あんたらしい
キャンピングカーの薄暗い照明の中でパクの診察を受ける間、リンは一言も発さず、ただ長い髪に表情を隠していた。
今更女の肌にどぎまぎする自分でもないのに、リンがさらけ出した白い乳房が視界の端に入るだけでうろたえる自分に、若宮は内心苦笑していた。
「言わなくても分かると思うが……」
「守秘義務だろ、それ込みの診察代だ。できればまた呼んでくれると嬉しい」
鉄工所の裏庭で、パクはくたびれた皮の財布を懐にしまって笑った。
「どこぞの国の姫君か、逃走中のお偉いさんの愛人か。目を開けたら開けたで、たいした玉だな」
「そういう軽口も詮索もやめてもらいたいね」
「ああ、またご尊顔が拝めるように行儀よくしとくよ」
低い声で笑うと、多量の排気ガスをぶち撒いてパクの車は夕闇に消えた。
車内に戻ると、リンが不安そうにこちらを見ていた。
「大丈夫、こういう仕事ばかりしてきた奴だから」若宮はそういうと、リンの向かいのソファに座った。
「熱はストレスのせいで疲れが取れたら下がるだろうし、傷は大したことはないそうだ。考えてみると、治療が必要だったのはあいつのほうかもな」
「……」
物言いたげに赤い唇が開かれた。その唇に手をやると、リンは切なそうに身をかすかによじり、窓の外に視線を投げた。
「実はぼくは少し中国語もかじったことがありましてね」
リンは驚いたように若宮に視線を移した。
「あの部屋に飛び込んだとき、ちょうどあなたの叫び声が聞こえた。
ジー ジェンティンチ ジンシャウォ。
……もうやめて、殺すならわたしを殺して。間違いないかな?」
感情の読めない瞳で若宮の目を見据えると、リンは唐突に言った。
「……あなたのこと、知ってるわ」
「知ってる?」
意外な切り返しに、若宮は問い返した。
「仕事の上でですか。だったら光栄だが」
「ショウから聞いた。多分、あなたのこと」
「あいつから。ほう、なんと?」
「あなたは、ショウが子どものとき、彼を時々家に招いて泊まらせた。違う?」
若宮は思わず返答に詰まったが、致し方ないという風に溜息をつくと、答えた。
「いかにもその通りだ。それで?」
「それで、男たちがわたしにするようなことをあなたは十二のショウにした」
若宮は視線をそらすとがりがりと頭を掻き、こほんと咳を一つすると呟いた。
「どうにも最低の情報だな。
すべてを否定はしませんよ。だがおそらくあなたの思うようなことまではしていない。というか、その情報だけでひとくくりにされると大変不本意なんだが」
「たくさん本も読ませたし、美味しい食事も作った」
「そんな話までしてたのか。……まいったな」
「でも彼のけがを二回治療して、これで貸し借りはなし」
若宮は笑い出した。
「あの修羅場で、聞くことは聞いてたんですね。大したものだ」そして無精ひげを撫でると、リンの顔を見て尋ねた。
「じゃあすぱっと聞きましょう。それで、端的に言って今、あなたはぼくについてどう思ってるんです」
リンは迷うことなく、穏やかに言った。
「あなたは、いい人」
ふっとため息をついた若宮を見て、リンは微笑を浮かべた。
その微笑に向かって、若宮は言った。
「心から安心しましたよ、いつそう思ってもらえたのかな」
「あなたが、さすがお前の姫君だ、っていって、ショウがこんなときにあなたらしい、っていって、ショウの前髪をあなたが引っ張ったとき」
何もかもをよく見ていたんだな、と軽く驚くと同時に、その言葉の向こうの思いがリンの瞳から流れてくるように若宮には思われた。
「じゃあ、こんな変態野郎でも心を許していただけると」
「ショウはもう許してた」リンはまた微笑した。
「彼の元に帰りますか」
リンの柔らかい表情が、すいと彼女の内に引き込まれるように消えて、あとには暗い気配だけが残った。若宮は続けた。
