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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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猫と神に関する考察

 下書きしてから放置したまま決心がつかずにいたメールを、思い切ってSYOUに送信すると、若宮は煙草に火をつけた。

 ……メールはタイトルも脚本仕立てだし内容も関係ない者には意味不明だし、受信先はSYOUに貸した自分のノートパソコンだ。問題はないだろう。


 ……彼女が目覚めた、ひと晩だけキャンピングカーを貸して、と言われ、車をマンションに回した。それが一昨々日のこと。

 危ないといっても聞かず、一夜だけ外の空気を吸わせるといって、真夜中に出かけて行った。自分は車を駐車場に入れただけなので、姿は見ていない。だが、どれだけ幸せな時間を過ごしたか、目に見えるようだった。


 何か着信はないかと携帯のほうも開いてみる。

 と、不在着信が五件。すべて伊藤詩織からだ。

 胸の中がざわついた。こんなことは初めてだ。時間は今日の午後十時過ぎに集中している。今から一時間ほど前だ。

 メールで返そうとして、万が一のことがあって彼女の携帯が他人の手に渡っている可能性を考え、映画監督という自分の立場を利用して事務所に電話をかけてみることにした。まだ誰かいることを祈り続けて呼び出し音を聞く。

 応対した詩織の事務所の遅番の人間は、カリスマ監督からの直接の電話に恐縮しつつ、詩織が外出中であると告げてきた。行く先を問うと、

「デレク・チョウ先生と銀座の××で会食です。今夜中には自宅の方に戻ると思いますが」

「デレク・チョウ?」

「デレクスタイルの社長です。銀座に旗艦店をオープンしたとき、パーティーにも招待されました。

 伊藤はまだ会食中と思われますが、マネージャーはひと足先に車で送られて事務所に戻りました。同行してくださったチョウ先生のお付きの方のお話によると何か体調不良とかで」

「マネはいまそこにいるの」

「帰宅して、多分寝てます」

「寝てる?」

「悪酔いしたとかで、ふらふらでした」

 嫌な予感が背中を走り抜けた。とにかく店の名前はわかっている。どうも、と簡単に言って若宮は電話を置いた。

 つまりいま、伊藤詩織は一対一でデレク・チョウと会食しているということか。その会食の最中に、なぜ自分に立て続けに電話を?……

 SYOUから聞いたことを自分でまとめたファイルを開き、内容を再読する。チョウ。……チャンとも読む。たしかどこかで。

 ……これだ。(チャン)(ジャア)(フゥイ)、日本読みだとチョウだ。

 国務院交通運輸部および国家安全局に所属歴あり。陽善行の処刑リスト制作。霊燦会と内通、多額の報酬と引き換えに日本に少女たちを輸出。リンに執着し、独占しようと暴走した結果、母国の要職を解かれ、ガーデンへの出入も禁止となる。  

 彼のことは、ガーデンを爆破した黒幕と、SYOUは推測していた。

 パソコンの検索で調べると、案の定、デレクとつながっていた。

 ……ヤン・チョウはデレク・チョウの兄。

 チョウ財閥は、拠点である香港を離れ、マレーシアの造船会社を買収して事業を拡大しようとしている。液化天然ガス(LNG)を燃料とする超大型コンテナ船の開発を完了し、ノルウェー船級協会(DNV)から設計基本承認を取得した……


 彼女がいま会っているのが万が一ヤンだとすれば、SYOUやリンを手助けする立場にいる詩織が危険この上ないのは確かだ。だが、ヤンの方と会っているという確信もない。

 にわかな胸騒ぎに、若宮は立ち上がって部屋の中をうろうろし始めた。SYOUに、この件を伝えるべきかどうか。

 しかし、どこかから詩織とのコネクションがばれたなら、連絡方法のどこかに穴があって彼女を危険にさらしたことになる。

 なにがいけなかったのか。自分のやり方に穴があった?……

 若宮は自分の行動記録と通信方法を思い返し、思い返すほどがんじがらめになってゆく絶望的な感覚に襲われた。




「この人、あの部屋にきたことある」

 SYOUがシャワーから出ると、ソファベッドでテレビに見入りながら(パオ)(チン)が言った。画面では深夜のニュース番組が、Sホールデイングス社長の自殺を伝えていた。

