麻薬
銀座にあるそのシーフードレストランは個室が中心で、人数により大部屋小部屋と多彩に選択できるようになっていた。
ダークなトーンでまとめられた店内に詩織とマネージャーの裕二が到着すると、ストライプのスーツに身を包んだフロアマネージャーが出てきて恭しく頭を下げながらまずウェイティングラウンジに二人を案内した。
街の夜景が見下ろせる総ガラス張りの窓のそばに立つと、デレクスタイルのパーティーの夜、澪子と見ろした夜景と彼女の言葉が思い出されて、詩織は呆然と光の海に目を凝らした。
……薄汚い都会も、夜、こうして上から眺める分には十分美しいわね。
もしこの世界に神というものがあるのなら、たぶん、神様も退屈が嫌いなのよ。こんな風に高いところに座って、世界を俯瞰して、自分が作ったいのちの群れが、自分の作りだした幸福にすがり、自分の投げ込んだ不幸に倒れて地面をはいずりまわるのを見るのが好きなのよ。
だからきっとこの世には、祈っても祈っても不幸が絶えないのよ……
「チョウ様からお二人へのカクテルです」
説明付きで運ばれてきたオレンジとブルーのカクテルが、二人の前に置かれた。詩織は、グランマルニエコルドンルージュがカクテルレモンがビーフィータージンが、という説明を聞き流しながら口をつけ、きりっとさわやかな甘みを喉に流し込んで、ふうと小さなため息をついた。
「これ、なんていうの?」
「グランマルニエ・レッドライオンです」ウエイターは答えて、オリーブの盛り合わせをテーブルに置いた。
「結構キツイな俺の」隣で裕二が独り言のようにいいながらブルーのカクテルをテーブルに置く。
「そう? こっちはすっきりしてるけど」詩織が窓の外を見ながら答えると
「お部屋の準備ができました」というフロアマネージャーの声とともに、グレーの光沢のあるスーツに身を包んだ、なにか鉄の仮面の奥で笑っているような印象の日焼けした男性と、やたら背の高いの連れの男が現れた。
「お待たせしてすみません。個室の花の配置に口を出していましたもので、申し訳ない」
男性は幾分なまりのある日本語で語りかけると同時に詩織に手を差し伸べた。分厚い革の手袋越しに握手しているような感触が掌に残った。
「張家輝と申します。ヤン・チョウとお呼びください。デレクの兄にあたります。お美しい日本の女優さんにお会いできて光栄です。こちらは秘書兼ボディガードのジェイです」
190はあると思われる無表情な男が、口元だけで微笑みながら背後で頭を下げた。マネージャーの裕二は詩織の横で同時に頭を下げながら、すこしふらついた。
通された個室の花器にはあふれるようにブルーやホワイト、ピンクのデルフィニウムが活けられ、放射状に広がった花はまるで花火のようだった。
「デルフィニウムの名はイルカのドルフィンから来ているといわれています。青い海を泳ぐイルカのように躍動的な美しさが、生き生きとしたあなたの存在感にぴったりでしょう」
肉厚の顔を薄い微笑みに包みながら、それでも眼だけは笑わずにチョウが言う。四十代と見えるその容貌は、表情や仕草全てに油断のない気配が見て取られ、その緊張を緊張と思わせない端正な顔立ちがすべての感情を覆い隠していた。
「ありがとうございます。ほんとに綺麗だわ」答えながら詩織は行きとどいた配慮にかすかに畏れのようなものを抱いた。
席に着くと、裕二はハンカチを出して額の汗をぬぐった。
「室温が高いでしょうか、今日は格別蒸し暑いですからね。エアコンを調節するように言いますか」チョウがゆったりした口調で言う。
「いや、どうも珍しく酔っているようです。食前酒ごときで、お恥ずかしい。ちょっと洗面所で頭を冷やして来ます」立ち上がったとたん、裕二は足元をもつれさせてテーブルにつかまった。咄嗟に立ち上がったジェイがその体を支え、だいじょうぶですか、とたどたどしい日本語で聞いた。
「どうしたの、ほんとに顔色が悪いわ」詩織が言うと
「おかしい、な」答える裕二の息はもう切れ切れだった。
「悪酔いにしても早すぎるわ。よほど体調が悪かったの?」
「いや、そういうわけでもないんだけど、なんか、だるくて」
「ご無理はなさらないほうがいいですよ。少し横になりますか」
「でも、横と言っても……」詩織があたりを見回すと
「ここはわが一族が出資しているレストランですから、横になれるスペースぐらいどうとでもなります」
詩織は無言で裕二に目線を送った。裕二は頭を振りながら言った。
