カオル―・ユェリン
顔を上げて時計の針を見る。
午前零時。
リンが到着した、とその邸宅の二階の書斎で知らせを受けてから、もう三時間以上が過ぎていた。いや、正確にはその高窓のレースのカーテン越しに見てから、三時間。
事業が失敗して借金のかたにこの豪邸を手放した某社長は、家の名義が書き換わったころに自殺した。彼が薬をあおったこの部屋は、イギリスのテューダー朝の建築形式をかなり正確に再現した、趣のあるいい部屋だ。
手の中でぐるぐる回していたブランデーをひと口含んだとき、ドアが鳴った。
「入れ」
痩せた女中が顔をのぞかせ、中国語で言った。
「すべてお済みです」
「そうか。では行こう」
チョウはデスクの上の黒いノートパソコンをぱたりと閉じると、脇に抱えて部屋を出た。
ぎしぎしと足元の板を鳴らして、黒光りする階段を下りる。
自分を殺すと息巻いている愛しい女の元に足を運ぶこのときめきを誰が知るだろう。無慈悲な王のもとに進む忠実な臣下のような、比べるものとてない美味な果実を世界で最初に味わう美食家のような、美しい断崖に向かって足を運ぶ殉教者のような、全身の細胞を震わせる歓喜と畏れが、頭頂部から踵までを真っ直線に貫いていた。
ダークブラウンに光るオークのドアを恭しくノックして、その両側に控えるボディガード二人を下がらせる。
「大丈夫だ。行け」
「本当にいいんですか」
「そこにいてひと晩中女の嬌声のお零れにでもにあずかりたいか」
リンの殺意を十分に嗅ぎ取っているボディガードはなかなか離れようとしなかったが、チョウに手で追い払われて仕方なく廊下の隅まで退却した。
両手でドアを開ける。
「ライト、BGM」
英語で言いながら後ろ手にドアを閉める。次に中国語で
「そして拍手」
呆れたような表情のリンが、肩の大きく開いたワインレッドのドレスに身を包んで、ヴィクトリア朝のソファからこちらを見ていた。
白い肌には薄く香水がふりまかれ、プロの手で念入りに化粧を施されている。背にした高窓に下がるモスグリーンのベルベットのカーテンが、そのあでやかな装いを一層際立たせていた。
ソファの両脇には景徳鎮の花器が一対、百合と薔薇と芍薬とカラーがもつれ合うようにして色彩を競っている。その狂おしいような香りの間にあって、絹のように滑らかな髪を肩に落とす少女の瞳は、いつにもまして深い怒りに煌いていた。
チョウは静かに両手を広げて、今日初めて着る、細身仕立ての濃紺のスーツを見せた。
「世界中のどんな女優も今夜のきみには敵うまい。
きみのドレスに合わせて選んだ。どうだ」
リンはこちらを睨んだままひとことこも答えなかった。
かすかに背筋を伸ばす少女の豊かな胸元で、無数のルビーを螺旋状にねじりあげたネックレスが揺れた。
「よく自分から連絡を寄越した。その勇気と判断がどれだけ正しかったか、きみは日を追うにつれ確認していくことだろう」
「どうしてわたしをこんな目に遭わせるの」
「こんな目? 何か失礼をしたかな」
リンは長い睫に烟る目で、チョウを睨みながら続けた。
「閉じ込められるのはいい。女の人たちがわたしをお風呂で無理やり洗うのも、お化粧されるのも仕方ない。でも、どうしていきなり健康診断みたいなことをするの」
「丁寧だろう。人間ドックの一日コースダイジェスト版だ」
「わたしが健康であろうとなかろうと、あなたに何の関係がある?」
