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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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ここではないどこかへ

 空気を切り裂くようにして刃物が走り、皮膚のあちこちに(かま)(いたち)のように傷口が開き、そのひとつひとつから血が噴き出すのを、不思議な出来事のように目の端で見ていた。

 増殖してゆく鋭い痛み。もはや感覚と思考の出所が、自分かリンかもわからなくなっている今、これがリンのものなら、助けなければ、この痛みから。でも伸ばす手の先は真っ赤で、何もかもがもう真っ赤で、どこにリンがいるのかもわからないのだ。

 体が自由にならない。遠くで悲鳴が聞こえる。

「ジー ジェンティンチ ジンシャウォ!」

 なんだって? 日本語で言ってくれ。

 いきなり顔を殴られたような衝撃があって、次の瞬間、壁に向かって押さえつけられていた。後ろから羽交い絞めにしながら、低い、聞きなれた声が言った。

「それを放せ、手が血だらけだぞ。もう十分だろう」

 もがきながら叫び声をあげると、少女の泣き声がした。

「お願い、もうやめて、暴れないで、お願い」

 ……パオチン?

「おれだ、若宮だ、こっちを向け。SYOU、柚木晶太、わかるか?」

 血しぶきの飛び散った白い壁が目の前にあった。

 ゆっくりと視線を横に滑らせると、見慣れた男の顔が目に入った。

 短い髪をざんばらに乱れさせ、肩で息をしながらSYOUを見ている。

「よし、わかるな。体から力を抜いてくれ、おれももう限界だ」

 言われたとおり力を抜きながら、視線を下に落とした。足元に何か絡みついている。長い髪の少女がSYOUの足に両手でしがみつき、わなわなと全身を震わせている。

「リン……」

 力の抜けた手から若宮がゆっくりと花瓶を取り上げた。

 リンはこちらに蒼白な顔を向けた。頬が赤く脹れ、返り血が飛び散ってはいるが、目立った傷はない。ああよかった、と他人事のように思いながら自分を見ると、服がずたずたに裂けて、赤いインクをぶちまけたような壮絶な様子になっていた。

「……痛いだろ」

 後ろで若宮が息を切らせながら言った。

「俺も見てるだけで痛い。治療しよう、話はそのあとだ。きみ、救急箱とかはある?」

「なに?」

「薬や包帯はどこかにあるかな」

 蒼い顔で、震えながら突っ立っていた宝琴はあたりを見まわした。

「探してみる」

 SYOUは白い壁に血の跡をつけながら、そのままずるずると壁に沿って座り込んだ。しゃがんだ目の前にリンの顔があった。顔に張り付いた長い髪のむこうから、呆然と目を見開いてSYOUを見ている。色を失った唇がかすかに動き、無言の言葉を形作った。

 そのまま細い体が床に崩れてゆく。

 思わず両手を伸ばし、SYOUはガラスの破片だらけの床に顔が触れる前にリンの身体を抱えこんだ。若宮が腕をもって彼女を立たせ、抱きかかえながら言った。

「お前はいい、さわるだけで彼女が血だらけになる。

 お嬢さん、頑張ってそこのソファベッドまで行きましょう、後はあの子に細かい切り傷の手当てをしてもらってください」

 若宮は宝琴にリンを渡すと、座りこんだままのSYOUの前に戻ってきた。

「頭ははっきりしてるか」

 SYOUは黙って頷いた。

「またやったな」

 今度は頷かなかった。

 後ろから宝琴が渡してきたスプレー式の消毒薬と包帯を礼を言って受け取ると、若宮はSYOUのぼろぼろの服を脱がせ、体のあちこちの傷に吹っかけはじめた。改めて、切り裂くような痛みが全身に走り始めた。

「どうしても直接話したいことがあってここまで来たんだよ。もうすごい騒ぎが廊下まで聞こえてて、ドアを叩いたらその子が開けてくれたんだ」

 消毒したさきからガーゼを当てて紙テープで乱暴に止めてゆく。

「またDV騒ぎかと思って飛びこんだら、お前は自分を攻撃してて、眠り姫が必死でお前にしがみついてた。某嬢のときと同じことを繰り返したといえば言えるが、ちょっとは前進かな」

