背中を撫でてください
ナメクジ女、城島澪子宅からSYOUが解放されたのは昼過ぎだった。
あちら差し回しの車の、頬に鋭い傷跡のある若い運転手は、SYOUを乗せる時に発したどうぞ、という単語以外何もまだ話していない。尖った顎と鼻、切れ長の鋭い目は、日本人ではないらしいがどこの国かもわからない、異邦の香りを漂わせていた。
全身に、痛みと不快感を伴った疲れをからみつかせたまま、SYOUは今日の午前中までの異様としか言えない記憶をぼんやりと反芻していた。
「生きてる? ごめんなさいね、こんな目に遭わせて」
突っ伏したまま髪の毛をつかまれて乱暴に横を向かせられると、クラブ・ホーネットで見たときよりもずっと酷薄な目つきの澪子の顔があった。
「わたし若いころ、けっこう顔のいい男にレイプされたのね。実をいうと、それから見てくれがいい順に若い男はダメなのよ。じじぃならまあいいんだけどね。でもあなたみたいな子が完全に理性を失う表情を見るのは大好き。本当に、いたいけでかわいかったわ」
解放されたばかりの縄目の鮮やかに残る手首を指でなぞり、髪の毛が貼りついたまままの頬にそっと唇をつけると、髪を撫でながら女は満足そうに笑った。
「何か感想があったら聞かせてくれないかしら」
小さく息を吐くと、SYOUは言った。
「傷は……」
「え?」
「少しは、これで、癒えましたか」
「………」
いきなり背中をつつかれたかのような表情をして、澪子は黙った。
「……少しだけ、眠らせて」
そのまますとんと瞼を閉じ、汗で冷えたシーツに頬を落として、夢もない暗黒色の世界に落ちて行った。
「会話をしちゃいけないのかな」
静かな走行音の響く車内で、気を紛らわそうとSYOUは傷の男にやんわりと聞いてみた。
「これからのことは、お部屋についたらご説明します」
きれいな発音だが、やはり生粋の日本人ではないと思われるなまりがあった。
「……説明か。もう、生きて帰れれば何でもいいよ」
「ご気分が悪そうですね」
車窓の風景の流れが完全な二次元に見えて、眩暈とともに気が遠くなるような心地がする。こんなとき、ふと思い出すのはシャラの手触りだ。あいつのそばで丸くなって毛布を頭から被れば、どんなことがあってもいつでもその空間は優しかった。自分の呼吸と重なる猫のかすかな呼吸。いつでも胸に当てられていた小さな手。名もない、ささやかな楽園。もう、どこにもない。
「……鴨長明ておっさんは、なかなかいいこといってるよね」
前に視線を戻して、SYOUは唐突に口を開いた。
「は?」
「朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
この世は負け犬の死屍累々だ。とりあえず、朝があって夜があってまた朝を迎えられることに感謝」
ミラーのなかの表情のない顔が、ふっと薄く笑った。
豪奢なマンションの地下駐車場に、車は静かに降りて行った。高級外車の多いそのパーキングには広いエレベーターがあり、珍しいカードキー形式だった。最上階まではこれでないといけないらしい。ホテル以外にこんな機能があるマンションは初めて見た。
どうにでもなれという投げやりな気分と、これからさらに何を見て知ることになるのか、という他人事のような好奇心が、SYOUの中の痺れて痛覚のなくなった部分を裏側から刺激していた。
十階でエレベーターを降りると、なかばペントハウスのようになっているらしいその部屋ひとつしか、その階にはないようだった。あとははめころしガラスの向こうに見える、花に埋もれた広い屋上庭園がその階の半分を占めている。
天井まで届くポリッシュシルバーのドアの脇の呼び鈴を押すと、中からメイドのような風情の女性が顔を出した。男は中国語で何か尋ね、女が早口で答える。続く会話はSYOUには当然なにもわからない。ただ、ここは異空間なのだという印象が、その異国の言葉の応酬の中でさらに膨らんでいった。
応接室に通されたSYOUに蓋つきの茶器を出すと、女は頭を下げて姿を消した。蓋を開けると、水中花のように華麗な赤い花が、透明な湯の中にゆらゆらと花開いていた。
向かいに座った黒ずくめの傷の男は、青白い無表情で語りかけてきた。
「あなたを通す部屋には女性がいます。あなたを接待するのが彼女の義務です。果たせなければ彼女が罰されます。相手がだれか彼女にはわからないようになっています、そのための目隠しと耳栓です。外す外さないはあなたの自由ですが、それをすればあなたの身元が外にどういう形でばれても責任は負えません。今の仕事とキャリアを失う可能性をお考えください。それでよければお好きにどうぞ。怪我をさせないなら何をしてもかまいません。なお、あなたにはここで起きたことに関する絶対の守秘義務があります、それはあなたの命にかかわることと心得てください。何かご質問は」
「……」
SYOUはゆっくりと、畳みかけられたことの内容を反芻した。そして、言った。
「つまり、やることはやれと。できなければ罰は彼女にいくと。こっちは一向に構わないんだけどそれでいいの」
「彼女がそれでいいと諦めるなら無事に部屋を出られるでしょう」
「……」
「今日一日、彼女はあなたのものです。寝室にお飲み物をお届けしますが、何がよろしいですか。ソフトドリンクもアルコールもありますが」
「じゃあ、ドライ・マティーニ。ボンベイ・サファイア・ジンで、フランクリンスタイルで」
「かしこまりました」
……かしこまりましたときた。本当にわかってて答えてるんだろうか。
広いバスルームでさっとシャワーを浴びたのち、用意されたバスローブに身を包んで、鏡を見る。口元が痣に染まった疲れた顔。体のあちこちも微妙にいろんな色になっていることだろう。
……果たせなければ彼女が罰される?
