夜明け
『宝琴。聞いてる?』
「聞いてる」
少女の声は少し震えていた。携帯を握る手の内側にみるみる汗が溜る。
『よし、じゃあ、順番が逆になるんだけどまずきみに大事なことを言おう。宝琴、頼みがあるんだ。きみにしかできないことだ』
宝琴の頬に血の気がぽっと灯るのを、詩織はじっと見ていた。
「……なんでもする。なんでもいって」
『とても難しくて、大事なことだよ』
「うん」
『周りに誰がいる?』
宝琴は周囲を改めて見廻した。非常口の内側には野次馬、それを除けば詩織と、奈津子と、正臣と……
「見てる人も入れるの? 名前がわからない人たち」
『関係ない人がいるのか。それはちょっと困るな』
宝琴は口元から携帯を離して、背後の野次馬を見やった。正臣は状況を察して、見物人に向かって言った。
「ご迷惑かけました、もう落ち着きましたから。今身内と電話中ですので、この場はそっとしてやってください」
ドアをそっと閉めると、踊り場には四人だけになった。
「いなくなった。いるのは詩織さんと奈津子さんと、正臣さん」宝琴は携帯に向かって淡々と言った。
『じゃあ、言おう。
本当はまず奈津子さんに言うつもりだった。
いいか、宝琴、よく聞いて。近々、きみの友達は解放される』
「ともだち?」
『前にきみに聞いた、ガーデンに幽閉されている少女たちだ』
「……」
『それも一か所だけじゃない。人数は結構なものになると思う。出てきても彼女たちは行き場がないし、国は守ってくれないだろう。きみが今陥っているような不安な気持ちに、きっと全員が落ち込むことになる』
「みんな? みんな、出してくれるの?」
『そうだよ、できるかどうかわからないけど』
宝琴は携帯を握ったまま息を弾ませた。
「本当に? どうしてそんなことができるの、誰がやるの?」
『それはあとだ。宝琴、きみは強くて優しい子だ。彼女たちが出てきたら、きみはみんなのリーダーになるんだ。
先の見えない不安に押しつぶされそうな子たちに、勇気を与えて励ましてあげるんだ。心ある大人たちがみんなの安住の地を用意してくれるまでね。
きみはここまでの日々を、いじけず諦めずに耐えてきた。それはもうそれだけですごいことだ。だからきっと、きみならできる』
宝琴は奈津子と詩織、正臣を順番に見上げた。そして携帯に口を近づけると、早口で言った。
「シャオランと、パイメイと、フェイフェイも助けてね。それから、いなくなった子も探して。マーマに会いたいって泣いてたユンと、それから」
奈津子と詩織は顔を見合わせた。携帯の向こうから、SYOUのかすかな声が聞こえた。
『わかった。そろそろ、奈津子さんに代わってくれるかな」
奈津子はしゃがんで携帯に耳を寄せた。宝琴はなかなか携帯を離そうとしない。
「SYOU、早く会いに来て、リンはどこなの。元気?」
『きみは今どこにいる?』
「ここは、えっと……」
「ちょっとごめんなさいね」
奈津子は汗で滑る宝琴の手からいとも簡単に携帯を取り上げた。
「晶太、わたしよ」
SYOUは一瞬言葉を詰まらせた。そして戸惑いながら、ゆっくりと言った。
『心配かけて……』
「当たり前よ」
奈津子は唇をかむと、下を向いて髪をかきあげた。それから、ふうっとひとつ深呼吸をすると、先を続けた。
「でも、信じてたわ。必ずまたこうして声が聞けるって」
『……うん』
また沈黙が会話を遮った。だが、長い時を埋めるための迂遠な会話をしている暇はなかった。
「晶太。わたしたち、あるホテルにいるの。あなたの為に何でもする覚悟のある人間が集まってるのよ。だから何でも教えて。いったい何をするつもりでいるの」
『たちって、そのために?』
「そうよ。北原哲夫さんから、そしてあなたの側に立つ覚悟の警察のかたからひととおりのことは聞いたわ。皆で情報を交換し合ってるの、だから隠さなきゃならないことは何もないのよ」
『……警察って言った?』
SYOUの声が一気に曇るのを、奈津子は感じた。無理もない。が、そこは信じてもらうしかなかった。
「ええ、だけどそれは」
『今そこにはいない?』
「ここにはいないわ」
しばらく、返事はなかった。小さなため息のようなものが聞こえて、SYOUの声が続いた。
