ごめんなさい
部屋のテレビをつけると、夕方のニュースが始まっていた。
多摩川の河川敷にあがった身元不明の遺体、中年男性、全身に殴られたような傷、服に縫い付けられていたネームから身元が判明。韓国籍の無免許医として闇で診療を続けていたパク・チェソン……
この遺体は自分だったかも知れない、と思いながら、詩織はぼんやりとその被害者が父をめぐるいざこざの関係者だろうと、根拠もなく確信していた。
まだ全身に妙なしびれが残るような身体をベッドに横たえ、天井を見る。自分が五体満足でいま実家のベッドの上にいることを、奇跡のように思う。
「お宅からお迎えです」
フロアマネジャーのその言葉を夢のように聞いたとき、自分は誰かに身体を抱えられてレストランのトイレの前にいた。いや、正確に言って妙に大きな、スタッフルームと書かれたドアの前にいた。どちらに飲みこまれようと、その時の自分にはどうでもいいような心持ちだった。ふいに肩を掴まれて、次に目に入ったのは、城島澪子の顔だった。
「ずいぶん飲んだようね。帰るわよ」
その顔を見て、次に背後のチョウの顔を見たとき、獲物を横取りされたかのような苦々しい表情に、自分が助かったことをぼんやりと知ったのだった。
「わざわざどうも。なにか悪酔いされたようなので、僕がお送りしようと思っていたんですがね」
「シェシェニーデハオイー」
澪子はチョウから顔を背けたまま馬鹿にしたように言った。(*)
「ここが自分のフィールドじゃないことぐらい自覚して、張家輝さん。さっさとマレーシアの華僑の群れの中にでも行って金儲けに精を出しなさい」
苦笑いしながら男が答える。
「相変わらず手厳しいマダムだな」
澪子はゆっくりと振り向くと、詩織の肩を支えたまま言った。
「ここはお国じゃないわ。堅気の商売を始めるなら始めるで妙な勢力を相手に中途半端なケンカを売らないことよ。この娘が誰か分かってやってることなの? 父親の指ひとつで一万人からの子飼いが動くのよ。
次に下らない真似をしたらあなたも手下も五本指が、次の機会には首から上が無くなると思いなさい」
「ずいぶん強気のようだが、とりあえず同じ忠告をあなたにもしておきますよ」
男の腹の冷えるような声に冷笑で答えると、そのまま澪子は背後の権田組の若衆の手に詩織を渡し、先頭に立ってレストランを出た。
「あまりパパに心配かけるもんじゃないわ。情報通の彼がわたしに連絡をよこさなければどうなっていたか」
車の中で、隣席の澪子の声を聞き流しながら、どこかへ電話し続けた記憶がある。
どこへかけてるの、と言われ、どうしたらいいか聞かなくちゃ、と答え、そのうち本能的に送信履歴を削除して、引き込まれるように目を閉じた。
そこで記憶は途切れている。
そのまま実家に幽閉の身となってしばらく仕事を取り上げられても、何ひとつ文句は言えなかった。 ヤン・チョウと再び会って同じことを言われたら、正直抗える自信がない。そしてなにより、自分の中で怯え続けている声があった。
自分は言ったのか、言わなかったのか。
番号。番号。知っているだろう? 03から始まる、マンションの番号……
しつこく聞かれていた気がする、あの番号を……
そのとき、伸ばした手の先の携帯が鳴った。
顔の前に持ってくる。
公衆電話、という表示に一瞬眉を寄せ、そして直観に導かれるままに電話に出ていた。
「はい」
無言。
詩織は小さく息を吸うと、淡々とした声で言った。
「どちらさまですか。このままならあと五秒で切ります」
きっかり五秒後に耳に届いたのは、一番聞きたかった声だった。
『詩織。……無事か? 大丈夫か?』
詩織はベッドの上に飛び起きた。そしてベッドサイドのミニコンポのスイッチを入れると、FMに合わせた。真珠採りの歌、のアリアが室内に静かに流れ始めた。
「わたしは、だいじょうぶ。……SYOU、そちらはどう」
息を詰め、小声で返事をする。話がしたい、苦しい思いを何もかもぶちまけたいと思っていたのに、いざ声を聞くと、なんの動揺も問題もないように声音から懸命に装う自分がいた。返事は短かった。
『簡単に言う。あそこがばれた』
「ばれた?」
『あのマンションの番号に電話がかかってきたんだ』
「誰、……から」
『ヤンという男』
身体の中で時間が止まるのがわかった。
やっぱり、そうなのか。自分の中で一番信じたくなかった記憶、あれが現実なのか。裏切り、背徳、罪、様々な単語が体中を転げまわり、血の出そうな勢いで内側から責め続ける。
