から、哀切な音色が流れてくる。……あれは、二胡に簫、それから、秦琴か。
楽団が近づいてくるように、音色はだんだん大きくなる。水面が急に明るくなり、きらきらと鮮やかな光が乱反射したと思うと、少女の体は材木のようにくるりと反転し、背中をこちらに向けた。あたりの花かたまりがはらはらと散華して薄紅が舞う。手を伸ばす、あれ、手がない。俺のからだはここにないのか。じゃあどこへ?
視界が揺らめいて、少女の体が消えると同時に音楽も止まった。
水面に向かって気持ちだけもがくうち、視線が一線を越えて、水の外に出た。
広い、広い川の上に、赤い提灯をずらずらと灯した祭り船が遠ざかってゆく。幽かに音色が聞こえてくる。リンはあの上に引き上げられたのか。呼ぼうにも実体のない自分からは声が出なかった。だめだ、もう届かない。薄い霧の中に船は消えてゆく。果ても見えない。視界はただ霧の中に滔滔と流れる川だけになった。
と、そのとき。遥か彼方から、ちいさな悲鳴のような鳴き声が聞こえてきた。
にぁーお。にぁーお。……にぁあああお。
……シャラ!
おまえ、どこにいる?
電話にもメールにも出なくなったSYOUを心配して北原哲夫が部屋を訪れたのは、休み明けを二日後に控えた午後だった。
生活感のない冷えた部屋のベッドにただ寝転がるSYOUを見て、彼は最初にそっと呼吸を確かめた。頬に触れ、名前を呼ぶと、SYOUはゆっくりと切れ長の目を開けた。そして眼前に大写しになっている哲夫の顔に眉をしかめ、また眠ろうとする。
「こら、寝るな。もう十分だろう」哲夫は頬を乱暴に叩いた。そして持参した栄養ドリンクやレトルト食品やから揚げやコロッケをサイドテーブルににずらずら並べてただ一言、
「食え」といった。
SYOUは一分ほどそれらを無言で眺めた後、
「……どうも」とひと言言って、まずスポーツドリンクを飲み、桃の缶詰から静かに食べ始めた。
「いつから食ってないんだ」
「よく覚えてない」
「あれからどこにもいってないのか」
「ずっとここにいた」
「病気か、お前。どうしたんだ」
「わからない、ただやたら眠くて、ずっと寝てた」
「………」
何も言わず事務的に食べ物を口に運ぶSYOUにひと言
「うまいか」と聞いてみると、
「今考えてるとこ」と言ってから、から揚げに手を伸ばした。
ひと口食べて、「あ、うまい」とつぶやいてSYOUが目を上げると、目の前の哲夫はろうそくを吹き消すような長いため息をついた。
久しぶりに顔を出してみれば、事務所はいつも通りだった。
音楽活動を止めた以外、キャンセルになった仕事も反故にされたものもなく、表面上は事件前と何も変わらずに時は流れていた。
イメージモデルをしているアパレルメーカーのキャンペーンの仕事、子供向けアニメのナレーション、雑誌のコラム、出演する携帯ドラマの下読み。
あの事件について、そして接待だの花園だのについて、社長ももちろんスタッフも口に出すことすらしない。あれほどの騒ぎが、SYOUにとっては、まるで自分の身にだけ起きたなにかの幻のように思えた。
変化は、SYOUが所属するレコード会社のHPから彼の名前が消え、かわりに鳴り物入りで伊藤詩織が音楽デビューしたことだった。事件後、怪我が癒えるとすぐ、あらかじめ準備されていた詩織の歌手活動は広範囲に展開され、SYOUの抜けた穴は順次詩織がカバーしていく形になった。
そのころからメディアで詩織の姿を見るたびに、SYOUの頭の中で能天気なBGMが流れるようになった。
オクラホマミキサー、別名、藁の中の七面鳥。
理由を考えて、思い当たったとたんSYOUは苦笑せずにはいられなかった。
ああ、そうか。……こいつは、幼稚園の「椅子取りゲーム」のとき、いつも流れていた曲だ。
「あっという間に、もうこんなですよ」
新入りのスタッフが抱えてきた段ボールには、歌手活動中止宣言をしてから倍に増えたファンレターやプリントアウトしたメールがどっさり入っていた。
「ありがとう」
ひとつひとつ手に取り、目を通してゆく。
どうして歌手やめちゃうんですか。続けてください。
一時的なものですよね? ただのお休みですよね?
ライブがなくなったら、直接会う機会が減っちゃう。寂しいです。寂しすぎます!
……あんな歌を、ほんとにそんなに聞きたいんだろうか。
ありがたい、済まないと感じると同時に、SYOUは他人事のようにそう思わずにはいられなかった。
簡単に受け入れられ、軽く消費されていくような、自分の歌はそんな口当たりのいいものだったんだろうか、本当に?
明日で世界が終わりでも、金かね金金金寄越せ――――!!
カバが死ぬ!カバが死ぬ!インドのどこかでカバが死ぬ!いないはずのカバが死ぬ!
