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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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ピンク・ホーネット

 権田組組長、権田眞一郎に直々に呼びだされたのは、とある会員制クラブの個室だった。

 高級クラブが立ち並ぶ銀座のN通りに位置するビルの最上階、会員以外を寄せ付けない黒光りする分厚いドアに、クラブ・ホーネットと印字された銅板がはめ込まれていた。店名の脇に、スズメバチの小さなイラストが彫りこんである。

 そのセキュリティ―チェックは異常に厳しく、SYOUとマネジャーの哲夫と社長たち一行も、個室に入る前に、全身を棒状の金属探知機でチェックされた。ピンストライプの細身の黒服を着たボーイとイブニングドレスの美女が、きらびやかなシャンデリアの下で静かに行きかっている。だが、高級な革張りのボックス席にかしこまって座る三人には、豪奢な牢獄のようにしか思えなかった。


 遅れて到着した権田眞一郎は、四十前後の肉付きのいい宝飾品だらけの女とボディガードを従え、店内の全員に深いお辞儀で迎えられた。組長が濃紺のゼニアのスーツに包んだ巨体をSYOUたちの向かい側のソファに沈めると、入室と同時に立ち上がっていた関岡社長はSYOUと哲夫とともに頭を下げて切り出した。

「申し訳ございません、このたびは誠に」

「お前はいい。おい若造、顔」

 はっと顔を上げたSYOUの切れ長の目の上に、深いくまの染みついた落ち窪んだ目が据えられていた。

 鋭い眼光に射すくめられたまま、永遠とも思える沈黙の時が過ぎる。頭を下げたままの哲夫の首筋を冷や汗が流れ落ちた。

「阿呆と美男は使いよう」

 一時が経ち、ようやっと組長は口を開いた。

「若いもんの情報に疎いこの私でもお前さんの名と顔はよく知っている。なるほどこうして見ると作り物みたいな美男だな。あのバカ娘も悪いのに引っかかったもんだ。今いくつだ」

「二十二です」組長の視線を静かに受け止めたまま、SYOUは答えた。

「突っ立ってないで座れ」

 三人そろって人形のように腰を下ろした。

「歌手でデビューしたんだったな、だがこの顔なら役者かホストのほうが向いとるだろう。たらしこむのだけが特技なら。どうだ関岡とやら」

「……は、それは、お陰様で役者業のほうもいたた、いただいておりますが」

急に話を向けられて、隣の社長がどもりながら答えた。

「何やらあんたの歌はでたらめでよくわからん。あんなものでどういう経緯でデビューしてここまできたのだったかね。わかるように手短に説明してくれ、社長」

 葉巻を取り出しながら自分のほうを見もせず女に火をつけさせる組長に、社長はしどろもどろで語り始めた。


 きっかけは学園祭だった。

 名門で知られる国立大学のキャンパスの屋外ステージで、意味不明の歌詞を喚き散らして拍手喝さいを浴びていたSYOUたちのバンドに、講堂でトークショウを終えて出てきた芸人が客席から絡み始めた。

「おい下手くそ。何言っとるか通訳が必要や。足こぎボートのハクチョウが暴走して花見客虐殺て、そういう歌でええんか」

「最後に大空にはばたくんだから、虐殺じゃなくて昇天てこっちゃ」

 SYOUは笑いながら口調を合わせて答えた。

「なんて歌や」

「はばたけぼくらのはくちょうごう」

「あほか。お前頭おかしいやろ。よし、俺も歌詞付け足して歌うたるわ」

 ちょうどテレビ局が入っていたこともあり、二人で即席の下ネタを混ぜ込みながらやんやの拍手を浴びた滅茶苦茶なデュエットは全国に放映された。芸人よりも多くの嬌声を集めていた見栄えのいいヴォーカルに、一斉に視聴者が反応した。 その中に、立ち上げて十年目の芸能事務所がやっと軌道に乗り始めた関岡がいた。親元を離れて自活していたSYOUは、金になるならと事務所への誘いに応じた。

 現役T大生ということもあり、彼の名前と顔はすぐに売れた。即席バンドは自然解体し、SYOUだけが唐突に芸能界の光を浴び始めた。

 女子供が喜ぶような内容でもない、荒廃したグロテスクな歌詞にもかかわらず、彼の絶叫系の妙な歌い方は、その飛びぬけた容姿とのミスマッチが受けて一種のコミックソングのように受け入れられてしまった。バラエティ番組からドラマのゲスト、そして主役へ、気が付いたら彼は大学を中退し、知らない世界の中枢に横道から入り込んでしまったのだ。

 ひととおり聞き終わると、権田は葉巻を唇から話して紫煙を吐いた。

「そのレベルの大学に入れる頭をしていながら、ピアスごときで無抵抗の女を血だるまにする。素人さん相手に無駄な暴力をふるうような阿呆はうちの組でも使えん最低の屑だ」

 SYOUは長い睫毛を伏せて唇を引き結んだ。

「あんたの気がおかしいわけじゃないというなら、その飾りもんがそれほど大事なわけを、気の毒な女への伝言として説明する義務があるだろう」

 場は沈黙に包まれた。すべての視線が、SYOUに注がれた。

「あれは、……猫です」

 絞り出すような声で、SYOUはぽつりと言った。

「猫?」

「僕が十二のころ両親は別居しました。僕はそれから二年母と九州に住んでいたんですけど、その母が昔の男と家出して、身寄りがなくなって十四の時叔母に預けられました。その叔母が飼っていた猫です。