手が込んでいる上に変態じみたいやがらせだ。俺のプライドをずたずたにしたのちに花園に放り込んで、それで今度は使い物にならなければ女を罰すると。……勝手にすればいい、罰されるのがこっちじゃないならどうでもいい。あの変態おばはんは俺の醜態を眺めることで十分満足していた、ここで俺がなにをしようとしなかろうともう大して興味もないだろう。
ドアを開けると、まずバラの香りが鼻孔を占領した。そして、白。階段型の織り上げ天井も壁も、白。レースのカーテン越しに午後の日差しが部屋をほんのりと満たす。隅の花台に、白を基調としたフラワーアレンジメントが置かれている。白バラ、スプレーマム、ヒムロスギの取り合わせの、清楚なスタイル。 ベッドサイドの白いテーブルにはドライ・マティーニがひとつ置かれている。二つ沈んだオリーブを確認して、注文通りフランクリンなのに少し感動する。(*)
ベッドの中央は人型に膨らみ、枕には黒髪が広がっている。顔は見えない。
近づいて、額から上を眺めたのち、そう、会話はできないのだと思い返してから、SYOUはそっと薄い掛け布団をめくった。そして、驚愕した。
……この子は。
まるでエジプトのミイラのように、両手で胸を抱くようにして、長い黒髪の少女が、薄桃色のシルクのナイトドレスを身に着けて横たわっていた。
黒い枇榔度の目隠しをされ、その唇は閉じられていたが、ひと目見ただけで昨日のフルートグラスの少女だとSYOUにはわかった。
その体の緩やかな起伏も鼻梁から顎にかけてのうつくしい稜線も、まるで堀り起こされたばかりの女神像のように神々しい。SYOUはしばらくつくづくとその全身を、なにかの作品のように眺めたのち、ただ思った。
会話がしたい。触れるより会話がしたい。きっと彼女もそうだろう。この全身が、そういっている、そんな気がする。
でも、それは許されないのだ。
ベッドのふちに座り、手を伸ばす。少女の頬に触れてみる。
びくりと指の下で反応があり、さざ波のような衝撃が少女の内側に広がるのがわかる。
それから、唇。やわらかに優しい、小さな枕のような感触。幽かに口元が開いて、指の行く先を追う気配を見せる。そのままゆっくりと指先で、唇の上を一周する。上下の唇の間で人差し指が止まると、内側からあらわれた小さな舌がそっと 指の腹に触れた。小動物の巣の中の、母を待つ赤子のように。
髪を撫でてみる。指を開いて、その絹糸のような感触を五本の指に存分に味あわせる。かすかに開いた少女の唇から、音にもならない幽かなため息が漏れる。胸の上に重ねられた少女の指を握る。指先をずらし、隆起した胸の突端に触れてみる。あ、とため息とも喘ぎ声ともつかない小さな音が漏れ、少女の膝がかすかに上がる。二つのふくらみが、荒くなった呼吸とともに緩慢に上下し始める。
SYOUは手を離し、額に手を当ててしばらく考える風にした。そして決心したように唇を引き結ぶと、いきなり手を降ろして彼女の耳栓を外した。どこから見られているかもわからないので、シーツに隠し、わからないように。
少女は驚いたように身じろぎし、耳に手をやった。SYOUは耳元に口を寄せて、小声でささやいた。
「……正直に言おう。僕はやっぱりこれ以上何もしたくないんだ」
少女はこちらに顔を向けると、驚いたように唇をかすかに開いた。
「好きでここに来たわけじゃない。別の出合い方をしていたらそれは違ったかもしれないけれど、こんなところでこういうかたちできみみたいな子と関係を持ったら、ひととして一生立ち直れない気がする。でも、何もしないと、きみは罰されるんだろう。それは嫌だ。僕はどうしたらいい」
少女-リンはSYOUのほうに顔を向けたまましばらく黙っていた。
ゆっくりと手を上げ、白い指を探るように伸ばすと、SYOUの頬に触れた。
そしてそのまま細い腕がゆっくりと、SYOUの首に回された。SYOUが手を添えると、リンはしがみつくようにして耳元に口を寄せた。甘い吐息に小さな声が続いた。
「……ショウ」
「うん」
「あなたなのね」
「うん」
目隠しの下から、滑らかな頬をすうっと、透明な涙の雫が零れ落ちた。首に回された手にぎゅっと力が込められた。
「わたし、あなたに、……あいたかった。
あなたが好きだった。ここで、あなたを待ってた。あいたかった。あえればもう何でもよかった。やっと、この時が来た」
SYOUは驚いて聞き返した。
「あのとき、言っていたのは、じゃあ……」
「わたしも、あなたとなにかしたかったわけではないの。ただ、本当にただ、あなたにふれたかったの。こんなふうに」