「婦人科の検診がお気に召さなかったか。きみには健康に長生きしてもらわなければならないからな。つまらない逃避行に時間を費やして、どこで寝て何を食ったか知れたものではない。きちんと綺麗な体になって、いらぬ病原菌は落として、生まれ変わってわたしの元で暮らしてもらわねばならない。大事な妻として」
リンはわずかに口を開けて目を見開いた。両手を上げて胸の前で合わせるようにすると、その谷間で揺れるネックレスを握りしめる。
「……なんですって?」
「言っただろう。わたしの妻は健康で、かつ清潔でなくてはならない」
「冗談でしょう」
「きみはわたしの妻だ。もう何の不自由も不安も恐怖もない生活がきみを待っている。随分遠回りをしたものだな」
チョウはソファの正面のオークのテーブルに持参したパソコンを置き、広げてスタートボタンを押した。軽やかな起動音を聞きながら、リンは怒りに唇を震わせた。
「力づくでできることと、できないことがある。あなたはまったく勘違いをしている」
「いまさら勘違っていることなどないつもりだが」
「わたしの心がだれにあるかわかっていて、そんなくだらないことが言えるの」
パソコン画面が点灯し、孔雀や鸚鵡の壁紙が輝く。チョウのクリック一つで、次にSYOUの画像が画面に浮かんだ。ステージに座り、マイクを持つ、汗にまみれたタンクトップ姿の彼。チョウは動画をスタートさせた。
「彼は確かにいい男だ。わたしを抜きにすれば少しはきみに相応しい」
「やめて」リンは叫んだ。
「あなたなんかと見たくない。消して」
「無粋なことを言うものだ。二人の夜を見守ってもらうおうと思ったのに」
リンは立ち上がると手を伸ばしてノートパソコンを払い飛ばした。その手首をつかみ、チョウは広いソファーの上に体ごとリンを押さえつけた。
リンは息を弾ませながら、チョウの下からその顔を睨みつけた。
「誰が清潔好きですって。あれだけのことをしておいて」
「ああ、わたしが美しいものの血が好きだという趣味を、彼の前で隠すのに苦労したよ。もし自分の血でなければ、こんな風にのしかかられてかわす血の契りもそれなりに堪能できただろう」
「?」
リンは眉をひそめてチョウの目を見た。だがくだらない戯言に振り回されている場合ではない、という思いが些細な疑問を拭き消し、ただこの嘘つきでおしゃべりな男の身体の下から逃れ出ようと空しくもがいた。
「わたしが今夜きみを抱いたら、朝には寝首をかかれているのかな」
「やってごらんなさい。そんなに好きにしたいなら先にわたしを死体にすればいいわ」
「死体になったきみになど興味はない」
「あなたは月に一度しかわたしの元に来なかった。月に一度しか興味の対象にならなかったからよ。文字通り血に飢えた狼のような男、SYOUがあなたの性癖を知っていたらわたしをあなたに守らせようなんて考えたはずがない。ましてや妻なんて」
「きみの血も、彼の血も、十分に美しい。狼などにその美と価値はわかるものではない。わたしは果報者だ」
そのままチョウは無慈悲に体重を乗せながら真紅の唇に自分の唇を重ね、背骨を折ろうかというような勢いで少女の背を抱きしめた。抵抗するどころか上半身の骨がバラバラに砕けるような苦痛に、リンは思わず背をのけぞらせた。
チョウがわずかに力を抜くと、リンは荒い息の下から悪魔に憑りつかれたリーガンのような声を出した。
「あなたがいつもしてきたように、殺せ。殺してから犯せばいい。切り刻んで流れる血でも眺めていればいい。
そちらがそうしないならわたしが殺してやる」
ゆっくりと身を起こすと、手を振り上げてチョウはリンの頬を二度、したたかに張った。
「下品な物言いをするんじゃない。きみはわたしの奥津城の姫君なのに」