「いや、その、ここにいるだけはできても、これは、迷惑になるかもしれないし、いや、これはどうも、まいったな……」
「お気になさらず。ジェイ、フロアマネージャーに声をかけて、奥の部屋にお通しして」
ジェイはこともなげに裕二の体を支え、そのまま個室の外に消えた。
心配そうに戸口を見やる詩織に、チョウは口調を和らげて声をかけた。
「ここは火を通さない魚介類の新鮮な味を生かした料理が自慢なんですよ。堪能していただけると嬉しい」
「手広くご活躍なさっているんですね。チョウ先生は中国国務院に所属なさっている政治家としか認識していませんでした」詩織がいうと
「一時はね、中央委員にも属したことがありましたよ。しかしいまはいろいろとあって実業家のほうに転向しようかと。権力の座など梯子を外されれば幻ですから」水のように平らかな口調でチョウは答えた。
「あの、それで、デレク氏のほうは……」
「ああ、お伝えするのが遅れました。弟からはここに来る直前、突然奥方の具合が悪くなったとかできょうは欠席すると連絡がありましてね」
「え?」
少し開けた戸口から中国語で声がかかり、チョウは早口で何か答え、ドアは外から閉じられ、会話はそれで終わった。チョウは詩織の方を向き直るとワイングラスを持ち上げて微笑んだ。
「あなたのような方と二人きりになれて、光栄です」
嫌な予感に胸が高鳴り始め、ワイングラスを持つ手がかすかに震えたが、詩織はあえて微笑みを浮かべると冷えた白ワインに口をつけた。……だが、飲み下しはしなかった。
「お父上の件、ご心痛ですね」
オードブルにフォークを刺しながら、チョウは何気なく言った。詩織は氷を飲んだような眼前の男の目を見ながら、動悸を抑えて答えた。
「いろいろとよく御存知なんですね。あちらのお国ではわたしなんて話題にもならない存在だと思いますけど」
「いえいえ、あなたが思う以上にお父上もあなたも大物です。そして、お付き合いしていたという彼も」
詩織は一瞬フォークを止め、目の前の男の顔を見上げた。これは腹を据えるしかないらしい。いま、舞台の上には自分一人だ。
「お父上の仕事先とご自宅に、いろいろと脅迫電話や物騒なものが送り付けられていると聞きました。日本のマスコミはドラッグのルートを巡って中国マフィアと抗争になっていると報じていますが、あなたは信じていらっしゃいますか」少し前かがみになりながらチョウは言った。詩織は目を伏せたまま、乾いた声で答えた。
「わたしは自宅に寄りつくことを禁じられていますし、マスコミ報道以外のことは知りません」
「ご自宅から離れているのは正解だ。相手はおそらくマフィアより恐ろしい。つまり、ここだけの話ですが、中国の政府筋の命を受けた連中かもしれません」
「政府?」
「連中はもちろん表には決して姿をあらわさない。追っている獲物はただ一つ。彼らが放った刺客を闇に葬り、中国が全力で潰そうとしている宗教の再興の鍵を握り、さらに日本政府に大打撃を与えるデータを持って逃げおおせている一人の女性です」
「女性、なんですか」
「ええ、しかも絵のように、いやどんな絵よりも美しい少女です」
「……」
いぶかしげにこちらに向けられた詩織の視線を受け止め、チョウはさらに声を低くした。
「彼女はある接待所のホステスだった。その接待所は日本のあちこちにあり、ある一つの組織が運営している。霊燦会という日本最大の宗教団体だが、もちろん表には出ない話だ。その場所と客の橋渡しとボディガード、口の軽い客へのお仕置きを請け負っていたのが、某広域暴力団です」そこまで言うとすっと瞳を上げてチョウは詩織を見た。「おわかりですね」
詩織は視線に押されるように背筋を伸ばした。
この会食。皿の上で食われる運命は、エビやカニではないらしい。
「わたしは一時お父上とも親交があったのです。だがお父上は上の事情で結局、ガーデンの秘密を守りたい日本政府の飼い犬になっている。それが現実です。
そして件の彼女はもっとも高価なガーデン、ハニー・ガーデンのカリスマ的存在だった。
黄 月鈴。
中国最大の宗教組織、歴史に類を見ない大弾圧を受けて解体した陽善功の教祖の娘であり、次期教祖と指定されている少女です」
名前を聞く前から、その少女の姿かたちは詩織の中で決定的になっていた。そこに、リン。という鈴のような響きが落ちてきて、体中を長い残響とともに悲鳴のような音で鳴らした。
……次期教祖?