SYOUは絶句した。
「きみ、……いくつなんだ。本当に僕に会うためだけにここにいるのか。嘘だろう。どうやってこんなところに。だって、この場所は……」
「……よかった」
「よかった?」
「あなたがそういうひとで、よかった」
「………」
リンの唇の両端が、初めてかすかに上がった。
「わたしは、あなたを思うことだけで、生きてきた。わたしの人生にはほかになにもない。あの日あなたに会ったあと、涙が止まらなくて困った。生きてきていちばん、嬉しかった。
ここでこんなわたしをみられるのはいやだけど、わたしを拒否するあなたでいてくれて、うれしい。だから、会えてうれしい」
SYOUは沈黙してただ少女の顔を見た。そして口を開いた。
「いまからでも、きみの故郷に帰れないのか」
「もう遅い。わたしにはもう家も家族もない。国籍もない。この世界から出られない」
「え……」
「いいの。わたしは、いいの。ここでいいの。なにもつらくないの」
「いいわけないだろう。僕に会いたくてここに来て、そしてこれで終わりでいいなら、どうやってきみはこれから生きていくんだ」
しばらく口を閉じて考えたのち、リンは静かにいった。
「きょうの、この瞬間を思うだけで、あとの人生を生きられる」
「………」
空砲のような衝撃と、
驚きと、かなしみと、そしてそれに続く未知の怒りと嫌悪感が一気にSYOUの胸に押し寄せた。
「……わたしのことは大丈夫。なにもしないでくれて、ありがとう。あなたが幸せでいてくれれば、わたしは幸せ。だから、もう、いい」
しばらく考えると、SYOUはリンの頬に掌を寄せ、そして拒否する間もなく、いきなりその枇榔度の目隠しをほどいた。
「あ」と小さく声を出すと、リンは顔を覆うようにした。
「今日だけを思って生きていくなら、ちゃんとこっちを見て」
「だめ、慣れていないの。誰の顔も見なかったから、わたしはここにこうしていられたの」リンは両手で顔を覆いながら言った。
「きみは僕相手に恥ずべきことをするわけじゃないし、僕も同じだ。今日の記憶だけで生きるなら、ちゃんと顔を見て。僕も忘れないから」
顔を覆っている両手を、SYOUはそっと握って退けた。あの夜、クラブ・ホーネットで見たときよりも近く、本当に近くに、二人の顔はあった。深い森の奥の泉のような、不思議な煌きを宿す鳶色の瞳。その中に、初めて見る花を覗きこむような、自分の顔があった。
「……ショウ、どうしたの。誰かに殴られたの?」
「大したことじゃない。少し喧嘩しただけ」
リンの細い手がそっとSYOUの口元の傷を撫でた。
「あのね。ひとつだけ、おねがいがあるの」
「……なに?」
鈴のような声を震わせながら、リンは言った。
「じかにわたしを抱きしめて、背中を、撫でてください」
「……背中を?」
「それが、たったひとつの、夢でした」
SYOUはバスローブから腕を抜くと、たくましい上半身をあらわにした。リンも目を落とし、すっと夜着から腕を抜いてまっしろな上半身をさらした。豊かな乳房がこぼれ出て揺れた。
ふたりとも、初めて異性の肌を見るローティーンのように、胸の内を震わせながら未知の熱に導かれていた。リンはそっとSYOUの胸に耳をつけると、長い睫に縁どられた瞼を閉じて、うっとりとその鼓動を聞いた。とん、とん、とん、小さな声でリンは嬉しそうにSYOUの鼓動を数えた。
そのすべらかな背中へSYOUはゆっくりと両手を回した。静かに、やさしく、宝物を包むように。そしてふたりで、横になった。
「ああ」
ひとのような、何かの動物の鳴き声のような、風のような、ささやかなため息が彼女ののどから漏れ、そして一度とまっていた涙が、今度は咳を切ったようにほろほろとこぼれつづけた。暖かな大理石のような手触りの背中のカーブを撫でながら、何か言おうとしたわけではないのに、SYOUの口から自然に、その言葉は漏れ出ていた。
「……いい子だね」
リンは,驚いたように唇を開くと、細い腕に一層力を込めてそのたくましい体にすがりついた。
「ほんとに、きみは、いい子だね……」
泣くようなリンの声がそれに続いた。
もういちど。おねがい、ショウ、もういちど言って……
隣室でモニター画面をじっと見ていた傷の男は、禁じられた会話と彼女の慟哭を聞きながら、細い指で無意識に自分の唇の上をたどっていた。そして下を向いてしばらく考えたのち、モニターのスイッチを切った。
*フランクリン…… オリーブを二つ入れたドライ・マティーニ