ロシアン・ルーレット
奈津子夫妻と詩織たちは、前日ともにとるはずだった夕食の場を、日延べしたうえホテルから外の料理店に移した。会員制ホテルに入ることのできない客が二人増えたせいだ。
SYOUの消息について突然奈津子に電話をかけてきた北原哲夫と、櫻田敏明。櫻田は本庁の仕事を済ませてから急ぎで駆けつけての参加だった。
完全個室の日本料理店で、大きな樫のテーブルを挟み、詩織の右隣に宝琴が座り、左に北原哲夫。向かいには奈津子、正臣、そして櫻田。
SYOUとそして彼が守ろうとしているものについて、一番大事な機密を守れるもの。そう全員がお互いを信じることのできるメンバーのみが、その夜、一堂に会した。
「とにもかくにも、この状況で彼のために体を張れるメンバーがこれだけいるっていうのが晶太君の強みだな」顔ぶれを見渡して、正臣は感心したように言った。
「本当はそのことを一番、本人に知っておいてほしいと思うの。状況がどんなに厳しくても、これだけ身近な人間が彼の力になりたがっているという事実を。決してひとりじゃないってことを」
奈津子が言うと、向かいの哲夫が深く頷いた。
「本来なら事務所の社長も同席させていただきたいところなんですが、なにぶんお嬢さんの男性耐性度上限を超えると言うことで」
「男性耐性度?」不思議そうな顔で、櫻田が哲夫を見た。
「わたしがお願いしたんです。宝琴は拉致されてからのつらい体験で男性の集団そのものが脅威なんです。これ以上の人数と同じ場所にいるのは無理ですから」
宝琴の背に手を添えて、詩織が言った。
「それにしてもお嬢ちゃん、いろいろあったのによくあのホテル滞在に必要な身分証明を持っていたね」
櫻田は一度出した煙草をひっこめながら、早速質問に仕事色をにじませた。
宝琴は、初めて見る年配の刑事に向かい、小声で答えた。
「リン……が、あとで渡してくれたの。……子さんから預かったって」
「誰?」
宝琴は答えず俯いた。
「その証明書、……パスポートかな? はいまあるかな。何色か見たいんだけど、よければちょっと見せてくれる?」
いきなり手を出されて、宝琴は詩織の背後に隠れるようにした。詩織は体で少女をかばいながら櫻田を睨んだ。
「ちょっと、あまり無神経な扱いしないでくださいね。あなたがどういう方かは奈津子さんから聞いたけれど、この子はあなたをまだ信用しきってるわけじゃないんですから」
「これはすみません、つい職業柄不躾になりがちで」櫻田は笑いながら頭を掻いて見せた。隣で正臣が言葉を添えた。
「言っただろう、事情が事情だ。普段の十倍ぐらいソフトにしても足りないぐらいだぞ」
「わかった、十倍気を付けよう」
「奈津子さんの家に来た時も、職質みたいでしたからね」
哲夫がウーロン茶をすすりながら付け加えると、櫻田はまた苦笑した。話題が話題なので、全員アルコールは抜きだった。
「それで、全面的に引き受けることにしたのか」
櫻田が正臣を見やると、正臣は隣の奈津子に視線を向けた。奈津子は頷くと口を開いた。
「この子は表向き死んだということでガーデンを脱出したということですし、ガーデンの内情を知っているということで、日本側にとってもいてほしくない存在でしょう。だったら、引き受けられるのはわたしたちしかいません。……それに」
奈津子は向かいに座る少女の大きな瞳を見た。
「SYOUが、晶太が、命がけで守ろうとしていた子です。託されたわたしも、命がけです」
宝琴は緊張した目で、奈津子を見返した。
「心強いね」少女に向かって早速十倍ほど優しげな声を出した後、
「今後具体的にどうするか考えてるのか」櫻田は正臣に問いかけた。
「俺が子どもの人権団体、NPOエンジェルフィールドの代表をしてるのも何かの巡り合わせだと思う。大きな声じゃ言えないが、双方の国が味方してくれないなら、来月横浜に寄る子供のピースボートを利用する手もありそうだ」
「つまり、……亡命?」
「日本よりはアメリカのほうが懐も広いしな。あっちには俺が抱えてる施設もある」
宝琴は不安そうに大人たちの顔を見やっていた。
