遠雷
高い塀に囲まれたそのレンガ色の邸宅がぼや騒ぎで消防車に取り囲まれた夜、近所の住人たちは初めて許されたように、口々に住人の噂をしあった。
「なんでもねえ、某暴力団の組長さんの、アレって話よね」
「やっぱりそうなの? 二号さん?」
「それどころじゃないって話だけど」
「それどころじゃないって何なの」
「なにか知らないけど、とにかく大物なのよ。だからねえ、放火の原因もいろいろ」
そのあとはそれぞれが聞いた物騒な噂の切れ端がひらひらと踊るばかりで、噂やら電文やらデマやら、どれもしまいに、これ以上は危ないから。という囁きの中に曖昧に消えてしまうのだった。
赤色灯の点滅する消防車輛の後ろには事件担当のブン屋のすがたもちらほら見えていたが、あたりを警戒する警察官に手を振り回して追い払われ、舌打ちをして車に戻っていった。
どうやら家の主は今不在らしい。対応する人間がいない状態。
故意に火をつけられたとすれば、権田組を付け狙っているのと同じ勢力という噂…… おそらくは日本のどこの組でも抗争相手でもない……
そんなメモや報告が、アンテナを立てたバンの中で各々囁かれていた。
城島と書かれた表札の50メートルほど手前でいったん止まったバイクも、通行止めの黄色いテープの横でしばらくエンジンを止めてあたりを伺っていたが、交通整理中の警官に手をひらひらされると素直にハンドルを返した。
人だかりの中で、そのフルヘルメットの下の風体に気をやる野次馬は誰もいなかった。
墨を流したようになめらかな夜の海に突き出す遊歩道の足元には、点々と灯りがついている。
数えるともなく数えながら細い道を海へと進むと、やがて視界のすべてが水になる。揺蕩う暗黒の向こうには、彼岸の夢のような工場地帯の灯りが虹色に揺れている。
女は手すりを掴んで夜風に向かって目を閉じた。今背後から誰かに押されたとしても、誰にも気付かれないだろう。それでも、指定された東屋のベンチではなく、海に突き出した遊歩道の先端で時を待ちたいという気持ちにあらがえなかった。
風に交じり、背後からひたひたと近づく何かの気配があった。
「静蕾」
聞きなれた声に、澪子はゆっくりと振り向いた。
ごうごうと高みで鳴り続ける海風の中にすっくと立つ細身のシルエットは、何もかもが揺れて定まらない世界に突然現れた、何かの道標のようだった。
「日本鬼子」
遊歩道のフットライトが照らし出す、高い鼻梁と長い睫の端正な陰影に向かって、澪子―静蕾は言った。
「そんな名で日本人を呼びあってた時もあったわ、あの男と」
そういうとふっとゆるんだ笑顔を見せた。
「元気そうね。これでもわたし今結構感激してるのよ、ハニーボーイ」
タンクトップに青灰色のジャケットをひっかけたSYOUは、口元にかすかな笑みを乗せた。
「あんたも元気そうだ」
海風になぶられる髪をかきあげながら、SYOUは続けた。
「さっきバイクであんたの家の前を通った。黄色いテープが張られて、消防車が五台は来てたな。ぼやで済んだようだが、家にいなくていいのか」
澪子は軽く舌打ちすると海に視線を投げた。
「そのヤン・チョウがいまでは嫌がらせに人の家に火をつけるような仇敵になりはててるわけよ。まあ、こっちもそうとう恋路の邪魔をしてきたから仕方ないんだけど、こう正面切って来るとはね」
ゆっくりとSYOUのほうに向き直ると、しみじみとその顔を見つめた。
「わたしたちの思い出の場所じゃない、もう一度だけでいいわ。あなたの唇の感触を思い出させてよ」
「さすがにそれは無理だ」SYOUは苦笑した。
「リンに操を立ててるの?」
「もちろん」
「これからどれだけの間?」
「一生」
澪子は鼻先に抜けるような笑いを漏らした。
「はっきりいうわね。もうお互い人生の残り時間が秒読みに入ってるような立場なんだから、受けてくれてもいいのに」
「またずいぶん弱気なんだな」
それには答えず、澪子はバッグから細い煙草を取り出した。
「あの子は今どうしてるの。こんなところにスパイ崩れのおばさんを呼び出してないで、ちゃんとそばで騎士役をしてなくちゃだめじゃない」
「そのことについてはもうヤン・チョウから聞いてるんだろう」
すぼめた口から吐き出す煙が海からの風に四散した。
「ええ、簡単に一方的にね。