「彼はあなたを殴ったわけじゃない。過激な自傷行為に走り、あなたはそれを止めようと必死だった。わが身を代りにしてと叫ぶほど。
彼はあなたを愛している、それは言葉にする必要もないぐらいあなたも、そしてぼくも知っていることだ。その彼を捨てて、このまま外界をさまよって、何をどうするつもりですか」
「あなたにお答えはできません。ただこのまま、わたしを放り出してくれればそれでいいんです」
「死にたいんですか」
リンは若宮の瞳を見あげて問うた。
「わたしたち……わたしのこと、どこまで知っているんですか」
「正直に言えば、全部です」
「全部……」
「彼は全部話してくれた。あなたがされたことと、したこと。ぼくと彼はそういう信頼関係だと承知しておいてください。
ぼくは彼を裏切る気はない。彼のシンパなのでね。どんな交換条件を出してあなたが失踪を望もうと、あいつに恨まれるのだけはご免だ」
リンはまた微笑した。
「おかしいですか」
「よくわかるわ」
リンは笑みを浮かべたまま言った。
「あなたが彼を好きなこと。あなたみたいな人が彼のそばにいてくれて、わたし、ほんとにうれしい」
その素直な物言いになにか鳩尾を打たれたような心地がして、若宮は泣き笑いのような表情になった。
「だったら、彼を不幸にしないでやってくれないかな」
「わたしがそばにいる限り、あのひとはわたしを救おうとするでしょう。
でもあなたは知ってる。彼も本当は知ってる。わたしを救う道なんてこの世にはないんです。わたしの望むことをしようと思えば、彼も同じところまで堕ちなくてはならない。わたしはそれを望みません。
わたしが身の内に持つ怨みは、わたしの記憶から生まれた、わたしもの。彼のものではないからです」
どこにも疑念をさしはさむ余地のない、端正な発言だった。
何を言い返せよう。
しかし、愛と情という不確かでややこしいものがたっぷりと事情と事情の間に刺し込まれ、それぞれが身動きできなくなっているのだ。
「ひとつ、無礼な質問を許してください」
若宮は神妙な口調で言った。
「あいつはあなたと、その、……男と女の関係になったんですか」
リンは表情を崩さずに、ただひと言で答えた。
「彼はわたしの、唯一無二の人です」
「……また迂遠な答えだな」若宮は苦笑いしながら言った。
「いや、非常識な質問でしたね。忘れてください」
「わたし、ショウと結婚したんです」
「けっこん?」
若宮は頓狂な声を上げた。
「また、それは。いったいいつ結婚したんですか」
「……そう思ってるのは、わたしだけですけど」
若宮は言葉を失ったままリンを見た。どこまでも深く、童女のように迷いのない目が突き通すようにこちらを見ていた。
「目が覚めて、夢かどうかわからないでいるとき、彼がわたしをお風呂で洗ってくれて、そのときわたしからお願いしたんです」
「結婚してくださいって?」
「きれいになりたいって」
「……」
リンはわずかに頬を染めながら語りだした。
「わたしは幸せになりたかったの。あのとき、目の前に大好きな人がいて、世界にはほかに何もなかった。彼と自分のほかに何も。どうしてああなれたのかわからない。生まれたてみたいな、すごくシンプルなきもちでいたんです。
わたしはこんなに汚いのに、彼はあんなに綺麗なのに、ショウは嫌がらなかった。たくさんの人がわたしを汚して、彼だけがわたしを洗ってくれた。
彼の指が触れる場所全部が魔法のように光り輝くようだった。生まれて初めて、愛する人に愛されることがどんなことか、あの行為の本当の意味を知ったんです。彼の綺麗な指先に触れられた場所から順に、自分のからだが生まれ変わっていくようだった。
こんなに醜いわたしが、そのことを忘れて、天の上にのぼるような心持でいた。溶けるように幸せだった」
