生きろ
ファームハウス、とだけ看板のあるその小さな牧場の入り口には、欧州の茅葺き屋根の農家のような自然食レストランがあり、本日は休み、の看板の下にシャムネコ系の雑種の子猫たちがじゃれていた。
都会を離れ、あてもなく走り続けて八ヶ岳山麓のこんな田舎に来たのは、今にも逃げ出しそうなリンが簡単に紛れられそうな人の群れからとりあえず離しておこうという、若宮の苦肉の策だった。
あたりにひと気がないのを確認して、牧場の駐車場に車を止める。なだらかな起伏の芝生が続く牧場の、赤い屋根の牧舎からは長く尾を引く羊の鳴き声が響いてくる。
若宮は車内で、カメラのデータをノートパソコン画面に繋ぎながら、昨夜撮ったばかりのリンの映像を確認していた。
濃紺のワンピースを着たまま、狭いベッドに横たわって眠る横顔。俯いてガラスのコップから水を飲むショット。両手で髪を広げて鏡の前に立つリンの、威嚇するような目。そして、……白い背中をさらしたバックショット。何かを抱え込むようにうつ伏せになる裸体。眩しいような白い乳房を両手で覆うようにして、天井を見上げる濡れた瞳。
今まで何千何万と、それこそ世界中で女たちのポートレイトを撮りつづけてきたが、シャッターを切ったとたんに「よし、来た!」と重い手ごたえを感じる瞬間はそうない。だが、リンの紡ぎだす一瞬一瞬は、まさにそうした邂逅の連続だった。めったにない魂の高鳴りに、ここでやめようという区切りが見つからず、シャッターから指を離したのは丑三つ時を回ったころだった。
リンは朝の十時を回ってもベッドに倒れたままびくともしなかった。解熱剤をもらったとはいえ一応は病人なのに、思えば実にひどい扱いをした。おれはいつだってそうだ、SYOUの時だって、調子に乗ってあいつのすべてを撮りつづけているうちに、十二のあいつはだんだん消耗して飯を食わなくなったんだっけ。もっとも、あの時は写真のせいばかりじゃなかったが……
ドアを開けて外に出る。眩しいような陽光の中、レストランの脇にある手押しポンプの井戸が目に入り、シャトルポットを持って近づいてみる。自噴井らしく、ポンプの取水口から静かに水が流れ出ている。両手ですくってみると、ほのかに甘く、柔らかい冷水だ。リンに飲ませてやろうと、シャトルにためて蓋をしていたら、背後でばたんと音がした。
振り向くと、帽子をかぶったリンが車から出て、シャム猫の親子のほうに近寄っている。緑の草地に屈んで猫の頭を撫でるリンは、何か物語の挿絵のようだと若宮は思った。
だがそのとき、牧場の向こう側の国道に止めてある黒い乗用車から、何か異様な雰囲気の背の高い男が二人、出てくるのが見えた。
若宮はシャトルを手に立ち上がると、小走りに走り出した。
「リ……」
名前を呼ぼうとして口の中で止め、次に大声で怒鳴った。
「戻れ!」
リンが顔を上げた。不思議そうにこちらを見ると、はっと振り向き、自分に向かって走り寄る男たちに気づく。胸に猫を抱いたまま、それでもリンは動こうとしない。リンに向かって国道から二人の男が、牧場からは若宮が、逆方向から全速力で駆け寄った。距離の短い若宮がさきにリンに到達し、腕をつかむ。 リンは屈んで猫を降ろすと、引きずられるようにして若宮とともにキャンピングカーまでの芝を走った。
乱暴にドアを閉めると、若宮は自分の携帯をリンに向かって放り投げた。
「電源入れろ。座るかつかまっとけ、ちょっと無茶するぞ」
こんな図体の車でチェイスとはなんとも分が悪い。若宮はあとちょっとの距離で獲物をさらわれた男たちの前を、威嚇するように急接近して通過すると、国道に止めてある黒い車に向けてアクセルを踏み、いきなり斜め後ろから体当たりした。
短い悲鳴を上げてリンが椅子の背にしがみつく。
黒い車から運転手が頭を出して何か怒鳴る。若宮は構わずに今度は側面に体当たりし、牧場側の側溝に乗用車を落とした。
乗用車は片方の車輪を溝に取られ、大きく傾いて身動きできなくなった。
「ざまあみやがれ」
背後から銃声が響いた。若宮は思い切りアクセルを踏み込んだ。
「電源はいったか。なんか連絡来てるか」
GPSで居場所を特定される恐れから、ひと晩ずっと若宮は用心のために携帯の電源を切っていた。
「電話が、三回。メールがひとつ」リンは車の震動に声を揺らしながら答えた。
「着信は、SYOUから。あとメールも。リンをマンションに帰すな、ここが外に漏れた、危険……」
読み上げながら、リンは内容に驚いて絶句した。
「なるほどな。こっちと同じ状況か」
若宮は呻くように言った。
「この車がばれたってことは、あの藪医者がきみを診た直後に拉致されてナンバーと車種を吐いたってことだろうな」
日本国籍を持たず、モグリでわけあり連中の治療を請け負う医者はそういない。リンかSYOUが怪我をしているとあたりをつけて、めぼしいメンバーを闇社会がさぐれば、到達にそう時間はかからない話ではあった。さて、今生きているかどうか。
「あんた、いま捕まろうとしてたな」若宮は後ろを見ずに言った。
「……」
リンの無言の緊張が伝わってくる。
「SYOUから離れられれば、あいつらの手中でもいいと思い詰めたか?
