宝琴、宝琴 (パオチン、パオチン)
老若男女の群れと、はためく赤い旗。
世界各地で突然始まった陽善功信者のデモのシュプレヒコールは、どこもおなじだった。
考虑月鈴。学习月鈴! (ユェリンを思い、彼女に倣え)
人々は手に手に少女の写真を、あるいは花を持って、時折沿道の子どもに一輪ずつ手渡しながら進んだ。肌の色も髪の色も違う人々が同じ名を呼ぶその声色には、抗議というよりも、同じ空を見ながら何かを探すような、何か郷愁を呼び覚ますような、そんな響きがあった。
「なんだかすごいわね、急に」
つけっぱなしのテレビから流れるCNNニュースに目をやりながら、奈津子は呟いた。床の上に広げたスーツケースに衣類を詰め込みながら、詩織も時々画面に目を走らせている。奈津子はもうじきこの部屋を去る彼女を前に、次の言葉を探していた。自分の部屋に引き取った宝琴は、昨日からほとんど口をきいてくれていない。
「ね、詩織さん。最後に宝琴に会ってくれる? あなたに捨てられた気持にならないように、よく言い含めてほしいの」
「それはもう言いました」
詩織の口調には、未練を断ち切って次に進もうとする者の淡々とした覚悟が漂っていた。
「あなたの急な出立は、このニュースがきっかけなの? ちらりと見た写真では、わたしはどこのお嬢さんかもわからなかったけれど、あなたはニュース画像の写真でもう、あれが彼女本人だと分かるのね」
日本ではほとんど報道されないそのデモの、きっかけとなったと言われている写真は、携帯で撮られた小さなものだった。少女の抱える男の顔はぼかしがいれられてよくわからない。
奈津子はSYOUが描いたという月鈴の肖像画を思い出しながら、自分にとってはまだ二次元である彼女と実際に会っている詩織の、その記憶を羨ましいと素直に思った。
「デモがきっかけというわけじゃなくて、ここを出るのはもう決めていたことなんです。でもあのひとは、たぶん余計に身を隠す必要が高まっているとは思うから……」
語尾を濁してスーツケースの蓋を閉めると、詩織は改めて奈津子を見て、頭を下げた。
「あなたという人がいて、本当によかったわ。あの子を、宝琴を、どうかよろしくお願いします」
「本当にもう会わないのね。なんだかひどく元気をなくして、眠ってばかりでろくに口をきいてくれないのよ」
詩織はかすかに目を伏せて、苦しげに言った。
「ごめんなさい。あの子のことは、どうかお願いしますとしか言えません。
宝琴は、辛い目に遭い続けてきたけれど本来、とても明るくて強い子なんです。そして、SYOUとリンのことが本当に好きでした。そしてそれは多分、わたしも同じだから」
そこで詩織はいったん口を切った。
「いまあの子が、誰とも話したくない気分なのはわかるんです。
でも、一緒にいてもあの子に何もしてあげられない。それに、わたしにはほかにすることがあるんです」
「その内容は教えてもらえないの?」
「……残念なんですけど」
詩織は目を伏せた。
「あの桜田門のかたがいらっしゃる限り、わたしは秘密会議にはもう参加できないと思う。
あの人は良心に従って動いているとわたしは信じているけれど、一方では逮捕状を取ってSYOUの手に手錠をかけられる存在でもあるでしょ。わたしが空間を共にできる相手ではないんです」
詩織はスーツケースに鍵をかけた。
「あなたのような人とご主人と彼が組めば、とても大きくて正しい力を手に入れることができると思う。どうか虐げられている人々を救ってください。でもわたしは、立場も生きる場所も違うんです。ここでお別れです」
奈津子はじっと詩織の顔を見た。
「……彼の側へ行くのね?」
言った直後に違和感があった。少し違う。
彼と、そしてリンの側?
