彼女のために
歩道橋の両端で待機していた男たちは、銃声と叫び声に頭上を振り仰ぎ、どんという衝撃音がどこから聞こえたのかわからぬまま、フルスピードで通過してゆく緊急車両のサイレンに大声を被せてボスの名を呼びあった。何が起きたのかわかったのは、パトカーをラストに控えた一連の車両が通過し終わってからだった。
ボスが落ちた、SYOUも一緒だ!歩道橋の上から一人が叫ぶ。
車の上か下か?
わからない!
道路に飛び出し、痕跡を探す。真っ先に見つかったのはベネチアン・レザーの、ボスの革靴の片方のみだった。路上のどこにも、二人の姿はない。
男たちは口々に中国語で叫びあいながら、車に飛び乗り、車列を追った。
背中をしたたかに打ったあと、SYOUの身体は一回バウンドして赤いタンクの端に転がった。すんでのところでパイプをつかみ、もう一方の手が握りしめるネクタイの先を見る。藍色と桜色の縞模様のネクタイの先に、喉を締め上げられて真っ赤に紅潮したチョウの顔があった。仰向けになって、ちょうどタンクの真上に身を投げ出している。
SYOUはネクタイを渾身の力で握ったまま首を上げ、自分たちが落ちたのが動力ポンプ付きの大型水槽車の上であることを確認した。運転席に気づかれていないならこのまま大丈夫だ。振り落されないよう気をつけながら、這うようにしてチョウに身を寄せてゆく。
「運命の女神とやらはまだ俺達をあっちの世界に拉致する気はなさそうだぞ」
わずかに身を起こし、チョウは横を向いて口の中の血を吐き出して呻いた。
「……歯が折れた」
「インプラントでも入れろ」
「ここまで無茶苦茶な男だったとは予想外だ」
「調査不足だな」
口の中を切ったらしく、チョウの流血は止まらない。何度かせき込みながら血を吐き出すチョウに、SYOUは言った。
「何人命令だけで殺したか知らないが、たかが歯の一本だけでも結構痛いもんだろ」
車は悲鳴のようなサイレンの音を響かせながら、夜の街を疾走している。
「……一体この後どうしたいんだ」
「邪魔が入らない場所であんたとちゃんと話がしたい」
チョウは呆然とSYOUの顔を見上げた後、また咳込んだ。
「……どういう頭をしてるんだ。この状況でまともな話ができるつもりでいるのか」
車輛がスピードを落とし始めると、SYOUは顔をあげて周りを見た。
「次の交差点で降りるぞ」
「……」
いきなりSYOUは男のスーツの上着を引っ張り、内ポケットから携帯を取り出すと電源を切って自分のポケットに入れた。
消防車の行く手、真夜中の通りの左手に、高層ビルのただ中の真っ暗な森のシルエットが見えはじめた。
「ネクタイの端を持ったままだと首つりになる可能性もあるんだが」SYOUが呟くと
「じゃあ手をはなせ。今更逃げない」
「よし、信用しよう。あの信号機を過ぎたら一緒に飛び降りるんだ」
大きくカーブを切った先で、二人の男の影が消防車の屋上から路上に飛び降りた。チョウは着地し損ねて膝を打つと道路に転がり、近くに飛び降りたSYOUに抱えられてそのまま夜の公園に引きずり込まれた。
サイレンの音が去ると、SYOUは傍らでうずくまるチョウをみて、わずかに白い歯を見せて笑った。
「満身創痍だな、兄弟」
「……」
サイレンが遠ざかると虫の声があたり一面を圧していた。チョウは拳で口元を拭った。その横顔を見ながら、SYOUは淡々と言い放った。
「あまり時間がない。あんたと決めたい話があるんだが、その出血じゃ無理かな」
「こんな一方的なやりかたで何の話ができる。まず携帯を返せ」
「俺に命令できる状況だと思うか」
チョウは下を向くと、また口元を押さえた。SYOUは俯いたままのチョウの前髪をいきなりつかむと上を向かせ、桜色の唇で唐突に煙草臭い唇に蓋をした。
顔の下でチョウが驚愕しているのがわかる。
それには構わず、蛇のように舌を使って歯を開けさせると、口の中の鉄臭い液体を自分のほうに吸出し、ついでに舌先で折れた歯を特定し、その傷に触れてまた血を吸い出した。そのうち、舌の動きも唇の重ね方も緩やかになり、まるで久しぶりに会った恋人同士の口づけのように甘い何かの気配さえ漂い始めた。