こっちは意地でもそうさせてやるわけにはいかないんだよ。短縮ダイヤル3を押しておれの耳に当てろ」
リンは言われたとおりにすると、黙って若宮の耳元に携帯をあてた。
しばらく呼び出し音を聞いたのち、若宮は平坦な口調で語りだした。
「おれだ。連絡の件、了解。こちらもしばらく音信不通になる。お互い、無事でいようぜ。で、実はお前のところに寄ったのは“彼女”の安否について不安があったからだ。とにかく確認してやってくれ」
そして片手でリンの手から携帯をもぎ取ると、電源を切った。
「留守録でもとにかく伝わればいい。さて、側溝に落としても、ほかの車が要所要所を押さえてるかもな。どうにも小回りのきかないこいつでどうするかだが」
「わかみやさん、次に追手が見えたらわたしを降ろして」
「そうはいくか」ハンドルを握り、まっぐ前を見たまま若宮は吐き捨てるように答えた。
「この目立つ車で逃げ切れるわけがないわ。わたしさえ渡せば彼らはあなたに用はないはず。途中で車からわたしを落として逃げ切ってください」
「言われたからって本当におれがそんなことをすると思って口に出してるか?
言っても意味がないことを言わずに少し大人しくしとけ。返事するのが面倒臭え」
リンは口を閉じて、若宮の肉厚な背中を見つめた。
「いっとくけどホントに途中で飛び降りたなら追手に体当たりしてでもあんたを拾い上げる。わかったら面倒増やさんでくれ」
道路傍に、A村キャンプ場入口、という看板が見えた。若宮は口の中で小さくつぶやいた。
「……忙中閑あり、といくか」
そしてハンドルを切ると横道に入り、看板の矢印の先、畑の向こうの緑の丘に向かって車を走らせた。
ほどなくキャンピングカーはふたつめの看板を曲がり、うっそうとした森林の中のオートキャンプ場の駐車場に入り込むと、エンジンを止めた。
入口の案内板の向こうに、ログハウスの管理棟が見える。
「いっしょに来るんだ」
一方的に言うと、若宮はサングラスをかけ、リンを先に立てて車を降りた。あのファームハウスから、まるで人が変わったように高圧的になっているのが肌で伝わってくる。
管理棟は天井が高く、入り口のカウンター脇には薪や炭やランタンやマット、さまざまなキャンプ用品が販売用、レンタル用に積み上げられていた。
平日にしては珍しく、先客の家族連れが、案内地図を見ながら受付の青年に利用説明を受けている。
「トイレ借りられるかな」若宮が家族連れの背後から呼びかけると、青年は顔を上げ、売店コーナーの横の廊下の奥です、と答えた。若宮はほい、と低く答えて鞄から愛用のカメラを取り出した。そして、手元のメモ帳に何やらぐしゃぐしゃと書きつけるとびりっと破り、柔らかな布バッグにカメラとメモを入れた。そして袋を無造作に、ロックアイスの入っている冷凍ケースの横に置いた。
「あんたもトイレに行って来い」リンのほうを向くと廊下の奥に向かって顎をしゃくる。
「わたしは……」
「女子トイレで、そうだな、二十分ほど時間潰してくるんだ。あと、その帽子はおれにくれ」
「これを? どうして」
「いいから言うとおりにするんだ」
いらいらした調子に、リンは帽子を脱いで若宮に渡した。
帽子を受け取ると、若宮は気づいたように懐から携帯を取り出し、札入れとともにリンに押し付けた。
「え?」
「今は場所特定避けに電源を切ってあるが、いよいよという時は連絡用に使え。その金もだ」
「あなたは……」
「いいか。やつは、彼は、きみが生きてこの世にあることのみが生きがいだ。きみが生きている限り、彼も生きる。どんなことがあってもだ。だからおれもこうしてる。わかるか」
リンは黙って、澄んだ瞳で若宮を見た。いつもどろりと充血している自分の目とは違い、白目が青く見えるほど澄んでいる、と若宮は思った。自分の白目は生まれてこのかた一度もこの色であったことはないだろう。
「さあ行け」
「わかみやさん……」
「二十分経ったら、ここを出ろ。そしてそうだな、どこにもあてがないとすれば、適当に十字架が立っている建物にでももぐりこむんだ。あんたのお好みのチャペルにな。
もし最終的に助けを求めるなら登録ダイヤルの7にかけろ、あいつの事務所だ。北原哲夫という男は、とにかくSYOUの為になることなら力を貸してくれるはずだ。わかったな」
リンは若宮を見上げると、首に手を回してしがみついた。無精ひげが頬に当たり、煙草の香りが鼻を突く。背中に分厚い手が回され一瞬骨がきしむほど力が込められた。その直後、若宮はリンの身体をぐいと突き放し、低い声で言った。
「生きろ。黄 月鈴」
リンは頷くとくるりとうしろを向き、震えながらトイレに向かった。最後に振り向いたとき、若宮が笑顔で手を上げるのが目に入った。おんなのこ、と白樺のプレートに書かれたピンクの文字を見ながら、何かが熱くせり上がってくるのを胸に手を当てて押さえ、トイレのドアを開ける。
ぴーよぴーよ、とのどかな鳥の鳴き声が聞こえた。
そのときトイレの窓から、レースのカーテン越しに、森の緑を透かして、暗い色のセダンがキャンプ場への道をそろそろとやってくるのが見えた。
リンは震える手で個室の鍵をかけた。