『……ぼくがこれからしようとしていることは、道義的に後ろめたさはなくても、間違いなく法には触れることだ。この話がそのまま警察関係に漏れるならこれ以上は話せない』
奈津子は正臣の目を見た。正臣はSYOUの声が届くぎりぎりまで背をかがめた。
「あなたの不利になるようなことは話さないから。女の子たちを解放するという話と思っていいの?」
『……本当は会って話したいんだ。どうしても、奈津子さんとご主人の協力が必要になることだから』
「じゃあ、会いましょう」
『いや、会ってしまったら、そっちも知らなかったきかなかったじゃすまなくなる。これ以降は法治国家では許されない話になるから、よけいな既成事実は作らないほうがいいんだ。ちゃんとした仕事をしている人ならなおさら。だけど、どうしても確認しておきたい、いや、地にひれ伏しても頼みたいことが一つあるんです。ぼく個人ではどうにもならない」
「言って」
SYOUはゆっくりと息を吸い込んだ。
『……およそ国民の権利を守る国家がまったく守る気のない、もはや死んだことになっている少女たちの身を、国籍を超えて守りたい。できれば難民扱いにして、自由の国で難民認定した後国籍を与えてほしい。それができそうなポジションにいるのは、ぼくの知るところ、奈津子さんの……』
「なるほど、ぼくぐらいだな」
正臣が横から割って入った。
『あ』短く、SYOUは言った。
「久しぶりにきみの声が聞けた、まるで奇跡のようだね。さて、ずいぶん難題を抱えてるようだが、この話を聞くのはぼくのほうがいいんじゃないか」
『そう、なんですけど……』突然の真打登場に、SYOUは口ごもった。
「だがきみは会わないという。いやごめん、声が漏れ聞こえてた。さて、電話でイエスノーを言うような話かどうか」
『ごもっともです』
「答えはイエスだ」
SYOUは一瞬絶句した。奈津子は目を大きく見開いて正臣の顔を見ていた。
『……本当ですか』
「基本線はイエスだ。きみが何をするかは知らないが、国籍を持たない、人権をはく奪された子供たちが、ここ日本で路頭に迷うと言うのなら、そこに手を差し伸べるのはぼくの仕事だ。だがいいか、きみが何をするのかは知らないし知ろうとも思わない。だがもしも、その子たちが一気に路上に放り出される時が来たら連絡をくれ、拾いに行こう。車にひかれたら困るからね。ぼくができると言えるのはそれだけだ。だがそれ以上の話を、ぼくの妻にきかせないでほしい」
『ぼくはなにもいっていません』
「そうとも」
『あなたも』
「ああ、何も聞いていない」
ふたりは声をたてずに忍び笑いをかわした。正臣は横を見て気づいたように言った。
「詩織さんに代わろうか。口は閉じてるけど目でしゃべり出しそうだ」
『……え』
返事を待たずに正臣は詩織に携帯を渡した。
「SYOU」
『ああ』
「大丈夫なのね。無事なのね」
『こっちは大丈夫だ。本当に、いろいろとありがとう』
「今どこ」
『一応別の居場所を見つけた』
「そう、さすがね。でね、いろいろ連絡の必要があると思うんだけど、例の自動販売機。わかる?」
『ああ』
「基本、そこにドロップ(*)で」
『分かった』
「あとね、聞いていい? 彼女、は、その、……どうしたの」
『……』
「まさか、あなた……」
『きみはそのことは気にしなくていい』
「SYOU。何のためにあなたは今まで頑張ってきたの。あなたにとっていま一番大事なものは何?」
『会話もあまり長いと危険だ。切るよ』
「かわって。お願い」宝琴が隣で泣きそうな声を上げた。詩織は黙って、宝琴に携帯を渡した。
「SYOU、わたしがんばるから。きっとまた会えるよね」
『きっとだ』
「リンのことは、……あきらめちゃったの?」
『ぼくは何一つあきらめていないよ』
強い口調でSYOUは言った。
『なにひとつだ。だけど、確実に事を運ぼうとすると時間がかかる。今は言えないけれど、順々にやるべきことが目の前にあるんだ。ひとつひとつちゃんと片付けて、そしたら』
「そうしたら?」
宝琴の手元に、三人の視線が集中していた。
『きみたちの、……きみとリンの元へ辿りつくから、待っていて。あと、そこにいる全員に、心からの感謝を』
