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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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夜の歩道橋で

挿絵(By みてみん)

 元の服に着替え終わると、詩織は室内を見回した。

 SYOUと二人で東京タワーを見た懐かしい部屋は、それなりに片付けられ整頓されて、荒れた感じはなく清潔に整えられていた。

 だがよくみると、玄関近くにあった花台の花瓶がなく、鏡が壁から撤去され、飾り物の数も少なくなっているようだ。そしてなにより、よく見ると壁から床にかけて点々と、血の跡のようなものが見えた。床のあちこちに、物をぶつけたような傷もある。気を付けて見ればそれは相当広範囲で、詩織は背筋に戦慄を覚えた。

 詩織の視線に気づいた宝琴は、緊張した表情で、黙ってダイニングの椅子に腰かけた。

 詩織は少女の隣に座ると、静かに話しかけた。

「……聞いていいかしら。ここで何かあった?」

「……」

「よその人が入ってきて悪いことをした? 誰かを連れ出した?」

 少女は詩織の顔を見上げるようにして、また下を向いた。

「誰か怪我したのね。お医者には診てもらったのかな」

「診てもらってる」

「SYOU?」

「リン」

 詩織は宝琴の肩に両手をかけ、瞳を覗き込んだ。

「宝琴、ここに誰がきて何があったのか、わたしに教えてくれない? わたしはSYOUのお友達であなたの味方よ。何でも話して」

「もういい。全部リンが悪いの。それだけ」

 詩織はずきん、と胸の奥に痛みを覚えた。自分の身に起きたことが、昨日のように思い起こされ、軽いめまいを誘う。

 まさか、SYOU、まさかまた同じことを……

「リンはずっとここにいたの?」

「……」

「なにかあって、その、リンがSYOUを怒らせたの? そういうこと?」

「いいたくないの」

 詩織はこほんと小さな咳を一つすると、少し上を見上げて、幾分明るい調子で話しかけた。

「あのね、じゃあ、わたしの話をしようか。

 わたしのこと知ってるよね。SYOUからはなんて聞いてる?」

「昔親しくしてたって。……いい人だから信じていいって」

「そうよ、わたしたち恋人同士だった。わたしがむちゃくちゃなこと言って嫌われて振られたんだけどね。殴られたって当然なぐらいわたしがひどかったの。リンが何を言ったかは知らないけど」

 宝琴は驚いたように顔をあげた。

「殴られたの?」

「リンと同じ、わたしが悪かったのよ」

「リンは殴られてない」

「ほんとう? じゃあSYOUがリンに殴られたのかな」詩織は冗談めかして笑った。

 宝琴は返事をせずにあたりを見回すと、鏡を外した壁を見た。

「最初にSYOUが殴ったのは、鏡。それから花瓶。破片が飛び散って、その破片を持って、……わたしには、死のうとしているようにしか見えなかった。リンは血だらけのSYOUを止めるのに必死で、それで突き飛ばされてた」

 詩織は宝琴の目線の先を見て、絶句した。どうしてそこまで彼が半狂乱になったのか、もはや自分の想像の外だ。

「でもSYOUのお友達がたまたま来て止めてくれて、それで、またやったな、っていってた。そのまた、のさいしょが、おねえさんなのね」

「おともだち?」

「わかみやさんていう……」

 その名に一瞬驚きながらも、なるほど渡りに船だったのだと、偶然の采配に詩織は感謝した。では、リンとの間でいざこざがあった、その場に若宮が来て止めたということなのか。そしてリンを連れ出した?

 どちらにしろ、若宮に聞けばいずれわかることだろう。いろんなことをひどく話しにくそうにしている少女にこれ以上詰問するのが辛くなっていた詩織は、そこでいったん言葉を切った。

「甘いもの持ってきたの。うちの冷蔵庫からだけど、プリンとかゼリーとか、好き?」詩織は自分の鞄を探った。

「おねえさん、いまでもSYOUのこと、好き?」

「もちろんよ」

 詩織は桃やさくらんぼが透明な果汁に閉じ込められたゼリーを机に出しながら言った。

「それ以上愛される資格がなかったのが、残念だけど」

 宝琴はつと立ち上がって寝室に入ると、セロテープでつなぎ合わせたぼろぼろの紙を持って出てきた。

「ずっとひとりで考えてたの。もしかしたら、リンがひどいこといいだしたの、これが原因かもしれないって。一人でお掃除してて、みつけたの。お姉さん、読んでくれる?」

 詩織は怪訝に思いながら紙を受け取った。プリントアウトした何かの文面のようだ。

「喧嘩する前だけど、SYOUが寝てるとき、いつも使ってるノートパソコンにメールが来て、SYOUがすぐ見られるようにプリントアウトしたの。で、デスクの上の書類入れにおいておいたのに、朝になったらなくなってた。SYOUはそんなもの見てないしメールなら画面から読んだって言ってたし、どこに行ったのかと思ってたんだけど、きょうお掃除してたら、リンが一日寝てたベッドの下からぼろぼろにちぎれて出てきたの」

