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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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離れていても

 最初に感じたのは熱感だった。


 怪我人だから掃除なんていいと(パオ)(チン)に押し込められた寝室のベッドの上で、額に手を当てながら天井を見ているうち、灼熱の砂漠で陽にあぶられるような熱感がじわじわと全身を侵食し始めた。

 熱い。熱いよりも、痛い。全身の皮膚はもちろん、身体に負った傷という傷のすべてが疼痛となって居場所を主張している。輾転反側(てんてんはんそく)して体の位置を変えながら、逃げようのないいたみにSYOUは思わず呻き声を上げた。そのうち、熱は体の深部まで到達し、全身が一つの炎かと思うような熱さに包まれた。

 歯を食いしばりながら、薄い瞼を閉じる。その向こうで、リンが俯いて組んだ手の上に額を乗せている映像が浮かび上がった。

 祈っているのか?

 ……どこにいるんだ?

 眉間に皺を寄せて、なにか口元で言いながら一心に祈りをささげている。やがてその映像は輪郭の曖昧な光の像となり、きらきらと視界の中に溶けて行った。

 ……遠くから声が聞こえてくる。

「それでいいよ。閉じ込めるほうが不自然だろ」

「そうはいかないわ。外に出すと、また殺生するわよ、この子は」

 ……ああ、十四の頃の会話だ。

 外に出ては鳥を襲う猫のシャラを、出入り口にカギをかけて閉じ込めようとする奈津子さんと、壊してでも外に出そうとする自分とで言い争いになった、あの夏。

「獲物を狩るための爪と、運動能力と牙をもって生まれてきた動物が、生き物を狩るのが可哀想なんて、人間のエゴだ」

「どこで生きようと、猫は猫だ。動物だろ。人間のモラルなんて関係ない」

 自分の声だ。

 ……そしてシャラは死んだ。

 外に出たとたん、人間の車にはねられて。

 はっきりと覚えている。この腕の中で、とどめようもなく冷たくなっていったお前のからだ。あの絶望……



 鳴り続ける軽い鈴の音に目を開けると、部屋はおだやかな朝の光に満ちていた。

 一瞬何の記憶もない、まっしろな空間をさまよった頭に、ドアの外から宝琴の声がかすかに届いた。

「でも、わからないし。わたし、しらないので、なにも……」

「伝言?……」

 誰と話してるんだ? 

 電話!?

 SYOUは裸足の足を床に落ろすと、大慌てで部屋を出た。そして電話台の前に立つ宝琴の背後から受話器をもぎ取ると、無言で自分の耳に当てた。

 錆びついたような中年男の声が聞こえた。

『きみはお留守番か。じゃあ、聞くだけ聞いてくれるかな。

 ヤンから電話があった。ぜひ会いたいといっているとそう伝えてくれ。

 わたしはSYOUのおともだちでね。大事な話があるんだ。これからのことについて、本当に大事な話が。そう伝えるだけで、彼にはきっとわかる。電話番号を伝えておくから、そこに返事をくれるとありがたい。番号は某オフィスにかかるが、ヤンの件で、というだけで転送してくれる。そちらからアクションしてくれるなら、こっちから無礼に押しかけるようなことはしない。約束する。そう伝えてくれ』

 SYOUは黙って宝琴の顔を見た。少女は自分のしでかしたことがいまになってわかった、というような顔をして、口元に手を当てていた。

 SYOUは黙って電話を切ると、傍のメモ帳にすらすらと数字を書きつけた。

 ペンを置いたとき、背後から宝琴が固い声で言った。

「ごめんなさい……」

 SYOUは宝琴の目を見ずに言った。

「電話はこれが最初?」

「SYOUが寝てから、これで四回目。最初は管理人さんで、取らないでいたら留守電に、騒がしいと近所の人から苦情が入っています、できればご説明に来ていただきたいとか、そういうのがはいってた。その次が今の電話番号。ここによそから電話がかかるなんて一度もなかったし、最初は無視してたけど何度もかかるし、誰も帰ってこないし、もしかしたらリンかも、わかみやさんかも、何かあったのかもと思ったらどきどきして、声を聞くだけ、聞いて切ればいい、と思って出たの。電話には出るなって言われてたのに、わたし、……」

 宝琴は目元の涙をぬぐうと、続けた。

「そしたら声がわかみやさんに似てて、しょうくんいる?っていうから、

 あの、いつ帰るの?ってきいちゃったの」

「……自分から喋ったのはそれだけ?」

「それから、あのね、

 リンはちゃんとお医者さんにみてもらえた? って……」


 SYOUはかたく目を閉じた。


 ああ。

 ……いつかこんな時が来ることは予期していた。

 ヤン・チョウ。あいつだ。リンに固執するあまり国務院から追い出された、陽善行弾圧の名簿を作った張本人……

 こんなに唐突に、そして断固とした形で、終わりが訪れるとは。

 もうここにはいられない。そして、リンと若宮にも、ここに戻らないように言わなくては。だが、若宮は移動中は用心のため携帯を切っている。どう伝えれば。

 ……いやそもそも、ここがばれたということは、詩織は。……彼女になにかあったのか?


