わたしとおなじ夢を
怒りとも焦燥とも憐みともつかない複雑な感情は、実は彼には初めて経験するものだった。
いくら酒をあおっても自分の中の酷薄さと融和することのない、その厄介な感情をもてあまして安楽椅子から立ち上がることもできずにいるうち、薄い眠りの向こうに朝が来た。
荒れた胃をなだめようとミニクーラーからペリエを取り出したとき、胸の奥からなにか真空の塊のようなものがせり上がってきて、チョウは激しく咳込んだ。
咳をすればするほど次の咳が誘発される、その苦しさは、幼いころ彼を苦しめた小児ぜんそくを思い起こさせた。
吸っても吸っても空気が胸に入らない、いや、吸うことすらできない。
咳の嵐が過ぎ去って、ようやく額の汗をぬぐう。
……なんだ、いきなり。
そういえばあのころ、夜が来るのが怖かった。朝が来るのかどうかわからない、孤独な戦いの夜。幼い体で死と向き合った長い暗い夜。
まだぜいぜいといっている胸の内に冷えた水を流し込みながら、……なんだいきなり? の答えに、なんとなくチョウは行きあたった気がした。
……ああ、そうか。そういうことか。
わかっていたさ。
コップをとんとテーブルに置くと、チョウはため息をつきながら苦笑した。
……上等じゃないか。
その覚悟なくして、彼女を妻になどと考えた自分ではなかったさ。
アラカシ、ユズリハ、サルスベリ。
コの字型の建物に囲まれた中庭は背の高い木々に覆われて、昼なお深い緑の影を作り出していた。
枕木を敷き詰めたアウトサイドテラスの一角にパラソルとガーデンテーブルが置かれたスペースがあり、室内から運び出させたリクライニングチエァが置かれている。
ひときわ背の高いボディガードが、薄い綿毛布でくるまれた少女を横抱きにして芝生を横切り、パラソルの陰に腰を折って、チェアにそっとその体を横たえた。
目を閉じたままの少女の髪に、ほろほろとサルスベリの紅色の花が散る。男は指を伸ばして静かにその花をつまみ、風に吹かれる少女の長い睫を見た。
「どうなされました。お顔色が悪いですね」
老医師に言われて、チョウはテラスへの出口でふと笑って見せた。
「まわりの色合いのせいだろう。今年の夏は緑が一層濃いからな」
「妊娠の件、私からお伝えしますか」
「いい、わたしが話す。しばらく庭には寄るな」
淡々と言うと、チョウは女中から朝食の盆を受け取り、自らの手でテーブルに運んだ。ボディガードは頭を下げると、そのまま室内に下がっていった。
がちゃん、という軽い音にリンは細く目を開け、チョウが並べる銀のコーヒーサーバーやオレンジジュースのコップ、ドライフルーツ入りのシリアルを見た。そしてまた目を閉じる。……また開ける。
その焦点はパラソルの向こう、青い虚空のどこかに捉えどころなく投げ出されていた。
「何か食べられるものはあるか」
できるだけ優しい声で聞いてみたが、視線は空に散ったままだ。
昨夜の絶叫から打って変わって、すべての感情を投げ出してしまったかのようなリンの頬には何の表情も怒りも悲しみもなく、まるでこの世の外に自分自身を放り出してしまったような風情だった。薄いひざ掛けの上に置かれた手首に、うっすらと拘束の跡があった。
「昨夜は、……悪かった」
チョウはその手首にそっと手を添えた。
「きみを手に入れたら自分がどうなるか分かっていたつもりで、さらにコントロールできるつもりでいた。浅はかにも」
リンはまた瞼を閉じた。長い睫が風にそよいだ。
「……昨夜、喘息の発作のようなものを起こした」
チョウは独り言のように語りながら、熱いコーヒーをカップに注いだ。
「小さいころは発作の連続だった。母親は向こう気の強い人で、甘えがあるから病気に負けるのだとしかいってくれなかったよ。それで、死ぬときはひとりで死ぬんだと思ったし、布団を掴んで泣いた夜もある、怖くてね。それでも、もう息ができないという状態で目を開けると、けっこう母親と医者がぼくを見守ってくれてるんだ。
