ぶどうの木
テラコッタタイルの床にしゃがんで葡萄の葉を塩でもみながら、窓からさす七月の陽光の中で、ラドクリフ・モーガンは故郷の歌を歌った。
気ままに歩けば 気分も明るく
はらはらと舞い落ちる木の葉のささやき
トネリコの木立 トネリコの木立 わたしのふるさとよ……
「神父様、お連れしましたよ」
キッチンの入り口から声をかけたのは、ボランティアで雑用をしてくれている信者の女性だった。振り向くと、小太りの彼女の後ろに、長い髪を美しく編みあげた少女が俯き加減で立っていた。ストレートな生成りの寝巻きの上に、レースのカーディガン。右足のひざからくるぶしにかけて巻いた白い包帯の下の肌も、包帯と同じぐらい白い。服は教会の寄進箱に入っている服から女性が選んだものだった。
「持ち主が見向きもしなくなった古着も、このお嬢さんさんが着るとまあモデルさんのようで。何を聞いてもお答えしてもらえないから、勝手におしゃべりしながら髪を編んで差し上げたんですよ。マーガレットスタイルっていってね、わたしの通うカトリック系の女学校で推奨されてた定番の髪型で」
放っておけばいつまで続くかわからないおしゃべりを、神父は片手をあげて制した。
「ありがとうございます、では彼女と食事をとりながらおいおいお話を聞いてみるとしましょう。熱のほうは」
「今朝はかったら七度台前半でした。微熱ですね。寝ているよりもまずお食事ですよ、昨夜も今朝も食べていらっしゃらないんでしょ」
「わたし特製のシチューをつくりました、きっと気に入ってもらえます」そういって神父は少女の目を見て微笑んだ。長い睫毛にけぶる目が、不安そうに瞬いてこちらを見た。
「高原野菜とチキンのシチューです、野菜はどれも取れたてです」説明しながら陶器の玉杓子で神父は少女の目の前の皿にトマトベースのシチューをよそった。ランチョンマットには件の女性が縫い付けたぶち猫の刺繍。少女はそれを手でなぞるようにすると、音を立ててグラスに注がれる赤い液体に目を移した。
「これも焼きたて」
神父は得意そうに少女の目の前にちいさなパンを翳すと、鼻先に持っていった。反射的に顎を上げて匂いを嗅ぐ少女に微笑んで、パン皿の上にパンを置くと、神父は唐突に言った。
「取れ。これは、わたしの身体である」
ランチョンマットの上の指が、ぴくりと動いた。
「これはわたしの血であり、多くの人に罪のゆるしを得させるために流される契約の血である。あなたたちに言う。わたしの父の国であなたたちといっしょに新たに飲むその日まで、わたしは今後ぶどうの実から造ったものを、けっして飲まないであろう」
黒いキャソック(司祭服)に眩しい金髪の神父は、厳かな口調のまま続けた。
「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。
人がわたしにとどまり、わたしも人の中にとどまるなら、 枝は多くの実を結ぶ。わたしを離れては、 あなたがたは何もすることができない。もしわたしにとどまらなければ、 枝のように投げ捨てられて枯れるだろう。 人々はそれを寄せ集めて火に投げ込み、燃やし尽くすだろう」
言い終わると神父はにっこりと微笑み、少女の額に手を伸ばした。
「まだ多少熱いですね」
「……大丈夫です」少女はようやく口を開いた。
「足のほうは」
「少し痛みますけど、大丈夫です」
神父はほっとしたように息をついた。
「昨日見たときはどうなることかとおもいましたが、回復も早いですね」
神父は自分の皿にもパンを置き、卓上の鍋からシチュー皿にシチューを注いだ。
「最初にあなたを見たときは驚きました、ひとというよりは生霊のような影の薄さでしたから。あの二人ほどではないですが、わたし自身悲鳴をあげないように必死で自分を制止していたんですよ。しかもしゃべらない。しゃべらない美人はせつなくて、怖いです。
今は言葉が聞けてとてもうれしい。
とにかく一緒に食べましょう。あなたが食べなければわたしはまた一から作り直さなきゃいけない。ジュースや牛乳だけでは身が持ちませんよ」
体温を感じさせない白い陶器のような横顔に、神父は昨夜の、夢かとも思える不思議な光景を重ねていた。
どん、という鈍い衝撃音に驚いて、壁の時計を見ると、夜の十時を回っていた。
暗い廊下を通って牧師館の玄関を出る。闇の中、石造りの門柱に軽自動車が衝突しているのがうっすらと見えた。
手元の懐中電灯を向ける。光の輪の中の車には人の動きは見えない。そのまま光を移動させたとき、危うく声をあげそうになった。車体の後部ドアの横に、ひとが立っている。すとんとした濃紺のワンピースに長い髪、夜目にも白い肌の少女だ。