あの、姿を消したまま民衆を動かしている幻影のような少女の?……
そのとき、ポケットの携帯が鳴った。取り出して画面を見る。
「主人だわ、ちょっとごめんなさい」奈津子は携帯を耳に当てた。
「はい、どうしたの?」
『すぐ部屋に来てくれ。宝琴がいなくなった』
「……えっ?」
切羽詰まった正臣の大きな声は、携帯越しに詩織の耳にもはっきりと届いていた。
「率直に見立てを言ってくれ、先生」
「妊娠経過のほうですか、それとも精神の」
「両方だ」
陳医師は愛用の古い聴診器を首からぶら下げたまま、背後のリンを振り向いた。少女は天蓋付きのベッドで目を閉じたまま人形のように動かずにいる。
「室内に引っ張り込んでもう五時間だが、ああして寝てばかりだ。昨日は散々わたしを罵倒した挙句平手打ちまで食らわしてきたのに、今日は朝から人形の振りか。これは自演か」
苛々とつま先を床に打ち付けるチョウを見ながら、医師は言った。
「抗議している最中に有無を言わさず手足を拘束されたり注射を打たれたりすれば、無力感にさいなまれて無反応になったとしても不思議はありません。しかも突然妊娠を知らされて、その子を望んでいないとあなたに宣言された。心境は十分お察しいただけるはずです」
「リンはわたしの話など聞いていなかった」
「そう見えただけです」
「泣きも笑いもせずこちらの汗を拭きにきたのだぞ、全身の毛を逆立てて逆上していた女が。わかりやすい懐柔策だ」
「そうお思いになるならどうしてそうお心を乱されるのです」
「いやなやつだな、あんたは」チョウは花瓶の紅薔薇の変色した葉をいきなり二枚、千切り捨てた。
「へそを曲げて正気に戻るのを拒否しているうち、あっちの世界に行ったきりにならないとも限らない。わたしは面倒くさい女はご免だ。まともに腹の子について話がしたい。だがどうせ目を覚ましても、こっちの鼻水を拭きに来るのがせいぜいだ」
「泣いたり笑ったりがお望みですか。朝、庭であのかたが取り乱しているのを見たときは随分と腹を立てておられたが」
医師を連れて庭に戻った時、リンは両手で顔を覆い、頬を涙で濡らしていた。チョウはボディガードのジェイを怒鳴りつけた。彼女になにをしたか言え。すると男は答えたのだ。いいえ、なにも。あなたがいままで彼女にしてきたようなことはなにも。
激昂したチョウは彼を三回、拳で殴りつけた。四発目の前にリンがその拳を両手で包んだ。チョウの、ジェイに対する怒りは頂点に達した。
きさまがとりあえず今日息ができるのはこの女のおかげだ。わたしに対して言ったことをこれから時間をかけて思い知らせてやる。……
「お話ができたとしてどうおっしゃるのです。出産を許可するのですか」
「妊娠三週と言ったな」
「おそらくはそのあたりかと」
チョウはまた薔薇の葉を毟り捨てた。
……一番厄介な子かもしれない。泣いていたのはそれを悟ったか。
「もし彼女が子を望んだとして、わたしが強制的に堕ろさせたらどうなる」
「多分、この状態から元には戻らないでしょうね」陳医師はじっとチョウの目に視線を留めた。
「今まで拝見したところ、我の強さと繊細さ、情深さを同時に過剰にお持ちの女性です。激昂も慈愛も、彼女の中に同時にあるものでしょう。けれど激しく両極に揺れる振り子は、ときに時計自体を壊してしまいます。おそらく、手に余る憎しみや怒りの感情の毒素から自分自身を救うために、マイナスの感情は捨てたのでしょう」
「捨てた?」
「あなたに室外にお控えいただいている間、わたしは質問しました。ヤン・チョウが憎いですか。……いいえ。言いたいことはありますか。……いいえ。望むことはありますか、生きたいと思いますか。これに対しては黙っていました。ではその子を産みたいと思いますか。そうしたら、瞼を閉じておっしゃいました。