 詩織は、いくつか傍線の引いてあるその文面に目を落とした。

 ……猫と神に関する考察。

 タイトルの次に最後の送信名を見る。

 WAKAMIYA。

「この名前、ここに来たあの人だよね? わかみや、だもん」宝琴は横で覗き込みながら言った。

「……そうね」

「わたしひらがなは読めないの。なんて書いてあるの?」

 目を落とした先の最初の一行に、詩織の目は釘付けになった。


 ………きみのだいじな彼女が、猫の生まれ変わりではという発想について。




 深夜の東京都庁舎は、まるで巨大な遺跡のように見える。ひとのかわりに新種の恐竜が闊歩する未来社会で、彼らがこの建物をみつけたならきっとねぐらにし、この中で卵を産み子どもを育てたいと思うだろう。夜のデートでそういったら、詩織は高い声で笑ったっけ。あなたは未来の恐竜の気持ちがわかるのね? ひとの気持はわからないのに。


 その都庁舎を遠方に見る歩道橋の上で、SYOUは手すりに寄り掛かって時計を見た。午前零時。人通りも絶えた幹線道路にはたまにタクシーが行きかう程度で、プラタナスの並木道にも人影は全くない。スキニ―な黒のパンツに黒のタンクトップ、その上に黒のドレッシーなジレをひっかけ、小雨交じりの夜風に顔をさらす。首回りに巻いたスカーフは、詩織との間で行ったり来たりしていたバイオレットのタイシルクだった。

 やがて二台の車がゆっくりと目線の先から現れ、途中でスピードを落とすと、歩道橋の下、道路わきに続けて止まった。先に止まった黒っぽい、流線型のシルエットの車から降りてきたのは、四人の人影だった。

 青灰色のスーツを着ている、オールバックの男ひとり。あと二人、堂々たる体躯を黒づくめの服に押し込んだ男たちはそれぞれ歩道橋の階段の下に立った。

 オールバックの男はこちらを見上げると、軽く手を上げた。たぶん少し笑っている。SYOUもまるで旧知の友にするように、右手を上げた。

 男は臼のような体付きの男を横に従えると、ゆっくりと階段を上ってきた。


 背の高い街灯のオレンジの灯りは、眼前の、鋭い眼光を無表情のなかに押し包んだ四十半ばと思われる男の顔を、どこか仮面のように演出していた。

 額、鼻、口、ひとつひとつの造作はどれも整っていて、綺麗にそり上げた青白い頬に張り付く薄い笑みが、人となりを押し図ろうとする無駄な努力をはね返している。霧のようなこまかい雨が後ろになでつけた髪のあたりに雫となって煌き、その仮面の周りにさらに薄い膜を作っていた。

「ほう」

 男は独り言のように言うとかすかに首を振った。

「これだけ近づいても写真のような容貌でいらっしゃる」

「写真?」

「文学的素養がないのでこんな表現で申し訳ない。わたしの国で写真と言えば素人、芸能人ともに、それぞれの理想に向けて気合の入った修正が当たり前でね」

 ほとんど訛りのない綺麗な日本語だった。

 臼のようないかついボディガードはSYOUの両手をあげさせ、身体をぽんぽんと叩いてひととおりのボディチェックをすると、仮面顔の男に向かって頷いた。

 男はあごをしゃくり、ボディガードを階段の位置まで下がらせると、指の長い大きな手を出してきた。

(チャン)(ジャア)(フゥイ)です。ヤン・チョウとお呼びくださってもかまわない」

「こっちはいまさら名乗る必要があるのかな」

「できれば腹を割って話したい」

「では、柚木晶太。ステージネームでSYOU、です」

 固い掌と掌を合わせると、意外なぐらいの力強さで握り返してきた。

「これからステージに上がるかのような出で立ちだ。ファンならば叫び声の一つも上げるでしょう。その格好で来たのですか」

「さすがにここまではバイクスーツで来ましたよ。中はまあ、……所詮河原乞食出身なのでね。それらしくしました」

 妙に静かな胸の内で、SYOUは呟いていた。


 ……この男が。

 この男が、近代史上類を見ない残酷な宗教弾圧のその急先鋒に立ち、その教祖の娘を捉え、日本の巨大宗教団体と裏取引し、権力者どもへの貢物としてリンを売り渡した男。そして自ら捕えた少女に溺れるあまり、掴んだ権力を失って今はストーカーと成り下がっている、だが巨万の富を持つ張財閥の一人……