 SYOUは青い顔で震えている宝琴の肩に手を置くと、ソファに誘って並んで座った。

「宝琴。自分がミスをしたと思ってるだろ」

 静かな声で聞く。宝琴は黙って頷いた。

「じゃあ、そのペナルティとして、ぼくの言うことに従えるか」

 宝琴はまた頷いた。

「よし。じゃあよく聞いて。ぼくはしばらく出かける。そしてきみはここでちゃんと留守番をするんだ」

「いや!」

 宝琴の瞳が恐怖にひきつった。

「さっき言ったことは?」

「リンは帰らないかもしれない。SYOUも帰ってこないかもしれないわ。そしたらわたしはどうすればいいの? 誰がここに来てくれるの?」

「若宮さんがいる。でももしも何日待っても誰も帰らなかったら、……」

「男の人はいや。SYOU以外の男の人は」すがりつくような表情で宝琴は叫んだ。

「そんなこと言ってられないだろ。いいか、万が一誰も帰らなかったら、ここを出て警察に行くんだ。見たもの聞いたことについては何もしゃべらず、記憶を亡くした子どもとして、保護を願い出ればいい。

 ぼくやリンと違って、きみは中国当局にとっても日本側にとっても大して価値があるわけじゃない。大人たちがきっと何とかしてくれる」

「そんなの絶対いや。警察なんて最低、陽善功の人たちもみんな警察に引っ張っていかれて殺された。わたしのパパとママも、たぶん」

「日本の警察は違うよ」言いながら、SYOUはこの件に関して果たしてそう言い切れるのかという不安に、語尾を曇らせた。自分の持っているデータがある限り、そしてこの少女が花園の記憶を持っている限り、リン自身の情報を持っている限り、彼女もまた「日本にとっての危険人物」かもしれないのだ。

「わたし発音が変だから日本人じゃないとすぐばれる。そしたら中国大使館か、出入国管理局にわたされて、国に送り返される。中国でわたしを取り調べるのはだれ? わたしはリンの従妹なのよ。また同じ目にあうんだわ」

 宝琴はSYOUの腕にしがみついた。

「きっとこうなると思ってた。神様はわたしからなにもかも取り上げる。やっと夢が見られたのに、ここがあるだけでいいと思ったのに、もう知らない人に預けられるのはいや。わたしをよそのどこにもやらないで。リンとSYOUがいなくなるなら、またひとりぼっちになるなら、わたしは死んだ方がいい」

「馬鹿なことを言うな!」

 突然の大声に、宝琴は体中を震わせて黙りこんだ。SYOUは宝琴の両肩を持つと、涙ぐんだ瞳に視線を合わせた。

「いいか宝琴、死んだら何もかも終わりだ。なにもない。すべてが無になってしまうんだ。

 きみは生きると決めたといったろう、自分は悪くないからと。それこそが正しいんだ。

 どんなことがあっても生きてくれ、絶対にやけを起こさないでくれ。きみが男の人が嫌なら、信頼できる女の人にここに来てくれるようにお願いするよ。だから信じて、それまではここにいるんだ。電話番号が知れたとしても、このマンションにはセキュリティもチェーンもある。物理的に誰もこの空間には入れない」

「じゃあSYOUもここにいて」

「ぼくはここを安全な場所にするために、出かけなきゃならないんだ」

「どこに行って誰と会うの」

「それは言えない」

「じゃあ、リンがもし帰ってきたら、わたしは何と言えばいいの。SYOUはどこへ行ったって言えばいいの」

「寝ている間に出て行ったとでも言えばいい」

 宝琴の両目から涙がこぼれ落ちた。

「リンは泣くわ。きっとわたしを許さない。どうして寝てたのっていうわ、どうしてSYOUをどこかにやったのって、どうして起きて止めなかったのって。 命がけでも、どうして」

 SYOUは言葉もなく、泣きじゃくる宝琴を両手で抱きしめた。その手から、包帯がほどけて緩く落ちていた。

 その手を見て、ふと宝琴は言った。


「SYOU。……その包帯、取ってみて」

「え?」


 ほどけた包帯を引っ張って手からくるくると巻き取ると、その下から、なんの傷もないきれいな手が現れた。

「……」

 そういえば、全身から熱も痛みも引いている。もしかして、と思い、洗面所の鏡の前に行って、着ていたTシャツを脱いでみる。体の包帯とガーゼとタオルを乱暴に取り去ると、嘘のように傷のない体が現れた。

 絶句するSYOUの後ろで、宝琴が目を見張っていた。

「……すごい。リンがやったのね。

 こんなに早く治したのは見たことがないわ、それも直接触れていないのに」

 自分のつややかな肌を見ながら、SYOUはあの夢の中の、組んだ手に額を乗せたリンの横顔を呆然と思い出していた。

「リンはほんとうにSYOUを愛しているの。わかったでしょ、愛してるのよ」

 背後で、熱に浮かされたように宝琴は続けている。

「そうじゃなきゃこんなことはできない、こんなに離れてるのに。リンはSYOUのことだけ考えてる、いまも」

「……わかってる」

「お願い、リンと離れないで。リンを捨てないで、SYOU」

 懸命に自分の手を握る宝琴の暖かな体温を受け止めながら、SYOUは考えていた。


 ……この身は一つしかない。

 たとえ本当でも嘘でも、こちらから出向けば手出しはしないという言葉に賭けるしかない。

 そしてもし生き延びることができたら、きっとリンの望みをかなえよう。


  ……帰してあげたいな。

  なにを。

  あの子たちを。

  あの子たち?

  ……宝琴みたいな。みんなの山や川や、好きな人のほとりに。


「ぼくたちは一緒だ。たとえどこにいても。何があっても」


 鏡の中の自分に向かって、SYOUは呟くように言った。




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