奇跡の一枚
「斉藤といいます」
朴訥そうな背の高い青年は並んで座る社長と哲夫にぺこりと頭を下げ、鞄を掲げて見せた。
「山梨のA村キャンプ場、というところで働いてまして。お忘れ物……というかお届け物です。大事なものなので、郵便でお送りするよりは直接お持ちしたほうがと」
「なんでここに。うちの事務所の誰かの忘れ物か?」社長が哲夫のほうを向くと
「実はいろいろとアレなんですけど、まず、とにかく秘密にしてもらえますかね。実はキャンプ場のオーナーにも内緒なんで」
「そんなややこしいものなの」哲夫は鞄を覗き込んだ。
「おとといなんですが、うちにきたお客さんが、まあトイレだけ借りていなくなったんですが、忘れ物をなさったんです。というかそのかたが、そこになにかあるよ、と指差してそのまま出て行ったというか。でもその人のほかにはお客は家族連れしかいなかったしその人たちには心当たりがないというし、ぼくはその人がわざと置いて行ったと思うんですよね」
「それで?」要領を得ない話に、哲夫は先を促した。
「中身はカメラとメモ、あとDVDとminiSD、手帳とかですね。ええと、まずは」青年は若干躊躇しながら、メモを見せた。
「読んでもらえますか」
くしゃくしゃのメモ用紙を渡されて、社長は哲夫の目の前で広げた。ボールペンの殴り書きが五行、それが全文だった。
『この包みをそのまま下記の住所に送ってください。直接手渡しならなおさら歓迎。無事受け渡しが行われたなら、相手方から三十万支払うように連絡がとってあります。すべてはくれぐれも極秘で、データの中を見ると命に係わります。北原君、ということでよろしく。きみを信じている、荷の扱いは任せる。Rが現れたならよろしく。二人は生きている。S・W』
哲夫は社長と顔を見合わせた。
「社長。……三十万」
哲夫は手を出した。
「おい。名指しされてるのはおまえだろ」
「これ、誰から来てるかわかりますよね?」
「……」
社長は緊張のみなぎる哲夫の目を見た後、スタッフを呼んで小声で囁いた。スタッフは怪訝な顔で来客を振り向きながら、今用意します、と言ってドアを出た。
哲夫はメモを見ながら青年に尋ねた。
「その人の人相風体を覚えてる?」
「ええと、そうですね。まず男性で、年のころは四十代後半かな。無精ひげが生えてて髪はぐしゃぐしゃ、自由人というかアーティスト風っつうか。サングラスで顔はよくわかりません、ピンクのシャツ着てましたね。なんかいろんな昆虫がプリントしてある派手な柄の」
「ありがとう。で、連れはいた?」
「後ろに若い女の人がいたような…… よく覚えてないんですけど」
……二人は生きている。
押し寄せてくる脱力感と笑いと涙の波を、哲夫は自分でもよくわからない顔で迎えていた。
もらうものをもらって青年が退出すると、哲夫と社長は大急ぎでデータをパソコンにセットした。ひと払いをした部屋の中で、二人は固唾を飲んでモニターを覗いた。
……SYOU。
久しぶりに見るSYOUの、あの寂しげで美しい瞳が、画面の中からこちらを見ていた。彼のポートレイトが続く。行方不明になって以降なのが、日付で分かる。暗い車内で、酷く怪我をしている映像もあれば、ゆったりとした風情でまるでファッションフォトのように写っているショットもある。ああ、彼だ。あいつだ。生きてるのか、そうとも、その事実を疑ったことはなかった。哲夫は自分に言い聞かせるようにしながら、握った拳を口元に持っていき、口元の震えを押さえた。
「……若宮監督と会っていたとはな」社長が呟く。
「R、っていうのは、彼女……」
「おそらくな」
「怪我しているけど、……治療してもらっているし、こっちのほうは、……元気そうですね」
「そうだな……」
短く答えながら指先で社長が目元を拭くのを、哲夫は視界の端で見ていた。
SYOUのポートレイトのあとは、少女―リンのポートレイトが続いていた。
絵のような、と表現するには遠い、天上の少女のようなはかなく高貴な表情。造形的に美しいのはもちろんだが、それを越えた何かの祈りのようなものが、長い髪を揺蕩わせた少女の身体から滲みだしていた。
なかでも、肌をあらわにした何枚かのショットに、哲夫は衝撃を受けた。
他人の前に裸体をさらす戸惑いもなく、まるでそのようにして生きてきた美しい動物のように、少女は撮影者の前で様々なポーズをとっている。
うずくまり、眠り、仰向けになり、すっと立ち、……慎み深くまた気高いたたずまいが、あわい光源のもとに、花のように浮かび上がっていた。見てはいけないものを見ているようなときめきと後ろめたさに、哲夫の胸はわなわなと震えていた。
あのガーデンで、あんな目にあって生きてきた少女が、なぜあの男の前でこんな。いったいどういう経緯があったんだ?
