草原の三人
「お客さん、そろそろ普通に走っていいですかね」
初老の運転手の言葉に、詩織は片手で宝琴の肩を抱いたまま窓の外を見ると、硬い声で答えた。
「いいわ、もう大丈夫みたい」
幹線道路から住宅街に入って路地裏を迷走し続けたタクシーは、ようやく四車線の道路に出ると、スピードを上げて走りだした。
「こういうのは久しぶりでねえ。得意じゃないわけじゃないんで少し胸が踊りましたよ。A級ライセンスを取ったついでに探偵でもしようかと思ったことがあるぐらいで。お客さん綺麗だし男関係も大変だろうねえ」
おしゃべりで乗りのいい運転手は、サングラスの上に帽子を深くかぶった詩織の正体には気づいていないようだった。詩織は窓の外に広がる夜の東京湾を見ながら、呟くように言った。
「長生きしたいならタクシーの運転手のほうがいいわ」
目指すホテルのかなり手前でタクシーを止めると、詩織は多めに料金を払い、宝琴と共に車を降りた。湾岸の海風に吹かれながら、深夜の道をうつむいて歩く。
「つけられてたの?」
ずっと無言だった宝琴が、手を引かれながら短く尋ねた。
「いいえ。用心のためよ」
「どこへいくの」
「あそこのホテル。もう少し歩いてね」
宝琴は詩織の指差す先、真っ暗な海の向かってそびえ立つ、巨大な二つの塔をつなげたようなきらびやかなホテルの威容に眼を見張った。
「……あんなすごいところ?」
「完全会員制だからあのほうが安心なのよ。おやじの威光にすがるのは悔しいけどこのさい仕方ないわ」
TBコートクラブ。詩織の収入でも到底入会費と年会費の追いつかない超高級会員制ホテルだった。非会員は何人たりとも、敷地の中にさえ入れない。家族会員として宿泊したいと実家に電話を入れると、詩織の行き先に神経を尖らせていた父親はもう責めるのも疲れた様子で予約してくれた。
マンションの部屋に、ホテルに泊まるきっかけとなる電話が入ったのは深夜一時を回ったころだった。
その時間帯と公衆電話からという特殊性に、詩織は何かを覚悟しつつ受話器をとった。SYOUであることを祈ったが、耳に届いたのは怒りを押し殺した、知らない男の中国語だった。
わけがわからないまま、傍らで見つめる宝琴を見やると、少女は細い手を出してきた。詩織は黙ってその手に受話器を渡した。
しばらく受話器を耳にあてて相手の言葉を聞くと、宝琴は黙って電話を切った。
「……わかった?」
緊張をみなぎらせた詩織の眼を見つめ、宝琴は言った。
「誰からかは、わからない。
……ボスの居場所を言えって。
明日の昼までにわからなければ、覚悟してもらうって」
この時間に、一方的な内容の電話をかけてくること自体、相手が相当混乱した状態にあることはわかった。
ボスとは、ヤン・チョウ……張家輝のことだろうか。なにがあったかはわからないが、中国語でかけてくるということは、ここに中国語のわかる人間、リンでないなら宝琴がいることを確信しているということになる。
「今までに電話に出て誰かと喋ったことはある?」詩織が尋ねると、宝琴は青い顔で答えた。
「……SYOUが出て行く前、中国語なまりの男の人から日本語で電話があった。しょうくんいる?って。わたし、わかみやさんだと思って、いつ帰るの? って聞いちゃったの」
「帰る?」
「リンが熱があって、お医者に診せるって、わかみやさんがつれていったから……」
はじめて少女の口から聞く、リンの消息だった。
「よく教えてくれたわ。どこへ連れていったかわかる?」
「キャンピングカーで出かけたと思う、行き先は分からない」
「キャンピングカー?」
「わかみやさんが誰かから借りてる。それに乗って、わたしたち、夜遠くに行ったことがある」
「遠くって」
「富士山が見えた。霧が出てた。広い草原」
次から次へと尋ねたいことが出てくる中、詩織はとりあえず頭を整理した。
「外からの電話に話を戻しましょう。それでそのとき、ほかになにか話した?」
「なにも。すぐSYOUに電話を取られた。
SYOUは黙って相手の言うことを聞いてて、そのまま切った。そのあとすぐに、ここを出て行ったの」
マンションに電話がかかってきた、と彼から言ってきたのがその電話だとするならば、そのときの通話の相手はヤン・チョウ。たぶん、間違いないだろう。そして今回はそのチョウの行方を誰か、おそらくあわてた配下が尋ねていることになる。
チョウは中国語訛りのきつい通話相手がこの宝琴であると確信し、情報として周囲にそれを告げていたのだろうか。この少女に利用価値があるのなら、それはそのまま彼女の身の危険につながる。リンほどではないが日本でも芸能界でそのまま通じる美貌の子だ。だがそれ以上に彼女の身分に価値があるなら……