「日本語がお上手ですね」SYOUのほうから話しかけると、

「これでも十代のころ、故郷の日本語学校を首席で卒業しましてね。恋人も日本からの留学生だった。恋する相手と意思疎通をはかりたい、語学習得への一番の近道だ」

 軽く肩を上げて、切れ長の目は笑わずに口元だけで微笑する。

「どうです、リンとどちらが上手いかな」

 SYOUも口元で笑って見せた。

「おなじぐらいですよ」

「ではわたしの負けだ。彼女はプロに習ったわけではない。その動機は語学習得への一番の近道、そのものだったのだから」

 チョウはSYOUの向かい側の手すりに背を預けるようにした。

「憧れのスターに会いたいと、夢と妄想を膨らませる少女はいくらでもいる。彼女はそれを実現した。光り輝く美青年と。実に幸せな子だ」

「その夢を利用して日本へ連れ出し、彼女を娼館に売り渡したのがあなたでしょう」

 挑発するような口調のSYOUに向かい、チョウは穏やかに言った。

「こんな開放的な場所で霧雨に濡れながらお話しするのも、おなじ女に心を奪われた同志として本音でお話ししたいからでね。わたしたちは敵味方だなどと思わないでもらいたい。同じですよ、おなじ痛みを抱えた者同士です。彼女に惚れたものならわかるでしょう」

「そんなことよりも彼女の行先を知りたいんじゃないのかな」

「それはきみから聞く必要もないことだ」

 SYOUの顔色が変わったのを見て取ると、チョウは懐から煙草を取り出した。

「きみのことは十分羨ましいと思っている。たぶんわたしが生まれてからこれまで一度もしたことがないような、気恥ずかしく痛々しいような純愛を交わしたことでしょう。あの浮世離れした女と」

 紫煙を吐き出すと、指の煙草を見ながら続ける。

「青春は、若者にはもったいない。バーナード・ショウの言葉でね。僻みついでに今あなたに言ってやりたい気分です」

「つまり、今のあなたはただの、恋に目のくらんだいたいけな盲目男だと、そう言いたいんですか」SYOUは鼻白んだ。「そのなりで」

「目が眩んだ、か」

 チョウは小さく笑って続けた。

「そう、嫉妬心は十分にある。そして恋愛も欲望の一つです。愛欲、独占欲、征服欲、性欲、獣欲、スパイスとしての怨み、嗜虐……。あなたの身にも降りかけられたことはある代物ですね」

 眉をひそめるSYOUの表情を切るような視線で見ながら、チョウは言った。

「愛というものが美しいものだと誰が決めたか知らないが、美しいのはその言葉と印象だけでしょう。愛という名で語れるものはひとにより百も千もの姿を持っている。

 わたしはリンを愛したか? 

 そう聞かれればわたしは愛したと答える。ではどのようにと問われれば、おそらくきみと同じぐらいには、彼女のことを思いこがれ、会いたい思いに身をやつし、会えない苦しみに全身を射抜かれて、恋しさ切なさに焼かれる日々は送ったつもりだ」

「ずいぶんと文学的ですね」

 SYOUは半ば嘲るように口を挿んだ。

「リンを見ていればわかる、彼女と出会った男たちの多くが同じ思いをしたというのは。だがいつまで自分のした一番大事なことを抜いて話すのかな」

 男の目から薄笑いが消え、視線が霧雨を通してSYOUを射た。

「あなたは彼女を娼館に拉致し、不特定多数の男の餌食にし、彼女を囮にして彼女を慕う信者やその娘を罠にかけた。そのことでどれだけ彼女が苦しんだか、その彼女に恨まれているか自覚できるなら、その身勝手な恋心に何の実りもないことぐらいわかるはずだ。それよりなによりも」