 冗談めかして言うと、後ろを振り向いた。

「やっと目を開けた顔が見れた。光栄だよ。思った以上だな、さすがお前の姫君だ」

「こんな時に」

 やっとSYOUは口を開いた。唇が震えているのが自分でわかる。

「……あんたらしい」

「お、やっと口をきいた」

 若宮はSYOUの前髪を引っ張ると、ありったけのガーゼを広げて傷に当て、宝琴が差し出したタオルで胴体をきつく巻いた。

「出血がひどいので一見派手だが、見たほどのもんじゃない。傷はテープで直接上から圧迫しといた。しばらくはあまり動くなよ。

 これで二度目だぞ、この若宮さんには世話になりっぱなしだな、ええ? これでいろいろと貸し借りなしだ」

 若宮は立ち上がるとソファベッドに腰掛けて宝琴の手当てを受けるリンのそばに行き、片膝をついた。

「見たところ顔のあざの部分以外大した怪我はないと思いますが、身体を何か所か打っていますよね。痛みますか」

「……大したことないと思う。ありがとう」かすかに震える声で、宝琴が代わりに答えた。

「じゃあ自己紹介だ。初めまして、若宮宗司と申します。売れない映像屋をやってます。あそこの乱暴者とは古い知り合いでね」

 リンははっとしたように若宮を見た。濡れたような漆黒の髪、深い睫が影を落とす澄んだ瞳を見つめて、若宮は思わず感嘆しながら言った。

「こんなシチュエイションでなければ、一も二もなくあなたをスカウトしているところなんだがな。あなたが、このぼくが手を触れられない彼岸の人だというのは、まったくもって映画界の損失ですよ」

「わかみや?」

 リンはゆっくりと発音した。

「そう。もしかしてご存知ですか」

「……」

 黙って若宮の目を見たまま、リンは否定も肯定もしなかった。

「おじさん、SYOUのお友達なの」横から宝琴が言う。

「うん、朋友ってやつだ」

 リンは視線を落とすと、膝の上の両手を握って揉みしだいた。

「……ていってください」

「なに?」

 出て言って、と頭の中で補足しながら尋ねた若宮に、リンは言った。


「連れて行って」


 SYOUがぎょっとした表情でこちらを見た。

「どこでもいいから連れて行って」

 こちらに向けられた少女の顔は薄桃色に上気し、目は潤んでいた。熱に浮かされたような様子で、リンは繰り返した。

「ここではないどこか。外へ連れて行って」

 ふと若宮は気づいて、リンの額に手を当てた。ひどく熱い。

「きみ、熱があるぞ」

「いいの」

「よかないよ。ろくに食べずに寝たきりで起きたと思ったらこれだからいろいろ体が悲鳴あげてるんだな」

 黙ってこちらを凝視しているSYOUの視線のほうを若宮は振り向いた。どこへ連れていくんだ、とその目と全身が語っていたが、口に出すことができない状況がひりひりと伝わってきた。その思いはたぶん全身の傷よりも痛いことだろう。

「どこへ行くの、リン。外へ行ってどうなるの、わたしをおいていくの」

 泣きそうな様子で宝琴はリンの手を握った。

 SYOUが背後から低い声で言った。

「その必要はない。おれが出て行く」

 リンは目を見張ってかすかに口を開いた。SYOUは続けて言った。

「きみはここにいろ」

「だめ。どっちもだめ」宝琴の目から涙があふれ出た。若宮はその頭を撫でると、大丈夫だよ、と囁き、SYOUに言った。

「そのお譲さんはどのみち医者に診せたほうがよさそうだ。ちょっとお借りして例の医者に診てもらう。ちゃんと返すから、少しお互い離れて頭を冷やしたほうがいいな。何があったかは彼女から聞いておこう、話す気があるならだが」