……わたしはこの子とともにあります。
あのかたはあなたにやさしくなるでしょう。だが、憎しみを伴わないただのプラスの感情は、まやかしの甘さです。それが彼女の自衛策です。だとしても、自分の中のいのちをあなたの手で失ったら、見せかけの微笑みを残して中身が本当の空洞になってしまうかもしれません」
「……今度は脅しか」
「あのかたはもう十分追い詰められています。あなたとともにいなければ生きられない状況は十分わかっている。そのために捨てられる感情は捨てたのです。これ以上傷を与えても、双方にいい影響はないと存じます」
どいつもこいつも。チョウは口の中で言葉を噛み潰した。
どいつもこいつも背中から指をさしたがる。これっぽっちもこちらを必要としていない女を手に入れて何になるのだと笑っている。だがなにがわかる、わたしが手を尽したから彼女は生きてここにいるのだ、おそらくこれからも。
憎まれながらも守り続けるものの苦しみがわかるか。リンがともにいるのは赤ん坊ではない、その赤ん坊に命を繋いだ男の面影なのだ。
よかろう、わたしに極限までの寛大を強いるなら、それを見せてやろう。赤ん坊も抱かせてやろう。だがあの男だけは手に入れさせない。彼はわたしの力を彼女のために必要とした、だが、わたしにとって彼の存在は危険でしかない。生きていれば彼はいつかこの腕から彼女を奪いに来るだろう。
あの美しい瞳と唇を持った男の面影を、わたしの手で永遠のものにしてやろう。それでいいではないか。……それで。
「わかった、下がっていい」
まだ何か言いたげな陳医師に冷たい一瞥をくれると、老医師は頭を下げて部屋を下がった。
チョウは葉を毟り落とした薔薇を一輪摘み上げると、ベッドのリンに歩み寄った。
白い寝顔の上に薔薇を翳すと、紅色が頬に落ちた。チョウはリンの傍らに跪き、髪を撫でながら静かに語りかけた。
「……お前の望みはかなえよう。だが、ひとつ。
お前にやれるものは、ひとつだけだ」
ばさりと足元に落ちてきたウサギのぬいぐるみを見て、男性従業員は頭上を振り仰いだ。
従業員宿舎の四階の踊り場から、少女がこちらを見下ろしている。
薄汚れたぬいぐるみをつまみ上げると、彼は少女に向かって振って見せた。
「これ、落とした?」
少女は黙ってこちらに手を伸ばしている。
「どうした」
傍らの空間で煙草を吸っていた同僚が寄ってきた。
「あの子がこれを落としたようなんですよ。でも、変だな。お客が入るような場所じゃなし、誰かの家族かな」
「あちこち散歩してて迷い込んだんじゃないかな。この建物、本館の厨房裏でつながってるから」
ぬいぐるみを振りながら、男は叫んだ。
「持って行ってあげるよ。そこにいて」
少女はいきなり、踊り場の手すりに足をかけてよじ登った。
「おい、だめだ。ちょっと!」
休憩中の同僚が次々に寄ってきて上を見上げる中、少女は長い髪を垂らしながらこちらに身を乗り出した。
「誰か止めろ。様子が変だぞ!」
「上に行け、早く早く」
こちらを見上げながら大声で叫ぶ声のひとつひとつが、確かに聞きなれた日本語のはずなのに、全然意味が分からないのはどうしてだろう。きっとウサギが、小麗がさきにいっちゃったから。宝琴は地上の人々を見下ろしながら、ごく自然に二人の顔をその中に捜していた。
わたしが探しているように、あの二人もわたしを思っていてくれるかしら。探していてくれるかしら。もしかしたらもう死んでいるのかもしれない、だから迎えに来てくれないのかも知れない。でももう悲しくない、だってわたしの心も死んでいる。離れれば離れるほど死んでゆく。もう故郷も思い出せない、あそこはわたしの国じゃない。
わたしは葦の船に乗る、そして二人の元へ流れ着くんだ。