目の前で伏せられた睫毛と眉と額の彫刻のような陰影を、チョウは別次元の出来事のように呆然と眺めていた。無言のまま青年の身体はすっと自分から離れ、横を向くと口の中の血をペッと地面に吐き捨てた。道路からの灯りしか光源のない公園の闇の中で、唇を自分の血で染めて静かにこちらを見るざんばら髪の青年は、首の周りに波打つ紫のスカーフとも相まって、今まで映像で見たどんな彼よりも艶めいて見えた。
「……きみを誤解していた」
「なに?」
チョウは半身を起こそうとして打撲した膝の痛みに顔をしかめると、肘をついて体を横に向けて続けた。
「あの女…… リンのことだけを、魔性の女だの死の女神だのと呼んできたが、きみも結局似たような場所に住んでいるらしい」
「そいつは光栄だな。だが、いま大事なのは取引だ」SYOUは拳で口元を拭った。
「……取引。この状況でか」
チョウは呆れついでに小さなため息をついた。
「……誰を相手になにを話しているのかわかってるのか。本気で頭がいかれているのか、先のことは考えないのか」
「あんたは貴重な人間だよ、少なくともリンに惚れているし彼女の命を助けたいと思っている。それはわかった。だから今のは、俺なりの契りだ」
「なんだと?」
「あんたの国では、義兄弟の契りを結ぶとき、お互いの血を交わし合うという風習があるんだろう。目的は一緒だ、一蓮托生と行こうじゃないか」
チョウはじっと、SYOUの獣のような瞳を見た。ここまで人を喰ったヤツにはあったことがない。義兄弟の契りだ? 一蓮托生?
「……冗談だろう」
「まあ冗談だよ。じゃあまずは教えてもらうことから」SYOUは平然と言うと膝の草を軽く払い、チョウの横に胡坐をかいた。
「いったん車が入ったというキャンプ場の名前、監督の遺体のある場所。それとあんたが使える武器の出所と場所を言ってくれ」
「……」
チョウは沈黙したままSYOUを見上げた。自分の正体を知り、この状況に至ってなお、この男は暗がりでオヤジ狩りでもするようなつもりでいるのか。
「一体どういう条件でわたしにそれを話させるつもりなんだ?」
SYOUはかすかに笑うと自分のスカーフをほどき、ふわりとチョウの首の周りに回した。そしていきなり上半身を突き倒すと、身体の上に馬乗りになった。
「考える時間も必要だろうが本気で余裕がないんだ、あんたの手下も死に物狂いで居場所を探していることだろう。そのまま平和に呼吸していたかったら五分以内にみんな答えろ」そういうと、スカーフの両端をゆっくりと引いた。
「そのまま締めてみろ。この場でわたしを絞め殺して得られるものがあるか?」眉間の皺を深め、絞り出すような声に怒りを込めてチョウは言った。
「大量殺人鬼兼恋敵兼恩人を殺した男の確実な死だ」
「言わなければ殺すというのは取引とは言わない」
「正当な取引がお望みか。じゃあそっちから、これがあるなら喋るという条件を出してみろ」手を止めてSYOUは言った。
チョウはしばらくSYOUの顔を見上げて考えていた。
「もし彼女が手元に戻ったら」
そしてしばらく言葉を切る。
「何をどうするつもりだ、これから」
「彼女の望むことをする」SYOUは即座に答えた。
「それが殺人でもか」
「そういうことをリンは俺に望まない」
「じゃあなにを」
「お前に言ってどうなる」
「それを聞かせれば、さっきの三つの質問に答えよう」
SYOUは不思議そうに男の顔を見ていたが、やがて用心深く尋ねた。
「あんたの答えが真実だという確証をどうすれば得られる」
「わたしがリンに惚れていることはわかったと言っていたな」
「ああ」
「ではそれだけだ。わたしときみは生きかたが違うが根底のところでは同じだ。ファン・ユェリンを愛している、そして」
そこで男は言葉を切った。
「彼女に生きていてほしい。そしてできれば、……できるものなら、幸せにしてやりたい」
SYOUはかすかな驚きを含んだ目で、眼下の顔を見下ろしていた。
「それを信じるなら、さっきの契りをわたしからも有効としよう」
「……幸せ?」
わずかな笑いを含んだSYOUの声音に、男は急に声を荒げた。