 その前に引き取ってくれた親戚の家からは追いだされていたし、次はどこへ行くことになるのか、とても不安な毎日でした。僕にとても懐いてくれて、あのころ、あいつがいることで頑張れた」

 妙な顔をしている組長の横で、連れの女が口を開いた。

「その猫は、……死んだのね?」

 SYOUは女を見ると静かに視線を落とした。

「僕がドアをあけっぱなしにしたせいで、僕を追って外に出て、車に轢かれました。

 叔母に頼んで骨を取っておいてもらって、独り立ちできるようになったら、ダイヤに加工して身に着けようと決めていました。ずっと一緒にいたかった。お守りがほしかった。そうしないと、まともに生きられる自信がなかった」

「なるほど、それであんな変な歌でデビューを急いだのか。

 悪いがピアスは紛失したそうだ。もうあきらめた方がいいな」

「……」

 体の奥から寒気を伴った震えが上がってきて、泡のように脳内で弾けた。

 一瞬で涙に変わりそうなそれを、SYOUは歯を食いしばって必死でとどめた。

「その、母親を連れ出した男というのが、当時あんたが手にかけた筋もんか」

「組長、どうかそのことは、ここでは……」

 関岡社長が青い顔をして割って入った。

「別にかまわんだろう。あいつは俺の系列の組の薬を横流しして、金庫の金を持ち逃げした糞野郎だ、殺されて当然だ。あんたの母親を手に入れる前に女を一人刺してる。あんたの母親も一緒に家出というより金づるとして拉致されていたという話だし、警察と組から手配がかかってどちらにしろ先はなかった」

「……殺していません」

 押しつぶしたような声でSYOUは一言言った。

「ああ、逃亡しようとしているやつの車のフロントガラスを割って阻止、お前がボンネットに飛び乗って母親が男を撃って結果的に、だったか、まあ共同作業だな。十四にしてはよくやった」

「……」

「だが奴は見てくれだけはいい男だった。どういうわけか今のお前さんそっくりの顔のな」

「もうやめておあげなさいよ」

 隣の女がやんわりと組長を制止し、SYOUに笑いかけた。

「この子はそこら辺の塵屑イケメンとは違うわ。その傷のぶんだけ、女の心臓を、直に虜にできる子よ」

 その笑顔は何か別のものが裏側から貼りついているようで、美しいナメクジが女に化けたらこうなるかというようなぬめぬめした女だと、SYOUは思った。

「さて。それ程の資質をお持ちならこれからは活躍してもらおうか。あんたみたいなどうせ使い捨ての芸能人の価値は、女どもの脳味噌をでなく、子宮をどれだけつかめるかが命だからな。

 過去はきれいに清算して、今も二、三社とCM契約しているようだが、どんどん仕事を増やすといい。あんたは歌手というより役者向きだろう。私が手を回せばいくつかの企業が声をかけてくる、旬を逃さず片っ端から受けときなさい」

「は……?」

 妙な展開にSYOUは戸惑った。

 こういう筋の口利きでスポンサーが乗るという話はこのご時世では現実的ではない。第一、好意でこんな申し出をする理由はあちらにはないはずだ。隣で社長がじっとりと湧き出る額の汗を拭きながら頭を下げてもごもご言っていた。

 テーブルの下では澪子がすでに裸足になった足を延ばし、SYOUのオペラパンプスの靴を脱がせにかかっている。困惑しながら顔を上げると、蜜柑が丸ごと食えそうな唇の両はじをくっと上げながら、足の先をそろそろと股間に近づけてきた。

 SYOUは小娘のように下を向いて膝の上の握り拳に力を入れた。

 ……どうしろというんだ。

「新たな門出を祝って乾杯といこう」

 個室のドアが開く音がした。

 カチカチと音がして、シャンパンとフルートグラスを乗せたトレイが運ばれてきた。澪子はSYOUの股間からそっとつま先を降ろした。

 銀のトレイを持つのは、どう見ても十八よりは下に見える少女だ。

 長い黒髪をそのまま後ろに流し、耳の上に牡丹をかたどった花飾りをつけている。身に着けている桜色のチャイナドレスの、豊かな胸の隆起の下を流れ落ちるようなほっそりとしたラインは、まるでそれ自体がシャンパンのフルートグラスのようだった。

 伏し目がちの瞳はさやさやとした細い睫に縁どられ、つんとした鼻梁と花の様な唇のバランスがいとおしくなるほど美しい。これまで見た女性の中で一番きれいな子かもしれないと、SYOUは感嘆した。

