Wake up and smell flowers
「あら」
ラウンジカフェの支払いをすませた正臣の隣で、奈津子はエレベーターの方角を見て声を上げた。
「なに?」
「今エレベーターの前で並んでた人、詩織さんに似てたんだけど」
正臣は奈津子の視線の先を見た。アールデコ調に装飾されたエレベーターはすでに客を呑みこみ、次の到着を待つ着飾った客が四、五人談笑していた。
「そんな偶然は滅多にあるもんじゃないだろ。忙しい筈の彼女がこんな会員制リゾートホテルで、しかもきみの話からすればかなりなトラブルに巻き込まれてる様子なのに」
「そうね、なんだか中学生ぐらいの男の子連れていたようだし、人違いだと思うわ」
「彼女のことばかり気にしてるからじゃないか。気分転換に庭でも散歩しよう」
奈津子は中庭に向かって並んだ高窓の向こうの夕日に目を細めた。
ホテルの中庭は贅を凝らしたイングリッシュガーデンになっており、石造りの噴水を中心にワイルドフラワーが色とりどりに咲き乱れていた。
西に傾いた日差しが糸杉の長い影を落とすその先に、鳥籠のような形の、金属製の白い東屋がある。
奈津子と正臣は麦飯石の敷石の道を並んで歩き、ねむの木がしなだれかかる東屋の入り口をくぐって、中の石のベンチに腰掛けた。
「忙しいのにごめんなさいね、アメリカと日本を行ったり来たり、私事であなたに面倒掛けて……」
「それどころじゃないよ。もはやきみの一身上の問題じゃない、大げさに言えば国の未来がかかってる」
正臣はクリーム色のベンチの肘掛けに身を預け、頭上を見上げた。
「この美しく優しい色合いの日本という国のね」
奈津子も一緒に上を見上げた。東屋の繊細な骨組みと、ねむの木の緑を通して、七月の夕空が揺れている。
「ここからはほんとうは櫻田本人に来てもらったほうがいい話なんだけどね。
来日してすぐに来られなかったのも彼と極秘で会って話を聞いてきたからなんだ。このホテルの敷地内は会員以外は入れないし、彼もお上から目をつけられている身だ。来られるようならすぐに時間と場所を伝えてくるとは言っていたがいつになるかわからない。とりあえず今僕から言えることを言っておこう」
奈津子は緊張した面持ちで正臣を見た。
「まずは実家に櫻田たちがきみを尋ねてきた件から。仕事じゃなく自分の意志でね」
「ええ」
「ガーデン絡みの捜査がかたっぱしから打ち切りになるという異常さに気づいているのは櫻田だけじゃない。上からの妙な圧力に気づいてる連中は結構いるそうだ。後は保身だな、そこをつついて自分に利があるかどうか」
「だから皆黙ってるのね」
「なにしろ警察ってのは上下関係できっちり構成・監視されてる組織だからな。だが跳ねっ返りはいるもんだ、協調性がなくて我と正義感が強い連中は直ぐに目をつけられる」
「それが、櫻田さんと、後一人の、菊池さん?」
「その菊池だが」
言葉を切ると、正臣は膝の上で両手を組み、声を潜めた。
「彼は、警視庁公安部外事第二課に所属している。それは聞いた?」
「そういう類の説明は聞いた気がするわ。正式名称じゃないけど」
「外事二課は外国の諜報部員による諜報活動、特にアジア系のスパイ活動を監視・摘発する部署だよ。 一般にはあまり知られてない部署だが、特に通信傍受機関のシステム能力は突出してる。日本国内の工作員が発する通信の傍受、解析、内容や位置等、かなりなところまで突き止められるらしい。かなり乱暴な捜査が許されるところでね。あらゆる法令を駆使して、ときにはイリーガル(非合法)ぎりぎりのやり方で、民間人さえ巻き込んで強引な捜査を展開する」
「……そんなすごい部署にいる人が、内部告発に繋がる捜査に協力してくれているのね? 確かに、警察も一枚岩ではないと言っていたわ」
「そこなんだが。櫻田は彼とは高校時代からの付き合いでね、そのころちらりと聞いたそうだ。彼の一族は曾祖父の代に中国から日本に渡ってきたと」
「……」
「昔から真面目は真面目だがどうも気がしれないヤツだと言っていた。本庁で再会して、外事課に所属していると聞いて妙な気がしたそうだよ。誇り高い一族で、誰かが日本人と結婚しようとすると周り中が猛反対していたのに、日本人の養子になって名前を変えて帰化してまで警察に所属しているとは、と」