SYOUと会った、話はついた。お互い同意には至っていないが、利害は一致している。いわば協定を結んだと思ってもらっていい、その上でそれぞれの結論は出た。その上で、きみに頼みがある。呼び出されたら、彼に会ってやってくれ。リンの身柄をわたしにゆだねるなら彼のしたい事についてわたしはすべてを黙認すると決めた。危険を伴うことだ。少しでも彼によせる情があるなら協力してやってくれ」
一気に言うと、澪子は俯いて自嘲めいた笑いを漏らした。
「馬鹿にするにもほどがあるわ。ひとの家に火を点けといてあなたと会えと来るんだもの。まさかあなたたちが協定を結んだうえでわたしをパシリにするとはね」
SYOUは心持ち眉根を寄せながら答えた。
「火事については、俺は知らないことだった。警告はあったのか」
「家にいないほうがいいとは仄めかされてたわ、きみは敵が多すぎるって言い草でね。ガーデンから締め出した報復と、その協力をしている権田組に対する警告でしょうね」
「権田組がガーデンの警備をしている件で?」
「あちらに向けては、お前の中国人の情婦もろとも思い知らせてやるというメッセージでしょ」
煙草を持った手で頭を掻きながら澪子は答えた。
「権田のおっさんのところにはわたしの本名交じりの密告がいくし、これもどうせあの盲目バカの仕業でしょうけどね。現在の揉め事をめぐって一週間後に権田組系列の幹部会があるらしいの。傘下の組からもいろいろ突き上げられてるみたいでね、いろいろ面倒なことが増えちゃったわ。挙句の果てに協力しろ。これどう思う?」
「よく来たと思うよ」
「あなたと会えると思ったからよ。あいつもわたしの趣味をよく御存じね」
声音をただしてSYOUは静かに語りかけた。
「あんたも大変そうだが、俺からもいろいろちゃんと話がしたかった。これからのことについて」
澪子も真顔になってSYOUを見た。
「……SYOU。あなた、あいつがどういう人間か本当にわかってるの」
「あんたとリンからおおよそ聞いてる」
「リンがあいつの手に戻ることを望むと思うの。どれだけの思いをしてあの子があいつから逃れたがっていたか知ってる?
どうしてわたしがあいつを出入り禁止にしたか、あいつが……」
「あんたといい仲だったこともあるんだろう」
澪子は一瞬言葉に詰まった。
「ええ、昔ね。ろくでなしはそう嫌いじゃないけどあいつは立派な人でなしだったのよ、どう綺麗に語ったか知らないけど。あなたとは一応利害が一致しているようだから紳士面もしてみせたでしょうけど、いい?
あいつにとって人の命の尊厳なんてから揚げにされる鶏以下なのよ。女子供に対してどんなことでもできる最低の屑野郎なのよ。
リンはそのすべてを、あいつのからだごと知っているのよ」
海に流れ込む運河の対岸の石油工場の煙突は、あの夜と違い、ひとつも焔を乗せずにただ静まり返っている。SYOUはわずかな工場の灯りが海に反射しては明滅するさまに目を投やりながら、静かに言った。
「それほどの稀代の人でなしが、リンを守り、彼女に危害を加えるものは実力で排除すると言ってるんだ。その残酷さと非情さは、彼女の命にとって強力な盾になる」
見たこともない表情で、澪子の視線がこちらに向けられていた。
「彼の言葉を信じるの」
「ああ」
「なぜ」
「嘘がないと思った瞬間を、言葉で表現するのは難しい。命と命のやり取りの中で受け取ったことだ」
澪子の昏い視線を正面から押し返しながら、SYOUは続けた。
「あんたが呆れるのも分かる。だけど、俺は彼女に生きていてほしいんだ。
リンと出会ってからこっち、毎日が歓喜と苦悩の連続だった。愛しいと思えば思うほど、近づくことができない彼女の存在に焦がれたし、現実が見えるにしたがって、どんなに思っても救うことができない場所に彼女がいることがはっきりわかった。
俺は日本や中国相手に戦争はできない、現状は変えられない。あるのは愛だけで、後は無力な肉体がぶら下がってるだけだ。
彼女が望むなら俺は鬼畜どもをぶち殺すのもいとわなかっただろう、でもそれで刑務所に入って生涯会えなくなればもう彼女を守れない。あの子は」
そこまで言うとSYOUは言葉を詰まらせた。
「幼い少女のようになっていたわずかな間、望みを言ってくれと言ったら、俺の子どもがほしいとだけ言ったんだ。