「リン、彼が誰だか知っているだろう」

 リンと呼ばれた少女は、そっと瞳を上げてSYOUを見ると、はい、と小さく答えて視線を落とした。

 少女は細い蝋細工のような手でSYOUのフルートグラスにシャンパンを注いだ。小刻みに指が震え、液体がグラスから一筋こぼれた時点で少女はいったんボトルの口を上げた。

「失礼をいたしました、すみません」

「いや、……大丈夫」

 笑顔を浮かべて少女を見守る澪子のほうからは、何かお香に似た香水の芳香が漂ってきていた。

「この子は日本人じゃない。台湾出身だ。日本語がうまいだろう。ある男に会いたくて、それだけのために勉強して、そして親も何もかも捨てて日本へ来た。けなげな子だ」

「……すごいですね、若いのに。恋人か誰かに会いに、ですか」

 権田は答えずに含み笑いをした。

 ふと見ると、頬を上気させた少女の、アーモンド形の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。シャンパンを注ぎ終わった少女はひとつお辞儀をすると、そのまま下がっていった。細い後姿をねっとりと見ながら権田は言った。

「かわいいだろう、こんな子がこういうクラブで海千山千にまじって働いとる。私の一番贔屓だ」

 そこまで言うと、顎を上げてソファに座りなおした。

「さて、あんたに頼みたいことがある。聞いてくれるかな」

「……はい」これからが本題だ。SYOUは姿勢を改めた。

「ちょいと最近このお姉さんが退屈しているようなのでな、話し相手になってやってもらいたいんだが。まあ君の母親に近い歳だろうからなじみのない年齢でもあるまい」

「失礼な人ね、まだそこまでいってないわ」

 あるかなしかの薄い眉をひそめて女は笑った。

「私はこう見えても情深いタイプなんだが、あいにく体のほうが言うことをきいてくれんでな。大事な女たちに愛想を尽かされても困る。こいつはいい女なんだが中でも一番欲が深くて手を焼いとる、ひとつ楽しませてやってくれ。好みに合わないと寝首をかかれることがあるがな」

「悪かったわね。でも、あなたのそばにいて一番幸福を実感した夜だわ、きょうは」

「まだそれを言うのは早かろう」

 SYOUは心の中で大きなため息をついた。女はそっとテーブルの上に手を出すと、馬鹿でかいサファイヤの指輪をはめた指でSYOUの手を上から撫でた。

「女冥利に尽きるわ、夢のようよ。でもあなたのほうはそうでもないでしょう。だから私からもお返しにプレゼントをあげるわ。花園への招待状よ」

「花園?」

「私が味わった極上の蜜を、ぜひあなたにも味わってほしいの。同じ幸せを分かち合いたいのよ」

 権田が後を続けた。

「誰もが行けるわけじゃない。うわさは耳にすることはあっても入口のわからない、限られたものだけに開かれる、垂涎の禁断の花園だ。そこへのパスポートをやろう。彼女の招待は私の招待でもある。これについてはそちらに拒否権はない」

「……」

「ライブの最終日の翌日、あんたはこの女のところへ行く、そのあと、花園へ行く。ある者にとっては天国、ある者にとっては地獄」

 そういうと、権田は俯きがちな社長のほうを見ながら、ゆったりとシャンパンを口にした。SYOUは薄桃色に泡立つグラスに口をつけると、テーブルに置いて口を開いた。

「ひとこと、申し上げていいですか。

 ……今回ぼくがお嬢さんにしたことは、芸能人として以前に人間として最低の行為だったと思っています。そのことについてここで心からお詫びさせていただきます。本当に、申し訳ありませんでした。そう、詩織さんにもお伝えください」

 組長は葉巻の灰を落とすと、静かな口調で答えた。

「あのバカ娘も一度こういう目に遭わなければわからんこともあっただろう」

「彼女の怪我は……」

「頬の骨折なら、放置していても治る程度のものだそうだ。ほかに異常はない。もっともそれで済まないような怪我なら、あんたも無事ではいられなかったがな」

「そうですか……」

 SYOUは心底ほっとしたような顔を見せた。

「それで、どこへ行けばいいんですか」

「迎えの車に乗れ。花々には香しい蜜が宿る、そして蜜に群れる蜂どもに罪はない。花園の名前を教えよう。ハニー・ガーデンだ。私の口から言うのはいいが、この名は二度とその口から発してはいけない。その薄暗い過去込みで、あんたの命運は私の預かりだ」


 ……自分という船がどういう波に乗りどこへ行こうとしているのか、十四の時も今も、大してSYOUにはわからない。立ち止まろうにも、身の回りの波がいつも激しすぎるのだ。

 だが生きぬいて見せる。そうするしかない。たとえ蓋が外れても、嵐の海でも、この身一つで歩いていかねばならない毎日は、昔も今も同じなのだから。

 運命が自分に望もうと、どんなに心に毒がたまろうと、絶対に地面だけを見て歩きはしない。喪失の痛みの中で、それだけをSYOUは心に誓った。



 東京最終日のライブは、歌手としての彼への決別を惜しむファンの大声援に包まれて、大盛況で終わった。


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