そこまでいうと、リンは両手を合わせて唇の前に持ってきて言葉を閉ざした。指先と唇が一緒に震えていた。
「何も考えていなかった。何も。
……あのとき、あの人を汚してしまった」
しばらく考えて、若宮は言った。
「それが、……結婚?」
「ええ。笑っていいです」
「笑わないよ。笑えるものか。そうか……」
若宮は絶句して、しげしげとリンの伏せた睫毛を見た。
情報を集めて推測すれば、この子は不特定多数の男たちにありとあらゆる方法で嬲られ続け、さらに相当数の人間を直接間接的に殺していることになる。
そして、演技でも作りだした人格でもなく、目の前の涙も悲しみも、そして童女のような恋心も本物なのだ。こんな人格があるものだろうか。
「結婚したなら、なおさら夫婦は傍にいなきゃならないんじゃないか」
多少の意地悪を含んだ言葉に、自分を醜いと言い張る美少女は顎を上げて答えた。
「いいえ。離れていても彼のものであることはできる。
もう二度とわたしは、ショウ以外の誰のものにもならないし、誰にもこの身に触れさせません。
過去は直せないけれど、未来を創ることはできる。
もしわたしが誰かほかの男を受け入れることがあるなら、それは自分が死ぬか、相手を殺すときです」
語り終えたリンの表情にただ眼を奪われながら、全身が痺れるような心地よい衝撃に身を任せ、これはアルコールの酩酊に近い、いやもっと麻薬に近い、いやいっそ第七天国に近い、とそんな風に若宮は思った。
「透明人間になってそのとききみたちのそばにいられたらな。地上で一番美しい絵が撮れたろうに、まったく残念だ」
そして次の瞬間、思いは理性を通り越してさきに口から出ていた。
「いや、今からでもいい。きみが撮りたい」
「え?」
「撮らせてくれないか」
「とる?」
「写真が撮りたいんだ。ビデオでもいい」
「……」
リンは思いがけない発言に戸惑った様子のまま、若宮がいつも携帯している鞄から勝手に愛用のカメラを取り出すのを見ていた。
「わたしを? ……どうして、いま?」
「きみには今しかない。今のきみの美しさは今撮るしかない。明日がないってのはそう悪いことじゃない。きみの言葉を借りれば、ぼくも今、すごくシンプルなきもちなんだ」
若宮はカメラをいじると、ディスプレイ画面をリンに見せた。
「あいつに樹海に呼び出されてから、撮りためたものだ。結構ある」
リンは首を傾げるようにして、ディスプレイ画面の中のSYOUを見つめた。暗い車の中でシートに寄り掛かる彼。傷だらけの生なましい背中。けだるそうにコーヒーを飲む横顔。立っている後姿。
「こっちは動画」
バンクベッドに腰掛けて、斜め下を見ながら、ぼそぼそとした声で語る姿がそのまま映されていた。
……初めて彼女と会ったのは、クラブ・ホーネットというバー。ピンクのチャイナドレスを着て、シャンパンを運んできた。フルートグラスと同じぐらい細くて、手がかすかに震えて、グラスがカチカチと音を立ててた。花のような少女で、ため息が出るぐらい綺麗だと思った……
リンはいつしか、カメラに手をかけていた。そしてぎゅっと目を閉じると、ひとこと鋭く言った。
「止めて」
若宮は再生を止めた。
リンはしばらく俯いて体を小刻みに震わせていたが、やがて決心したように語り始めた。
「……あなたの知らないことがまだまだある。ショウの知らないことは、あなたも知らないはず」
「それはそうだな」
「わたしは人を殺したわ」
「知ってる」
「具体的には知らないでしょう」
「ああ」
「わたしや父を信じる人たちが無残に殺されていった。わたしの命の為に、父の信念の為に。わたしは閉じられた場所に隔離され、知っていたのに何もできなかった」
「その負債を返したんだろう」