「わたしはあなたの味方よ。それはわかるわね、宝琴」
詩織は背を低くすると、少女に目線を合わせた。宝琴は素直に頷いた。
「じゃあ、教えて。あなたを守りたいの。あなたはガーデンにいたのよね?」
少女はまた頷いた。
「あなたは、有名かしら? いえその、そもそも、どうして中国を出たの?」
「リンの従姉妹だから。お父さんとお母さんは警察に連れて行かれた。わたしは、リンが待ってると言われて、知らない人に日本に連れてこられた」
その場で詩織は、マンションをすぐに出ることを決意したのだった。
最低でもひと部屋六十平米は下らない。そういう作りのホテルだった。
きらびやかなエントランス、磨きこまれた調度品、海に向かって開け放たれた窓とテラスに目を見張り、宝琴は手にぶら下げていたウサギのぬいぐるみを胸に抱え直すと、ゆっくりと窓辺に向かった。詩織は背後から続き、部屋の明かりを消して、ともにテラスに出た。
夜の海は寝静まった湾岸のホテルやマンションのささやかな灯りを映し、あと僅かで夜明けを迎える夏の空の微妙な色合いを迎える用意に入っているようだった。
「疲れたでしょ。とにかく、眠ったらいいわ」
海風に吹かれながら、詩織は後ろから少女の頭をそっと抱いた。
中国を出てから、どんな日々をどのようにこの少女が過ごしたのか、詩織の想像の外だった。
SYOUが、リンが、おそらく懸命に守ろうとした小さな身体。自分はそのすべてを今、両手に抱いている。そのほのかなあたたかさに、身が震える思いだった。
「海と空」
少女は歌うように言った。
「風と、夜。あの時と同じぐらい、広い」
「あのときって、……富士山の見える草原?」
詩織は眼下の巻き毛に尋ねた。
……キャンピングカーで行ったという場所。話からして、朝霧高原あたりだろうか。
「わたし、草の中に座って見てた。あの時間は、SYOUと、リンのためのものだったから。あのまま時間が止まってしまえばよかった。歌ったり走ったりSYOUに抱きついたり、リンを見てるだけで楽しかった。
二人を見て、ずっと想像してたの。SYOUがパパでリンがママで……」
……子ども?
「あなた、いくつだっけ」少女の語る情景に胸の一部を穿たれながら、詩織は海を見つめる横顔に尋ねた。
「十三歳」
「リンは?」
「わからない。リンはちっちゃいとき、船に乗って川を流れてきたから、年齢がよくわからないって大千老大……リンのパパがいってた」
「船に乗って?」詩織は聞き返した。それではまるで神話かお伽話の世界だ。
「蘆の船で、リンを拾い上げたらすぐに沈んだって。老大はよく変な冗談言うから、ほんとかどうかわからないけど。
リンが流れてきた香渓の流れは、昔、王昭君ていう美女が真珠を川に落として、その時からきれいな流れになったんだって。王昭君はわたしたちが育った村の出身で、後宮から砂漠の民にさげ渡された、すごく綺麗な人。老大はリンを王昭君の生まれ変わりみたいに言って、よく王昭君の歌を歌ってたわ」
その出自から現在にいたるまで、常に神話伝承に片足を突っ込んでいるような黄月鈴の人生の輪郭は、宝琴の話でさらに定かならぬものになったように思われた。
その物語性に心を奪われて、現実が見えなくなっているらしい男が一人いる。若宮監督。そして、……柚木晶太も?
『何かに導かれるようにきみと彼女は出会い、背中を撫でられるのが好きな猫、きみのために命を落とした猫と、その猫にプラトニックラブをささげた黒猫と重なる存在もまた傍らにいた』
謎のような若宮のメールのあの箇所を読んだとたん、桜の舞い散る道で、リンの傍らに立っていた背の高い黒服の男、頬に傷のある男が思い浮かんだ。ということは自分もまた、物語に侵食されている一人だろうか。SYOUが、かつて愛した猫、ピアスにしてまで一緒にいることを望んだ猫と、陽善功の後継者と目されている美少女を同一視していることが、それほど頓狂なこととも思えない自分の胸に、王昭君の話やリンの出現の神秘もまた、すんなりと入ってきてしまうのだった。
「葦の船っていうと、日本の神話では、イザナギとイザナミという二神の間に生まれた不具の子を乗せて流したと言われてるわ」詩織は夢見るように言った。
「ふぐ?」
「ヒルコという神でね。足腰が立たない体だったと言われてるの」
「神様なの?」
「そうよ。両親には捨てられたけれど、後に別の人に拾われて豊漁の神になったわ」
「わたし、リンがこの世の神様でもいいな」
突拍子も無い言葉に、詩織は裏の意味を読み兼ねてただ微笑んだ。
「あのままあの霧の草原で時が止まって、リンが女神で、SYOUが男の神で、さいしょの世界を作って、何もかもがそこからまた始まればいいのに」