頭に血が下がるほど上半身を傾けると、地上から激しい悲鳴が上がった。
どうしてそんなに叫ぶの。小麗、今行くからね……
突然足首が誰かに乱暴につかまれ、すさまじい力で全身が床に引きずり落とされた。がつんと音がして頭に鈍い痛みが走り、男の怒号が閉じた瞼の上から降ってきた。
「何を、……何をするんだ!」
何か答えようとした顔は、そのまま誰かのやわらかい胸の中に抱き込まれた。宝琴が次に目を開けると、日焼けした中年男性と、ちょっと前まで同じ部屋にいたあの優しげな女性の顔があった。
鰻の入った卵焼きを食べろと自分に言ったひとと、その旦那さんだ。他人事のようにそう思った。女性は泣いていた。
「どうして、どうしてこんなことをするの。ああ、どうして……」
どうしてそんなに泣くの。わたしは二度も死んだ人間なのに。中国で、日本で、いなくなったことにされ、そのあとの時間は地獄だった。愛してくれた人はみな消える。日本の優しい女のひと、あなたはわたしのために泣く必要はないわ。見上げた先に、小麗を持った詩織が茫然と立っていた。
小麗、助かった。よかった。宝琴は矛盾した喜びを覚えていた。
「宝琴。死にたかったの? 本当に死にたかったの?」
「うん」
奈津子はその短い返事に、また少女を抱き込んでぼろぼろと涙を零した。
「どうしてなの。どうして」
「SYOUとリンがいない」
「わたしたちがいるわ。どうして信じてくれないの」
「誰もいなくていい。わたしは二人の子になる」
「なれないのよ、宝琴。死んだら人はそれでおしまいなのよ」
「明日なんて来なくていい。もう目が覚めるたびに泣くのはいや」
「あなたはもっともっとこれから幸せになるのよ。あなたを助けたがっている人はいっぱいいるのよ」
「そのあとできっとまた騙される。わたしにできることもしたいことも、もうないの」
「そんな気持ちに負けないで、宝琴。そんな人生でいいわけがないでしょう!」
やるせなさと憤りが塊になって胸を突き上げ、奈津子は少女の肩を持って激しく揺さぶった。
「その二人があなたを生かそうとどんなに頑張っていたか、わからないの。そんな死に方をして、一体誰が喜ぶと思うの。あなたをゴミのように扱ったひとでなしたちだけじゃないの!」
そのとき、足元に落としたままの携帯が震えた。宝琴の肩を掴んだまま、奈津子はぶるぶると体を震わせていた。詩織はしゃがみこむと、ウサギを宝琴に渡し、静かに言った。
「わたし、出ましょうか」
奈津子は返事をしなかった。詩織は携帯を拾い上げて発信者の名前を見た。
……SYOU。
詩織は細かく震えながら、携帯を耳に当てた。
「はい」
聞こえてきたのは、まぎれもない彼の声だった。
『奈津子さん。……で、いいのかな』
「違うわ」
数秒の沈黙のあと、戸惑った声が続いた。
『……詩織?』
何か察したように、奈津子と宝琴がこちらを見ている。
「そう」
『一緒にいるのか。……じゃあ、宝琴も』
「ここにいるわ」
『……ああ、よかった。元気?』
詩織は思わず目元を抑えた。そしてそのまま座り込んだ。
『どうした。何かあった?』
詩織は宝琴を見ながら言った。
「宝琴は、生きる力を失ってる。というより、あなたを見失ってる」
『……』
宝琴は食い入るようにこちらを見ている。その息が早くなっているのが、詩織にもわかる。
「話してやって。この子が生きていけるように、あなたの言葉を、声を聞かせてやって」
詩織はそのまま携帯を宝琴に渡した。
「SYOUよ」
左手にウサギの小麗を抱きしめたまま、右手に握った携帯を、宝琴は耳に押し付けた。
少しおいてあの懐かしい声が、遠いかなたから歌うように囁きかけた。
『宝琴、宝琴。……宝琴、ぼくだよ』
少女の答えは声にならず、ただ小さな吐息が、二人を繋ぐ空間を駆け抜けた。