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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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それはあなたじゃない

 いつまでも起きてこないリンを宝琴に任せ、SYOUはフルフェイスのヘルメットでバイクにまたがり、昼を回った頃マンションを出た。

 目指すは現在廃屋同然の、鉄工所の裏庭だ。鉄くずと不燃ゴミの山と、あとは枯れかけた百日紅の木が一本、六月も終わりの空を見上げている。そして傍らには、古いキャンピングカー。

 ミネラルウォーターのボトル一本を抱え、蒸し暑い車内に入ると、SYOUは埃臭いベッドに寝転んで天井を見上げた。

 とにかくひとりになれる場所が必要だと切実に感じる今、若宮が提供してくれたこの空間はSYOUには貴重だった。


 ……未来がほしいと思うのなら、あの空間から出て身を晒すという賭けに出るしかない。

 だが自分は名も顔も知られている。

 世間に出ればそれはそれで身動きできないが、人知れず暗殺されるようなこともないだろう。目的を、リンを普通の人間に化けさせて生かす、ということに絞るなら、外国でなら可能かもしれない。問題は誰がそこまで連れて行くかだ。

 自分は外に出たとたん、多分逮捕されるだろう。ヤオから預かった検体とデータがある限り、当局が自分を放っておくわけがない。リンが殺人犯なら自分は犯人隠匿、死体遺棄、いくらでも罪状はある。逮捕されてしまえば、リンを守ることは出来ない。ああ、この顔と声がなければ……

 あの役に立たないメールの次に、監督が現実的な知恵を絞って未来を共に設計してくれることにかけるしかないのか。再び監督と会うときは、文化人類学や運命論やオカルト以外の、サバイバルのための知恵を彼が用意してくれることをひそかに祈るしかない。これからの行動予定をたてるため、SYOUは革の筆入れからペンとメモ帳を取り出した。

 愛用の細めの筆ペンが、ボールペンと共に転がり出て床に落ちた。かがんで拾いながら、SYOUは思った。

 ……そう、これも筆なんだ。もう長いこと、触れていない。ギターにも、筆にも。自分の人生はこれから、どこへ向うんだろう。

 懐かしい墨の香りと、その摩り方から教えてくれた女性の顔が、物語のように脳裏に浮かんだ。と同時に、今どんなに心を痛めているか、記憶の隅に追いやろうとしていた重い荷が背に蘇り、小さなため息となって口元から漏れた。



『奈津子か。……メールは読んだよ』

 木陰とはいえ路上の電話ボックスの中は蒸し暑く、行き交う人々の横顔を見ながら奈津子は額の汗を拭いた。だが拭き取るそばから滲み出る汗は、気温のせいばかりではなかった。

「ごめんなさい。驚いたでしょう、突然あんなこと知って」

 迷った挙句、櫻田が実家に来た、とメールでアメリカの夫に知らせたのが一昨日。返事をしたいから公衆電話から国際電話をかけてくれ、と正臣から短い返信があったのが今朝。携帯を使うなという指定に、何か不気味なものを奈津子は感じていた。

『櫻田と会ったという件だけど、本人に確かめさせてもらったよ』

「ええ、……当然よね。あの人はあくまでプライベートだからとおっしゃったけど、……結局わたしがあなたに話したということを聞いて、やっぱり失望してらっしゃるんじゃないかと」

『そんなことはいい。結論から言おう。今きみはかなり危険だ』

「……」

『最近の櫻田の動向が当局にとっては喜ばしいものではなかったらしく、何かとけん制されていたらしい。遠回しな脅しもあったという。で最近、やつの携帯と手帳が何者かによって盗まれたとも言っていた。彼は嫌がらせの線も含めて考えていたらしいが、きのう自宅に盗聴器が仕掛けられているのを見つけて、嫌がらせの域を超えていると覚悟したそうだ』

「盗聴……?」

 思わぬ成り行きに奈津子は言葉を失った。

『櫻田が来たのはきみの実家だといったね』

「……ええ」

『今すぐそこを出てくれ。彼自身が尾行されていた可能性もある。あいつはそのことを一番恐れていた』

 電話ボックスの外を、けたたましい笑い声をあげながら少女たちの一団が通り過ぎた。奈津子は横目で流し見しながら、擦り切れたコードを所在なくたぐった。

『滞在先はホテルにしてくれ。金はかかっても、セキュリティのちゃんとしたところで。僕がメンバーになっている会員制のホテルがあるだろう。連絡はしておいた、あそこに泊まってくれ』