そして最後、一枚の画像に、二人は息をのんだ。
淡いライラックブルーの色合いの中に、揺蕩うように絡み合う、二人の裸体。
幽明の境の霧の中に浮かぶような一組の男女は、そこだけ時が止まったかのような美しい歓喜の中にいた。
魂からあふれ出る、言葉にできない愛の極限。悲しみと果てしなく隣り合わせの、悦びの果て。……ある感覚の絶頂の中にいるもののみが見せる、苦痛と隣り合わせの歓喜。
妙な声が出そうで、哲夫は思わず知らず口元を押さえていた。
社長も隣で、言葉もなく画面に見入っている。
「綺麗、ですね……」
「……ああ」
哲夫は下を向くと、よれよれのハンカチを引っ張り出して目元を拭った。
「泣く奴があるか」
「社長こそ」
「当然だろう。こいつらが生きてたんだぞ」
「……そこだけじゃないでしょう」
「だってお前、これはなあ。……これは」
「若宮宗司の最高傑作ですね」
「……そうだな」
よかったな、SYOU。
状況を忘れてただ哲夫は、眼前の二人に呼びかけていた。幸せだったんだな。
「……これは加工してあるな」社長が横で呟いた。
「加工?」
「よく見ると不自然なところがある。たぶん、二人を別々に撮って、それを合成したんだろう。プロなら一晩でできる。色調から見て、モノクロフィルムで撮ったものに着彩したんだな。モノクロフィルムは階調が多いので、色をのせたときに情報が飛ぶことがないと聞いたことがある」
「……」
哲夫は複雑な心境で画面に見入った。そう言われてみればそうも見えるし、そもそもSYOUがこんな行為をそのまま監督に撮らせるほど酔狂だとも思えない。だが。
「それも大元の写真がないとできませんよね。またどうして、あのふたり……SYOUも彼女も、監督の前で肌を見せたんでしょうか」
「誰でもその気にさせる特技があるからあの地位までいったんだろう」
「そう言われちゃうとなあ」
哲夫はふたりの写真をアップにして見入り、そして呟いた。
「……でも、たとえ合成だったにしても、僕は現実の写真だと思います。
監督自身気づいてはいないけど、どこかで本当にこういう光景があって、それを自覚のないままここに再現したんじゃないかな。
天から降りてきたっていうか、……何らかの奇跡が、あるいは意志がここに召喚した、奇跡の一枚。僕はそう思いますよ」
「つまり、このふたりはほんとうにこういう形で結ばれたと」
「ええ。信じて疑いませんね」
社長は笑いながら言った。
「……おい。俺たちは今、大事なことを置き去りにしてるよな。わかってるか」
哲夫は社長の顔を見た。
「わかってますよ。
つまり二人が生きているという事実と、その二人と監督は今どこにいるのかという件と、Rが現れたなら、の意味するところとか三十万とか、そういう」
「三十万、な。まったく人を食った男だ」
「でもいいじゃないですか、今は。目の前にこんなもの、奇跡の一枚があるんですから、しばらくは」
やがて来る嵐のような時間を予期しながら、二人は改めて、ライラックブルーの写真に見入った。
そして哲夫は頭の隅で、柚木奈津子に連絡しなくては、とぼんやり考えていた。
午後の電話のあと、少女は部屋から出て来なくなった。
昼食の後、神父が新聞を手渡した途端、少女の私物が入っている紙袋の中の携帯が鳴ったのだ。
音楽はstevie wonderの 『as』だった。
太陽の周りを回っていると地球が知るように
咲くのは五月だと薔薇の蕾が知るように
愛が癒しだと憎しみが知るように
きみの心は安らぎに満ちる
ぼくが愛し続けるから ずっと……
少女はびくりと体を震わせて紙袋のほうを見た。
「ああごめんなさいね、あなたの身元が知りたくて、昨夜携帯の電源入れてアドレス帳を見ようかと。でもプライバシーに関することなのでやめたんです。