「……」

 SYOUはリンを見ずに、視線を下に落とした。若宮はもう一度宝琴に言った。

「必ず返すからね。ここでこのお兄さんと待ってるんだよ、いいね」

 宝琴は涙を拭くとリンを見て、言った。

「お願い、リン。帰ってきてね」

 リンは宝琴の手を黙って握りなおした。

 リンとSYOU、若宮と宝琴、それぞれの視線が血の飛び散る部屋の中で静かに交差した。


 リンは服を濃紺のワンピースに着替え、つば広の帽子をかぶった。若宮に背を支えられるようにして部屋を出て行くときも、SYOUの方を振り向こうとはしない。宝琴は不安なときのお守り、ウサギのぬいぐるみを抱きしめて、SYOUの手を握っている。

 二人が玄関で靴を履きおえると、ちょっといいかな、と宝琴に語りかけて手を離し、SYOUは足早にリンに歩み寄った。

「リン」

 長い髪を揺らして、リンが振り向く。

 SYOUは血のにじんだ包帯でぐるぐる巻きにされている右手を、そっとリンの前に差し出した。

 リンは少し戸惑った様子で瞬きし、目を伏せると、白い手を出してきた。

 SYOUはまるで女王に挨拶する騎士(ナイト)のようにその細い手を両手でおし戴き、背をかがめるとそのまま手の甲に唇を押し当てた。そして何かの祈りをささげるようにそのまま動きを止めた。


 リンの包帯を巻いた左手がゆっくりと上がり、SYOUの頭の上に置かれると、五本の指が開いて、ふんわりとウェーブのかかったダークブランの髪を愛撫した。幼子にするように、静かに、優しく。

 何の声も音もない、静かないのりのような二人のすたがを、まるで教会のイコンか何かを見るようなこころもちで若宮はただ見つめていた。

 無言の時が過ぎて、やがて背を起こすと、SYOUは若宮の目を見て、静かな声で言った。

「彼女を、よろしくお願いします」

 嫌な予感に、若宮は思わず眉をひそめた。

「……お前も、その気の毒なかわいいレディを、まさか一人にはしないよな?」

 読めない感情がSYOUの瞳の中にきらめき、そして霜が溶けるように消えて行った。


 重い音を立ててドアが閉まってしばらく、SYOUは玄関を見たまま佇んでいた。

 宝琴が沈黙を破るようにぽつりと呟く。

「お片付けしなくちゃ」

 ガラスの破片はもちろんのこと、あちこちに変色した血の染みついた部屋は、禍々しく壮絶だった。

「それはぼくの責任だから、いいよ。きみは危ないから室内履きじゃなくて底の厚いスリッパはいて」

 普通に答えてくれたSYOUにほっとしたように、宝琴は言った。

「今度のことは、リンが絶対悪いと思う」

「……もういいんだ」

「でも、SYOU、あの、はじめてみたけど、ときどきああなるの?」

 SYOUは答えに詰まって一瞬沈黙した。

「……怖がらせてごめん」

「ううん、ちゃんといつものSYOUに戻ってくれてよかった」

 宝琴はかすかに笑った。

「殴るつもりはなかったんだ。ほんとうに、次にこんなことをするなら死んだ方がいいって、ずっと自分に言い聞かせてきたのに」喉を押し潰すような声でSYOUは言った。宝琴は不思議そうに答えた。

「SYOUはリンを殴ってなんかいない。覚えてないの?」

「え?」

「最初に殴ったのは壁の鏡よ。それから花瓶。リンがびっくりして止めようとして、腕とか身体にしがみついてたけど、SYOUが突き飛ばしたときクロゼットに顔をぶつけたの。顔のあざはその時。それからも、ガラスで腕を切ろうとしたりもう滅茶苦茶で、リンがしがみついては突き飛ばされてた。でも、SYOUはいちどもリンを殴ってない」

 頭の中に、逃げようとするリンを追いかけては殴り倒す映像が再現され、SYOUはその視覚の記憶を追った。恐怖に見開かれていたのは、あれは、詩織の目…… 過去の記憶。そうだ、リンじゃない。


 殴っていない……


 放心したようなSYOUの様子を心配そうに見ながら、宝琴は言った。

「SYOU、どこにもいかないよね。一緒にここで、リンの帰りを待とうね。帰ってきたらその傷も、きっとリンが治してくれる。だからそれまでは、何も考えないで」

「……」

 SYOUは無言のままダイニングの椅子に座り、ため息をつくと、両手で顔を覆った。

 宝琴は冷蔵庫からガラスジャグを出すと、仲の赤い液体を水玉模様のグラスに注いでそっとSYOUの目の前に置いた。キンモクセイの花入りの紅茶は、詩織が送ってくれたものの中で一番SYOUが気に入って飲んでいたものだった。