そのまま電話はぷつりと切れた。
遮光カーテンを引いた薄暗い室内で、SYOUは傍らの男に携帯を渡した。
「どうも」
「ああ」
「でそっちはどう、楊さん」
SYOUの言葉に、髪を短く刈り上げた目つきの鋭い男は、破れかけたソファに身を預けながら背後のひと形の毛布を見て言った。
「どうもこうもね、あんなの初めてだから、ああいう状態の人間を見るのは。なるようになるとしか言えないな」
そして米軍放出の保存食とかいうからし色の袋を破くと、クラッカーとチーズのようなものを皿に開けた。
「味に文句を言わなきゃこんなものは腐るほど入って来るんだ」
「もちろん文句を言える筋合いじゃない。ありがとう」
SYOUは背を丸めて埃臭いチーズを齧りながら、男が淹れたコーヒーを飲んだ。
「いろいろと順番が大事になって来るな。まず何から手を付ける」
男に話しかけられても、目の前のテーブルに広げられた地図を見ながら、SYOUは黙り込んでいた。
「どうした」
Tシャツの胸のあたりをぎゅっと握りしめ、SYOUは呻くように言った。
「いつも後になって気づく。言葉が足りなかったことに。感謝と、感謝と、謝罪と、感謝と、どれだけ積み重ねても足りないのに」
男は黙って、光るものの溜っているSYOUの目を見ると、コーヒーを啜って言った。
「胸のそこらへんに、なんかあったかいものが落ちてきたってわけか」
……リン。
きみが今泣いているか笑っているか、どんな心境でいるか。それを考えると、いやそれを考えるだけでひと晩はそれこそ泣きながら過ごせる。だが、こうして闇の底に向かって無限に堕ちてゆくような夜を迎えても、また朝が来る。
夜ではなくて、朝を数えよう。今できることは、それしかない。
ぼくは、ぼくたちは、決して孤独じゃない。
「あすの夜は来客がある。菊池という男だ、直接私の部屋へ通せ」
帰宅するなり、チョウは女中にそう言ってシャワールームに向かった。
いやな算段をすることになる。
かすかに気が進まない思いがするのは確かだが、障壁と思ったものはとり除く、それがいつも最良の道だった。
どうやら日本の警察の頑固頭の一部に尻尾を見抜かれているらしいあの男も、利用できるならこれが最後か。
雫の垂れる髪をタオルで拭いていると、廊下の奥から怒号と物が壊れる音が立て続けに響いてきた。チョウはガウンを羽織ると廊下に顔を出した。
「何事だ」
青い顔をして突っ立っている女中に聞く。
「リン様が……」
みなまで聞かず、チョウはリンの寝室に向けて廊下を走った。
部屋の中では椅子が倒れ、花瓶の花が散乱し、ランプが床に飛んでいた。床にボデイガードが一人倒れており、その上にジェイが馬乗りになっている。情緒不安定の反動で気絶でもするように長時間の異常な眠りに陥るようになっているリンは、ベッドの上で人形のように眠り込んでいた。
チョウはまずリンの元に駆け寄り、毛布をめくった。上半身はほぼ裸で、夜着は腰のあたりにぐしゃぐしゃに固まっており、真っ白な足はふとももからあらわになっていた。だが下着は身に着けている。
服を戻し、毛布をかけて頬を撫でると、チョウは静かに立ち上がった。
「そいつがやったのか」
「そうです」
ジェイは「そいつ」を組み敷いたまま静かに答えた。チョウは彼の膝の下で鼻血を出している青ざめた男の顔を見た。今夜部屋のガードを担当していたワン・シェンロン。食い詰めていたのを拾ってずいぶんと腕っぷしを買ってやったのに。
「何をしたか一応言え」
「……」
チョウは男の胸の上から降りた。シェンロンは唇をわななかせた。
「多少早めに帰ったのが予想外だったか。誰に手を出したと思ってる。気でも狂ったのか」
シェンロンは青い顔でチョウを見つめると、短く言った。
「死んでもいいと思ったのです」
「……そうか」
チョウはジェイに向かって掌を上にして手を出した。ジェイは懐の銃を渡した。
サプレッサー(減音器)を付けながら平坦な声で聞く。
「何か最後に言うことは」
男は唇から血をしたたらせながら震え声で答えた。
「……何一つときめきのない人生でした。あのかたに恋していた。本望です」
ぴたりと額に照準をあてると、男は目を閉じた。