無抵抗の少女の頬は赤く脹れ、美しい双眸に涙が滲んだ。
チョウは赤く染まった少女の頬を両手で包むと、ため息をつき、俯いて首を振った。リンの唇の端は薄く切れ、血がにじんでいた。指でその血を拭うと自分の舌に乗せ、チョウは指で少女の乱れた髪をかきあげた。リンは震えながら目をそらせた。
「……リン、わたしを愛せ。
愛するんだ。
きみにはそれしかない。
わたしの正式の妻になれば、誰もきみに手を出せない。中国なんぞとは縁を切ってやる、マレーシアに事業の拠点を移せばあんな国とも何の縁もない。きみは富豪の妻になるんだ。
わたしに、きみを幸せにする権利をくれ」
眠る前の子どもに囁くような、低い優しい声だった。リンは痛みににじんだ涙を止めようと試みたが、膨れ上がる悔しさと悲しさに眼尻から次々に涙が零れ落ちた。
「わたしはあなたが好きだった」
声を詰まらせながら、リンはチョウの目に向かって言った。
「あなたが本当に好きだった。やさしいチョウおじさん。父と仲が良くて礼儀正しくて、いつもわたしに美味しいお土産をくれた、肩車もしてくれた、いろんな歌を教えてくれた。わたしは安心してあなたの膝に座っていた。ほかの男たちとは違うと信じていたのに。大好きだったのに」
チョウは口を真一文字に閉じると、胸をせわしなく上下させるリンの悲しみを見つめた。そしてその髪に手を添えると、静かに言った。
「……全部きみが悪いのだ」
そして身を起こすと床のノートパソコンを拾い上げ、またテーブルに置き直した。
「きみを知り、きみの虜になる男たちに罪はない。心の問題も欲望の本能もどうしようもない、それはもともと神が仕掛けたシステムだ。望んだ成り行きかどうかはしらないが、男たちの欲望を吸い取り復讐に利用しながらきみもそれなりに楽しんだ、わたしはそれを知っている。わたしたちはいわば共犯者だ」
リンはソファに身を起こしながら、慈悲の欠片もない物言いに絶句していた。何か言い返そうにも、何の言葉も見つからなかった。
「そして今や、きみの魔力は手も触れなかった人民たちにも及んでいる」
チョウは再び画面を起動させた。
「考虑月鈴。リンを思え。世界各地に散った陽善功の信者の間で、姿を隠した黄大千に代り、苦難に負けず戦っている娘の勇気に学べというムーブメントが急激に起きつつある。ある画像ひとつで」
「画像?」
そしてパソコンの画面に浮かび上がった一枚の写真に、リンは危うく叫び声を上げそうになった。
冷たい土くれと岩の上に横たわる髭面の汚れた男を抱え込み、こちらを睨む自分の画像。その下のあおり文字。
考虑月鈴。
男の目にはぼかしが入っていたが、リンの燃えるような瞳は美しい獣のように光り輝いていた。
「どこかから出てきたこの貴重な写真を、誰ともわからぬものがネットで配信した。行方をくらました陽善功の教祖に代り、その娘が今も地下で信者のために命をかけて戦っていると。彼女はけっして信者を見捨てないと。
そのメッセージとこの写真に奮い立ち、世界各地でコロニーをつくって教えと指示を待っていた信者がその日から結束し、立ち上がりつつある」
リンは震えながら、その画像がアップされている動画サイトのコメントを見た。さまざまな国の言語で、それは書かれていた。
……わたしたちは見捨てられていない。
……月鈴様がともにいてくれる。ともに苦しんでくれている。
……カオル―・ユェリン。同志よ、結束しよう。希望の女神がここにいる。
……大陸を捨てよ、彼女がいる限りわたしたちの希望は世界中にある!