「TBコートクラブ……」

『そう。で、きみが会ったのは櫻田と、SYOUのマネージャーと、もう一人いたといったね』

「……菊池……さん?」

「問題はそっちなんだ。詳しいことは会ってから話す。で、きみが今関わっていることについて、最近ほかの誰かと話はした? たとえば、“彼女”と』

咄嗟に詩織の顔を思い浮かべ、奈津子は答えた。

「……電話があったわ」

『いつ』

「きょうの午前。会いたいって、話がしたいって。何か思いつめた様子で」

『会うのか』

「まだ日にちは決めてないわ」

『そうか。いいか、重ねて言うよ。なるべくどこにも行かず誰とも会わないでくれ。そしてたとえ警察からと言われようと、電話の相手は全員疑え。

 ちゃんとホテルに行くんだよ、いいね。ぼくはきょうの午後の便に乗ってそっちにいく。空港についたら連絡する。くれぐれも気を付けて』

「わかったわ」

 そして電話は切れた。

 奈津子は緑色の公衆電話をじっと見つめた。


 ……思えば会話の最初から、詩織は変だった。


『突然で、ごめんなさい』

 今まで聞いたことがないような、心細げな、細い声で電話があったのは、昼近くだった。奈津子は声色から、すぐにただ事ではないと察した。

「いいえ、お返事待ってたからうれしいわ。詩織さん、お変わりない? 大丈夫?」

『……はい』

 不穏な空気に、奈津子はアイロンをかけていた衣服を横に押しやり、座布団の上に座りなおした。

「それで、この間のお返事かしら」

『返信もせずにいて申し訳ないんですけど、……やはりお会いしたいんです』

「いいわよ。いつ?」

『あの、いえ、……』

 躊躇するように、声が消えた。

「どうしたの。大丈夫?」

『やっぱり、やめた方が』

 奈津子はしがみつくように語りかけた。

「会いましょう。わたしたちは会わなきゃだめよ。詩織さん、意味が分かる?」

『……』

 顔は見えないけれど、眼元に浮かぶ涙までが見えるような苦しい沈黙だった。電話を切られないように、奈津子は続けて語りかけた。

「ね、聞かれて嫌なことは聞かないから。会うだけでもいいわ。お茶のおいしい店で、ただ向かい合って座るだけでも」奈津子は懸命に呼びかけた。

「じゃあ、いい? こちらから場所と時間指定しておくわ。気が向いたら、来て。駄目ならそれでいいから。

 あなたとSYOUが非常階段でデートしたビル。その一階にカフェがあるわ。 以前SYOUから聞いたことがあるの、ごめんなさい。もちろん覚えてるわよね」

『……ええ』

「じゃあ急だけど、土曜日の夜十時。都合は悪くない?」

『……今はちょっと、お答えするには』

「いいのよ、身体があいたら来て。待ってるわ」

 しばらくたって、電話は向こうから切れた。奈津子は自分の頬が紅潮しているのを自覚して、思わず手の甲を頬にあてていた。

 もう会えないのではと思っていた彼女からの電話。これを逃したら、会えない気がする。そして自分の推測通りなら、SYOUにつながるカギを彼女が持っているかもしれないのだ。その先には、あの少女がいる。

 SYOUが描いた、あの美しい墨絵の少女。壮絶な運命を背負った異国の少女。

 その造形を丁寧になぞった彼の指使いを思うと、奈津子はその激しい恋心ごと抱きしめたいような妙な衝動に駆られるのだった。


 ……どこにも行かず誰とも会わないでくれ。

 夫の言葉と、詩織のか細い声が、揺れ動く胸の中で反響した。



 日が落ちてマンションに戻ると、宝琴が暗い顔をしてドアを開け、SYOUの腕をつかんだ。

「リンが一日、何も食べない」

「え、どうして……」

「寝室に閉じこもって、布団被ったまんまなの」

 SYOUは薄暗い寝室に入ると、シェードランプに照らされたベッドのふくらみに向かって話しかけた。

「ただいま」

 返事はない。

「怒ってるの? 少し遅かったかな」

 ベッドの端に腰掛けると、ふくらみの内側がかすかに動いた。

「リン」

 泣いているのだろうか。

 ただ黙って眺めるその視線の先で、くぐもった声がした。

「………」

「なに? 聞き取れないよ。出てきて話そう」

 反応のないことに業を煮やして、SYOUはてっぺんからゆっくりと布団をめくった。どのみち、自分たちは未来に向けて突破口を探すしかないのだ。今がそのきっかけになるなら、それでもいい。

 布団の下で、リンは髪を広げてうつぶせになっていた。突然、あのハニー・ガーデンで会った時の、目隠しと耳栓をしたリンの姿が思い浮かんだ。睡蓮の池に浮かぶ蓮の花のつぼみと出会った時のような、あの清冽なときめき。花が開いて、すべては始まったのだった。開かせたのは、自分だ。

 うつ伏せになったままの背中から、微かな声が漏れた。

「……全部、もう、ない」

「え?」

「あの庭と、部屋と、イーリンと、ヤ……」

 リンはそこで言葉を切った。突然すべてを思い出したのだろうか。SYOUはぎゅっと唇を噛むと、ざわめきだした下腹に力を込めた。

「なにもできなかった」

 リンは横を向いて、呟くように続けた。

「わたしのしたかったこと、しなければならないこと、なんにも」

「そんなものは最初からないよ」硬い声で応える。

 リンはこちらに視線を向けた。

 以前と同じ、しっかりとまっすぐな、正気の目だった。


「……どうしてわたしに会いに来たの」


 唐突な問いかけに、SYOUはまず自分の耳を疑った。

「どうして、って……?」

「あなたに、もう来ないでって言ったわ」

 ピアスと共に送ってきた手紙のことを言っているのか。何もかも忘れた風だった彼女が、いきなりあの時期まで記憶を戻しているのか。一体どこでスイッチが入ったんだ。SYOUは呆然としながら、考えるより先に答えた。