宝琴は両手で抱え込んだぬいぐるみのやわらかな頭に、唇を押し付けた。
……きみは今まで客としてしか彼女に会っていない。だが手中に彼女をおさめた今、きみは男たちを死へといざなう彼女の宿命と丸ごと対峙することになる……
メールを読んだのちリンが豹変したとするなら、彼女は自分の宿命と対峙させられたことで、あの夢見るような状態から現世に立ち戻ったのだろう。
なんと罪作りなことか。そして当初彼女のこの世からの消滅さえ願った自分までもが、今は宝琴の夢の世界に二人を戻したいと思っている。
詩織は明滅するレインボーブリッジの赤色灯に遠く目線を合わせながら呟いた。
「……二人が原初の神なら、夜の草原は高天原ね」
「そしてわたしは、二人の子どもとして産まれるの」
「どうして子どもなの?」
「家族だから、ずっと離れないのよ。いつまでもずっと一緒なの」
「そこにわたしも入れてよ」
いたずらっぽい声に、宝琴はちらりと詩織を見上げた。
「……おねえさんは、無理」
「あら、なんで」
詩織の目を見つめながら、少女は何かの宣言のように言った。
「おねえさんは、ちゃんとこの世で生きて、この世で幸せになる」
予言めいた言葉に、詩織は思わず少女の肩から手を離した。
少女はふわりと一つあくびをすると、ゆらゆらした足取りでベッドに向かい、
ぬいぐるみを胸に抱き込んで、動物のように真っ白なシーツの上で丸くなった。
なにも言わずに自分の夢の世界に帰ろうとする小さな姿を見ながら、詩織は思った。
……この子を、渡さねばならない。
確実に、絶対に。
柚木奈津子。……SYOUが願った、あのひとに。
スコッチのオンザロックを眞一郎の目の前に置くと、澪子は自分のスコッチのグラスに蜂蜜を注いだ。
「相変わらず邪道が好きだな」
「甘くない飲み物に価値なんてないわ」
そういって真っ赤な唇を冷えたグラスに付けると、一気に半分ほど飲み干し、螺鈿細工のテーブルに置く。
眞一郎の寝室は調度のほとんどがマホガニーで統一され、ダウンライトの薄明かりがキングサイスのベッド脇で向かい合う二つのモスグリーンの椅子にほんのりと落ちていた。ふたりの顔に落ちる影は濃く、陰影が沈黙をさらに深くしている。
「もう干渉するのは諦めたの」
「ああ、お前には世話をかけた。もうあいつは好きにさせる。奔放なところは母親譲りだと思っていたが、とうに母親以上だ」
「まだまだ心配をやめる時期じゃないわ。あのホテルならセキュリティーも宿泊客もしっかり管理されてるからまず大丈夫。でも、彼女からしてみれば不憫なのは父親のほうだと思っているかもしれないわね」
眞一郎は水滴の浮いたグラスに口を付けると、軽く振って氷を踊らせた。
「国の飼い犬になった気分はどうかとその口から言ったらどうだ」
澪子は軽く眉を上げると、小首をかしげて言った。
「どうしてそんな尖った言い方されなきゃいけないのかしら。任侠がどう仁義がどうプライドがどうといってみても、所詮はシノギあっての渡世でしょう。現状を精査して、強いもの寄るべき港を見極めるのも器のうち。上に立つものの苦労はわかってるつもりよ」
「おまえはなにもかもわかっているだろうさ」
眞一郎はシガーケースから細いタバコを取り出した。澪子は手を伸ばして、金色のライターでその先に火をつけた。
「言っておくが、日本の恥とされる部分を守る仕事がシノギに繋がるとしても、恥とは思わん。極道といえど、トップに登れば国の中枢とも繋がる。国の清濁をあれこれ言う立場にはもとよりないが、一番の恥は、日本を動かす起動部分を浸食する害虫と添い寝することだ」
「害虫?」
「歯車の一つのような顔をして、その擬態をとけば外国産の害虫だ」
眞一郎はじっと澪子の顔を見た。見返す澪子との間に、ぴんと張ったピアノ線のような緊張がはりつめた。
「どんな汚れ仕事をしようとも、自分は今ここ、日本という国で日本人として守ってきた規範がある。永々として受け継がれた、それなりの極道の道だ。異教、あるいは異郷のものに利用される恥だけは呑めるものではない」
澪子は伸一郎の吐き出す紫煙がゆっくりと渦を巻き、四散していくのを見ながら答えた。
「……では呑まなければいいわ。蜂蜜を混ぜてまで味を合わせることもないでしょうし」
眞一郎は薄く笑うと、煙草の灰を落とした。
「そう、美味ければ呑むさ。自分にとって美味いと思えている限りはな」
また深く煙を吸い、ゆっくりと吐き出すと、澪子の豊かな胸に視線を落としながら、眞一郎は続けた。
「……お前はまったくいい度胸をしている。詩織の母親といい、どうしておれは己の身を危うくする、股の内側に毒を飲んだような女にばかり惚れるのだろうな」