バカの群れの中でカバが死ぬ!
棘のような視線だけを残して火を浴びて、この身を燃やせば思いはかなう……
「社長がお呼びです」
入って間もない、雑用係をおもにやらされている新人の女優が呼びに来た。手紙の束を置くと、無意識にカバの歌を口ずさみながら、SYOUは社長室に向かった。
「けっこうあれから頑張ってるな。で、CMの仕事が来てるんだが、今度は大手だぞ。風邪薬のS社と、外食産業のR」
赤ラークに火をつけながら、関岡社長はくぐもった声で言った。
「……すごい。……ですね」
あれは口約束ではなかった。自分のしたことがどこでどうつながって、その仕事をもたらしたのか、混乱する頭で追う間もなく、社長は言った。
「これからはますます身辺に気を付けて、騒ぎを起こさないようにしなくちゃな。まあ、ああいうことがあった後だからなおさら大丈夫だと信じてはいるが」
「……」
「どうした」
「それって、契約期間は……」
「どちらも一年」
SYOUはななめ上に視線を投げた。
「おい、何を考えてる」
視線をふっと社長に戻す。
「お前、まさか、一年以内にどうこう……とか考えてないだろうな」
「俺、芸能人に向いてないと思うんですよね」
「なんだ今さら」
SYOUはソファに背を持たせるようにして、真剣な顔で社長を見た。
「たくさんの手紙をもらっても、ありがたいとあまり思えない。最後の最後でも、やっぱり感慨も何もなかったんです」
「だから?」
「少人数のライブハウスで観客にダイブとかしてる時はあったんです。聞いてくれる側に届いてる、という一体感というか充実感が。でも、今は……。
人に金もらって生きる限りは、自分の歌を聞いたり芝居を観たりしてくれる不特定多数の人に対する基本的な愛情がなければだめだと思うんですよね。その人たちに大切な何かを届けたいという思いが。俺にはそれがない。資格がないと思う」
「そんなもんだ。お前は厳しすぎるんだよ、自分の感性に対して。ファンへの愛情なんて半分以上はフェイクでいいんだ」
「でも。……本当にファンのことを思って、愛情をもって接することのできる誠実なタレントもいる。いるんです。彼らにとっては、歌はファンへのプレゼントなんだ。でも……」
口を開いてから言いよどみ、SYOUは思い切ったように先を続けた。
「自分としては、自分の歌は、なんていうか自分のヤバい部分を恐れながら生きてきて、その解放区だった。そのままでは外に出せない、世界と自分とのずれに対する恐れと怒りというか。
愛とか絆とか理解という耳に優しいことばにいつも苛立ってて、それを自分語に作り替えて叩きつけてた。結局、自分の為のものだったんです」
「……で?」
だが芸能界という世界は何でも大口をあけて飲み込む。その歌を商品としてルックスとセットで取り込んだのちに、SYOUのイメージは一つのキャッチコピーに置き換えられた。
<かっこよくて危なそうで理解不能でステキ>
何をやっても歌ってみても、すべてはそのひとことに吸い取られてゆく。アイドルというオブラートが、自分を包み込んでどうしてもほどけてくれない。
どう装っても、過去は変えられないのに。
……だがそんな思いを受け取ってくれる気が、社長にはさらさらないのは表情を見れば明らかだった。SYOUはぽつりと言った。
「いつも、思ってた。
俺には、ここにいる資格がない。そういう身分じゃない。
……これ以上仕事を広げると、かえってまわりに迷惑をかけるような気がするんです」
社長はじっとSYOUを見ると、言った。
「もしかして、過去のことを気にしているのか」
「………」
社長は灰を落とすと、サングラスの向こうの目を和らげて言った。
「お前、勘違いしてないか? 自分を人殺しだとか人殺しの子だとか決めつけて、歪んだヒロイズムに酔ってないだろうな。
いいか、お前は当時十四歳だった、そして母親を拉致して連れ回していた犯罪者から母親を守ったんだ。それが事実だ。その男が血縁上のお前の父親だという確証もない。結果的にその男が命を落とすことになろうと、お前に罪はない。だから許された。一応隠してはあるが、メディアだって見て見ぬふりをしてくれている部分もある。世間の恨みを買って 餌食にならない限り、それはお前に対する刃にはならない。
いいか、愛されることだ。世間に愛されていれば、同じ過去でも世間は同情を持って見守る。叩かれる側になれば、それは付属物をつけた武器になる」
「………」
「一つ付け加えさせてもらえば、お前は事務所に与えた損害も忘れてはいないよな? それをきちんと返していくのがお前のこれからの義務じゃないのか。お前には自分でも自覚してない魅力と才能がまだまだある、それをこれからは生かして行け。特にCMはまたとないチャンスなんだから、きちんとこなせよ」
「……はい」
ぐうの音も出ないままSYOUは部屋を出た。そして足元を睨んだ。
……愛されろ?
愛することもできないのに?