「……大丈夫ですか。どうしました?」
ゆっくりと近寄りながら声をかけると、人形のような顔貌の少女は目線だけで車の中を見た。近寄って車内を覗くと、若い男性がハンドルに突っ伏しており、助手席では連れの女性が両手で顔を覆っている。
屈んで、半開きの窓越しに呼びかけた。
「大丈夫ですか。救急車を呼びましょうか?」
ハンドルからゆらりと顔を上げてこちらを見た男性は、彼の背後に立つ少女を見てうわあ、と悲鳴を上げた。
「落ち着いてください、このお嬢さんは人間ですよ。一緒に乗っていたのではないのですか?」
「あなた、神父さんですか」男性の声はトレモロのように激しく震えている。
「そうですが」
「じゃあそれ、その人、連れてってください。頼まれたから連れてきたんです。もういい、いいでしょう」
「なにがあったんですか。それよりお怪我はないですか?」
「門、こわしてすいません、後で弁償するんで、あの、今は」青年は震える手で万札を三枚、神父に渡した。
「そんなものはいいですよ。何があったのかだけでも簡単に説明してください。あのひとを誰に頼まれたんですか」
神父にたたみかけられて、青年はどもりながら説明を始めた。
「いま道、あの林道を走ってたら、急に目の前を何かが横切ったんですよ。すごいスピードで、なんか 四足の動物みたいに見えて、直後に衝撃があったんで、はねたと思って彼女と車を降りたんです。でもなにもなくて、結構な太さの木の枝が砕けてたんで多分それだろうと。な」
青年に肩を抱かれたまま、助手席の女性は無言でぶるぶると震えている。
「で、気のせいと思って車に戻って座ったら、バックミラー見て死にそうになったんすよ。
後部座席に座ってこっちみてたんです。髪の長い女性が。……あの子が」
そういう怪談を聞いたことがあると思いながら、神父は背後の少女を見た。
「なるほど。……それは怖い」
「でしょ。あわてて外に逃げようとしたんだけど、二人とも腰が抜けちゃって。そしたら後ろから指が伸びて彼女の首を、首を捕まえて俺に言うんです」
「なんて」
「十字架のあるところへ連れて行って。って」
「……」
「俺、彼女が両手で首を捕まえられたままだし、もういくしかなくて、マジ泣きしながら運転したんですよ。こいつ途中で気絶しちゃうし、それでここを思い出してきたんです、ガイドブックにのってたから。そういうことで、引き取ってください。もういいでしょ」
否も応もなかった。十字架を目指してきたならアンチキリストの魔物でもないだろうと、神父は頷いた。車は慌ただしく発進して、夜の道を走り去っていった。
神父は少女に歩み寄ると、こちらを見上げる感情のない瞳に話しかけた。
「足、怪我していますね。ちょっと見せてください」
少女の右足のひざには大きな痣ができていて、脛の裂傷からはかなりの出血が見られた。
「とにかく治療しましょう。歩けますか」
肩を貸そうと手をまわして、少女の全身が熱いのに神父は気づいた。発熱は事故のせいだけではなさそうだ。
「悪いけど、この方がよさそうだ。失礼しますよ」
ひょいと少女を抱き上げると、そのまま牧師館の中に運んだ。足でドアを蹴り開けて客用寝室に運び入れたとき、腕の中の少女が瞼を閉じているのに気付いた。暗闇で恐れたのが申し訳ないぐらい、無垢で美しい寝顔だった。
ベッドにそっと身を横たえ、足の応急処置を終えてしばらく、神父はベッドの横に跪き、その浮世離れした寝顔に見とれた。そして、突然の迷える子羊のために主に祈りをささげたのだった。
神父はテーブルの上で両手を組むと、その上に頭を垂れ、呟き始めた。
「……主よ、わたしたちを祝福し、またおん恵みによって今いただくこの食事を祝福してください。
主キリストの御名によって、アーメン」
少女は一言も発さず、スプーンを手にしたまま、神父が十字を切るのを眺めていた。神父は目を上げるといった。
「あなたはいいのですよ、ご自分の宗教もおありでしょう。食べてください」
「……宗教は嫌いです。どれも、みんな」少女はぽつりと言った。
「みんなですか。なぜ」
「ただの木をぶどうの木と言い張るひとたちが、いつもたくさんの人を不幸にするから」
神父は驚いたように目を見張った後、肩をすくめた。
「……なるほど。なかなか、手厳しいですね」
神父は自分を指差して言った。
「わたしの名前は、ラドクリフ・モーガン。最初に言いましたが、聞いていましたか?