 自分が出ていたCMが失踪事件から打ち切りになっていることで責任を感じていたSYOUは、洗い髪を拭きながらテレビの前に突っ立った。

「部屋っていうのは、宝琴のいたガーデンのこと?」SYOUが尋ねると

「そう。リンのいたほうに行ってからは来なくなっちゃったけど。なんだか、すごくたくさん通ってたって聞いた」

 温厚そうな銀髪の社長の顔を眺めながら、鬱病気味、ふさぎがち、の自殺原因を語る言葉の背後に、ぼんやりとSYOUはリンの姿を見ていた。そしてはっと気づいて室内を見回した。リンの姿がない。

「リンは?」

「トイレじゃないの?」

 廊下に出ると、薄暗い玄関ドアの前にぺたんと座っているリンの後ろ姿が目にはいった。

「なにしてるの」

 背後から静かにSYOUが声をかけると

「誰かが呼んだの」振り向かずに呟くように言う。

「誰が?」

「おまえを待ってるからね、って」

「……」

 風でドアがかすかに鳴った。

 玄関ドアの前から動こうとしないリンを見て、SYOUは仕方なくのぞき窓を見てからドアを細く開けた。

 誰もいない薄暗い廊下が広がっている。暗がりの向こうで、空き缶が転がるような音がした。

 瞬間、背筋をすうっと冷たいものが走った。

「風が強いね。誰もいないよ」SYOUは小声で言うと、ドアを閉めた。

「眠ろう。眠れないの?」

「待ってるって言ってる」

「言ってないよ」

「……」

 正体のないものの声を聞くリンの魂を、ひそかにSYOUは恐れた。ニュース画面に映ったSホールディングスの社長の顔写真が、リンの後ろ姿に重なる。自分の元に繋ぎ止めるように後ろからリンの身体をそっと抱き、腕に力を込める。

「また外に行きたい」

 甘えるようにリンは言った。

「あれは一回だけだよ。そういう約束だったろ」

「約束なんてしてない」

「したじゃない」

「風も、霧も、素敵だった」

「きみもね」

 リンは(くすぐ)ったそうに笑うと、SYOUの腕に頬を摺り寄せた。

「またいきたい。空と、星を見に」

「空も星も霧で見えなかったね」

「だからまたいくの」

 SYOUはリンの髪に上から唇を寄せるようにした。シャンプーと体臭の混じった優しい甘い香りが鼻孔を満たした。

「あれだって冒険だったんだ。きみが目覚めたとき、変な夢を見て大暴れしたといってたね。それで外に出たところを、通りがかった人に止めてもらったんだろ。その人がいなかったら、今きみは大変なことになってたかもしれない。ぼくらはまだ外に出ちゃいけないんだ。いつか自由になれるようになんとか頑張るから、それまでは我慢して」

「ショウ、大好き」

「ぼくもだよ」

 振り向いたリンの、花のような唇にキスをしながら、SYOUはせつなさに涙がにじんで仕方なかった。以前の凛とした様子と違い、日々子どものようになっていくリン。こんな、罪のないおさな子のような少女が外に出て顔を晒したからといって、世界はやはり彼女を糾弾するのだろうか。

 たとえば恋の矢で心臓を射抜かれたアポロンの求愛から逃げ回るダフネ―が、父である川の神に頼んで月桂樹に姿を変えてもらったように、いっそ彼女をほかの姿に変えて自由にする方法はないのか。霧の夜、朝霧高原を走り回るリンを見ながら、ずっとそう考え続けていた。

 世界はもう彼女を許すべきだ。彼女は十分働いた。父親のため、信者のために、男たちのために。そうじゃないか?