表情を固まらせた詩織を覗き込むように、チョウは続けた。
「彼女の身を確保するのは、日本と中国、双方の国益にかなっています。裏で手を結んでいることも考えられる。顧客名簿に載っているのは政府高官、大手ゼネコンの社長、証券会社や銀行のトップ。おそらくは警察組織も含まれるでしょう。その名簿をデータ化したものが彼女かあるいはその恋人の手にあるといわれている。これが表に出れば現政権はひっくり返る」
「恋人?」
「申し上げるのはつらいですが、柚木晶太、芸能人としてはSYOUと呼ばれていますね。美しい青年です。だが病的なDV傾向があり、あなたには酷い怪我を負わせ、そしてお付き合いは終わりになったと聞きました。お気の毒です。彼はユェリンの身元調査を探偵に依頼し、探偵は転落死を遂げ、そしてSYOUはそれ以後行方不明になりました」
詩織は弾丸のように発せられる言葉と情報の濃度に驚愕していた。ここまでこの件について把握している男が、自分を名指しして会いに来ているというこの事実。動揺をおしかくすように、平静を装って問いかける。
「それで、なぜSYOUが彼女の恋人だと」
「噂ですよ。いろいろとね」
外からばたばたと旋回するヘリの音が聞こえてきた。地上からはサイレン。しばらく騒音に空間を任せ、詩織は答えるべき言葉を探したが、脳味噌の中心に熱がこもり、言葉という言葉を溶かしにかかっていた。
刺客を闇に葬り?
あの少女が、巨大宗教の次期教祖で、殺人まで犯しているというのか。
果たしてSYOUはそこにどこまでかかわっているのか、ききたいけれど、ここで質問すればなにもかも相手の思うつぼなのだろう。詩織はただ唇をかみしめるしかなかった。
「マンションで大規模なガス爆発事故がありましたね。吹っ飛んだのはハニー・ガーデンです。ユェリンの拠点でした。出てきた死体は男性が二人、女性が一人、そして身元の分からない粉砕された人骨。樹海から出てきた中国人の遺体も加えればさらに二人。停めてあった車の走行記録から、マンションを出たのち乗り捨てられたものと判明しました。そのすべてに彼女が絡んでいるとすれば、稀代の殺人鬼です」
「どうして彼女がやったと」
「マンションの女性の遺体は推定年齢からユェリンでないことはわかりました。ほかの接待所にもいない。ではどこかに逃げていることになる、おそらく誰かの手引きで。
教団を弾圧してきた母国への復讐と個人的な恨みから、彼女がしたことと考えて間違いないでしょう。
彼女を匿いたい男ならいくらもいる。彼女は天使の顔をした魔物です。
一度彼女の側に引き入れられたら何を犠牲にしても彼女を守りたいと思うようになる。その精神も肉体も、麻薬そのものです。若輩であれ老獪であれ、その衝動を愛と勘違いするのもたやすいでしょう。 このヘリの音もその証だ」
「ヘリが、……なんですって?」
「あなたが到着する少し前、この近くのビルからとある大会社の社長が飛び降り自殺を図りました。
アルコール・清涼飲料水の販売で日本一のシェアを誇る大企業、Sホールディングスの社長、T氏です。明日の朝刊のトップニュースですね。そうそう、SYOUもCMで起用されていらっしゃった。あなたが飲んだカクテルに入っていたカクテルレモンも、その社のものです。追悼の意味を込めました」
「……」
「わたしも社長とはお会いしたことがあります。情の深い、いい方でしたよ。夫婦仲もよろしかった。そして最近、人生最後の恋人が行方不明になったとかで、酷く落ち込んでいらしたと聞きます。人には言えない場所で出会った、誰にも話せない苦しい恋だったのでしょう。心中を考えると、まことに痛ましい」
ヘリの音はまだ続いていた。ウエイターがメインディッシュを運んで二人の前に置いた。チョウは皿の食材について笑顔で質問し、そしてなごやかに短い会話をかわした。ウエイターは恭しく頭を下げて出て行った。
「どうぞ召し上がってください、ここの毛ガニとアボカドのセルクル仕立ては絶品です」
チョウの顔を正面から睨むと、詩織はようやく自分から口を開いた。