男出入りの派手な母親が愛人と酒を飲みに外に出た夜、酷い発作を起こした。家に誰もいなかった。 ベッドでのたうちまわって汗まみれになって、どうもがいても息ができず、ああ終わりだと思った。死ぬのは怖くなかったが、一人ぼっちが寂しかった」
リンはまた薄く目を開けて、パラソルの内側を見ていた。
「意識が薄れてきたとき、足首を掴む誰かの手を感じた。冷たくはない、温かいんだ。人の体温があった、でも人でないのはわかったから目を開けなかった。開けたらもっていかれるのがわかっていた。
しばらくして耳元で声がした。
かわいい子。……今は、やめるわ。
そのときぼくは、うっかり目を開けたんだ」
チョウは、こちらをみないリンの顔を見た。
「今までこのことをすっかり忘れていた。……正確に言えば、昨夜まで。
そして今でも、その顔を思い出せない。思い出せないが、きみと寸分違うところがあったとも思えない。どうだ、面白いか?」
リンの目がふとこちらを見たその瞬間、またあの真空がせり上がってきたのをチョウは感じた。
カップから手を離し、体を折り曲げて咳込む。気管の奥がどんどん閉じて、呼気も吸気もすべてを拒否する、なのに咳の衝動は止まらない。
右手が虚空を掴み、指の先のコーヒーカップがテーブルから落ちる。一輪挿しの薔薇も落ちる。呼気の代わりに、ぜーという音が胸の奥から響いた。もうなにもない、胸の中には、なにも。
リンが身を起こして、こちらを見ている。
それを霞む目でとらえたとき、すっと空気が胸に入ってきた。
吸える、吐ける。呼吸ができる。これで生きられる。幼いころ、この空気がどんなに甘かったか。
チョウは首を上げると、遠くからこちらに向かってこようとしているガードマンを制した。そして、喉の潰れたような声でリンに言った。
「今ならその指先ひとつでわたしを殺せるかもしれないぞ。やってみるか?」
リンの右手がゆっくりとテーブルの上の何かをつかんだ。ナイフか、フォークか。どちらにしても、本望だ。やるなら心臓をひと突きで来い。
リンが拾い上げたのは、白い紙ナプキンだった。
細い指さきでそれを丸めると、左手を優しくチョウの顎に添え、右手で額の汗を拭った。
撫でるように、軽くたたくように、それはまるで母親が、幼い子供にするように。
チョウは絶句した。そして、慈愛のほかは何もない、リンの静かな瞳を眺めた。
ため息に乗せるように、かすれた声が出ていた。
「きみは……」
チョウはリンの手首をつかんだ。
「きみは妊娠している」
額を撫でる紙ナプキンの動きは、止まらなかった。
「リン。きみは妊娠しているんだ。
何か月か詳しいことは今は言わない、二か月以内だとは言っておこう。
ガーデンにいたころ、客ではなく接待側が薬で避妊していた、そういう決まりだった。だが、きみはその薬を隠れて捨てていたとうわさで聞いた。
中国にいたころから、きみは子どもがほしい、母親になりたいと言い続けていたとも聞く。何とも気の知れない話だと思った、好きな男がいるのに誰の子でもいいとは、まるで動物か猫の子だ。薬を捨てさえしなければ、たとえ妊娠しても、誰の子か特定できたろうに。
だがわたしにとっては同じことだ、事実は一つ、それはわたしの子じゃない。わたしの知らない男の子どもでその腹が膨れていくのを、わたしが受け入れる義理は何ひとつない。そうだろう」
そのあとの彼女の反応は、チョウのどんな予想とも違っていた。
涙も驚愕もなく、ただその汗を拭きつづけたのだ。
そして湿った紙ナプキンをテーブルの上に置くと、新しいナプキンに手を伸ばした。
「リン! 聞いているのか?」
思わずその手を押しとどめて、チョウは叫んだ。
「わたしの言うことがわかるか? きみは妊娠していると言ってるんだ!」
リンは黙ってこちらを見ている。