「大丈夫よ、宝琴。SYOUやわたしと一緒にいたときよりも、この人たちのそばは安全だからね」
詩織に言われても、少女は俯くばかりで、目の前の料理に箸をつけようともしなかった。
「環境が変わってばかりで、誰を信じたらいいのかわからないわよね。無理もないわ、これからお互い親しくなっていきましょう。こっちへ来る?」
優しく声をかけてくる奈津子に向かい、宝琴は小さく首を振ると、詩織に体を寄せた。左手で抱かれたうさぎのぬいぐるみは、いつも握りしめている腹の部分が汗とともに変色していた。
「で、そのSYOUと、そしてファン・ユェリン嬢と一緒にいたころのこと、……おじさんにちょっとだけ聞かせてくれないかな。……だめかな」
我慢できないといった様子で哲夫が小声で少女に問いかけた。
「気づかいが必要な女の子に、どうしてそういう質問ばかりするのかしらね、ここの男の人たちは」詩織がぴしゃりと遮ると
「詩織さんはある程度聞いたからいいんでしょうが、ぼくは生きている彼の様子について何も聞いてないんですよ。あいつが姿を消してからこれまで、ほんとにどれだけ心配したか」哲夫は珍しく険のある声で抗議した。そこに奈津子が割って入った。
「ある程度はお二人から聞いたから代りにお話しするわ。某マンションで三人でいたのは二週間足らず、その間三人で一つのベッドで眠るぐらい穏やかに過ごしたそうよ。でもなにかのいざこざがあってリンさんが体調を崩して、事情を知っていた若宮監督が彼女を医者に診せると言って連れ出した、たぶんキャンピングカーで。そのあとがあのタンクローリーとの事故。晶太のほうは、場所が外に漏れたらしいということであそこを出てから行方が分からない。そうよね?」
奈津子の視線を受けて、詩織は頷いた。
奈津子は続けた。
「二人は生きている、とキャンプ場のかたが若宮さんの伝言を持ってきてくださったというけれど、その若宮さんのその後の消息も、SYOUの消息も、そしてリンさんの行方も全然わかっていないんですよね」
櫻田が口を開いた。
「そのキャンプ場から北東に三十キロほど離れた、百穴の森といわれる場所で一人、行方不明になっている少年がいましてね。きのう捜索願いが出されたんですが、それに絡んで気になる情報があるんです。
彼は近くの牧場で働いていた、ちょっと遅れのある少年なんですが、彼と付き合いのあった近くの教会の神父が、届け出の時気になる証言をしてるんですよ」
「どんなですか」哲夫は眉をひそめた。
「ぼくはその地域で駐在をしてる警部補とちょっと顔見知りでしてね。いろいろ聞いて何となく気になって、直接彼に、モーガン神父に電話で尋ねてみたんです。
神父によると、最後に少年と会った時、妙な話をしていたと。
大人が穴に捨てられていた、胸の上に花を置いてきた。彼は妖精の国に行った。穴は自分が隠した。
一緒に行こうと誘われたけれど、神父は断ったというんですね。今考えればあの時ついて行っていればと」
一同はしんと静まった。最初に口を開いたのは、詩織だった。
「その穴の捜索はしたんですか」
「なにしろ溶岩洞窟が大小ボコボコある場所で、捜索する側が落ちる危険もあるんですよ。今朝から現場の駐在さんと少人数の捜索隊が探しているんだが、いままでのところ人は見つかっていないらしいです。大人も、少年も。
だが、ある穴から遺留品のようなものが発見されたと報告がありました」
「遺留品?」
「ばらばらに壊れた懐中電灯と、しおれた花。
洞窟に花は咲きませんからね。懐中電灯は彼が働いていた牧場のものということでした。花の件は、少年の証言と一部一致します。問題は、なぜそこに遺体がないのか、です」
「……でも、それが監督と関係があるかどうかは……」
「それはわかりません。が、神父の証言には続きがあるんです。
少年が姿を消す二日前、身元の分からない少女を泊めたというんです。長い髪のとても美しい少女で、日本人ではないと思われる訛りがあった。少年が牧場から届け物をしたその日の午後に姿を消している。少年の話にとても興味を持っていたので、もしかしたら一緒に森に入ったのかもしれないと」