『詩織。聞こえてる?』
「……ごめんなさい……」
詩織は下を向いて目を押さえた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。よく覚えてないの。ごめんなさい。でも、そう、わたししかいない……」
長い沈黙があった。
『……覚えてない?』
「デレク・チョウ氏と一昨昨日会食の予定があって、でも現れたのは兄のヤン・チョウとボディガードだけだった。最初からそう仕組まれていたみたい。
あなたのこと、リンのこと、色々聞かれたけれど何も喋るつもりはなかったの。でも、でも、最後のほうで頭がぼうっとしてきて、舌先から痺れていく感じがあって……」
『……何か飲まされたのか』
「それを警戒していたから、ワインには口を付けなかったの。飲んだのは食前酒だけ。マネジャーは悪酔いして控え室に引っ込んだけど、わたしは会食の最後のほうまで平気だったの。でもそのあたりから……」
『……記憶が消えてると』
「記憶はあるわ。とぎれとぎれだけど、あると思う。でも夢だと思いたかった。番後、電話番号、あの数字を口にした記憶だけが染みみたいに残ってる。忘れなさい、って誰かの声がして、どこからが夢でどこからが……」
そのまま詩織は嗚咽して言葉を途切らせた。
絶対説き伏せられないつもりでいたのに。何があっても、絶対に。
……もう取り返しが付かない。
『もういい。詩織、泣かないで』
電話の向こうのSYOUの声は優しかった。
『薬か催眠術か、卑怯な手を使ったんだろう。どうしようもない』
「わたし……」
『苦しめてごめん。……きみが無事で本当によかった。よく家に帰れたね』
詩織はまた溢れてくる涙を手の甲で拭った。
「澪子さんが来てくれたの」
この身は無事でも、これから、彼の方は……
『彼女が、……そうか。
……きみ、今どこにいる』
「……実家」
『そうか。そのほうが安全だろうな』
息を整えて、詩織は言った。
「あなたは大丈夫なの。今外でしょ。いったいどこにどうして……」
『きみが送ってくれたフルフェイスのヘルメットがあるし、若宮さんが貸してくれてるバイクもある。すぐには顔バレしないよ。
で、これからのことだけど、一応言っとく。俺はちょっとあそこを離れる』
「離れる……」
『あれこれ詮索も口出しもやめてくれ。とにかく俺が動く限りきみに追手はもうつかないだろう、安心していい。でも、ただ一つ心残りは、あそこにおいてきた女の子のことなんだ』
しばらく返事をためらった後、詩織は聞いてみた。
「……リン?」
『違う、彼女じゃない。ただの中国人の、十三歳の女の子だ。リンと同様、娼館に監禁されて長いこと客をとらされてた。彼女が命にかえても守りたがっていた少女だ』
「……」
十三歳、という言葉に、あのマンションを訪れた日に見た男の子のような少女の姿と細い声がすぐに思い浮かんだ。
……うちに、なんの用?
「その子がいま、あそこにいるのね」
『最終的には、彼女のことは奈津子さんに任せたいと思ってる』
「奈津子さんに?」
かつて彼が奈津子に関してなんと言っていたか。どれだけ巻き込みたくないと繰り返していたか。それを思うと、詩織はSYOUの覚悟に体の奥底が震えるのを感じた。
「SYOU。どこへ行くのか聞かないけれど、二度とどこにも戻らないつもりで言っているんじゃないでしょうね」
冷静な声で、SYOUは答えた。
『俺は悲観主義者じゃない。最初から帰らないつもりで出かけたりしない。守るべきものを守るために、そしていい結果になることを信じて行くんだ。ただ、結果的に戻れなくなるという可能性を無視したら、あの子を見殺しにすることになる。それだけはできない』
「……」
『ただ、俺がこういっていたということを、きみはきちんと記憶しておいてくれ。そして、もしも…… いや、できれば』
「もういいわ。彼女の名前はなんていうの」
『宝琴』
「わかった。まかせて」
重苦しい沈黙を挿んで、詩織は思い切ったように話しはじめた。
「あのね。わたしから一方的に言いたいことがあるの。
相槌はいいから、どうか黙って最後まで聞いて。いい?」
『……わかった』
詩織は息を整えると、口を開いた。
「あなたがこれからだれかに会おうとしているとして、もしそれがわたしが会ったのと同じ人なら、どうか、心の鍵に気を付けて。