「きみを守りたかった」

「いつわたしが守られて生きたいって言った?」

 ぴしゃりと殴り返すように答えると、ゆっくりとリンは身を起こした。顔がゆらりと近くなる。冷たい視線は、SYOU大好き、と囁いたあの甘えた子どものようなリンとは全く別人だった。

「わたしはあなたのものじゃない、守られるような身でもない。全部忘れていた。忘れるなんて、許されないこと」

 いったい、自分がいない間に何があったというのか。

 その彫刻のような顔には、ただ固い拒絶だけがあった。SYOUは絶望に沈みそうになりながら言った。

「外に出ていって今きみができることなんてもう何もないんだ。何もせず生きることのほうが大事なんだよ、きみが負うべき義務なんてもうこの世には」

「あなたはそれでいい、あなたこそそれでいい。あなたには何の義務もない。わたしにはわたしの過去と責任がある。あなたには関係ない」

「……」

 屈辱感とそれに伴う怒りが、嵐のように胸を襲った。

「あなたはわたしとは違う」

「なぜ今さらそれを言うんだ」SYOUは遮るように言った。

「きみは生まれ変わることを望み、きれいになりたいといってぼくに身を投げ出して、それまでのいろんなものを(そそ)ごうとしたじゃないか。あれはそういうことじゃなかったのか。まだそうやって手の出せない過去を思い出して自分を責めるのか」

「きれいになんかなってない」

「お母さんになりたいって言ったろう。おっぱいをあげたいって」

「言ってない、そんなこと」

「……」胸の動悸が早くなる。 ……あれをすべて忘れたと?

「ここに来てからのことは、よく思い出せない。わたしはひとりで生きて、ひとりでしなければならないことをすると決めていたの。そばにいて、同じ思いを抱えられる人は、もういないわ。

 それはあなたじゃない」

 氷の剣で胸を割かれるような激痛が走り、かわりにSYOUの中で、熱を発さないまま何かがめらめらと燃え始めた。

「……誰だって言うんだ」

「リン、やめて。……最低」

 いつの間にか戸口に立っていた宝琴が怒気を含んだ声で言った。SYOUは振り向かずに怒鳴った。

「あっちへ行っててくれ!」

 胸の中の火が一層燃え上がって肋骨を焦がし始める。

「頼む、リン、もう言わないでくれ。過去は変えられないんだ、誰にも。

 ぼくと一緒に生きよう」

「あなたがいると、わたしはなにもできない」

「……」

「いっしょに、おなじ血に染まったの。そして、わたしだけが生き残った」

「じゃあぼくは何なんだ。ヤオのように死ねなかったのが悪いのか。きみを連れ出して、きみの目覚めを待って、きみに触れた。ヤオとは違うやり方で。それがすべて間違いだったと?」

「わたしが悪かったの」

 唇が震え、続く言葉をSYOUから奪った。悪い? 悪かった?

「この手で、あなたを汚してしまった。もう取り返しがつかない。あなたは別の世界の人なのに」白い、表情のない顔で、リンは言い切った。

 目の前で、世界がパズルのピースになって崩れてゆくようだった。

 いつの間に自分は、運命の罠にはまったのか。

 夢のようだったひと時が、いま、すべて裏返ってSYOUに後悔を強いてくる。お前は間違ったのだ、別世界の人間のくせに。取り返しのつかないことをしたくせに。

 お前は凡百の男たちと同じになった。もう彼女の魂に触れる資格はない。それが許されるのは、ただ一人……

「ごめんなさいね」

「……やめろ」

「わたしを帰して」

「どこへ……」

「外に出して。もうどうなってもいい」

 フリーズした体の前で、リンが立ち上がり、スローモーションのように自分に背を向けてドアに歩み寄る。

 瞬間体が無重力になり、SYOUは自分の手が何かをしたたかに殴りつけるのを他人事のように感じていた。 涙と叫び声が自分の中から子どものように湧き上がったが、体の中で反響するだけで外には出ない。目の前をきらきらとした、なにかの破片が飛んでゆく。リンが長い髪を乱して床に倒れ込む。自分から顔をそむけてそのまま這うようにして部屋の外を目指す。振り向こうともしない少女の長い髪を後ろから掴み、思い切り引き倒す。宝琴の悲鳴が聞こえる。仰向けになった顔、恐怖に見開かれた瞳、何処かで見た光景。いつの間にか右手には、割れた花瓶が握られていた。

 長いあいだ眠っていた狂気が一気に目を覚まし、声なき声で咆哮する。


 汚れればいいんだろう。血に染まればいいんだろう。血の記憶しか共有できないなら、この身を切り刻み、絞り、きみの上に血の雨を降らせればいいんだろう。

 そうすればきみはぼくを見てくれるのか。

 この身を突き放さないでいてくれるのか?


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