 SYOUの目の前の椅子にそっと座ると、微妙に視線を逸らしたまま、少女は語りだした。

「わたしね、あのね。

 ここ、日本に連れて来られてから、もうずっと……

 ずっと、何も考えずに生きてきたの。考えたら生きていけないから。

 まわりにいた子がどうして消えてゆくのか、このままここにいてどうなるのか、明日も同じことをされるのか、そんなことは全部考えないで、ただ死なずに生きて行こうと決めた。だって、わたしは悪くないから。

 そのうち、どんなひどい毎日にも、生きてるとそれなりに慣れるんだって知った。

 こんな毎日に慣れた自分はもう死んだ方がいいと思った」

 SYOUは両手から顔を上げて宝琴を見た。

「でもいま、ね。

 リンと会って、SYOUと会って、三人でいるようになって、わたしは、夢を持つことができたの。変な夢だけど。

 あのね、リンがママで、SYOUがパパで、そしてわたしが子どもで、ずっと平和に三人で暮らせたらいいなあって」

「子ども……?」

 思わず聞き返したSYOUを見て、宝琴は恥ずかしそうに下をむいた。

「そんな年じゃないよね。わたしとSYOU、九歳しか違わないし。

 でも、そんな風に想像したら幸せだった。わたしは二人の子どもで、大事に大事に育てられる。リンはやさしくて、SYOUは強くて、何があってもわたしたちを守ってくれるの。リンはどんな怪我も治してくれるの、そしてリンとSYOUは、とてもお互いを大事にして、いつまでも平和に愛し合うの」

 SYOUは思わず包帯を巻かれた自分の手に視線を移し、いたたまれない思いに黙り込んだ。

「夢だから、都合がいいばっかり。ほんとは、誰だってひとりひとり問題を抱えてて、そんなふうにはいかない。わかってる。

 でも、生まれ直したいと思った。SYOUとリンの子どもに。だって」

 宝琴の目の縁が赤くにじんだ。

「だってわたしもう、普通に生きられないでしょ。ここを出たって、行くところがないでしょ。こんなになって、結婚も、もうできない。きっと恋もできない。未来なんて考えられない。だから、リンとSYOUには、なかよくしてほしかったの。三人で一つのベッドに寝て、眠ったままのリンを真ん中にして二人でお話したり歌を聞かせてあげていたとき、わたしすごく幸せだったの。未来は見えなくても、幸せだったの。二人のことが大好きなの」

 SYOUはじっと、少女の潤んだ瞳を見た。

 言葉にしないまでも、自分はそれなりに修羅場を乗り越え、それなりに感情の天国も地獄も味わってきた気でいた。少なくとも今までは、そうだった。

 だが、目の前の小さな少女が抱えたまま、外にこぼすまいとしている涙色の感情の何分の一、自分は自分に対して真摯だったことだろう。

 絶望や憎しみの代わりに胸に抱いた細やかな夢。その前で演じた醜態。

 次々押し寄せる後悔の波頭の前で、SYOUはただ、振り向かないことだ、と強く、自分に言い聞かせていた。しても仕方がない後悔はしない。前を見ることだ。守るべき思いを守れ、強くなれ。この子と同じぐらい。言い聞かせながら、その小さな頭を自分の胸に抱き込んでいた。

「SYOU、リンを許してね」

 胸の中のくぐもった声に、ただSYOUは頷き、そして少女を抱く手に力を込めた。サングラスをかけて自分に背を向けたリンの映像がスローモーションで脳裏に再生され、そして澪子のあの日の言葉が映像に重なった。


 ……よく考えてね、何のために誰を敵にするか。誰を相手に戦い、何をゴールにするか。

 リンは手強いわ。愛することは戦うことよ、相手のすべてと。




 


挿絵(By みてみん)


(パオ)(チン)とぬいぐるみのウサギ >



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