どうぞ出てください」
少女は恐る恐る携帯を手に取り、着信相手を確かめると、震える手で携帯を耳に当てた。
無言のまま唇をかむその手の中から、懸命に呼びかける誰かの声が遠く聞こえる。神父は耳をすませたが、何を言っているかまではわからなかった。
少女は何も言わずに携帯を切った。
「ごめんなさいね、わたし本当に中は見ていません。もうしませんから」
「もう、いいです」
少女は電源を切ると、紙袋を持って立ち上がった。
「……誰からですか。お身内のかた?」
答えずにそのまま背を向けようとする。神父は焦って新聞を手に取った。
「これ、読みますか。夕刊と朝刊」
神父が手渡した新聞を受け取った少女の頬は、ここに来て初めて見るもも色に紅潮していた。嬉しさからではないのが、表情からわかった。
「気分悪いですか」
「少し寝ます」
それから二時間。ことりとも音のしない少女の部屋の窓を裏庭から見ながら、神父は黙々と家庭菜園の世話をしていた。
このままここに置いておくわけにもいかない、保護者も心配しているかもしれないし、そのうち警察に連絡をとって捜索願いリストを照会してもらわなくては……
背後でがたんと裏木戸の開く音がした。
「神父さん。モーガン神父さん。卵と、ヨーグルトだよ」
振り向くと、胸に籠を抱えた麦わら帽子の新吉が、いつもの人懐っこい笑顔で立っていた。神父はシャベルを置いて立ち上がった。
「いつもありがとうございます。具合の悪いお客さんがいるので助かります」
「あのなあ神父さん、森へ行こう」
またいつものあれだ。神父もいつもの答えで返した。
「森ですか、施設の先生たちとお出かけになっては。第二水曜がピクニックの日でしょう」
「おれ神父さんがいいな。森には面白いものがあるんだよ。洞窟の森、穴がいっぱいある森、おれ、好きだ」
「百穴の森は危険ですよ。以前も落ちたでしょう」
「なんども迷子になった、怒られた。でも穴は面白いよ、寒くて、蝙蝠もいるよ」
「吸血蝙蝠もいるでしょう。危ないからおやめなさい」
「それからひともいるよ」
「おや、どんなひとが」
「大人が穴に捨てられてたよ、人形みたいに。おれ、花置いてきた」
「マネキンか何かでしょう」
「おれ、話をしてきた」
「会話したんですか?」
「おれが今まで森で見た妖精、たくさんの話をしてきた。だから妖精もおいてきた。ピンクの服の上に。きっと喜んでる」
「で、新吉さん、話をしたんですか?」神父は繰り返した。
「からだをここにおいて、妖精の国へ行っちゃってたよ。おれ隠したから、あのひとはもういないよ」
新吉は突然びくりとしたように身を震わせて目を丸くした。神父が振り向くと、裏口から出た「可愛い迷子さん」が煉瓦のたたきに立っていた。
「起こしちゃいましたか、お昼寝していたのに」
新吉は後ずさった。
「それ、もりからでたひとだな」
「さっきお話ししたお客です。可愛いでしょう」
「おれ、もういく」
「待って。……今、何の話をしていたの?」少女は張りつめた表情で、手を伸ばすと裏庭に足を踏み出した。
「ごめん、もう森にいかねえから!」
「待って!」
追いすがろうとしてつんのめった少女を、神父は抱き止めた。新吉は転がるように走ってもう教会の裏門を出ていた。
「変なこと言う人だけど、気にしないでくださいね。植村新吉さんといって、この近くの牧場で働いてる、ちょっと遅れのある人です。ああ見えてもう十九です。悪い人じゃないですよ、週に二日施設に車で通ってます」
「牧場……」
「オハヨ―牧場といいます。北にまっすぐ歩いて十五分ぐらいの距離ですね。よくチーズやヨーグルトを届けてくれるんですよ」
少女は振り向いて、男の走り去った後をじっと見た。
神父は手を伸ばして、その白い頬に触れた。