宝琴は目を見開いて、詩織から体を離した。そして初めて、自分から口を開いた。
「名前は? そのひとの、名前は?」
「名乗らなかったそうだよ」
宝琴は唇を震わせ、視線をさまよわせた。そして意を決したように言った。
「わたし、探しに行く」
「宝琴、無理よ。警察に任せましょう」詩織が優しく言った。
「でも、早くしないとSYOUもリンも、そしてわかみやさんも、別の世界に行っちゃう気がする。わたしをここにおいて、みんなでばらばらに」
「伊藤詩織さん」
震える宝琴の背中を抱く詩織に、櫻田はフルネームで呼びかけた。
「憶測で申し訳ないが、あなたはまだ語っていないことがあるんじゃないですか。いろいろ触れにくいこともあると思うが、わたしは法にのっとって動ける立場だ。どうかご協力いただきたい。
晶太君や若宮氏、そしてリンという少女を追っているのは誰か、具体的にご存じではないですか。聞けばあなたは何度か晶太君と接触しているという。例の宗教や中国当局、日本の影の圧力、そういった漠然としたものではなく、具体的な人物像としてです」
詩織はそれまでまっすぐだった視線を落とし、低い声で言った。
「……なにか、確信があっておっしゃっているんですか」
「職業柄、あなたの動向は掴んでいる。誰といつどこであったかも。申し訳ないですが」
場に、言葉にできない緊張が満ちた。
「……詳しいことを申し上げるのは、後にさせてください。この場のみなさんの前で話したいことじゃないんです」
「わかりました」
気まずい空気が流れる中、奈津子は気遣うように宝琴に声をかけた。
「ほら、心配しないで、あなたはまず目の前のものを食べなくちゃ。体が第一よ、ほとんど手をつけてないじゃない」奈津子は鰻入りの卵焼きの皿を差し出した。宝琴はその皿を乱暴に押し返した。
「いらない」
強い口調に、奈津子は驚いて手を引いた。
宝琴はまっすぐな目を奈津子に向けた。
「ひとからひとに渡されるの、もう、いや。
一緒にいる人を好きになると、すぐにどこかいっちゃう。
慣れようと思っても、みんな消えてく。目覚めるたびにいる場所が違う。
誰かを、場所を、好きになるのが怖い。あなたはとても優しい人に見えるけど、もう誰も好きにならない。SYOUとリンだけでいい。
船になんか乗らない。もうどこにも行かない」
そう言うとうさぎのぬいぐるみを抱きしめ、宝琴は顔を伏せた。
奈津子はしばらく、ワンピースの肩にこぼれる巻き毛を見ていたが、唇をかみしめると、静かに口を開いた。
「……男の人が怖いと聞いたけど、SYOUは怖くないのね?」
少女は小さく頷いた。
「どうして?」
わずかに顔を上げると、宝琴は言った。
「SYOUはこっち側のひとだから。
いわないでも、わかってくれる。なんでも」
明滅を繰り返す切れかけた街灯の前を、一見大きな蝶々に見えるシルエットがはたはたと横切った。
……知ってる、ああいう飛び方をするのは蝙蝠だ。
SYOUは非常階段の下から夜空を見上げながら、懐から鍵を取り出した。
獲り方を知ってるか。
靴や石を投げるのさ、バカだからなんでも餌と思ってしがみつく、そして一緒に落下する。手でつかむとキーキー鳴いて噛みつこうとする、やせたブタみたいな顔してな。臭いケダモノだが可愛い奴だ。
そう教えてくれたのは、あいつ…… この世で一番嫌いな男。
まだ小学生の俺を好きなだけ殴り、若宮宗司にひと晩いくらで売りつけ、母親を連れて出ていったヤクザ。……この手で死なせた、たぶん遺伝上の父親。
あんなことを幼い自分に語ったこともあったんだ、今思い出した。
……どこの穴から出た蝙蝠だ、巣に帰れよ。
そんなことを胸に独りごちながら乗るエレベーターは、陰気な音をたてていつもの風景に向かって上昇した。
もう危険はない。自分が、この身をさらしてあの中国人と協定を結んだから。
この空虚な平和。そしてその向こうに横たわる血なまぐさい幻想。それでも身の回りの空気は夏の匂いのままにゆるりと重く、今は静かなのだった。
SYOUは手元の鍵を穴に差し込み、重い手ごたえとともにドアを押した。