鈍い銃声が部屋に響いた。二発、三発。ジェイはリンの顔を反対側に向けたまま、両手で耳を押さえていた。瞼を閉じたまま、リンは反応しなかった。
「ジェイ」
銃口を上に向けると、チョウは言った。
「こういうことはこれからもいやというほど続くだろう、それはそういう女だ。リンのガードはお前が担当しろ、二度と同じことを起こすな。故郷の親族の命が大事なら彼女を守れ」
「……はい」
「今夜はわたしがここにいる。それと、そいつの始末をしてこい。いつもの仕事だ」
「はい」
ほかのボディガードに手伝わせながらシーツでぐるぐる巻きにした男の骸を部屋の外に引きずり出すとき、振り向いた視界の端で、チョウはリンの手を握りながら顔を覗き込んでいた。泣いている、なぜかそう思った。自分が見る限り、ユェリンといるときのチョウは自分の知っているヤン・チョウではない。
深夜の高速を飛ばしながら、ジェイはあの禍々しい夜の光景を思い出していた。自分がへまをすると、チョウはいつも無理難題を押し付ける。あの夜もそうだった。例の遺体がちゃんとそこにあるかあるいは発見されたか確かめてこい。
遺体の遺棄はいつも自分の役目だった。はいと返事をして、あの夜もこんな風に国道を西へ進んだのだ。街灯の灯りとてない牧草地帯を走り、真っ黒な森へ向けてハンドルを切る。重い遺体袋を引きずった森。運ぶ時は二人、そのときはひとり。穴に落ちないで、夜の夜中にあの洞窟にたどり着くのは至難の業だ。
そのとき、森の入り口から誰かがこちらへやってくるのを見たのだ。ひと気のない百穴の森、しかも夜中。こんな時間に用があるのは同業者ぐらいだろう。思わず懐に手を入れた。
人影が、なにか重そうなものを引きずっているのはすぐにわかった。ゴルフバッグのようなものを抱えるようにして引きずるその姿は、あの夜の自分かと思われた。
まずいと思った瞬間、相手もまた自分に気づいたことに気づく。さあ、どうする。お互い同じ困惑を共有しながら、暗闇の中を静かに近づく。身を翻せば背中に銃弾が食い込まないとも限らない。
「やあ」
先に声をかけてきたのは相手だった。落ち着いた若者の声だ。
「この先は危ないよ。帰った方がいい」
「重そうだな、何を運んでいるんだ。手伝おうか」
真正面からたずねると、若者は下を向いて答えた。
「運んでるんじゃなくて、連れて帰ってるんだ」
「なにを」
「迷子になった友人を」
月が雲から出て目の前の男の顔を青く照らした。サングラスに隠されてはいるが、その青年の顔立ちの美しさに、ジェイは一瞬見とれ、そして驚愕していた。……まさか、もしかして、この男は。
「穴に落ちるなよ」青年は言うと、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎた。
「ヘイ」
ジェイは背中から呼びかけた。
「きみの大事なひとの消息を知ってる」
青年は振り向いた。
「……なんだって?」
「ここでのことはなかったことにしよう。その前提で、きみと話がしたい」
青年はいぶかしそうに尋ねた。
「あんた、誰だ?」
「隣の国のギャングの飼い犬だ。香港でチンピラをやっているときに拾われた」
青年はじっとジェイの顔を見た。その顔に向かって、ジェイは言った。
「世にも美しく、そして憐れな女の話を聞きたくないか」
「なぜその女のことを俺に話す」
「わたしは長いことギャングとともにいた、そして彼女を見てきた。ひと目見ただけで誰もが詩をささげたくなるような女だ。
あの痛々しい女はきみと共にこそあるべきだ。それとも、わたしは人違いをしているのだろうか」
青年は長いこと男の顔を見ると、言った。
「……いいや」
月はまたさっと雲に隠れた。
行き当たりばったりの暴力と無頼の日々で、運命とか宿命など信じたことも考えたこともなかった。だが、その夜の邂逅には月の光か精霊の気まぐれが絡んでいたのだろうか。流されるだけの日々に自分から印を立て、初めて立つ場所を決めた夜、あの青年との出会いは自分だけでなくたぶんまわりの流れを静かに変えたのだ。
(*)ドロップ……諜報部員の情報伝達の方法のひとつ。指定された場所にモノを置き、回収人がそれを回収する