 SYOUはリンのおでこにおでこをつけると、囁くように言った。

「……きみの望みが聞きたい。ぼくにできることがあればなんでも言ってくれ」

 あどけない瞳でリンはSYOUを見上げた。

「お外に行こう」

「いつかね。それ以外だよ」

「ショウの赤ちゃんが生みたい」

「……」

 自分が戦う相手を言ってほしいという望みは、無邪気で美しい言葉によってかき消された。きみはぼくに武器さえ持たせてくれないのか。恨みを晴らしたい相手の名前も忘れたのか。リンの甘い体臭を嗅ぎながら、SYOUは言葉を詰まらせた。

「お母さんになりたいの?」

「そう。お母さんになりたい。そして赤ちゃんに、おっぱいをあげたい」

「そうか……」

 言葉もなく、SYOUはリンを抱きしめた。

 リンは続けて、呟くように言った。

「……帰してあげたいな」

「なにを」

「あの子たちを」

「あの子たち?」

「……宝琴みたいな。みんなの山や川や、好きな人のほとりに」


 ドアの外でまた風が鳴った。

 



 夜中の部屋で、何かに呼ばれるようにぽかりと目を覚ます。

 リンは隣でねむるSYOUを見下ろした。

 首のライン、喉仏の影、鎖骨から胸筋にいたるなだらかな曲線。頬のラインを人差し指でなぞると、うん、と小さく言って反対側に寝返りを打つ。

 窓の外の風の音を聞き、そっと足を降ろしてつま先でスリッパを弄る。全身に残る愛撫と幸福感の余韻が、足取りを人形のように軽くさせる。

 広い居間には青白い月光が差し込み、静かな室内を幾何学的な光と影に分けていた。

 サッシの鍵を外し、細く窓を開ける。車の遠いクラクションと夜風が吹き込み、室内を一巡して幾枚かの紙を巻き上げた。

 ダイニングテーブルにはノートパソコンが置かれている。

 その前に舞い降りた紙が一枚。取り上げると、不思議な表題が目に入った。

「猫と神に関する考察」

 リンはさっと目を通し、表情を変えた。視線が釘付けになり、指先がかすかに震える。二枚目、三枚目を探して床を這い、拾い集めると、プリンターのほうを見やった。プリンターはパソコンに繋がれている。その横には書類が底の浅いケースに積んであった。

 ダイニングチェアに座ると、リンは部屋の隅のソファベッドに眠る宝琴の息遣いを確かめ、紙面に目を落とした。



 ……きみのだいじな彼女が、猫の生まれ変わりではという発想について。これが一番面白かった。初回はまずこれについて語らせてもらおうと思う。何度かに分けて送信するかもしれない。

 言っておくが、役に立たない上に、長いぞ。


 女性はたいがい猫に似る。男は犬に似る。

 これは普遍的なイメージだが、自分の分析を付け加えておく。といっても常日頃思っていた雑感だ。

 猫ほど人に愛され、また虐げられもてあそばれている悲惨な動物もないだろう。ある意味、人間の両極の欲望を映す鏡となっている貴重な存在だ。

 人間は猫という動物を、ある時は神の使いとしてあがめ、また溺愛して人生の伴侶とし、繁殖させてきた。愛するためにだ。

 その一方で、魔性だとか不吉だとかイメージで忌み嫌い、ときには到底想像もつかないような方法で虐待した。

 食べるためでも害獣としてやむにやまれずでもない。人間を支配するのはただ生理的感覚と本能だ。 ひとは彼らを前にすると、愛情と残虐性という両極端な感情を掻き立てられ、それらを全開にしてしまうのだ。

 また、猫には自然への帰宅が許されていない。

 畑を荒らしひとを襲うイノシシも猿も、さらに凶暴な熊も、山に追いやり自然に戻す試みがなされる。だが猫は、ただ飼い主がないだけで殺処分される。ひとに愛されるか、さもなくば殺されるか、どちらかしかないのだ。それほど不自由な状態の動物を生み出したのは、ほかならぬ、人間だ。愛されるために生まれてきたから、愛されなくなったら死ぬしかない、それが猫だ。

 そう、その宿命はきみの愛する眠り姫に実によく似ている。

 太陽のように平等に、水のように分け隔てなく、彼女は男たちを愛する。だが外に出れば生存を許されない。男たちによって愛されるか殺されるかの二者択一だ。

 さて、きみの唯一無二のシャラが彼女かどうかは、また別の問題だが、彼女はまるで何かの象徴のようであるとぼくは思う。

 何かに導かれるようにきみと彼女は出会い、背中を撫でられるのが好きな猫、きみのために命を落とした猫と、その猫にプラトニックラブをささげた黒猫と重なる存在もまた傍らにいた。この不思議な運命の繰り返し。それはありえないことではない、とはいっておこう。