「わたしの子じゃない、それだけが事実だ。だが半分はきみの血でできた子だ。それがもしわたしの子なら、どんなに可愛がっただろう。世界中で一番幸せにしてやろうと、すべての情熱を傾けただろう。だがわたしの子じゃない。きみに群がったろくでなしどもかあるいは思い人か、どうしてきみは……」
リンはナプキンを握った手を、まっすぐこちらに伸ばしてきた。そしてその先を、チョウの頬に当てた。
ひと筋の涙を、薄い紙が優しく拭き取った。
「ジェイ!」
庭の隅に控えていたボディガードが駆け寄ってきた。
背後を振り向かないまま、チョウは大声で言った。
「ここにいて彼女を見てろ、テーブルのフォークとナイフは全部片付けろ。わたしは陳先生を呼んでくる」
「はい」
チョウはリンの髪に手を伸ばし、からまった薄紅の花屑をつまんだ。そしてくるりと背を向けると、芝生を横切って邸内に駆け込んだ。
ジェイと呼ばれたボディガードはその姿を見送ると、背をかがめてそっとリンの耳元に口をつけた。
「私はジェイ、ジェイ・チャンといいます。大事なことをお話しするのでそのままお聞きください。『あのかた』からの伝言です」
リンの瞳が明らかな意思を持ってジェイを見た。ジェイは表情を変えぬまま伝えた。
「辛すぎるときは、辛いことを考えないで。きみの心が君を殺すなら、悲しみはよそに置いて、その体を安らがせてくれ。ぼくはいつもきみとともにある。いつか力をためてきみを解放する。けれどたとえすべての可能性と希望が失われることがあっても、最後の最後にぼくらは永遠の時の中で合える。きみはひとりじゃない」
ジェイはそっとその手をリンの腹の上に置いて、繰り返した。
「きみはひとりじゃない」
みるみるリンの目に涙が膨れ上がり、頬を転がり落ちた。そして一言つぶやいた。
「……SYOU」
「ええ、会いました」
「どこで」
「それは言えません。だが、信じてください」
感情を閉じていたリンが、震える視線で空を見、あたりを見廻し、両手で腹を探った。また風が吹いて、頭上のサルスベリが花屑を落とした。リンは急激に荒くなってゆく呼吸の中で、無慈悲な男の言葉を、初めて聞くように思い起こしていた。
好きな男がいるのに誰の子でもいいとは、まるで動物か猫の子だ。薬を捨てさえしなければ、たとえ妊娠しても、誰の子か特定できたろうに。
愛し合うことの本当の意味を知るまでは、それでもいいと思っていた。猫の子と言われようと。なぜかはわからない、そうしなければと思っていた。
でも、……ああ。
いまになって、頬に傷のある男の寂しげな面影が頭に浮かぶ。
あなたが。
あなたが今、確実に教えてくれる。ヤオ・シャン。
お腹の子は確実にSYOUの子なのだと。
あの埠頭で海に向かって疾走した自分を、その下腹を、あなたはあの夜、失神するほどの勢いで殴りつけた。
流れる子ならあの時流れている。
これは彼の子。ヤオはあのとき、自分が混乱した過去を未来に引きずる可能性を海に捨てさせたのだ。
誰の子かわからないだろう、という言葉でこの子をあきらめさせようとしているけれど、チョウは妊娠週数を知っていて、自分に言わないのだ。言えばSYOUの子だと自分が特定してしまうかもしれないから。
けれどもう、誰も憎まない。憎しみという猛毒は、体の中から自分を焼き尽くすだけ。
こんなこころでは、もう一日も生きられない。
……辛すぎるときは、辛いことを考えないで。きみの心が君を殺すなら、悲しみはよそに置いて、その体を安らがせて……
そうするわ、愛する人。そして生きる、自分にできることはもう、愛することと祈ることだけ。
あなたはわたしに願い事を尋ねた、そしてそれをかなえてくれた。
どうかあなたも祈っていて。
この小さな可能性が、小さな光が、これから先もこの世の片隅に灯りつづけることを、運命が許してくれますように。
わたしのこころは死ぬかもしれない、この体は人形のように放り出されるかもしれない。それでも育つものがある。わたしとあなたが愛し合ったという確実な証拠。
愛しているわ、SYOU。
ときどきは、わたしとおなじ夢を見ましょうね……