「きみがわたしを殺し、そののちに自らも絶命しようとしていることなどとうに知っている。だがすでに、きみの命は彼らの希望だ。死ぬことなど許されない」
リンは大きく胸を上下させながら、ゆっくりと首を振った。そして激情を抑え、息を整えると、静かに言った。
「……あなたが、これを流したの」
「どこかの誰かと言っただろう」
「自分で殺した男を、殉教した信者に仕立て上げたのね」
「世界中に散った何千万の信者がきみを思い、希望を蓄えている。素晴らしいことじゃないか。きみの身はもうきみ一人のものじゃない。中国政府にしても、国内で脅威になるのでないかぎりきみが何の中心に立とうともう興味はない話だ。わたしとともに早々に海を渡ろう。新天地へ向けて」
動きと表情を止めていたリンが、いきなり飛び上がるようにチョウに掴みかかり、平手打ちを食らわした。ふたたびパソコンが床に落ち、花器が倒れて派手な音を上げた。床にできた水たまりに花々が四散し、その上にチョウとリンはもつれあいながら倒れた。二発目を食らわそうと振り上げたリンの細腕をチョウが下から掴んだとき、ノックとともにドアが開いた。
「構うな」目だけ横に向けてチョウは言った。
「いえ、緊急の伝達もございますので」
ボディガードの男は横たわったチョウと彼にのしかかるリンにずかずかと近寄り、あっさりと引き離して少女の細身を片手に抱え込んだ。
「嘘つき、卑怯者。ワカミヤに謝れ。彼の死を、彼を利用したお前を一生許さない。彼の命に謝れ。魂に謝れ!」まるで男のような声で、リンは髪を振り乱して叫んだ。
「拘束しますか」
「これ以上景徳鎮を壊されるのも困るからな。手足を縛ったうえで快眠を約束する薬でも差し上げといてくれ」
そういってから、チョウは付け加えた。
「大事な奥方だからな。くれぐれも大事に扱って、跡など残らぬように」
「わかりました」
ジェイは戸口に控えているもう一人のボディガードと、白衣の老医師のほうを振り向いて手招きした。うつ伏せにソファに抑えつけられたリンに向かい、老医師は言った。
「大人しくなさい、なるたけ薬は使いたくない。もう暴れませんね」
「こっちを向け!」
医者の肩越しに、自分に背を向けているチョウに向かって、リンは絶叫した。
「お前はわたしをSYOUから引き離し、わたしを守ろうとした彼の友人を殺した。わたしを癒した医者も殺した。ヤオも殺した。わたしと父を信じるたくさんの人を殺した。わたしの幸せを心から願ったのはSYOUひとり、お前じゃない。そのSYOUをお前は騙した。お前は一生わたしを自分の玩具にするために閉じ込める、そして死を禁じる。お前の嘘のためになんか生きたくない。あの人たちに希望を、夢を、与えるだけ与えて放りだしてまた絶望させるのか、わたしの名前で!」
「仕方がないですな」
ため息とともに呟くと、医師はケースから出した注射器を、片手でさっさと消毒したリンの上腕部に突き立てた。そして急に動きを止めた体をボディガードに預けると、チョウに目くばせした。
「少しあちらで」
天蓋付きのベッドに少女を横たえるジェイをちらりと見ると、チョウは医師と連れだって続きの間に移動した。
「……もう少し、あとほんのちょっとは大人しい女だと思っていた」
壁を埋め尽くす書架を眺めながら、チョウは苦笑した。リンのために選び抜いた写真集や画集、童話に名作文学、百科事典が背表紙を見せてずらりと並べられている。黙ったままの老医師を振り向くと、チョウは眉をひそめて言った。
「で、なんですか。陳先生」
老医師はこほんと咳をすると、声をひそめて言った。
「申し上げにくいのですが、黄月鈴様は妊娠なさっています」
チョウは懐から取り出しかけた煙草を、指に挟んだまま下に向けた。
「……何と言った?」
「妊娠されています、まず間違いありません。まだごく初期ですが、一番不安定な時期でもあります。出産を望まれるなら、あまり興奮されるのは何よりよくないと」
「誰の」
いいかけてチョウははっとした表情になった。
「……わかるわけがないな」
「どうされます。処置しますか」
チョウは手の中の煙草を見ると、いきなり握りつぶし、呻いた。
「誰の子かなどわかるものか、だがわたしの子ではないことだけは確かだ。
もっと早くわたしだけのものになっていれば。
……憐れな女だ」