正臣は無言の奈津子の目を見つめて言った。
「きみ、アメリカの自宅で警察からの電話を受けたろう」
「ええ」
「その時の内容を菊池がそのまま話したので、なにか気味が悪いとメールで言っていたよね」
……なんでも一番最近の晶太君との電話で、なくしたアクセサリーがどうとか、彼女がしつこいとか、そういう会話をされたそうですね。……
菊池が実家で漏らした言葉は、たしかに奈津子には気味の悪いものだった。それでも同じ捜査一課の中ならば情報は共有しているかも知れないと思ったのだ。けれど、外事二課……
「これは櫻田がカンだけで言っている話なんだが。もしも、もしもだ。アジア系のスパイを取り締まる部署である外事二課に、当のアジアの某国と通じている奴がいたとしたら大問題だ。櫻田はそう考え、わざと菊池に相談し、このプライベート捜査を持ちかけた。菊池はふたつ返事で乗ってきた。そして共に情報を集めた結果、二人しか知り得ない情報がやはりあちこちに漏れ出している気配があるのを突き止めたそうだ」
「一種の個人的おとり捜査のようなものってこと?」
「そう。かなり危険な賭けだけどね。
現在、内閣不信任案が出ていて解散総選挙も近いとされているが、次期総理と目されている民自党の伊吹満氏は、対アジア強行派で知られる。そして国の内部の腐敗からまず一掃せよという強い信念の人だ。櫻田はつてをたどって伊吹氏に近づこうとしている。いずれ流れは変わるかも知れないと。そうすれば」
そのとき、奈津子は正臣の背後を見て、口元に指を当てた。
「誰か来るわ」
正臣は斜め後ろを見ると、バラの茂みの向こうのふたつの人影を見た。
「大丈夫じゃないか、一人は子どもだし」
「え?」
奈津子は口元に手を当てると、その人影を目を細めて見つめ、そして声をあげた。
「……詩織さん!」
「なんだって?」
「やっぱり、彼女よ。間違いないわ」
正臣はぐっと首を巡らせて花壇の向こうの二人を見た。
背の高い細身の女性がニットキャップをかぶったジーンズ姿の少年を連れており、少年はバラの香りをかいだり池を覗き込んだり、親しげに詩織と話している。中学生ぐらいだろうか。
「なんだ。なにか彼女の身が心配とか言ってたけれど、伊藤詩織さんはこんなところで優雅に休暇中じゃないか。お連れの子は、親戚の誰かかな?」
「……」奈津子は戸惑いながら、二人を目で追った。
「話しかけちゃダメかしら」
「何の用でここにいるかわからないだろう。きみに対して今連絡をとだえさせてるのもそれなりに事情があるかもしれない。あまり立ち入らないほうが」
そのとき少年が、ぱたぱたと軽い足音を立ててまっすぐ東屋に向かってきた。奈津子と正臣は顔を見合わせ、身を隠すか否かと目で語り合ったが、どこに逃げ場もない空間のこと、もはや観念するしかない。
「やっぱり。うちの玄関にもこの花があったよ」
そう言いながら入り口に現れた少年は、もも色のねむの花陰から二人を見つけると、びくりと体を震わせて目を見張った。大きな帽子の端から巻き毛を一本額に垂らし、反り返った睫毛に縁どられた大きな瞳は人形のように美しかった。
奈津子は微笑みながら挨拶した。
「こんにちは」
「……こんにちは」
戸惑ったようなその声で、少年ではなく少女だと奈津子は確信した。
「もう、言うこと聞かないなら二度と部屋から」
東屋の入り口のねむの木の陰から姿を現した詩織は、少女と向かい合う奈津子の顔を見て、立ちすくんだ。
「……え?」
奈津子は立ち上がった。
「詩織さん。やはり、あなたね。
こんなところで会えるなんて。お元気そうで、よかったわ」
奈津子に見つめられた詩織は、口元を覆い、その手を握り拳にして少し下を向くと、少女の顔を見つめた。その視線を見返し、少女は次に奈津子と正臣を見て、不安そうに詩織の手を握った。
「行こう」
指を引っ張る少女に、詩織は静かに言った。
「いいのよ、いいの。この人たちはいいの。大丈夫」
宝琴は大きな瞳で、詩織の目を見つめた。
詩織は深々と奈津子に向かって頭を下げた。
「いろいろご心配いただいたのに、失礼ばかりして、ほんとうにすみませんでした」
「いいのよ、そんなこと。そちらのお嬢さんはどなた?」
静かにひとつ息を吸うと、詩織は紅潮した顔で奈津子を見つめた。