もう誰もいない部屋の重苦しい空気が、その身を迎える。暗闇の中をそのまま居間に進み、ダウンライトを点ける。
幾晩かのやさしい眠りをむさぼったソファベッドは折りたたまれて、昨日自分がそうしたまま、部屋の隅に片付けられていた。
ソファに座り、ネイビーブルーのフィールドシートバッグをどさりと置く。金具を解いて蓋を開ける。そして、中から布に包まれたいくつかの塊を取り出し、ガラステーブルの上に置く。
四角い袋の口を開ける。箱の中に、映画で見慣れた形状のままの手榴弾がいくつか、玩具のように収まっている。上部には小さなハンマーが有り、安全レバーで押さえられたそれは安全ピンで固定されている。
箱を閉じ、次に二番目の袋を開ける。Smith & Wessonのリボルバーが三丁と、そして銃弾を納めた箱が、陰気な光を放っていた。
SYOUは銃を手に取り、鏡面仕上げのシリンダーを指でなぞった。シリンダーの六つの穴の一つに、実弾が一発だけ装填されている。
ロッドを押して実弾を外し、テーブルの上に置く。銃身を上に向け、そして窓に向け、腕を伸ばし、その重みを実感してみた。だが、自分が背負う現実の重さと同じぐらい、何か夢の向こうの感覚のように、その重みは脳髄に伝わってこないのだった。
引っ込みのつかなくなった人生は例えて言えば、運命と言われるやつとロシアン・ルーレット……
何処かで聞いた歌を口ずさみながら、窓に向けて両手でトリガーを引き絞ってみる。カチリ、と音がしてシリンダーが反時計方向に回転する。
実弾を取り上げて、シリンダーにおさめる。
「取扱説明書ぐらいつけろよ。バカと芸能人は絶対やっちゃいけないこととかさ」
独り言を言うと、SYOUは勢いよくシリンダーを回転させた。
『本当に殺す気でいたのか』
赤く染まった自分の首筋に掌を這わせながら、かすれ声でチョウは言った。
『そうしないで済むことを祈ってた。あんたが妥協してくれたんだから、俺も協定は守ろう』SYOUは淡々と言うと、にっと笑った。
唉、と嘆息を漏らし、チョウは足を組んで地面に座りなおすと、充血した目でSYOUの顔を見て言った。
『では守ってもらう。こちらからは相応のツールをきみに渡そう、これはわたしがリンを障壁なく手に入れるための取引だ。これからわたしがリンを手に入れるためにすることについて一切邪魔をするな。もしきみが裏切ったら、きみは命を持って償うことになる。守るならわたしも一切きみの邪魔はしない』
『そうしてくれ』
『では聞こう。きみはこれから何をする』
『ガーデンの住人を開放する』
あっさりとSYOUは答えた。チョウは肩をすくめ、聞かなかったことにしよう、と言って、膝に落ちていたスカーフをSYOUに渡した。SYOUは受け取ると、ぞんざいに首の周りにスカーフを回した。
『きみのような男とはやりあうより組んだ方が楽だ、今回初めて学ばせてもらった。が、正直多少いいようにされ過ぎたしこりも残る』
顔を上げたとたん、前髪を掴んで横向きに突き倒された。まったく予測しなかった相手の出方に瞬間無抵抗になったSYOUは、自分の顔を両手ではさみ、しげしげと眺める男の顔を間近に見てただ沈黙していた。
『君はつくづく危険な奴だ、初めて飲む酒のように。いいか、絶対に黄月鈴に近づくな。わかったか。絶対にだ』
言葉とは裏腹に、チョウの抱擁も唇も女性のそれに対する者のように念入りで優しく、暫くの間SYOUは自分がしていることされていることがなんなのかわからぬまま、女のように広い背中に手を回していた。
目を閉じて銃身にキスし、そのまま銃口を自分のこめかみに向けてみる。
死の近くまで行ったことが、あるようでない。いちど思い切り恐れてみるべきだ。その感覚が自分にはないのか? 痛みを痛みともはや体が認識できないように。愛も憎しみも近すぎて受け取りきれないように。
そのとき、玄関ドアのあたりで音がした。
叩いている、……ではなくて、鍵を開けようとしている?
ドアが開錠された音がした。
ここを知り、鍵を持つ誰か。あるいは、……それ以外。
SYOUはゆっくりと銃口を頭から離し、そしてドアのほうへ向けた。