「どんな映画よりも刺激的なお話しを、一方的にきかせてくださって、どうもありがとう。
父の事務所を脅迫しているのも、接待所を吹っ飛ばしたのも、中国政府がからんでいるとしたら空恐ろしい話だわ。
でももしも、今目の前に座っている人の差し金だとしたら、もっと身近な恐怖だけど」
「ほう」
チョウはかすかに眉根を寄せた。
「面白い話ですね。またどうしてわたしだと」
「失礼ですけど、あなたもその魔物とやらの虜になって、それを愛と勘違いして追いかけている気の毒な連中、のおひとりなんじゃないかと思ったの。中央政府にも属していない、日本人でもない、共産党員の立場を離れて実業家に転向しようというあなたが、あの接待所とユェリンという女性に執着するとしたらそれしかないでしょう」言い終えると、詩織は微笑をたたえてまっすぐにチョウの目を見た。男は感心したように小さく首を振ると、言った。
「なるほど、お父上譲りの気骨のあるお嬢さんだ。頭もいい。あの青年が惚れるのも無理はない」
ゆっくりとワインに口を付けると、詩織の上に目線を止めたまま、チョウは続けた。
「お答えしましょう、わたしは彼女のなにもかもを知っている。惚れてもいる。だからこそ忠告できる」
そこでいったん言葉を切ると、テーブルの上に置いた手をゆっくりと組んだ。
「いいですか。もしあなたの愛しい人がファン・ユェリンの逃避行に付き合っているなら、一刻も早く引き離しなさい。間違っても協力などするべきではない。今までのことで分かったでしょう。彼女は自分に近づいた男たちを問答無用で死へと誘ってしまう、魔性の女なのです」
「……」
「あなたの知っていることがあるならその知識ごとわたしに譲り、危険なゲームから脱出しなさい。
わたしには今でも一応力がある、中国当局や日本政府とのコネクションもある。霊燦会とも、です」
「ご自分はユェリンという麻薬から抜ける気はないの?」唇の端を歪めて、詩織は問いかけた。
「麻薬はそれを味わったものにしかわからない。片鱗でも舐めていればあなたにもわかることでしょう。バカな男の一人に分類なさってもかまいませんよ。わたしの危険はわたしのものだ。
だが彼女が戦っている勢力はひとりの青年の手に負えるようなものじゃない、これは事実です。
いいですか。あなたが今しなければならないことは、彼とともに戦うことではなく、彼がユェリンに巻き込まれてこれ以上の犯罪を犯さないように守ることなのです。それなくして彼の未来はない。
よく考えてみてください。あなたは気は強くとも一介の女優だ。手におえない勢力を相手に戦おうとしても無駄なことです。
彼の居場所と、そしてもしもユェリンの居場所を知っているなら、わたしに託しなさい。決して悪いようにはしない。
あなたの愛する男と魔性の女を切り離しなさい。彼女の戦いも運命も、そもそも彼には関係がない」
どこまでも穏やかな男の物言いに、思わず心の奥がぐらつきそうになるのを感じながら、詩織はどこからどう漏れてこの状況があるのか、どれだけの確証があってリンを手渡せとこちらにゆさぶりをかけているのかを忙しく推察した。この落ち着いた空気に甘えて肯定のかけらでも口に出せば、自分もマネージャー同様、急な眠気に誘われてどこかの部屋で横になる羽目になるかもしれないのだ。
だが自分がそうそう簡単に拉致できる身ではないことは、情けないことに父親の権力と澪子につながるバックの力がある程度保証していた。
……片鱗でも舐めたなら。
麻薬。
その一つひとつのフレーズが、詩織の心に恐怖とは違う波紋を広げ、あたりに反響しては形を変えてゆらめきつづける。
自分の頬に降り注いだあの軽い唇と、知らない甘い香りと、
……あなたは、いい人。というつぶやきが、まるで芳醇な酒のような酔い心地とともに詩織の全身を駆け巡り、自分が締め出されたあの楽園の中の蜜のような時を影絵のように身の内に投影させて、かなしみと切なさの嵐が音もなく押し寄せ、言葉を飲みこんでいった。
「……あなたのお気遣い には、かんやします、け……」
口にしようとした言葉と出てきた音声が一致しないことに、そのとき詩織は初めて気づいた。