「……お話ししなければならないことが、たくさん。……たくさん、あるんです」
まるで拳骨のような無情な暑さも、枝えだの重なる森の中に入ると気配を消した。
高い木々の間から漏れてくる木漏れ日は秋の午後のように柔らかで、小鳥のさえずりもほとんど聞こえない。あちこちに覗く穴の底から、冷気が漂ってくる。苔むした足元の岩や土の間から、見たこともない赤や茶色のきのこがにょきにょきと顔を出してこちらを見上げている。
「これ、アミタケだよ」
新吉は下を向いて言った。
「食うとうまいけど、食っちゃだめだ。妖精が怒るから」
「ちゃんと前を向いて歩いて」
背後の静かな声に振り向くと、長い髪の少女がまっすぐな視線でこちらを見ていた。生成りのワンピースの胸元を綴じる紐はゆるゆるとほどけ、痩身は足元に堆積した朽葉に溶けそうな気配だ。三つ編みを解いた髪は、マーガレットの名残を残して細かいウェーブがかかっている。
「おれ、あんた怖いな」
新吉は怯えたように言った。
「あんた、あれをみてどうする」
「どこの穴なの?」
「あんたひとじゃないだろ。おれをつれてくだろ。あれみつけたら、ありがとって言って、おれを暗い世界につれてくだろ。おれ、あれみちゃいけなかったんだな」
「どこにも連れて行かないわ」
「おれ、誰にも言わないよ。もう忘れるよ」
にきびに覆われた真ん丸な顔の中の、子どものような不安げな目を見ながら、リンはゆっくりと新吉に近づいた。
「わたし、生きてここにいる。ただその人に会いたいだけなの」
新吉は棒立ちになったまま、リンと向かい合った。
「生きてるのよ」
背の低い新吉の肩に手を置いて、リンはその右手を自分の胸に当て、鼓動を掌に伝えた。
新吉は一瞬体をふるっと震わせると、もう片方の手をそろりそろりと上げて、ふくよかな乳房にそっと当てた。両手で包む柔らかな球体は、掌のかたちに沿って優しく形状を変えた。
ああ、なんか変な気分だ、おれ怖いな、おれ……
次の瞬間、新吉は飛びのいて少女から身を離した。後ずさり、ぱきぱき音を鳴らして枝を踏み、垂直にさす木漏れ日の輪の中に立つその姿から二メートルほど距離をとる。そしてあたりを見廻し、屈んでゆっくりと足元の、一抱えはある岩を拾い上げた。
腕の血管を盛り上げながら、頭上にそれを翳す。岩でできた影の中の顔は真っ赤だ。
リンは黙って、迎えるように両手を広げた。
「動くな」
そう叫んだ次の瞬間、新吉は上に上げた腕を渾身の力で前に振りおろした。
リンのすぐ右にどっと音を立てて叩きつけられたそれは、一瞬で土にめり込み、ぼこりと音を立てて姿を消し、その跡にはまっくろな穴が口を開けていた。
新吉はそのまま背を向けると、転がるように木々の間を走り去った。
リンは突然できた空洞を見下ろした。葉っぱと枝でカモフラージュされていたその入り口は、直径が一メートルはあるように思われた。
新吉が落としていった懐中電灯を拾い上げ、穴の縁に腰掛ける。
縁の岩につかまって足を降ろし、全身が隠れたころつま先がようよう底につく、そのぐらいの深さだった。視線を正面に向けると、屈めば通れるぐらいの横穴が続いている。
リンは懐中電灯を点灯させると、正面に向けた。横穴の突き当りはなぜか仄明るく、少し開けた空間があるように思われた。
屈んでゆっくりと歩を進めるうち、その空間に桃色の何かが横たわっているのがはっきりしてきた。
そうであるようにとか、そうではありませんようにとかそういう類の願いではなく、ただ自分が正気でこの事態に対面することができるように、こころを鋼の鑢で磨き上げるような心持で進む一歩一歩の先に、そのからだはあった。
リンは傍らに懐中電灯を置くと、膝を折り、横たわる男の顔を静かに覗き込んだ。
空間の天井は高く、頭上の岩の隙間からかすかに外の光が降りている。
頬から顎にかけての無精髭、濃い眉の下のぴたりと閉じられた瞼。顔に飛び散る変色した血痕、どす黒い痣、胸の上に置かれたしおれた花。もはや何の気配もない、ただのかたちとなったその顔は、天からのほのかな光の中で、今まで見たいつよりも気高く美しく見えた。
両手を頬に添える。ひんやりとした冷気の中、掌に伝わる感触はただ氷のように冷たく、固かった。