 SYOUは一度言葉を切ると、決心したように語りだした。

「陽善功の信者だというだけで、何千という市民を、女子供を拘束し、拷問し、無慈悲に殺害した。その名簿を作成したひとりがあんただ。その汚い口からリンに愛を乞うたり、俺と、……俺と同じ地平でリンという女性に恋しているかのような物言いをするのはやめてほしい」

 チョウは掌をこちらに向けると、もう勘弁してほしいというように薄く笑って見せた。

「どうしてそう好戦的な態度をとられるのかな。わたしはきみと、穏やかに愛についての話をしようとしているのに。

 わたしからナマの怒りを引き出して、別の話題で剣を交えようというなら見当違いですよ」

 SYOUは何か言おうと一度開けた口を閉じて、男の次の言葉を待った。

「これでもわたしは理想に燃える愛国青年のひとりとして育ったのですよ、そして母国が良い意味で世界の覇者となるのが夢だった。日本語を習得して、母国と日本との懸け橋になりたいと望んだのも嘘ではない。

 ファンダーチェン大師、そう、リンの父親にも恩がある。現代医学ではどうしようもなかった背中と腰の酷い痛みを、一時は寝たきり同然だったこの体をあのかたの施術で直してもらったのです。あの恩は忘れない」 

 正直なところ、SYOUは驚いていた。想像と違ってどこまでもあたりの柔らかな彼の物腰にも、その話の内容にも。

 教祖と面識があった? ……

「弾圧前、大師の気功の信奉者だった党のお偉方は実は少なくない。だが、まるで核爆発のように信者が増え始めたことで、あの宗教は中国政府にとって見過ごせない脅威となった。

 そう、(ユエ)(リン)を大師が手にしてからです、組織が巨大化したのは」

 チョウは暗い瞳をSYOUの上に留めた。

「……彼女のことはいつごろから知っていたんですか」

「それこそおさないときからですよ。この体を復活させてくれた恩人の娘さんだ、土産を手に幾度かお宅にお邪魔しては幸せなひと時を過ごした。サンザシの飴がけを手にするリンを、わたしが肩車したこともある。それはそれはかわいくてね」

「……」

 SYOUは目を見張った。思っても見ないつながりだった。

 おさないころから、この男と……

「だがいきなり始まった弾圧の嵐はわたしにはどうしようもなかった。

 できるのは早めに情報を得て、取り敢えず大師には身を隠せと暗に伝えること、そして名簿を作る仕事を回される可能性を知った時、そこからなるたけ大師の縁故のものの名を抜こうと決めた。だが、リンも宝琴もほかの親戚の子たちも、縁が濃すぎてどうしようもない。

 大師はとりあえず霊燦会の援助を得て国外に逃げ、リンはヤオが預かったと聞いた。その後支援者のいる台湾に逃げたという。そのヤオは大師が捕えられたという嘘の情報につられ、身を隠していた台湾から北京に飛んだ。大師が一時的に釈放されるときいて、身柄を引き受けに行ったのです。だが彼はそこでとらえられ、大師とリンの行先を言えと責められて、男性機能を失った」

 どこまでが本当でどこからが脚色かはわからない。少なくとも言葉のすべてを信じていい人間でないのは確かだ。それでも、初めて聞く話に、SYOUの耳は釘付けになっていた。

「そのヤオは泳がす目的で釈放された。彼が真っ先に行くのはリンのところだろうと推測されていたのです。このままでは二人とも当局につかまるのは目に見えている。そこでわたしは使いをやってヤオを保護し、いっそリンとともに日本に逃げろと進言したのです。

 もちろんまともなパスポートでまともな仕事につくのは無理だ。永住できるわけでもない。それでも時代が変わるまで、リンとともに許されて生きる場所が必要だった。リンはリンで、どうしても日本に行きたい動機があった」

 意味ありげな瞳で、チョウはじっとSYOUを見た。SYOUは目を伏せたくなる衝動と戦いながら、低い声で言った。

「それがあのガーデンか。リンが日本に来たのは俺がいたから、つまり俺のせい。上手いストーリーですね。おまけにそれならあなたは善意の人間、救いの神だ」

「愛は綺麗な形のものばかりではないといったでしょう。いや、愛という言葉が妥当でないならなら、愛欲でもいいですよ。

 わたしはリンがほんの十歳ぐらいのときから恋していたのだと思います。彼女は美しく、どこまでも純粋だった。深い泉のように底がなかった。わたしは彼女の無垢と、そして美貌に欲情していたのです。多分きみにはわかってもらえると信じていますが」


 何かに酔うように熱を帯び始めた鋭い目を、SYOUは黙って見つめていた。

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