 映像作家はえてして妄想好きなものだ。そこで運命に関する考察をもうひとくさり語らせてもらう。

 世間ではめったにない偶然が重なることがある。親と子が何代にもわたって同じ年齢で死んだり、同じ人間が七回も雷に打たれたり、船から落とした指輪が何年もたってから同じ人間が釣った魚の口から出てきたり。(どれも本当にあった話だ)

 これを不思議というだろうか。普通に考えればそうだろう。

 だが逆に、われわれは何の規則性も関連性もない、法則も必然性もない、ただ偶発的に物事が起きるだけのバラバラな世界に住んでいるのだろうか、そのほうが不自然じゃないか? 

 物理の世界に運動の法則があるように、運命にも法則があり、波長がある。生まれ変わりを含め、繰り返す出会いや相似形を示す運命、それもまた、宇宙の法則、ことわりの中に自然に存在するものであるとぼくは考えている。ただ、その波長がくっきりと表れる人間と、ばらばらに表れて形をなさない人間とがいる。

 そこに神や、何らかの意思が介在すると思えば、宗教が生まれる。後付けの信仰、後付けの摂理を唱えればよい。だがともあれ、ぼくはこの大いなる流れを信じている。そして君と彼女は、きわめてまれなケースだ。それこそ見えざる、善意の神の手を感じすにはいられない。

 最初はバラバラに撮ろうと思った二つの作品、ドキュメンタリーと映画。そのふたつを、ひとつにすることはできないだろうかと今ぼくは考えている。陽善功と霊燦会、きみとリンと神を名乗る女と、そして猫。今のところの野心だ。

 関係ない方向に暴走して済まない。きみから聞いた長大な物語は、最近にないぐらいぼくの感性を刺激してくれた。老いに免じて許してくれ。

 正直に言おう。きみの血まみれの眠り姫に会ってから、そのろうたけた姿はぼくの皺っぽい瞼の裏に焼き付いて離れてくれないのだ、まるで一度手を出した麻薬のように。その痛く甘い感覚はちょうど、初めてきみと会った時と同じなのだ。ぼくのような性分のものにとっては、魂への暴力に近い。

 きみは彼女の覚醒を望んだ。そして命がけで助けたいという。だが、そもそも彼女に近づいた男たちがどうなったか考えてみたまえ。熊に食われた男、献身的な傷の男、ガーデンを訪れた客たち、今なお彼女を追っている連中。みな命ごと彼女に吸い取られている。彼女がきみに、二度と来るなと言ったのは、きみにこれからも生きてほしかったからじゃないのか。

 きみの話では、いまや正気を失い、その意志を失っているように見うけられるけれども。

 きみは今まで客としてしか彼女に会っていない。だが手中に彼女をおさめた今、きみは男たちを死へといざなう彼女の宿命と丸ごと対峙することになる。

 今この地上で彼女に生きる道があるのかどうか。それをきみも考えないわけではあるまい。

 生きるのか、愛するのか、それとも戦うのか、ともに堕ちるのか。それはきみの物語だ。そしてぼくは特等席の残酷な客だ。

 きみは死の女神に魅入られた。そしてきみは覚悟を決め、すでに破滅の未来を受け入れようとしている。美しく辛い話だ。きみが生きて再び光を浴びるのを、何万というファンと同じにぼくも実は待ち望んでいるのだから。そしてこの身は同時に、美しい破滅へと向かってひた走る運命も愛することができるときている。


 次にメールを送るときは、まともな感覚を持つ一般市民として、もう少し現実的な問題についてアドヴァイスできたらと思う。

 どうだ、役に立たない上に長かったろう?

 姫君によろしく。

                         SOUJI WAKAMIYA



 リンは口元に手をやり、目を泳がせては懸命に最初から読み直した。

 漢字の上に指を置いて、何度も、何度も。


 唇はわななき、指先は震えていた。


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