あれだけの目にあっても、報復を望まなかった。
でも結局、自分の言葉のすべてを否定して、俺のもとを去った。俺に守ってほしくないと言って。
彼女と俺とは立つ場所が違う。一緒にいても、俺は彼女のために何もしてやれない」
「あの子にとっても同じよ」
言い切る口調の強さに、SYOUは思わず瞳を上げた。
「リンはあなたに、決して救えない自分のために苦しまないでほしかったのよ。その苦しみを見るのに耐えられないぐらい、あなたを愛していたからよ。
それはわかってるでしょ」
SYOUは答えず、ただ静かに下唇をかみしめた。
きれいになりたい。
……そしてあかちゃんに、おっぱいをあげたい。
苦しみの記憶を一時的に手放していたあの日々、自分の腕の中で語った彼女の夢が、SYOUを背中から抱きすくめ、そしてすうっと肋骨の間を抜けて行った。
「……わかってる」
音のないため息をひとつつくと、SYOUは一気に語りだした。
「わかっていても、どんなに思いあっても、どうにもならないことがある。
そばにいたい、少しでも多くの時間抱きあっていたい。今だってそうだ、気が狂うほど会いたい。時間の続く限り抱きしめたい。でも今、再び俺たちが会ったとして、幸せになるためにできること、たぶんしてしまうことは一つだけなんだ」
「ひとつ?」
「心中」
澪子は口元から煙草を離し、黙ってSYOUを見た。
「本当は、何度も夢見たことがある。
一緒に死ねたら。
ともに生まれ変わる世界の夢を見て、手をつなぎながら優しい薬で死ねたら。あの子も俺も、何の苦しみももうない。愛だけに染まってこの世を去る。俺が言い出せば、彼女は従うだろう。ヤン・チョウとともにいる時間よりよほどそれを望むだろう。今や俺たちにとって、邪魔の入らない死は美しい花束のようなものなんだ。
……でも俺はそんな結末は望まない」
下を向いたままSYOUは両手を握りしめた。
「どんなに汚れても苦しくても、リンには生きてほしい。生きてこの地上にあって、存在し続けてほしいんだ、なにがあっても。
生きてこの世にあることは、すべての可能性をオンにすることだ。生きていれば時代も変わるかもしれない。生きていれば奇跡も起きるかもしれない。あんなまっすぐな魂を持った存在に死を選ばせるなんて不条理には俺は耐えられない。彼女に未来を与えたい。生きていてほしい、どんなかたちでも。俺が彼女を抱きしめて彼女の吐息と感触にうっとりしてる間に、その可能性は逃げていく」
澪子は、熱に浮かされたように語り続けるSYOUの横顔を黙って見つめた。
「これは夢か妄想と思ってくれていい、こんな絶望的な状況でも、俺は遠い未来、彼女の命の先に美しいものが生まれるんじゃないかと思ってる。この世が闇なら、きっと光は彼女から生まれて来るんだ。
彼女が生きていてくれるなら、俺はその足元で彼女を支える石ころのひとつになっても構わない」
澪子はしばらく海風に吹かれる彼の前髪のあたりに視線をずらしていたが、やがて静かに口を開いた。
「大事なことをひとつ聞くわね、SYOU。
あいつが無条件にこんな取引をあなたとするとは今でもわたしには思えないのよ。あなた、見返りに彼になにを渡したの?」
「あんたの知ったことじゃないし、話の要点はそこじゃない」
「じゃあこちらから仮定したうえで言わせてもらうわ。
それがもしあそこの顧客のリストに関するものなら、その情報は彼に情報提供してきた警視庁外事二課のお友達の耳にも入ってると思った方がいいわ。
そのお友達も今は鼻の効く本庁捜査一課の男にどうもマークされてる。つまりどういうことかというと、この権力者御用達の娼館スキャンダル流出の件が漏れているなら、日本当局筋にとって、あのガーデンそのものがいまやあってはならない存在になってると言うことよ。もしかしたら、あそこが粛清される可能性があるわ。
『中身ごと』ね」
「……中身?」
SYOUははっとしたように瞳を見開いた。
澪子はその瞳を見つめ返すと、右手の倉庫群の層を指差した。
「じゃあ、チョウからの伝言よ、よく聞いてね。
あの端の五番倉庫。あの中に、ヤン・チョウから指定された箱があるの。D-3とかいてある奴。これが箱の鍵」