イギリスから日本に来て十年になります。最初は東北のある村に赴任しました。たくさんの人に出会い、でも手を差し伸べて救えなかった人の数のほうが多い。あなたのように美しく可憐な女性もいた、だがたぶん、わたしと会う前よりも不幸になった。言葉で人は救えない。だからあなたに何かしてあげられると大口は叩けない。
それにきっとあなたは、わたしが出会ったひとたちの中で一番美しく、一番頭がいい。これからのわたしは、たいへんだ。
せめて名前を聞かせてください。あなたを呼ぶために」
編んだ三つ編みを後頭部で二重の輪にした髪型は、敬虔なクリスチャンか女学生のように見えた。少女はうつむくと白いうなじを見せ、
「……できません」
苦しそうにつぶやいた。
「お世話になったこと、とても感謝しているのですけど……」
明らかに日本人ではない訛りがあった。
「いろいろ事情がおありなんですね。
ではあなたのことは、かわいい迷子さんと呼びます。さあ食べてください」
とぼけた呼び名に、白い頬に思わず微笑が広がった。少女は紅をさしたような色合いの唇を開いた。
「契約の血、のほうは無理です。わたし、お酒が飲める年齢じゃないので」
神父は少女の目の前のグラスを持ち上げてにっこりと笑った。
「甘い優しい、ぶどうのジュースです。あなたの未来のささやかな幸いのために、乾杯しましょう」
少女はふと、傍らのマガジンラックの新聞に目を留めた。
そわそわと視線を離しがたい様子に、神父は声をかけた。
「昨日の夕刊と朝刊もありますよ。でもまずは食事です。食べ終わったらなんでも読んでくださいね」
「おい、見たかこのニュース」
背後から声をかけられて、北原哲夫は社長のデスクを振り向いた。
広げた新聞を覗くと、山梨県でキャンピングカーがタンクローリーに衝突炎上、という事故の二報が報じられていた。
「知ってますよ、例の怪談じみた交通事故でしょ。タンクローリーの運転手は火傷で重体、大破したキャンピングカーの運転手が帽子を残して現場から消えたとかいう」
「その車の持ち主が判明したそうだ。ちょっとここを見ろ」
哲夫は小さい囲み記事に目を落とした。持ち主は東京の元鉄工所オーナー、車は若宮宗司監督に貸し出していたと証言。関係者によると監督は現在連絡が取れなくなっており、事実上の失踪状態……
「若宮さん……?」
哲夫は思わず声を上げた。社長は手の煙草をにじり消しながら言った。
「お前最近監督と連絡つかないとかいってたな」
「ええ、何度か電話しましたが最近全然だめです。携帯にかけてもさっぱりつながらなくて。SYOUで映画を撮りたいとか意気込んでて、いろいろ景気づけに未来の夢の話とか一緒にしてたんですがね」
「念のため、今かけてみろ」
「……今ですか。無駄だと思いますけどね」
哲夫は短縮ダイヤルを押した。
ただいま電波のつながるところにおりません、という聞きなれた音声を予期していたが、珍しく呼び出し音が鳴った。
「あれ、……珍しい。呼んでますよ」
哲夫は胸を高鳴らせながら待った。
この番号には多くの人間がアクセスしているはずだ。もし事情があって姿を消しているなら、自分の番号とわかったところで電話に出てくれるか?
呼び出し音が止まった。電話をとった。緊張で一気に顔が紅潮した。
「もしもし、北原です。監督、監督ですか」
『……』
電話の向こうからはただ、沈黙だけが流れてくる。
「北原です、お久しぶりです。SYOUのマネージャーです、わかりますか。監督、ご無事ですか」
無言の気配に向かって、哲夫は呼びかけた。
「お聞きになっているなら、お返事してください。みんな心配してるんですよ。ひと声だけでも、どうか」
そのまま十秒ほど沈黙が続き、電話は向こうから切れた。
「ダメだ、今切れました」
その時ドアが開いて、見習いの新人スタッフが顔を出した。
「社長、アポイントのないお客様が玄関に来ていらっしゃるんですが」
「何の用か聞いたか。今忙しいんだ」
「それが、直接お渡ししたい大事な荷物があるとかで。若い男性です」
「……荷物? なんの?」
「それもお会いして直接お話ししたいとおっしゃっておいでです」
社長と哲夫は顔を見合わせた。なんとなく背中がざわざわするような予感があって、哲夫は言った。
「とにかく会ってみたほうがいいんじゃないですかね」
社長は一言で答えた。
「通せ」