「……あなたは本当に生きているのかな。新吉さんが怖がったのも、少しわかります。目の前にいても、なんだか実体がないようですね」
神父は少女を明るいダイニングキッチンに誘い入れ、オハヨ―牛乳はなかなかおいしいんですよといって、冷蔵庫を開けた。
明るい八畳ほどの空間には、神父が手作りした木の食器棚、白木の椅子にテーブル、整理棚や壁掛け型シェルフがあり、綺麗に洗ったドレッシングのびんには野花が活けられていた。
神父はオハヨ―牛乳と書かれた瓶からコップに牛乳を注ぐとお互いの前に置き、ダイニングチェアに向かいあって座ると、牛乳をひと口飲んだ。
「どうぞ、おいしいですよ。生きてるんだなあって思える味です」
「……おいしい思いなんて」
少女はそれきり言葉を切った。
「思いなんて、なんです?」
「死んだ人には、無縁のものです」
「……あなたは生きていますよ」
「ですから、死んだ人には無縁なんです。こんな明るいお部屋にいて、きれいなお花を見て、おいしいものを……」
神父は首を傾げて、それきり口を閉ざした少女を見た。
「……かわいい迷子さんは、生きていることが誰かに申し訳ない?
すごくすごくそう思っていて、だからどうも生きているように見えないのかな」
覗き込む青い目と視線を合わせるのを避けるかのように、少女は顔をそむけた。
「どうしても嫌なら仕方がない。あなたとは何かご縁を感じたのですが」
「……ご縁?」
神父はコップのミルクの表面に、ジャムの瓶に活けられたミントの葉を一枚千切り落とした。
「昨夜言ったでしょう。わたしはこの仕事につきながら、人を救うのが本当に下手です。
昔、救いたかった人がいた。
まじめな夫と、無口な高校生の息子と、三人暮らしの混血の女性でした。
子どもがおそらく前の恋人の子で、……その恋人がヤクザの人殺しで、本来優しい息子が時折教師や同級生に暴力をふるうのが悩みだと言っていました。
この環境があわないのだろうと。彼の魂を救いたいと。
何度も身の上話を聞いて励ましたのですが、家族とうまく心を通じ合わせることができず、突然の病で死にました。村中がわたしとその女性との噂をしていると聞いたのはあとになってからでした。
かなりの嫌がらせもあったようです。わたしはそれを知らなかった」
ひと呼吸置くと、神父は言った。
「なぜだろう。あなたを見ていると、あの女性の悲しげな横顔を思い出すのですよ。誰かを大事に思っていて、心を通じ合わせたいと願っていて、でもそれをあきらめた、そういう風情が」
少女は大きく目を見開いて、神父を見上げた。
「ひととの距離の取り方がわからなくなって、わたしはその地を後にした。自分の失敗から逃げたのです。この地に来て、もう、逃げるのだけはやめようと決めたのです」
俯いて手を握りしめると、神父は言った。
「救いたいと思う。今度こそと思う。でも、わたしにできることは限られている。それがわかっているのに、また、救いたいと思う。わたしはこんなにちいさいのに」
ミルクの表面は今やミントの葉で埋められていた。
テーブルの上に置かれた神父の大きな手の上に、少女はみずから手を重ねた。
神父は驚いたように顔を上げた。
少女はそっと神父の掌を開くと、指で漢字をつづり、神父は青い目でその跡を読んだ。
つき。
……すず?
目を上げると、眼前に少女の瞳があった。長い細い睫に縁どられた瞼をすっと伏せたと思った次の瞬間、肩に細い手が置かれ、自分のほほに少女の柔らかな唇が押し付けられた。音楽のようなその声を、震える鈴のような声を、神父は夢のように聞いた。
「ラドクリフ・モーガン。どうかこれきりでわたしの名前を忘れてください。
でもわたしは、あなたのことを決して忘れません」
その日の午後、少女の姿は教会から消えた。