いつの間にか、手品のように澪子の手にはキーが握られていた。人差し指と親指でそれをぶら下げると、澪子はSYOUの手を取り、その掌に落とした。
「約束のひとつ、多分あなたがしたいことのために必要なものだそうよ、わたしは知らないけど。じゃ、確かに渡したわよ」
SYOUは目を落とすと、キーを掌に握り込んだ。
そして目を上げ、いつも白粉を叩いたような風情に見える澪子―シンレイの顔を見つめた。
「……急いだほうがよさそうだな」
「あなたがそう思うなら」
ろくに吸わないまま指先で灰になっていく何本目かの煙草を、澪子は海に投げ捨てた。
「……ありがとう。あんたにはいろいろと世話になった」
SYOUは真剣な面持ちで澪子の目を見つめた。
「静蕾。今のあんたの立場が知りたい。
どちら側に何のために立ち、なにをどうするつもりなのか。ここまでぶっちゃけた今、話してくれてもいいだろう。
あんたは今でも母国の参謀本部の機関員なのか、暇を持て余したセレブな変態女なのか、それとも広域暴力団、権田組の組長の貞淑な情婦なのか」
「ちょっと、二番目は何よ」軽く笑いながら澪子は腕を組んだ。黒いドレスの胸元の谷間で、トルコ石を中心にはめ込んだ十字架が揺れた。
「こんなわたしでも、母国のためによくできた歯車の一つになりたいと思った若い時期もあったわ。ヤン・チョウと仲よしこよしをしてた頃ね。
文化大革命以後の中国が、東西の大国の勢力争いの舞台になっていた時期、寄る辺のない人民がまともな未来を築くための礎になりたいとも思ってた。けど、所詮この世は男たちのパワーゲームのための箱庭でしかない。男どもの残虐趣味とエロごっこと陣地取りと権力争いが延々と繰り返される現実に、わたしもう飽き飽きしちゃったのよ。
そして思ったの、わたしはもう美しいものにしか味方しない。この魂が美しいと見極めたものにしか」
まっすぐな瞳でSYOUを見ると、澪子は微笑んだ。
「あなたとリンを見るのは楽しかった。十分に美しく、存分に悲惨で、馬鹿みたいに純粋で無駄がなくてね。でも、わたしも焼きが回ったのかしら。見ていうるうちに足首を掴まれちゃった」そこで言葉を切ると、愛しげにSYOUの前髪に手を伸ばして目の上から払った。
「さっきの答え、アンサーは三番目よ。
権田の眞ちゃんが一番最近わたしにくれたものを教えてあげる。豪華客船で世界一周のチケットよ。ひとり分のね。
彼はわたしの正体が知れても、自分が危機に陥っても、わたしをかばったまま幹部会に出るらしいわ。もしかしたらその先はないと思っているのかもしれない。わたしに、何処かの港で降りてそのまま姿を消せというわけよ。
権田組はガーデンの秘密を一身に請け負って、国の裏権力と霊燦会の命を受けて警備をしているようなものよ。いらない場所と言われれば、破壊する方にも回る。どんな理由であれ、その機密を破り、中身を外にばら撒くようなテロリストがくれば、わたしもあの爺さんとともにそいつを排除する立場に立つでしょうね」
何かさざ波のように胸に広がるものを感じながら、SYOUは言った。
「……そうか」
そして唇の端を上げて、どこか子どものような笑みを浮かべた。
「その場であんたと会わないことを、心から祈るよ」
「そうね」
ほかに何か言える言葉がないかと思ったが、もう何も出て来はしなかった。
もう全部、自分たちは語ってしまったのだ。
澪子はSYOUの目を見ると、静かに言った。
「もし会えるなら会えるうちに会いなさいね、リンと。あなたたちはそのために、きっと生まれてきたのだから」
SYOUは口元にほんの一瞬、月の光のような笑みを浮かべた。
「何もかもを諦めたわけじゃない」
夜空の彼方で、遠雷が響いている。澪子からもらった煙草を咥え、白い手で火をつけてもらいながら、SYOUはいろんなことがそれぞれの場所で終わろうとしている、と、やがて来る嵐を遠雷のように感じていた。そして、胸の内に揺れる少女の面影に語りかけた。
リン。
きみも聞いているか、この遠雷を。
ぼくたちはお互いに出会うために生まれてきたのだと、
そう確かめられる時間が、再び訪れることはあるのだろうか……
ぼくは生きている限り祈る。祈り続ける。
きみの命が細々とこの世にあり続け、未来の光に向けて運命の迷路を、まっすぐに希望を忘れず、昇って行きますように。