「両足の間に毒を仕込んで」
リンは目線を落とした。
「お母さんが赤ちゃんをはぐくむその入り口に毒を仕込んで、男を眠らせて、検体を採取して、……そのうち何人かの首を絞めて、殺した。ヤオと二人で。この手で」
そういって、両掌を広げて見せる。
「切り刻んで、ガーデンカッターに放り込んで粉々にして庭に撒いた。その上に花を植えたの。この手を血に染めて。
ナイフを首に刺して、銃で撃って、女も殺した。それで何が解決するわけでもない。でも後悔してない。悪かったとも思っていない。わたしと父のために死んでいった何百という命とその断末魔の苦しみのために、許されない道を進もうと決めた。わたしはもうにんげんじゃない。最後にはこの身で全てを購うつもりだった。
でも、ショウといれば後悔する、やったことすべてを消し去りたいと思う。
いまさら、きれいになりたいと望んでしまう、生きたい、幸せになりたいと思ってしまう。でもそんな都合のいい自分なんて許せない。
……わかみやさん、わたしをきれいだなんて言わないで。
そして同じカメラで、ショウの写真とわたしを並べないでください」
そのまましばらく沈黙が続く。見ないでも、リンの全身が震えているのがわかる。
若宮はぼそりといった。
「きみ、わざとやったな」
リンは蒼白な顔を上げて若宮を見た。
「SYOUが自分を救おうなどと二度と思わないように、彼の自分への思いを断ち切ろうと、あいつにとって一番痛い凶器を振り上げたな。そうだろう。
でなくては、今更あいつがあそこまで壊れるはずがない」
リンは下を向いたまま黙り込んだ。
一生、多分絶対忘れられない映像。
狂気に取りつかれたような瞳をしたSYOUが、裂けた腕の傷から自分の上に血をしたたらせる。
おれを見ろ。この血を見ろ。ここにいるのはおれだ。きみと同じ色の血と痛みを持つ、おれだ。見えるか。目をそらすな、おれはここにいる……
あのとき、裂けたのは肌ではなく彼の心だ。自分は言葉という武器を持ってあのひとの魂をずたずたに切り裂いた……
「何をやっても無駄だ。彼がきみを嫌うはずがない。その前に自分を破壊してしまうだろう。それは自分の目で見てきみも分かったはずだ。
きみの言いたいことが終わりなら、今度はぼくから言おう。
何を聞かされても同じだ。きみたちはぼくが目にしたものの中で、多分最も真実に近い存在だ。たとえきみがどんなに自分を汚れているといおうと、ぼくが形にして残せば、見るものがそのありようをそれぞれの心に残すだろう。きみたちが何をしたかでなく、どのようであったかを知るだろう。
今間違いなくここにあるきみが、いましかもっていないものを、ぼくの手で残させてくれ。ぼくはそういう仕事をするためにだけ、毎日を生きているんだ。
世界はありとあらゆるものを消費する。かけがえのない美や、真実が通り過ぎる瞬間の上に悪臭を放つゴミを積み重ね、圧倒的な物量で埋め尽くしてゆく。そうなってからでは遅い。きみが生き急ぐなら、ぼくも急がないわけにいかないんだ」
リンは言葉もなく、ただ若宮の無精髭に覆われた顔を見た。
「わかったら黙って撮らせろ。結婚したといったな。おれの脳味噌の中でも、きみたちは過去も未来も一緒なんだよ。カメラの中で並んで何が悪い。
おれに撮られれば、誰が何と言おうと、きみたちは永遠だ。何ものにも侵されない永遠の中に閉じ込めてやる」
リンの澄んだ瞳のはしから涙があふれ出て、きらきらと揺れた。
「ま、……できれば服はない方がいいんだが」
若宮の軽口に、リンは微笑すると、手の甲で目元を拭って、SYOUの口調を真似た。
『こんなときに、……あんたらしい』
若宮はにっと笑い、そしてそっと手を伸ばすと、そっと目を閉じたリンの、つややかな白い頬を転がってゆく涙を指で拭った。