力づくの拷問よりも怖い武器を、あの人は持ってるわ。たとえ恐怖には耐えられても、あのひとの心理作戦には勝てるかどうか。たとえあなたであっても、話が終わるころには、愛しい人の身柄を相手に預けようという気持ちにさせられているかもしれない。
愛情が足りないからじゃない、自分の愛情を疑うからじゃない、むしろそこを利用して、罠に落としてくるの」
「……」
「どう言っても言い訳にしかならないことはわかってる。この口から言う資格はないことも。それでも、あなたのために、このことは覚えていて。
負けてはだめよ、用心して。じゃ、切るわね」
返事を待たず、詩織はそのまま電話を切った。
……奈津子さん、ごめんなさい。あなたの待つ場所に行けなくなったわ。
そう胸の中で独りごちると、詩織は手の甲で涙を拭いた。
あれからどう動いたらいいのか、自分がしでかしたかも知れないことの始末をどうしたらいいのか、途方にくれて奈津子に電話した。だがもともと、相談できる内容ではなかった。これでいいのだ、これで。
……危ないことはしないで、会いになんていかないで、リンは彼の手に渡せばいい、わたしと生きて。
本音では彼に言いたいことはいくらもあった。だが、今の自分に何が言えよう。
思えばかつて自分も、たとえ命を落とそうと心のままに生きたいと、SYOUの前で宣言した身ではないか。彼のために。自分ではない女のために命を懸ける、彼のためだけに。
詩織はテーブルの上の缶コーヒーのプルトップを引き抜くと、ひと口飲んで、あとはベッドの上の毛布にばら撒いた。
そして携帯を手に取ると、出入りのランドリー業者に電話をかけた。
権田邸の裏口にランドリーカーが到着した時、詩織からあらかじめ知らされていたので、組の警備係は特に関心を払わなかった。詩織は毛布を抱えて裏口から出ると若い運転手に渡し、彼が伝票を書いている間、ホワイト社とかかれたバンの荷物室にもぐりこんていた。
「え?」きょろきょろとあたりを見廻したのち、運転席の後ろにうずくまる詩織を見て声を上げた男に向かい、詩織は唇に指を立てた。
「ちょっと冒険に付き合って。自宅の警備が厳しくて遊びにも行けないのよ」詩織は万札を二枚出すと、男の胸ポケットに押し込んだ。
「いや、あの…… 困ったな」
「A通りを走ってK大学近くの交差点で降ろして。着いたらあと一枚追加するわ。ここにあるおたくの会社の制服借りるわね、後で送り返すからいいでしょ。ぐずぐずしてないでさっさと出して」
仕方なくアクセルを踏む男の後ろから、詩織は付け加えた。
「ネットで呟いたりしないほうが身のためよ、脱出には何度も失敗してるの。今度片棒担いだのが会社名ごとおやじにばれたらあなたも無事じゃすまないからね」
ホワイト社の制服のまま交差点で車を降り、自分の着替えを入れた大きな紙袋をかかえて、詩織はまっすぐに目当てのマンションに向かった。SYOUの話通りなら、今部屋にいるのは少女一人。少年のようななりをした、ぶかぶかのGパンの……
チャイムを三回ならしても返事はなかった。
手元に鍵はある。だが、押し入って怯えさせるのは賢明ではない。四回目を押そうと指をつけたとき、ドアの内側で物音がして、がちゃりとノブが回った。チェーンの長さだけできた隙間から、睫毛の反り返った大きなひとみがこちらを覗いた。
「こんにちは、パオチン」
詩織が微笑むと、瞳が大きく見開かれた。覚えていてくれたなら好都合だ。
「SYOUに頼まれてきたの。会うのは二度目ね。はいっていい?」
「名前は?」
「しおり」
「SYOUとつきあって、最初の誕生日にもらったプレゼントは?」
詩織は少し上を見て考えた後、にっと笑って答えた。
「蛇の抜け殻」
少女は一度ドアを閉じ気味にすると、かちゃりとチェーンを外して詩織を見た。
さっと入ってドアを閉めると、あの日と違い、長い髪を背中に垂らした美少女が、赤い目をして詩織を見上げていた。
手にはウサギのぬいぐるみ。……泣いていたのだろうか。
「そんな質問の打ち合わせしてなかったから、間違ったらことだったわ。そう聞くようにSYOUから言われたの?」
「言われてない」
「あら、じゃあなんで」
「聞いてみたかったから」
「言わされちゃった」詩織は笑った。
「何でそんな制服着てるの」
「わたしちょっと有名だから、まわりの目をごまかすために借りたのよ。似合う?」
こっくり頷くと、宝琴は両手を広げて詩織に抱きついた。
詩織は左手で抱きとめながら、右手で少女の柔らかい癖っ毛を撫でた。
(*)「シェシェニーデハオイー 谢谢你的好意」…… ご親切に感謝します