「文句があるならきみから話せ、非力なきみが生きてリンのために何ができるかを。
彼女を生かす方法も守る方法も分からない役立たずが、勢いだけで人を脅して、それがどこでどう彼女の為になると思っているんだ。
わたしは彼女に生きていてほしい。彼女の命を狙う連中は実力で排除する。どうしても彼女がわたしを受け入れられないならそのうちわたしの手を離れることになるのかもしれないが、それまでは生かしたい。そうできるアイディアと力があるなら言ってみろ。わたしから見れば今のきみはただの破天荒で気の知れない、命知らずの男でしかない。わたしの地位と立場でできることをすべて否定し、その手にリンを得ようというなら、きみにできることを言ってみろ。言えないならこちらも何の情報も渡せない、さっさとわたしの上から退け。きみはただの大馬鹿だ」
SYOUはしげしげと、自分が組み敷いている男のその全貌を見た。
固く整った風貌の下に流れる静かに熱い血が、いまあちこちから流れ出て、黒い塊となって鼻の周りにこびりつき、口元も紅に染まっている。充血した白目の中の漆黒の瞳に浮かぶ表情には、この男なりのぎりぎりの感情が燃えているように思われた。数限りない人間を指先ひとつで殺して痛む心もない男の、真摯な願いが。
二人の男は沈黙したまま、上と下からお互いの目をただ見つめた。
真夜中の通りから散漫に車のクラクションとバイクのエンジン音が響いてくる。SYOUは音のする表通りのほうにいったん顔を向けた後、視線をゆるりと眼下の男に移し、静かに口を開いた。
「日本の作家、遠藤周作の作品に、“沈黙”というのがある」
いきなり方向の違う話題を出されて、チョウは戸惑った表情でSYOUの顔を見上げた。
「江戸時代初期、キリシタン弾圧が苛烈を極めていたころの、ポルトガルから来日した宣教師のものがたりだ。
当時の日本のキリシタンに対する弾圧も陽善功弾圧と似たようなものだった。幕府は切支丹や宣教師の肉体を破壊することで精神を捨てさせようとした。
そのことをよく知る宣教師ロドリゴは、どんな拷問にも耐え抜く覚悟で来日した。だが、以前から聞いていた噂が気になっていた。信仰の厚い宣教師を簡単に落とす井上筑後守という男がいる、彼は相手の肉体を苦しめることなく棄教させる術を持っている。
どんな拷問よりも、温厚な彼のやり方は効果的で、卑劣で、恐ろしい。みずからの死を覚悟するぐらいの決意では太刀打ちできない。決して語るまいと思っていた言葉を、いつの間にか口にさせられている」
「……」
SYOUの身体の下で、チョウは薄く笑って見せた。
「……きみにとってわたしはイノウエだということか。ここまでいってもまだ信用できないか」
「結局、ロドリゴは踏み絵を踏み、日本の袈裟を着せられる」
細い指がスカーフの端を引き始める。
「もしこの身がリンのそばにあることが物理的にかなわなくなったら、そのときはあんたの中の真実に賭けるしかない、たとえ正体が井上筑後守であろうと。
でもいま、あんたのリンへの愛情が本物で、俺に真実を伝えようとしているのかどうか、それをはかるにはさっきの答えが必要なんだ。
さあ言え、あと一分」
両手に力を込める。スカーフの結び目がきつく絞められ、男の気道が狭まってゆく。
恍惚と隣り合わせの苦悶の表情が男の口元に浮かび、白目は充血し、それと同時に尻の下で固いものがジャッキのように持ちあがっていった。
その感覚に、ああ自分も同じような状況の時こうであったと、SYOUは雨の運河の匂いを懐かしいもののように思い出していた。
静蕾、……城島澪子。
永遠に秘密にしなければならない、まるで氷詰めの黒薔薇のような欲望と裏切りの記憶。
あの女は今もその手にワイングラスを持ち、薔薇色の液体の向こうにいつわりの世界……彼女の酔迷宮を眺めているのだろうか。愚かな自分は永遠に、その世界の住人なのか。
SYOUは男の耳に口を近づけると、震える声で囁いた。
「俺は本気だ。言え。……言ってくれ、張家輝。
できればあんたを殺したくない」
血走った男の目が、薄い涙に揺れるSYOUの澄んだ目を見上げた。