小さな声で男の名を呼ぶ。返事はない。
沈黙の中を、記憶の中の優しい低い声が通り過ぎた。
……誰が何と言おうと、きみたちは永遠だ。何ものにも侵されない永遠の中に閉じ込めてやる。
血で汚れたシャツの胸を握りしめるリンの喉から最初に出たのは、幼いけもののような声だった。母犬を求める仔犬に似たそれは、長く細く尾を引いて、やがて眠っていた激情を全身から呼び起こした。 リンは置いた手の上に顔を伏せると、歯を食いしばったまま悲鳴のような泣き声を上げた。声は天井の穴を突き抜け木々を震わし、森の鳥たちに甲高い叫び声を上げさせた。隠れていた蝙蝠たちは聞こえない声を上げながらばさばさと穴から飛び出した。
……ここを、誰かに、知らせなくては。
このままじゃいけない、警察に見つけてもらわなくては……
荒い息を抑えて携帯の電源を入れたそのとき、呼び出しメロディが鳴った。
……太陽の周りを回っていると地球が知るように
咲くのは五月だと薔薇の蕾が知るように
愛が癒しだと憎しみが知るように
きみの心は安らぎに満ちる……
震える指で耳に当てた携帯から、錆びた鉄のような男の中国語が響いた。
『そこにいるのは、城を失った孤独な姫君か』
リンは全身を襲う恐怖と怒りに、総身を震わせて眼前の暗闇を睨んだ。
『わたしの声を覚えているか。
わたしの得た情報が正しく、この番号がきみにつながっていることを願う。
これ以上犠牲を増やすな、わたしの元へ来い。
きみをかばったせいである男が死んだ』
「……知ってる」
壁の土を爪でえぐりながら、同じ言語でリンは言った。細い顎から涙が滴り落ちた。
一瞬の沈黙があった。
『……ユェリン、愛しい恋人よ。その声がどれだけ聞きたかったか。
きみにわかるか。わたしは今、泣いている。
きみのためならなんでもしよう。わたしの元へ来い。この血も肉も、きみの欲しいもののすべてを捧げよう』
「おまえのものなどひとかけらもいらない」泥だらけの手でリンは自分の髪を掴んだ。無意識のうちに毟られた数本が掌から落ちた。
『やけを起こすな、いいか、きみの命を守れるのはわたしだけだ。きみが生き続けるのはSYOUの心からの願いでもあるんだ。SYOUはきみの身柄をわたしにゆだねることに同意した』
「嘘つき」奥歯をぎりぎりと鳴らしながらリンは呻いた。
『嘘ではない、きみを愛すればこその判断だ。彼は冷静でかしこく、誇り高い男だった』
「……」
『彼の決心を無駄にするな』
「SYOUはいま、どこにいるの。彼をどうしたの」叫ぶように声を重ねる。
『来れば教えてやろう。きみには結局、それしかないのだ。きみの最終到着地の住所をメールで送ろう。長い苦しい旅を終えて、わたしの元へおいで。愛しいリン。心から待っているよ』
通話が切れて数秒、リンは茫然と携帯を見ていた。
そして再び若宮宗司の身体を抱きしめると、左手に携帯を翳し、右手に彼の首をかき抱き、画面を睨みながら自分の頭上でシャッターを押した。
やがてヤン・チョウからメールが届くと、短い文章に写真を添付し、アドレス宛に送った。すべてが済むと、傍らの懐中電灯を振り上げ、思い切り壁に叩きつけた。
揺れる視界に身を任せ、リンはふたたび男の身体の上に身を投げ出した。
あれほど守ってくれたのに。ごめんなさい、わかみやさん。……もうほかに、行くべき場所はないの。
しおれた花を頬の下に敷いたまま、リンは濡れた瞳の上の瞼を静かに閉じた。
汗ばんだ手の中で、携帯が軽やかに鳴った。ヤン・チョウは安楽椅子から身を起こし、全身を乗り出すようにして画面を見て、思わず息をのんだ。
久しぶりに見るリンが、涙でぬれる頬を死んだ若宮の頬に押し付けて、威嚇するように美しい瞳でこちらを睨んでいる。
添えられた言葉はただ一つ。
『我殺迩』(お前を殺す)
チョウは身震いした。
ああユェリン、お前はなんと美しいんだ。
そんなところにいたのか、……さぞかしわたしが憎いだろう。
いいとも、いずれ殺されてやろう、それがお前の望みなら。
だから来い、愛しく痛ましいわたしの恋人よ。もう一度お前の顔が見られるなら、わたしの前に立つなら、わたしは何でも受け入れよう。わたしを切り刻みに訪れるがいい。
ヤン・チョウは携帯の画面の中のリンの顔を、震える指で何度も何度も撫でた。